武田信玄・上杉謙信 一騎打の像

【基本情報:「川中島合戦」と聞いて何を連想されますか?】

こちらのページでは、武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島合戦(第4回中心)の概要を抑え、周辺の史跡にも触れつつ、この戦に付き勝手な妄想をさせて頂こう」と思います

そもそも武田信玄上杉謙信が戦った、川中島合戦」ってご存じですか? 有名な合戦ですので、歴史好きでなくとも、ご存じの方がが多いと思いますし、特に本ブログの読者の皆様であれば、詳細までご存じの方が多いのではないかと思います。とは言いつつ、以下に概要も記載しますが、まずはウォーミングアップ的に、連想ゲームから始めさせて頂きます。いつもお城に関する題材の際に実施している連想ゲームですが、今回もこの流れを、ちょっと強引ですが利用しつつ、始めさせて頂きます。

「川中島合戦」と聞くと、皆様は何を連想れますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  1. 第4次の川中島合戦時今(江戸期以降)の名前は「松代城」だが、築城当時は「海津城」と呼ばれていたお城に、武田信玄は陣取った
  2. この「松代城」は、武田信玄が「武田24将の一人・山本勘助」に命じて築城させたお城 
  3. 一方の上杉謙信は「妻女山」に布陣したと言われる (本当は、どうなんでしょうか?:以下で考察を加えております) 
  4. その際の有名なエピソードである「武田信玄上杉謙信の直接対決を模した像」が、近くの八幡原史跡公園にある (この公園は、正に第4次川中島合戦があった場所に作られているらしい…) 
  5. ちなみに「松代城(=海津城)」がある『松代』は、江戸期の殆どの期間、あの真田氏がおさめた地 (真田家発祥の地=上田江戸期の真田氏の拠点=松代)
  6. 上記の為「真田宝物館は『松代』にある」 (真田ファンであれば、「上田だけでなく、松代にも行くべし!」:真田氏の礎となった、砥石崩れ(戦:信玄が破れ、真田が巻き返した)に関しても別記事で紹介しています)
  7. 第4次の川中島合戦は、『「全部で5回あった」と言われる “武田信玄上杉謙信のこの地域(付近含む)の戦い(=総称で「川中島の戦い」と言うらしい)“』の中で「最も激しい戦闘」だったと言われる戦いで、「上杉方は、多くの武田方の武将を討ち取る」が、「場所を抑えたのは武田方」と言われ「どちらも勝利を宣言した戦い」だったと言われるらしい

と、こんな感じでしょうか?

武田上杉真田と歴史好きには、たまらない名前が並び、思いにふけってしまいますが、今回は、この中で川中島合戦(第4次)を中心に記載したいと思います。すなわち武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島合戦(第4回中心)の概要を抑え、周辺の史跡にも触れつつ、この戦に付き勝手な妄想をさせて頂こうと思います。

【「第4次 川中島合戦」の概要】

まずは、「第4次 川中島合戦」の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、領土拡大を目指し信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧し、さらに北信濃に侵攻した甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、北信濃や信濃中部の豪族から助けを求められた越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、主に川中島で行われた数次の戦いをいう双方が勝利を主張した (略)
最大の激戦となった第四次の戦は千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されている。また、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いとされる。
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多い。

・第一次合戦:天文22年(1553年)
・第二次合戦:天文24年(1555年)
・第三次合戦:弘治3年(1557年)
・第四次合戦:永禄4年(1561年)
・第五次合戦:永禄7年(1564年)  (略)

川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら (略) この年にこの地で激戦があったことは確かである (略)

合戦の背景
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた(小田原城の戦い) (略) 北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた (略)
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向し善光寺を経由して妻女山に布陣した。これに対する武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。

『甲陽軍鑑』等における合戦の経過
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した (略) 膠着状態が続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した (略)

膠着状態は武田軍が海津城に入城した後も続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信房に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信房は、兵を二手に分ける、別働隊の編成を提案した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追いやり、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた

9月9日 (略) 深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。
しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である (略)

10日 (略) 午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は動揺した。政虎は、柿崎景家を先鋒に、車懸り(波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、上杉軍先鋒隊の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方で信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死、武田本陣も壊滅寸前であるなど危機的状況であったという。

乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。『甲陽軍鑑』では、白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、その場を立ち去った。後にこの武者が上杉政虎であると知ったという (略) 信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、確実な史料上からは確認されない (略) また、大僧正・天海の目撃談も記している (略) また、盟友関係にあった関白・近衛前久が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。

政虎に出し抜かれ、もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行し (略) 昼前(午前10時頃)には八幡原に到着した。予定より遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃に耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に敗走した。信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった (略)

この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した (略) 『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ちとしている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張しており、明確な勝敗がついた合戦ではなかった (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/川中島の戦い

少々長い引用になてしまいましたので、自身が理解した「第4次川中島合戦」をサマリ的に記載します。

「川中島合戦」は、「12年間で5回」あったと言われているようで、この中で「河越夜戦で有名な北条氏康」に敗れた「関東管領・上杉憲政」が、長尾景虎(=後の上杉謙信)を頼って越後国へ逃れ、これにより上杉謙信が関東を抑えるべく小田原に出陣し、鶴岡八幡宮で上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を「上杉政虎」と改めた頃にあった「第4次川中島合戦」は、その5回の中で「最も激しく戦闘があった戦い 」と言われるらしい。
そんな第4次川中島合戦で、「信玄海津城に、謙信は妻女山に布陣」したと言われ、中々決戦にならない中(20日程にらみ合い)武田24将の一人・山本勘助信玄に「部隊を2つに分け『別動隊が、背後から攻撃』し、『もう一方の本体が、驚いて下山してくる上杉軍を挟み撃ち』にする『啄木鳥戦法』」を考案(キツツキは、木の幹をくちばしでたたき、反対に出てきた獲物を食べる習性がある為、そう名付けられたと言われいるらしい)。先に武田方が仕掛ける形となる。

しかし、上杉軍はこの武田方動きを察知し、夜中のうちに妻女山を下山して川を渡り布陣(「鞭声粛々夜河を渡る」と大河ドラマ等でよく取り上げられるシーンですね)し、夜明けと共に『逃げてくるはずの「上杉軍」を待ち構えていた “武田本隊” 』を「逆に強襲」上杉軍優勢の戦いとなるが(この時に、史実は別にして「一騎打」ちの話が生まれる)、武田軍は何とか耐え続けていると「別動隊が下山」してきて「形勢逆転」上杉軍は撤退を開始しする事となり、武田が川中島の地を死守する形となるが、武田軍は武田24将で「弟の信繁」や「軍師の山本勘助」と言った、そうそうたる家臣が戦死
「川中島の地を抑えたか(武田)」、「損害の大きさか(上杉)」の観点で意見は割れるが、引き分けの考え方(=「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」)が一般的とされる戦い

こうやって改めて第4次川中島合戦」の「戦いの経過」を拝見すると、ホントに映画やドラマみたいですよね。これだけ劇的な戦いだったのであれば、「一騎打ち!」の話を付け加えたくなりますし、「江戸草創期のフィクサーと言われ、明智光秀と同一人物説のある『天海』が見ていた!(天海は川越喜多院中興の祖でもある)」と言った装飾的な話があっても良いと思ってしまうのは私だけでしょうか? いづれにしても、武田信玄上杉謙信」は「敵に塩を送る」の逸話と重なって「お互いが認めるライバル」として、今尚「人気の高い戦国武将」である事、納得してしまう次第です。

【上杉謙信は、本当に妻女山に陣取ったのか? 西条山では?】

所で「上杉謙信が陣取ったと言われる妻女山」、「海津城」から本当によく見えます。直線距離にして「2km ちょっと」らしいですので、それは見えますよね。でも同時に「地理的に上杉はかなりリスクのある布陣をした」とも言われている認識です。確かに、信玄の方が「越後側」にいる訳ですから、そういう考え方もあると思います…。また「川中島合戦の戦の経過」に関しては、上記引用の通り、甲陽軍鑑(高坂弾正が口頭筆記で伝えた書)の内容のみをベースとしており、他の決め手となる資料が少なく、(昨今かなり回復基調にある様ですが)信憑性に課題があるとも言われている認識です。

