死地に陥れて然る後に生く

【「死地に陥れて然る後に生く」のメッセージは?】

今回は、孫子の中に出てくる言葉で、「死地に陥れて然る後に生く」を、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

「死地に陥れて然る後に生く」って、聞いたことありますか? 意味的には、「自軍の兵を逃げ場のない場所において、覚悟を決めさせる環境を作り、自軍の兵力を最大限に引き出すこと」、といった意味と理解しています。これに似た言葉が、韓信の「背水の陣」と言う言葉ですが、こちらの方が有名で、意味も分かりやすい為、市民権を得ていると思います。

折角なので、この「背水の陣」を、Wikipedia の力を借り調べてみますと、井ケイの戦いの中の、”背水の陣”の段落で説明され提案す(https://ja.wikipedia.org/wiki/井ケイの戦い)。

”井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し城壁を築いた。『尉繚子天官編』に「背水陳爲絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうとほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった。韓信は初め迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった。

趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのである。大量にはためく漢の旗を見て趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり敗れた”

とあります。皆さんご承知の内容だと思います。(逆の攻める側の視点で、孫子の名言の中に、「囲師には必ずかく」と言う別記事で紹介させて頂いた言葉もありますが・・・)

厳島神社Map

【「死地に陥れて然る後に生く」の日本史における実例は?】

では、この「死地に陥れて然る後に生く=背水の陣」の考え方を日本の歴史の中で実践した戦は思い浮かびますか? 私が思い出したのは、日本三大奇襲に数えられる(別記事にて、日本三大奇襲を記載しています)、”厳島の戦い”、でした。この戦いをおさらいしてみますと、『毛利軍、4-5000に対し、陶軍、2-3万と言われているようで、元々主君であった、大内義隆を自刃に追い込み、実権を握った、陶晴賢を打つべく、毛利が仕掛けた戦です。

簡単に、戦の経緯を記載しますと、厳島神社で有名な、厳島で行われた合戦で、この場所を選択したのは、毛利元就のと言われているようです。兵力が圧倒的な不利な毛利軍としては、大軍で攻めてくると思われる陶軍を狭い島の中に誘い込んで、殲滅しようとしたという事でしょう。計略を巡らし、村上水軍を自軍に引き込んだ上で、元就率いる本隊が山側から奇襲(戦い前日に暴風雨にまぎれ、敵から死角になる包ヶ浦と言う場所から上陸したらしいです)。続いて、小早川隆景と村上水軍の別動隊が海から敵船を攻撃。陶軍を挟み撃ちにして攻撃する形となる。大軍で身動きの取れず、混乱に陥った陶軍を攻めたて、更に船も沈め、戦闘も海上への逃走も困難になり、晴賢は島の中で逃走も、最後は自刃し、大きな戦闘そのものは、1日で終結した戦いです』。

「死地に陥れて然る後に生く=背水の陣」を思わせるエピソードは、上記の「戦い前日に暴風雨にまぎれ、敵から死角になる包ヶ浦と言う場所から上陸」した時に起きています。元就は、自軍が移動してきた船を、返してしまっているのです。

Wikipedia には、以下の様に書かれています(https://ja.wikipedia.org/wiki/厳島の戦い)。

”30日、元就・隆元・元春らの率いる第1軍(毛利本隊)・隆景を大将に宮尾城兵と合流する第2軍(小早川隊)・水軍で構成される第3軍(村上水軍)に別れて厳島に渡海する準備を行う。夕方頃になって天候が荒れ始め雷を伴う暴風雨になるが、元就は「今日は吉日」であると称して風雨こそ天の加護であると説き、酉の刻(18時)に出陣を決行した。(略)。毛利本隊は敵に気付かれないよう元就の乗船する船のみ篝火を掲げ、厳島を密かに東に回り込み、戌亥の刻(21時)頃に包ヶ浦と呼ばれる厳島東岸の浜辺へ上陸。元就は、全ての軍船を返すように児玉就方に命じて背水の陣の決意を将兵に示した”

決戦を期した移動で、暴風雨なんて、桶狭間の戦いに似ていますが、島での戦闘で、しかも、自軍4-5000に対し、敵軍2-3万の状況で、自軍が乗ってきた船を返してしまうなんて、正に「死地に陥れて然る後に生く=背水の陣」だと思い、この一戦にかける元就の意気込みを、兵全体で感じ取った事だろうと思った次第です。勿論、この意気込みだけでは戦に勝つ事はできず、そこに至るまでの元就の知略が、重要だった訳ですが、最後の総仕上げの段階で、強い意志を示すために、元就の知略が最後まで光った戦に思えた次第です。

包ヶ浦Map

【最後に】

上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 陶軍も船を焼かれ、同様に背水の陣であったはずですが、毛利軍は攻めたて、陶軍は逃げ惑う形になったと言う事は、同じ置かれている状態が同じでも、意気込みをもって作った環境と、予期せず出来た環境をでは、人の心持は違うと言う事だと改めて思いましたし、同じ孫子の言葉で言うなら、「人を致して人に致されず」(別ページで紹介しています)と言う事だと思いました。

死地に陥れて然る後に生く=背水の陣」。現代社会ではやってはいけない事ですが、これと似た形の「危機感をあおる」、といった事は、特に政治の世界で、各国で行われていると認識しています。しかし普段の生活では中々実践は難しいと思うので、「ここが勝負と思った時は、しっかりとした意思をもって行動する」、くらいは心がけて、行動していきたいと思った次第です。

(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

陶晴賢碑Map

(”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと(https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物))、”『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。”、とあります。2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、と言った認識を個人的に持っております。)

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