兵を形すの極は無形に至る

【はじめに:「兵を形すの極は無形に至る」のメッセージは?】

本日は、孫子の中に出てくる言葉で、兵を形すの極は無形に至る」を、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

兵を形すの極は無形に至るって、ご承知の通りだと思いますが、自軍が兵力を動かすときに、敵軍に自軍の意図を知られないようにする必要があるが、自軍内にスパイが入り込んでいたり、打つ手によっては、意図に感づかれてしまう可能性もある。しかし、そもそも自軍の ”形” が敵から見えないのであれば、その意図を敵が理解する事はないと言ったところでしょうか? 

言い換えれば、「無敵の軍=形がない軍」と言ったところでしょうか? しかし、大勢の人間が集まり、組織だって戦う戦において、かなり難しい注文に思えますが、これをやってのけた戦国武将が「織田信長」であり、顕著に表れている実例が「桶狭間の戦い」だと思います

【「兵を形すの極は無形に至る」の実例;桶狭間の戦いとは?】

まずは、この日本三大奇襲に数えられる(別記事で、日本三大奇襲に関しては、記載しています)桶狭間の戦いを、Wikipedia の力を借りつつ、整理してみますと、以下の様にあります。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、日本の戦国時代の永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間で行われた織田信長と今川義元の合戦。2万5千人(異説あり)といわれる大軍を率いて尾張東部に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲または奇襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。日本の歴史的に有名な戦いである (略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/桶狭間の戦い

織田軍:3,000 – 5,000人(奇襲を実行したのは2,000人)に対し、今川軍:25,000 – 45,000人(諸説あり。また織田軍に直接対峙したのはこのうち5,000 – 6,000人)と記載があり、今川義元が、尾張を奪取すべく仕掛け、これを信長が返り討ちにした戦と理解しています

簡単に、戦の経緯を記載しますと、1560年5月10日に駿河を出陣した今川義元は、東海道を進み、18日には沓掛城に入城。翌19日には既に制圧した大高城に向けて移動を開始。この情報を得た信長は、2000の兵で、豪雨に紛れつつ進軍。作戦的な理由と、地形的な理由の両面で、兵を分散しており、連戦連勝で気の緩みも合ったであろう今川軍に、織田軍が奇襲をかけ、結果、義元は打ち取られる事になった。

言い換えると(物凄い簡単に言ってしまうと)、義元軍から見た時、分散し、豪雨に紛れた信長軍は『正に無形の軍隊』で、これがいきなり襲ってきて『気付いた時にはやられていた…』と言った感じの戦い」が、私の理解する桶狭間の戦いです。

昔は、「戦なのに、輿に乗ってるような公家まがいの、戦を知らない義元が、若き新鋭の信長に足元をすくわわれた」、といった認識が大多数だった様ですが、最近は、「輿にあえて乗る事で、威厳を示そうとした」等、義元の評価を再考する動きが一般的な様に思えます。1551年に、信長の父・信秀が他界すると、三河の情勢は混沌とし始めたようで、国境周辺の拠点は、今川の手に落ちていった様です。

義元も、1558年には氏真に家督を譲り、自らは、三河の経営に乗り出した様で、そして、その先にあるのか尾張。駿河・遠江・三河を抑える大大名の今川が、尾張一国の、当主が変わった直後の織田を、攻めるのは当然の流れだったのでしょう。戦の進め方も正に横綱相撲。しっかりと落とした拠点に、義元は入って行くプランだった様なので…。

【信長は「兵を形すの極は無形に至る」をどう実現した?】

沓掛城(尾張と三河の境にある城)から、最前線だが、自身の手中にある大高城に行く途中に、桶狭間はあります。この時、義元は、信長の作戦も、信長の動きも、承知していなかったと思われ、正に信長は「兵を形すの極は無形に至る」状態だったと思われますが、それはどの様な状況だったのでしょうか? 以下に、戦の経緯と信長と義元の心持を少し想像してみます。

・家中の中でも自身の考えを明確にしない信長

義元の侵攻に対抗する作戦を織田家中で話し合う軍議においても、家臣たちに議論させ、自身の考えは明確にしないまま、「夜も遅いので、皆帰って休め」と言ってみたりしているようです。

・兵の分散と集中を迅速に、且つ(情報戦も含め)クレバーに実施

その翌朝、家康(この時は松平元康)が、大高城から信長方の砦(丸根砦、鷲津砦)を攻撃すると、信長は直ちに少数で動き、熱田神宮 → 善照寺砦と移動して、兵を集結。ここで、陽動作戦とも思える攻撃(2000 – 3000 の兵の内500を割いて、今川方の鳴海城を攻撃)を行っており、このタイミングで、義元の動向を探っていた斥候より今川本陣の位置が桶狭間と分かると、精鋭部隊の2000で、中島砦・桶狭間を目指した様です。途中悪天候により、自軍の動きを隠すことが出来た(=運も味方した?)と言われいるようですが、最終的に信長は「今川方に、作戦狙いの一切を秘匿して、数の限られた義元本陣の目の前まで、無傷で進軍する事が出来た」訳です。

・義元の心持は?

義元としては、優勢な戦いをして、押しまくっていた訳で、「信長は清州から出てこれない状況」になっていると思っていたのでしょうから、まったくの不意を突かれた状態(=信長の作戦意図も兵の動きも見えていなかった状態)となってと思われ、事実(的確な情報)に基づかない行動をとってしまっていたと推測できます。

・その結果は?

結果は、皆さまご承知の通り、今川義元は打ち取られ、今川没落のきっかけとなり(この後の今川家は、衰退の道を辿り、甲斐の武田により領地を追われてしまいます…:別記事参照)、信長は、歴史の大舞台に登場してくる訳です。信長は「兵を形すの極は無形に至る」を実践する事で、地位を確立していったと言っても良いと思われます

【最後に】

上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 信長は、「自軍の兵力を考えた際に『今川方は大軍だが、大高城や鳴海城と言った所に兵を分散しているので、本隊のみを奇襲して義元を打ち取る以外方法はない』」と恐らく思い、このチャンスだけを狙って、情報を秘匿しつつ動いたと思われます。

一方の義元は、横綱相撲で押し切る事を前提に戦っていたが、信長の作戦意図や行動をつかんでいなかったと言う事だと思います。故に、信長は正に「兵を形すの極は無形に至る」を実践したが、義元にあえて孫子の言葉を当てるなら、「敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」(「敵が、何を考えているのか? 何をしたいのか? 目的は何か? と言った事をしっかり把握する事が必要で、情報収集を滞りなく実行すべき」、といった所でしょうか?; このパートは、孫子の中では、間者の使いこなしが重要だと、言っているパートですが・・・)と言う言葉を思い出した次第です。

言い換えれば、情報戦での信長の勝利が、桶狭間の戦いにおける決め手と言う事だと認識した次第です。もっと言えば、自身が得る情報も、相手が得る(得ているかもしれない)情報も、重要で、そのコントロールも重要と言う事です。事実、桶狭間の戦いでは、義元の居場所を突き止めた斥候に対し、義元を打ち取った、毛利良勝よりも多くの褒美を与えているようなので「情報の重要性をより高く評価していた」と言う事だと思います。

(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください。また、道としての桶狭間を通る東海道熱田神宮を含む名古屋観光情報日本三大奇襲等を、別記事で紹介していますのでこちらも併せてご参照ください)

”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。

”『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている”

https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)

2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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