そんな状況下、面白い事実に出会いました。それは『甲陽軍艦には、「妻女山」は「西条山」と書かれている』と言うものです。当時の書は『「音」を「漢字に変えて記載」していた』と言われる様で、「漢字の違いは大きな問題ではない」と言われている様すので、謙信が陣取った場所は『妻女山』」が正しいのだろうと思いますが、あえて「妻女山」ではなく「西条山言う言葉(文字面)を気にしてみると、「西条」と言う文字が気になってきます。つまり「ここから妄想を始めてみたい」という事になるのですが…。

そんな言いがかり的な妄想のもと、Web上で少し調べてみると「西条」と言う地名そのエリアに「上杉方のお城」があった事を見つけてしまいました…。下記の地図をご確認頂きたいのですが、善光寺の北東、直線距離にして5kmほどの所に ”若槻山城跡” があり、ここは「上杉が整備した山城」と言われている様で、地域の名前は ”長野市浅川西条”。ここなら位置的に「上杉陣取った」と言っても納得できると思った次第です…。

そんな訳ないと思いつつも、「本当は、こっちが上杉が布陣した所?」と妄想すると、なんだかワクワクしてしまった次第です…。つまり、 「恐らく事実は違う」と思いつつも、今となっては「明確な回答」を見つける事は難しい(=100%間違いとは言い切れない!)と思う次第で、『上杉謙信が妻女山に陣取ったと言う事は武田信玄が陣取った海津城よりも、甲斐(山梨)よりに上杉謙信が陣取ったと言う事で、「かなり懐深く入り込んで陣取った」と言う事になりますが、一方で「若槻山城跡」であれば、千曲川・犀川を挟んで対峙できますし、撤退時にも越後への退却路も確保しやすいはずなので、戦のセオリーから考えると、こちらの「若槻山城の方が正しい選択」』に思えて来てしまった次第です。

しかしそこは、自身を毘沙門天と思っている上杉謙信。そんなセオリーは、関係なかったのかもしれませんが…。皆様は、どの様にお感じになられましたでしょうか?

【最後に】

以上が、武田信玄と上杉謙信が戦った、川中島合戦(第4回中心)の概要を抑え、周辺の史跡にも触れつつ、この戦に付き勝手な妄想をさせて頂いた内容になります。

改めて武田信玄上杉謙信「第4次の川中島合戦」は、非常にドラマチックな戦いだったと認識でき、敵に塩を送る」の逸話と重なって「お互いが認めるライバル」として、今尚「人気の高い戦国武将」である事に納得してしまった次第で、松代城(=海津城)」や「八幡原史跡公園(=第4次川中島合戦があった場所)」に脚を運び、その歴史に思いを馳せてみたくなってしまった次第です。同時に、勝手な妄想で、全くの見当違いかもしれませんが(もしかしたら、ホントにそうかもしれませんが…)、独自の視点で、勝手な妄想を楽しむのは、大人の楽しみ方の1つだと思い、こういった妄想をしながらこの地を巡る事は、大人散策の醍醐味だとも思った次第です。そんなイマジネーションを膨らませつつ、皆様も時間があれば、海津城(=松代城)・妻女山・八幡原史跡公園(古戦場)・若槻山城跡と回ってみてはいかがでしょうか?

ちなみに別記事にて、近場の善光寺周辺観光上山田温泉の旅亭たかの / 上山田ホテル別所温泉に関しても紹介していますので、周囲の大人散策情報やお宿情報と併せてご参照頂けますと幸いですし、江戸期にこの地を治めた真田氏@松代 / 戦国期の真田氏@上田(城)上田城下の北国街道の面影が残る柳町の大人散策情報や、真田氏の名前を全国区にした関ヶ原の前哨戦で徳川秀忠が本陣を置いたとされる(山本勘助の縄張りと伝わる)小諸城に関しても別の記事で記載しております。更に更に、上杉謙信を祭神とする別格官幣社・上杉神社も含めた記事や川中島合戦の後、武田信玄が方針転換し、駿河に触手を伸ばした一環の軍事行動「小田原攻め」その帰路に起こった山岳戦の代表例「三増峠の戦い」その数年後に発生した徳川家康との戦いである「三方ヶ原の戦い」等に関する考察の記事等も別記事で記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

一部地図は、Google Mapの画面キャプチャーに、自身で書き込みを行い作成

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

TOP Pageへ or ブログ内関連情報タグ一覧へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA