日本三大怨霊:菅原道真・平将門・崇徳上皇

【はじめに】

こちらのページでは、日本三大怨霊とされるも、現在では信仰の対象となってる神々を祀る神社を取り上げさせて頂こうと思います

皆様は、「日本三大怨霊」って聞いた事はありますか? 「日本三大〇〇」って良く聞きますが、「その3つって何?」と聞かれると中々回答難しいかもしれません。本ブログ別記事で、日本三大奇襲(厳島の戦い / 桶狭間の戦い / 河越夜戦)」や「三大八幡宮」、「三大急流」、「三名園」、「三名城」等々多くの「日本三大〇〇」を取り上げさせて頂きましたが、こちらのページでは日本三大怨霊(菅原道真(天満宮) / 平将門(神田明神) / 崇徳上皇(白峯神社)」に付き、取り上げさせて頂き、それぞれの事実関係を整理整頓し、考察を加えさせて頂こうと思います

以下に、まずは「日本三大怨霊」の概要を抑えた上で、菅原道真(天満宮) / 平将門(神田明神) / 崇徳上皇(白峯神社)に付き、記載いたします。

【日本三大怨霊とは?】

まず最初に、「日本三大怨霊」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipediaの「日本三大怨霊」の項目には、以下の様にあります。

日本三大怨霊(にほんさんだいおんりょう)とは、日本に数多伝わる怨霊の中でも特定の三人を指す呼称である (略)   

日本三大怨霊とは一般に菅原道真・平将門・崇徳天皇(崇徳院)を指す言葉である。歴史学者山田雄司は、菅原道真・平将門・崇徳天皇が三大怨霊とみなされるようになった背景には、江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響を与えているとしている  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三大怨霊

菅原道真は、平安時代の貴族、平将門は、平安時代の武将、崇徳上皇は、平安時代の天皇(75代)ですので、いずれも平安時代が発端になっている様ですが、上記Wikipediaによると、「江戸時代における読本や歌舞伎などが大きく影響」と記載があります。つまり、菅原道真、 平将門、崇徳上皇が怨霊となって、現世に災いをもたらした(事実は別として、そう言われているだけでしょうが…)と言う言い伝えが、あった事は周知の事実であったが、「日本三大怨霊」と言われるようになった事は、江戸時代の話で、しかもそのインパクトある「文字づら」から想像ずるに、『日本人特有の「(「栗よりうまい十三里」の様な)上手な言い回し」で、宣伝文句として、読本や歌舞伎に活用された事が、「日本三大怨霊」の始まり』と思った次第です。

【それぞれの日本三大怨霊】

上記、「日本三大怨霊」の概要を抑えましたので、以下に菅原道真(天満宮) / 平将門(神田明神) / 崇徳上皇(白峯神社)のそれぞれのケースを見て行きたいと思います。

■ 菅原道真

まずは、菅原道真学者として優秀で、漢詩の才能もあり、宇多天皇/醍醐天皇の元で活躍した菅原道真は、藤原氏の虚偽の訴えにより、大宰府に左遷され、その地で生涯を閉じた貴族です。Wikipediaの「菅原道真」の項目には、以下の様にあります。

(略) 死後の復権  

延喜6年(906年)冬、道真の嫡子高視は赦免され、大学頭に復帰している。延喜8年(908年)に藤原菅根が病死し、延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死した。これらは後に道真の怨霊によるものだとされる。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死した。延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御した。『日本紀略』はこれを道真の恨みがなしたものだとしている。4月20日(923年5月13日)、道真は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られた。  

延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野天満宮において神として祀られるようになった。  

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られた  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真

つまり、「道真の死後、藤原氏の病死や平安京の内裏で死傷者も出たと言われる落雷(清涼殿落雷事件)があったり、それを目撃した醍醐天皇が体調を崩し亡くなってしまったりした為、道真の祟りが信じられた。怨霊を恐れた当時の人は、道真に官位を与えた上、神格化し、京都の北野天満宮で神として祀ったと言われており、現在に至っては道真の才能と相まって、学問の神として日本各地に「天満宮(菅原神社もですが…)」を見る事が出来るようになった」と言う事だと理解しました。

ちなみに、菅原道真を祀る、天満宮/菅原神社でよく目にするのは、「梅」と「牛」。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 飛梅伝説  

