【布引観音とは:基本情報】
皆さんは、「布引観音」をご存じでしょうか? 「布引観音」をご存じなくとも、「断崖絶壁に張り付く様に建てられた、赤い社殿」を記憶している方は多いのではないかと思います。本日は、長野県小諸市にある、釈尊寺・布引観音の大人散策情報をご紹介します。
まずは、釈尊寺・布引観音の基本情報からご紹介します。布引観音をWikipedia で検索すると、釈尊寺のページが表示され、以下の説明文が出てきます。
”釈尊寺(しゃくそんじ)は、長野県小諸市にある天台宗の寺院。山号は布引山。布引観音とも呼ばれる。信濃三十三観音霊場の第29番札所。「牛に引かれて善光寺参り伝説発祥の地。本尊は聖観世音菩薩。縁日は新暦5月8日 (略)
重要文化財 観音堂宮殿(かんのんどうくうでん)
棟札により鎌倉時代の正嘉2年(1258年)の造立と判明した建築物。岩屋の中に祀られていたことにより戦火を免れて今日に至る。観音堂内にある仏殿形の厨子で、地方的な未熟さがなく、美術史上重要であるとして、昭和24年(1949年)国の重要文化財に指定。入母屋造、板葺であって、梅鉢懸魚や軒下の蟇股(かえるまた)、地長押の下の格狭間(ごうざま)など、細部の形式に鎌倉時代建築の特色を示す。特に鎌倉時代の梅鉢懸魚は、現代に残る唯一の遺物である(略)”
https://ja.wikipedia.org/wiki/釈尊寺
釈尊寺・布引観音は、長野県・小諸市の千曲川左岸にあり、位置関係で言うと小諸駅から見ると、千曲川の対岸にあたります。最寄り駅は、しなの鉄道線・滋野駅、もしくは小諸駅(小諸駅は小海線の起点の駅でもありますが…)ですが、車でのアクセスが一般的の様で、広めの駐車場もございます。歩けない事は無いと思いますが、それぞれの駅から4-5㎞程で、千曲川の河岸段丘を下って行く必要があり、布引観音の駐車場に到着してから、改めて山道を20-30分(1~2㎞くらい)かけて登る必要があります。言い換えると、往復15㎞位の行程で、それなりのアップダウンを覚悟する必要があると言う事になるので、徒歩でいらっしゃる際は、ほぼ1日の行程になる事を想定された方が良いと思います。詳細の地図は、以下Googleマイプレスで作成した地図をご参照ください(別記事で紹介した、小諸の観光スポット、懐古園(=小諸城址) / 旧北国街道・小諸宿の大人散策情報と共に記載しております)。
【牛に引かれて善光寺参り伝説】
上記、基本情報内、Wikipedia の引用の部分に、「牛に引かれて善光寺参り伝説」に関しても、少し触れたいと思います。
この話は、簡単に記載してしまうと、
『ある日どこからかやってきた牛が、その角に布を引っかけて走り去ってしまい、その布の持ち主である老婆は怒ってその牛を追いかけますが、追いかけているうちに、とうとう善光寺まで来てしまった。その金堂前で、ふと足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように、「うしとのみおもひはなちそこの道に なれをみちびくおのが心を」と書いてあるのを見つけ、老婆は信仰心に目覚めた。帰宅した後、たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあった』
と言うお話の様です。
この逸話は、善光寺のホームページにも記載されていますので、以下ご参照ください。
”「牛に引かれて善光寺参り」、この文句は「一生に一度は善光寺参り」と同じくらい人々に語られています。この話は江戸時代に、善光寺信仰の広まりと共に全国に知られるところとなりました。
昔、信濃の国、小県の里に心が貧しい老婆がいました。ある日、軒下に布を干していると、どこからか牛が一頭やってきて、その角に布を引っかけて走り去ってしまいました。女はたいそう腹を立てて、
「憎たらしい。その布を盗んでどうするんだ。」
などと怒りながらその牛を追いかけていきました。ところが牛の逃げ足は早く、なかなか追いつきません。そうする内に、とうとう善光寺の金堂前まで来てしまいました。日は沈み牛はかき消すように見えなくなりました。ところが善光寺の仏さまの光明がさながら昼のように老婆を照らしました。ふと、足下に垂れていた牛の涎(よだれ)を見ると、まるで文字のように見えます。その文字をよく見てみると
うしとのみおもひはなちそこの道に
なれをみちびくおのが心をと書いてありました。女はたちまち菩提の心(仏様を信じて覚りを求める心)を起こして、その夜一晩善光寺如来様の前で念仏を称えながら夜を明かしました。昨日追いかけてきた布を探そうとする心はもうなく、家に帰ってこの世の無常を嘆き悲しみながら暮らしていました。たまたま近くの観音堂にお参りしたところ、あの布がお観音さんの足下にあるではないですか。こうなれば、牛に見えたものは、この観音菩薩様の化身であったのだと気づき、ますます善光寺の仏さまを信じて、めでたくも極楽往生を遂げました。そしてこのお観音さまは今、布引観音といわれています。これを世に「牛に引かれて善光寺参り」と語り継いでいるのであります。
