【はじめに:彦根城からの連想ゲーム】
こちらのページでは、「徳川の譜代大名の筆頭格で、赤備えでも有名な『井伊家の居城・彦根城』の概要と歴史を抑え、大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。
数年前の夏休み(遅めの夏休みだったので、9月)、静岡(掛川・浜松)、彦根、長浜、名古屋(犬山・岐阜も)を回る旅を企画し、それぞれお邪魔させて頂きました(旅全体の日程は、別記事をご参照ください)。今回は、その中で参らせて頂きました、滋賀県彦根市にある、彦根城を紹介させて頂きます。
お城をテーマにする時の書きだしで、いつもの通りですが、彦根城と言うと皆さんは何を連想されますか? 私の場合は、以下の感じです。
- 現存12天守のうちの1つ (他の現存天守は、弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城(伊予)、宇和島城、高知城)
- その天守は国宝5天守の内の1つ (その他の国宝天守は、松本城、犬山城、姫路城、松江城)
- 築城から、約400年たったお城
- 井伊家35万石の本拠地
- 城も立派だが、「玄宮楽々園」の庭園も見ごたえ十分
- 武田・真田でも有名な、赤備え(井伊の赤備え)が有名 (赤備えの元祖の一人の子孫がオーナーの山縣館と言う温泉旅館を別記事で紹介しています)
- マスコットの「ひこにゃん」が出没する
といった感じでしょうか? 恐らく私の連想ゲームだけでは「彦根城の概要」がまだ見えてこないと思いますので、以下「彦根城の基本情報」を抑えさせて頂いた後、「大人散策情報を共有」致します。



【『彦根城』の基本情報】
彦根城に付き、まずは基本情報を抑えさせて頂きますと、Wikipedia には以下の様にあります。
(略) 1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した (略)
構造
城の形式は連郭式平山城。本丸、二の丸、三の丸と北側に山崎曲輪が配置された。御殿は二の丸に置かれた。本丸に天守、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられた。山崎曲輪三重櫓は明治初期に破却された。なお、城の北側には玄宮園と楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。玄宮園、楽々園はかつて松原内湖(戦中・戦後に干拓)に面しており、入江内湖も望める絶景であった (略)地理特性・縄張り
https://ja.wikipedia.org/wiki/彦根城
琵琶湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう。)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であった。このため戦略拠点として古くから注目され、壬申の乱(672年(白鳳元年))、姉川の戦い(1570年(元亀元年))、賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))、関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など古来多くの合戦がこの周辺で行われた。織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。また豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ重臣の石田三成と井伊直政をこの地に配置している (略)
つまり、「彦根城は、中山道・北国街道・琵琶湖の水運と言った『東国と西国の結節点』と言う場所に『天下普請』で築城された『連郭式平山城』で、工事に20年近くかけ、完成したのが1622年との事なので、約400年前のお城の雄姿を見られる『国宝のお城』が『彦根城』」と言った理解をした次第です。関ケ原の戦いで、石田三成に勝利した徳川家康が、石田氏の所領(佐和山城)に、「側近の井伊家」を「大阪の豊臣家・京都の朝廷・西国外様大名を監視」する意味で送り込んだ構図と理解しますので、築城のタイミングは理解できますが、築城に20年かかったというのは「けっこうかかったなー」と言った勝手な印象を持った次第です。

【『彦根城』の大人散策情報】
上記、彦根城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらでは「彦根城の実際の大人散策における情報」を記載いたします。
実際に彦根城にお伺いすると、「平山城ですが、それなりの高い所に天守が築かれている」事がわかり、また意外と広い範囲で城郭が整備されている事が感じられ『堅固な地形を利用した平山城』である事理解できます。言い換えれば、お城の建物よりも、お城の築かれた土地(金亀山)その物の整備や石垣(山腹からの敵の侵入を防ぐ為、麓から山頂に縦方向に巡らされた石垣:「登り石垣」もあります)の構築に時間がかかったのでないかと思ってしまった次第です(それでも20年は「掛かり過ぎ」の感じがしますが…)。
城郭を巡るルート的には、「表門橋」の方(彦根駅の側)から入場させて頂きました。『「表門橋」方面から坂道を登っていくと、「天秤櫓」(別記事で紹介しました長浜城から移築らしいです)の手前に掛かる橋の下を通り「鐘の丸」に出て、先程くぐった橋を、今度は渡って本丸に向かうルート』です。つまり、「この天秤櫓の下を通らないと本丸にたどり着けない工夫」がされており、本当の有事では、「天秤櫓に通じる橋その物を落とす事を想定」している事が想像できるルートで、ちょっときつい坂道ですが、その築城ポリシーを感じつつ進めるルートです。