道真が京の都を去る時に、庭に植えられた梅の木に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌を詠んだ。その梅が、京の都から太宰府の道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」が存在する (略)   

https://ja.wikipedia.org/wiki/菅原道真

(略) 菅原道真と牛  

菅原道真と牛の関係については多くがあり、その深い結びつきから御神牛が置かれるようになった。  

  • 菅原道真公は承和12年(845年)乙丑6月25日丑の日に生まれた
  • 丑年生まれであったため、牛をかわいがっていた
  • 左遷により大宰府に赴く途中、牛の鳴き声で刺客から逃れることができた
  • 道真公は延喜3年(903年)2月25日丑の日に亡くなった
  • 道真公の「遺骸を牛車にのせて人にひかせず、牛の赴くところにとどめよ」という遺言により、遺体は道真の住んでいた榎社から牛車で運ばれたが、四堂という場所で牛が動かなくなったため、その地を墓地として埋葬した。
  • 延喜5年(905年)の乙丑8月19日、門弟である味酒安行は道真を埋葬した場所に神廟を建てた。それが安楽寺であり、のちの太宰府天満宮の本殿である。
  • 「北野天神縁起絵巻」では牛車で道真公の亡骸を運び、牛がうずくまる横で埋葬するための穴を掘る場面が描かれている。御神牛の多くが臥牛像であるのはここからきている。
  • のちに道真が神として祀られると、雷神であると同時に農業の守り神としても信仰されてきたが、農耕において牛は重要な働き手であることから、天満宮では神の使いとして信仰の対象となった。
  • 天神様の正式な神号「天満大自在天神」の由来とされる仏教の守護神「大自在天」は白牛に乗っている  (略)  
https://ja.wikipedia.org/wiki/御神牛

上記以外にも、「菅原道真」と「梅 / 牛」に関するエピソードや言い伝えもある様で、「菅原道真」と「梅 / 牛」の関連性の深さを感じます「天満宮系の神社」・「菅原神社」と言った「菅原道真を祭神とする神社」にお参りなさる際には、「梅 / 牛」にも、意識を向けられると、面白い大人散策が出来るのでないかと思います。ちなみに、天満宮系の神社や菅原と名のつく神社には、狛犬ならぬ狛牛?が、門前を守護しておるケースもあるので、一つの楽しみ方として、頭の片隅に置いておいてはいかがでしょうか?

■ 平将門

次に、平将門東日本で勢力を持ち、ついには「新皇」(「新しい天皇」の意味で、「天照大神とは異なる世界を創る大きな役割」と言う意味があるらしい)を自称したが、即座に朝敵となり討伐されてしまった武将です。Wikipediaの「平将門」の項目には、以下の様にあります。

平 将門(たいら の まさかど、平 將門、延喜3年〈903年〉? – 天慶3年2月14日〈940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族。日本の第50代桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将の子。  

下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷・平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。  

死後は怨霊になり、日本三大怨霊の一人として知られる。 後に御首神社・築土神社・神田明神・国王神社などに祀られる (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/平将門

また、平将門を祭神としている神社として有名な、神田明神につき、同じくWikipediaで調べてみますと、以下の様にあります。

(略)  平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、明治7年(1874年)に構内の摂社である将門神社に遷座、昭和59年(1984年)に本殿に奉祀復帰 (略)  

明治に入って神社が国家の管理下に入ると、明治元年(1868年)に准勅祭社に指定された。その後、府社に列せられ、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められた。1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷された  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/神田明神

死後は怨霊となり、道真同様、日本三大怨霊の一人となってしまうが、各地に首塚や将門を祀る神社(東京では神田明神(祭神:大国主命・少彦名命・平将門)や築土神社(祭神:ニニギノミコト・平将門・菅原道真))が、現在でもあり、京都では朝廷に謀反を起こした極悪人ですが、関東では「独立を図るも、悲運の死を遂げた英雄として、江戸の鎮守として今尚信仰を集めている」といった理解をさせて頂きました。特に神田明神は、明治期の神仏分離のプロセスの中で、朝廷に逆らった将門を祭神から外すように、圧力もあった様ですし、家康に江戸の総鎭守として崇められるも政権が代わって天皇への忖度で「将門外し」があっても、それを地元民が守り抜いた事は、「将門に対する恐怖と鎮守府としての崇拝が紙一重で混在している」様にも思えた次第です。別記事の「神田明神」に関し記載させて頂きましたページもご参照頂けますと幸いです。

■ 崇徳上皇

そして三大怨霊のもう一人が、崇徳上皇貴族内の内部抗争で後白河天皇方に敗れ(平治の乱)、讃岐に流され、この地で崩御した75代の天皇です。Wikipediaの「崇徳天皇」の項目には、以下の様にあります。

(略) 怨霊伝説  

保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われた (略) 崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。  