https://www.zenkoji.jp/about/engi/
(この説話は江戸時代後期の浮世絵師、東都錦朝楼芳虎の「牛に引かれて善光寺参り」と題する絵に添えられた文章を現代語訳したものです。)”
こういった逸話を知りつつ、釈尊寺・布引観音をお参りすのも、大人散策の楽しみ方の1つだと思った次第です。
【釈尊寺・布引観音を大人散策】
釈尊寺・布引観音の基本情報を大分抑えた所で、実際の大人散策情報を以下に記載いたします。以下にいくつか見所を絞って記載いたしますので、大人散策の参考になさってください。
・駐車場からスタートし、観音堂まで20-30分程度の山道
釈尊寺・布引観音の麓には、それなりのスペースを確保した駐車場があります。道の反対側は千曲川が流れており、20台程度は駐車可能だと思います。駐車場の真ん中には、大きな岩と看板があり、その看板には、観音堂への簡単なマップと共に、観音堂まで20分程徒歩でかかる旨、記載されています。駐車場の山側には、階段があり、ここからスタートします。
序盤は道の幅もそれなりにあり、階段もしっかりしているので、ゆったりと散策を開始できます。今回参らせて頂いたのは、9月の後半の小雨交じりの曇りの日。新鮮な空気の緑の中を心穏やかに進む事が出来ました。
しかし徐々に、斜面は急になり、道その物は山道の様になってきます。谷の様な道を進むので、所々ぬかるんだ場所もあり、若干ですが注意が必要です。しかし、神聖な空気を感じつつ、水の綺麗さもあるのでしょうか、沢蟹も時より目にする事が出来、様々な石像・奇岩・滝も目にする事が出来ますので、ゆっくりと楽しみながら、そして足元に気を付けながら進むのが、大人散策には良いと思われます。
そして終盤戦になると、門の様な建造物が現れ、その先に社殿に続く階段が目に飛び込んできます。この階段を登り切り、振り向くと、左側に社殿、その奥の断崖絶壁に、朱色の観音堂が目に飛び込んできます。まずは社殿の前でご挨拶し、更に観音堂に続く道は、岩をくりぬいたトンネルの参道となっており、その岩のトンネルをくぐれば、観音堂に到着です。
・見所①:石像
麓からの参道には、所々に石像があります。一つ一つの石像が、神聖な場所である事を感じさせてくれるものです。山道を登り切った、観音堂に続く参道には、上記「牛に引かれて善光寺参り」の話からでしょうが、牛の石像も見る事が出来ます。
・見所②:滝
流れその物は、所々でしか見えません。しかし、滝を所々で見る事が出来ます。急な山道の大人散策において、清涼感を与えてくれるものです。大きな岩々とセットで鑑賞できるのも、ポイントの1つです。
(最後の1枚、巨人がお風呂に浸かっている様に見えませんか?)
・見所③:巨岩・奇岩・洞窟
道々で、大きな岩を見る事が出来、その大きさに圧倒されます。岩々の近く行くと、内部まで見える所もあります。善光寺穴(善光寺まで穴が通じていると言われている)と呼ばれる場所もあり、若干きつめの山道も楽しみながら進む事が出来ます。
・見所④:岩と調和する建物と圧巻の参道
山道を登り切り、社殿から観音堂へ続く道も見所の一つで、観音堂もそうですが、岩をくりぬいて様々な建物が作られている事をご理解頂けると思います。また、岩をくりぬいたトンネルは圧巻で、これらの人工物を拝見していると、これらにかかわった方々の信仰心の深さを肌で感じる事が出来ると思います。
・見所⑤:観音堂
やはり最後の見所は観音堂。実際に脚を運び、観音堂からの周囲を見回すと、その眺めに感動を覚えると思います。また、観音堂その物も立派な建造物で、苦労して、心を込めてこの地に観音堂を築いた事、理解できると思います。ちょっと距離を持って社殿前から見える、朱色の観音堂のお姿も格別で、周囲の自然とのコントラストと共にお楽しみ下さい。
【最後に】
以上が、長野県小諸市にある「釈尊寺・布引観音」の大人散策情報になります。
麓の駐車場から山道を20-30分かけ、道中、石像や巨岩/奇岩・滝と言った自然を楽しみつつ登り、その先に、圧巻の観音堂を見る事が出来るのが「釈尊寺・布引観音」です。大人散策には持ってこいのスポットだと思いますので、小諸やその周辺地域にいらっしゃった際は、是非脚を伸ばしてみてはいかがでしょうか?
また追加の情報として、この釈尊寺・布引観音から、千曲川に沿って上流に登って行った、車で数分、距離にして1㎞強くらいの所に、武田信繁のお墓と伝わる場所があります。武田信繁は、武田信玄の異母弟で、山本勘助と共に、第4次川中島合戦で討ち死にした武田側を代表する武将の一人です。人望のある武将であった様で、武田家の家臣であった真田昌幸は、後に生まれた次男に信繁と名付けたとの話も伝わっている様です(後に歌舞伎の演目で、徳川対策として「幸村」と言われ、その名が有名になっていますが、生前、幸村と名乗った事は無く、信繁が正しい認識ですが、人物としては、信繁=幸村という理解で良いと思います)。別記事で紹介しておりますが、真田氏が築城した上田城も含め、山本勘助が縄張りしたと伝わる小諸城と共に、歴史好きの方は、この周辺を回ってみてはいかがでしょうか?