「天秤櫓」をくぐった後、坂道を息を切らしつつ登り「太鼓櫓」をくぐると、もう「天守」が見えてきます。天守そのものは、「徳川幕府の側近中の側近で、大老も排出した名門井伊家の天守としては、やや小ぶりな印象」を持ちましたが、外観はとても400年たっている様には見えませんし、内部もすごいの一言(大津城からの移築とも言われているようです)。歴史の重みを感じられずにはいられませんし、天守からの眺めも抜群で、佐和山城址、琵琶湖は勿論、彦根市街、伊吹山等を一望できます。






そして「天守」を見学した後は、「山崎山道」という琵琶湖側の道を通って、「玄宮楽々園」に向かったのですが、かなりの急勾配。「竪堀(登り石垣?」)も見られ、こちらも防御は万全と認識しました。400年前の創意工夫と、かなりの時間と労力をかけ築城した姿を今の時代に拝見出来る事は、本当に感謝の一言だと思った次第です。



【なぜ、彦根城のマスコットは「ひこにゃん」と言う猫?】
所で、なぜ「ひこにゃん」という猫が、マスコットとして彦根城にいるかご存じですか?
「ひこにゃん」のかぶる、赤い兜は、井伊の赤備えをイメージしたものである事、容易に想像できますが、なぜ猫なんでしょうか? これは、井伊家におけるあるエピソードが関連していると言われている様です。2代藩主・直孝の時代の話で、東京の世田谷にある豪徳寺での出来事らしいです。



「ある雨の日、豪徳寺付近の木の下で雨宿りをしていると、白い猫が手招きをしてるので、そちらに行ってみると、雨宿りをしていた木に雷が落ち(雷雨を避ける事が出来?)、直孝は難を逃れた」というエピソード(ホントか否かは知りませんが・・・)が、元になっているようです。現在、「豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺」で、本当に沢山の招き猫が奉納されているのです。こんな逸話があるので「ひこにゃん」と言う猫のキャラクターが出てきたと言う事の様です。







ちなみに、「ひこにゃん公式サイト」なる物を見つけて、びっくりしたのですが、このページのプロフィールページには、以下の様にあります。
”彦根藩井伊家二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる”招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター”
https://hikone-hikonyan.jp/profile/
ちょっとふざけた、ユーモラスな軽いキャラクターと思いきや、しっかり考えて企画されている事、本当に日本人らしいと思ったのは、私だけでしょうか? この話が本当であればの前提ですが、彦根城を今見れるのでは、この猫のおかげかもしれないので…(赤備えに関しては、そのルーツも踏まえ、本ブログの別記事で紹介しています)。
【最後に:彦根城は「超ラッキーなお城?」】
以上が、「徳川の譜代大名の筆頭格で、赤備えでも有名な『井伊家の居城・彦根城』の概要と歴史を抑え、大人散策情報を共有」させて頂いた内容になります。
井伊氏は、戊辰戦争の始まりと言われる「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍に加わり「旧幕府軍敗退の原因」を作ったと言われています。しかしその甲斐あってという事か、明治維新後も生延び、その後明治天皇が、「たまたま巡行で彦根を通りかかった」時「解体寸前の彦根城を保存するよう命令を下された」という話を耳にしたことがあります。Wikipedia には以下の様な記載もあります。
(略) 明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし、老朽化のため民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果、天守や櫓の保存が決定し、皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された (略)
- 1945年(昭和20年)8月15日夜に連合国軍が彦根市を夜間爆撃する予定であったが、同日正午の終戦の詔勅により日本の降伏が発表され爆撃は行われなかった。
- 1951年(昭和26年)「彦根城跡」として国の史跡に指定、天守等6棟が重要文化財に指定された
- 1952年(昭和27年)前年重要文化財に指定された6棟のうち天守(1棟)と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2棟が国宝に指定された (略)
つまり、「たまたま(招き)猫との出会った」事で救われた井伊家は、彦根城を江戸の初めに完成させ、江戸期を徳川の家臣として生き抜き、戊辰戦争では新政府軍に組して、明治期には「たまたま天皇の行幸」が有って解体を免れ、昭和の太平洋戦争では爆撃の標的にされるが「たまたまそのタイミングで日本降伏の発表」が有って、攻撃を免れたお城が『彦根城』と理解した次第です。「解体されても、戦火に巻き込まれてもおかしくなかった彦根城」ですが、「招き猫に始まる歴史のめぐり合わせ」で、今尚400年の時を超え、その雄姿を現在でも拝見できる『物凄い運の強いお城』と言う理解で、今日私達がその遺構を目にする事が出来る事、有難い限りです。日本人であれば、是非この歴史のめぐり合わせ(「直孝と招き猫」 & 「天皇の巡行ルート」&「爆撃の中止」)を味方につけ、生延びてきた国宝・彦根城の雄姿を一度は見て頂きたいと思うのは私だけでしょうか?
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!