迂直の計

【はじめに:「迂直の計」のメッセージは?】

本日は、孫子の中に出てくる言葉で「迂直の計」を考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

「迂直の計」って聞いた事ありますか? よく「急がば、回れ」、なんて言いますが、私の理解では、「迂直の計」と「急がば、回れ」は、「似て非なる物」の認識をしています。

”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。

”『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている”

https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)

2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。

まずは、「急がば、回れ」に関してですが、「焦って物事を進め、失敗すればやり直しになり、かえって時間がかかってしまうので、確実に一つ一つしっかりとすすめた方が、結果として早く済むといった様な意味で理解しています。

一方、「迂直の計」とは、もう少し戦略的で、「自身が達成したい目的を明確に決め、それを最短で実行するも、その目的や意図は秘匿し、もしくは情報操作し、相手を翻弄し、自身を有利な状態に導くことで、効率的に自身の達成したい目標を成し遂げると言った意味だと理解しています。

前者は、一人称的な理解ですが、後者はあくまでも、相手があり、戦略的な話と言う理解をしている訳です。では、「実例として何か思い浮かぶか?」と言うと、正直ぴったりくる事象が思い浮かばないのですが、武田信玄の晩年の戦で有名な、三増峠の戦い三方ヶ原の戦いは、近いものがあると思います。こちらのページでは、三方ヶ原の戦いを取り上げさせて頂きます。

【「迂直の計」の日本史上の実例:三方ヶ原の戦い】

(皆さまご承知の事と思いますが)そもそも三方ヶ原の戦いを抑えておきたいと思いますが、Wikipedia によると以下の様にあります。

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した”

https://ja.wikipedia.org/wiki/三方ヶ原の戦い

また、この項目を読み進めると、戦その物の流れに付き、記載があります。

”(略) 当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し”

https://ja.wikipedia.org/wiki/三方ヶ原の戦い

武田軍は浜松を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更” とありますが、正に「信玄による ”迂直の計” に家康がハマってしまった瞬間」だと思います。

更に読み進めますと、以下の記載が続きます。

織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する (略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/三方ヶ原の戦い

つまり武田方は、城攻めは不利、且つ非効率と考え「決戦地を三方ヶ原に最初から定めていた」と推察できます。自身の意図は秘匿し(=徳川方を三方ヶ原で叩く)、情報操作により相手を翻弄し(=堀江城を見せかけると思わせておいて、且つ、背後を強襲すれば勝てると徳川方に思わせた上で、「武田方が」想定する決戦の地、三方ヶ原に誘い出す)、効率的に目的を達成した訳です(三方ヶ原で、万全の体制で待ち構え、短時間で決着をつける)

これは、100%ではないかもしませんが、「迂直の計」の実例としては、かなりフィットしたものでないかと思った次第です。しかし、こんな戦い方をされたら、家康としては、逃げるしかないでしょうし、そこまで追い詰められれば、尊敬の念さえ出てくることもうなづけ、この戦いの後、家康は「しかみ像」を描かせたり(様々論争はある様ですが…)、江戸幕府は甲府を大切にしたり、信長の甲州征伐で燃えてしまった武田家の菩提寺の恵林寺の修復を行ったりした行動も理解できてくると思うのは、私だけでしょうか?

【最後に:日本史関連情報】

上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 

私が思ったのは、これだけの戦いをする武田信玄と互角に渡り合い、時には裏をかいて川中島の第4次の合戦では、勝利寸前までいった上杉謙信は、どれほど強かったのかと改めて思ってしまった次第です…

本ブログの別記事で、浜松城の情報川中島合戦の舞台である海津城(松代城)武田氏の居城であった躑躅ヶ崎館(=現武田神社)武田信玄が築いたと言われる軍用道路の「信玄棒道」等に関しても、紹介していますので、是非そちらもご覧いただければ幸いです。孫子も面白いですが、日本の歴史にも、現地訪問も含め思いを馳せてみては、いかがかと思います。

(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、今回ご紹介した戦の位置関係理解にお役立て下さると同時に、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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