ところが安元3年(1177年)になると状況は一変するこの年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。  

寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。  

怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)・『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において菅原道真や平将門と並ぶ日本三大怨霊として怨霊や祟りのモチーフとして使われている  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/崇徳天皇

また、現在、崇徳上皇を祭神とする「白峯神宮」をWikipediaで調べてみますと、以下の様にあります。

(略) 崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐国に流され、長寛2年(1164年)旧暦8月26日その地で崩御したその後天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵(現・香川県坂出市)の隣に、上皇の菩提を弔う為に府中の木丸殿が移築され法華堂(現・頓証寺殿)として建立された。また朝廷の命により以後、白峯寺による供養会が営まれるようになった。  

時代は下って、幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じ、慶応2年(1866年)旧暦11月16日に白峯宮の建設が始まるが、まもなく崩御した。その遺志を継いだ子の明治天皇は慶応3年旧暦1月9日践祚、慶応4年(1868年)旧暦8月18日に白峯宮の創建を宣命し、勅使を白峯陵に送り上皇の命日の旧暦8月26日に宣旨を読みあげさせ、その翌日に即位した。その勅使により同年旧暦9月6日上皇の御霊が讃岐国から京都に到着し、頓証寺殿(旧:法華堂)の本尊であった崇徳上皇僧形座像図を当宮に移し、翌日、明治天皇が親拝した。なお、その翌日の旧暦9月8日に明治に改元されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/白峯神宮

簡単にまとめますと、「死後、後白河天皇に近しい人がなくなったり、社会情勢が不安定になったり(延暦寺の強訴、鹿ケ谷の陰謀)、火災(安元の大火)がおこったりした事から、崇徳上皇の怨霊が意識される様になった為、上皇が葬られた白峯陵(現・香川県坂出市)の隣に、上皇の菩提を弔う為に府中の木丸殿が移築され法華堂(現・頓証寺殿)として建立された。その後、江戸の幕末になって、孝明天皇の名のもと、上皇の霊を慰める為、白峯神社の建設が京都で開始され、意思を受け継いだ、明治天皇により頓証寺殿(旧法華堂)の本尊であった崇徳上皇僧形座像図を白峯神宮に移した」と言う理解をさせて頂きました。

言い換えると、「怨霊の直接原因となった、後白河天皇だけでなく、幕末の動乱期には、孝明天皇も明治天皇も崇徳上皇の怨霊を恐れていた」と言う事になると思います。これは、別記事でも記載しました「神宮」を名称に使った事からも同様に推測できる事です(「天皇、天皇につながる天照大神系の神々(系の神々)、天皇の正当性を示す三種の神器を祀る等の重要な神社が神宮」と言う理解をしております)。

ちなみに、現在京都にある白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった堂上家(公家)である飛鳥井家の屋敷の跡地との事で、今となっては、サッカーをはじめとする、球技全般およびスポーツの守護神として、崇拝されている様です。

【最後に】

以上が、日本三大怨霊とされるも、現在では信仰の対象となってる神々を祀る神社(菅原道真(天満宮) / 平将門(神田明神) / 崇徳上皇(白峯神社))を取り上げさせて頂いた内容になります。

こうしてみてみると、生きている人が勝手に怨霊にして、勝手に神格化した結果、江戸時代の商売的な背景と相まって、キャッチーな『日本三大怨霊』と言うフレーズが市民権を得た」と言った理解をさせて頂いた次第です。確かに本人たちは、それぞれの死に際し、不条理さを感じていたと思いますが、戦乱の世の戦国時代を考えると、怨霊だらけになってしまうと思いますので、やはり日本三大怨霊の源泉は「生きている人による政治や日々の生活における不安によって作られ、それを商売として利用された結果」だと思ってしまったのは、私だではないと思います。同時に、菅原道真は学問の神として、平将門江戸(東京)の総鎮守として、崇徳上皇は球技の守護神として、私達の信仰の中に神としていらっしゃるかと思うと「やっぱり生きている人の都合でどうとでもなるのが信仰心という物なんだな…」とも思ってしまいました

今後、上記の様な視点もですが、別記事で記載させて頂きました「神宮・宮・大社・神社」の違いを考察させて頂きました記事や、「祭神の違いによる神社のカテゴリ分け」の記事といった少しまじめな視点や「狛犬ではない『狛〇』」と言った気軽な視点でも、神社仏閣に参らせて頂く際には、自身の中で情報を整理整頓し、実際のフィールドワークも行って、大人散策を楽しんで行きたいと改めて思った次第です。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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