【はじめに】
こちらのページでは、「川越の由来になった地域とも言われる『的場』(上戸地域もですが…)にあった『的場八景』につき『判明したそれぞれのスポット』や『それぞれの現在の状況』を共有」させて頂きます。
初めて「的場八景」なるワードを目にしたのは、2021年の年末位の事。別記事で紹介させて頂きました「鎌倉街道上道の枝道と目される堀兼道(≒東山道武蔵路?)」の痕跡を求めて大人散策をしている際の事でした。手作りの看板に「的場八景ノ一 蟹ヶ淵」と記載があったので少し寄り道する感じで参らせて頂くと、僅かな段差のある地形に木々があり「昔は綺麗な湧水が沸いて、子供たちに親しまれた場所」との説明看板がありました。その時は、「そーなんだー」と思いつつ、本来の目的であった『「鎌倉街道上道の枝道と目される堀兼道(≒東山道武蔵路)」の痕跡を求めての大人散策』に戻ったのですが、それ以来「的場八景ってなんだ?」、「『八景』と言うくらいだから、他7つのスポットがあると言う事?」等の思いがずっとくすぶっており、ご近所と言えばご近所なので、近くを通るたびに(とは言っても片手の指の数位ですが…)、寄り道していた次第です。
そもそも「八景」とは何かをWikipedia で調べてみますと以下の様にあります。
八景(はっけい)とは、ある地域における八つの優れた風景を選ぶ、風景評価の様式。10世紀に北宋で選ばれた瀟湘八景がモデルとなり、影響を受けた台湾、朝鮮、日本など東アジア各地で八景が選定されてきた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/八景
つまり、「川越の的場地域における優れた景観が8つ選ばれ、そのうちの一つが『蟹ヶ淵』であった」と理解させて頂いた次第です。もっと言ってしまうと、別記事で記載しました通り、上戸も含むこの的場地域は、入間郡家が置かれ、東山道武蔵路が通り、河越氏の館もあった「川越の由来が詰まった地域」と認識しており、「伊勢物語」にも「入間の郡三芳野の里」として登場する地域の理解。『その的場地域における「選ばれし “8つ” のスポット」ってどこなんだ?』と思いつつ数年経過していたと言う事です。
的場・上戸近辺の地形図(地理院の地図より自身で加工)
こちらのページでは、そんな「川越の由来になった地域とも言われる『的場』(上戸地域もですが…)にあった『的場八景』につき『判明したそれぞれのスポット』や『それぞれの現在の状況』を共有」させて頂きます。
【「的場八景」とはどこの事?】
上記の通り、少しモヤモヤ感を感じつつ、数年がたったある日(2024年4月位)、近所と言えば近所になるこの地域を大人散策し、いつもの様に寄り道するとBOXが設置されており「写真の様なパンフレット?的な書類」が設置されておりました。そちらに記載により「的場八景」が何処を指すのか判明した次第です。そのまま記載しますと、以下の様になります。
- 若宮八幡宮と蟹ヶ淵
- 三芳野天満宮の参道
- 初雁塚(浅間様)
- 初雁の池より上戸城跡遠望
- 駒形の一本松
- 厳島神社(弁天様)
- 的塚(御嶽神社)
- 法成寺山門
また、「的場八景とは、大正初期御大典記念の行事の一つとして、当時の霞が関村の青年団が、『古くは源氏の主戦力として平家を追討また元寇の役には蒙古軍を撃退した武蔵の坂東武者を育て培った郷土の遺跡を後世に伝えよう』と絵落書八枚に作成したもの」と言う記載もあります。
併せて理解すると「的場八景は、大正期の初めに、地元の青年団が大正天皇の即位を記念して(理由付けにして?)、地域の誇れる(誇りたい)スポットを『的場八景』として “8つ” 選び、絵葉書と言う形で残したもの」と理解した次第です。上記選出された8つのスポットは、想像しなけれればならないスポットもありますが、どれも存じ上げている(想像した事のある)スポットで「知らず知らずの内に、8つ制覇していた…」、「確かにどれも的場を代表するスポットなんだろうけど、現在では川越地方で現存する最大級の前方後円墳の牛塚古墳は選出されなかったのね…」と言った感想を持た次第です…。
【「的場八景」の今の姿は? ⇒ 的場八景を大人散策!】
上記の過程で、数年のモヤモヤの後、判明した「的場八景」の「それぞれの場所(推定地含む)」と「現在の状況」を以下に共有致します。
■若宮八幡宮と蟹ヶ淵
「若宮八幡宮」は、東山道武蔵路の駅があった場所とも言われ(現在の社殿は少し南に移転したらしいですが…)、川越の的場地域が、川越のかつての中心であった可能性を示す1つのポイントと理解しております。また、ここ若宮八幡宮より、直線距離で南東300mほどの場所に、初めて「的場八景」なるワードに出会った「蟹ヶ淵」があります。かつては水が湧き出し、子供たちの遊び場であったと同時に、貴重な農業用水の源でもあったようで、現在では有志の方々のご尽力により、整備された空間になっております。そんな地元の方々のご尽力に感謝しつつ、拝見し、昔に思いを馳せるべきスポットだと思った次第です。
■三芳野天満宮の参道
三芳野天満宮と言うと、現代の私達は「川越城本丸御殿の目の前にある(童謡「通りゃんせ」発祥の地とも言われる)三芳野神社」を連想してしまいますが、元々三芳野神社は、今はその痕跡を見る事も出来ない「的場の三芳野塚の麓にあった」と言われている様です。
現在、法成寺のお隣にある「三芳野天神社」の説明文から理解しますと、「①元々三芳野塚の麓に天神社はあった、②ご神体が川越城内に移動@中世(現在の川越城本丸御殿前にある三芳野神社?)、③江戸期の初めに現在の『的場にある三芳野天神社』にご神体が再度移された」と理解した次第です。つまり、「的場八景」が選定されたのは、大正期の初めとの情報と併せて理解すると、ここで言う「三芳野天満宮の参道」とは、「三芳野塚の事ではなく、現在の三芳野天神社の事と理解して良い」と思った次第です(三芳野塚推定値と現三芳野天神社の位置関係は、最下部の地図をご参照ください)。
■初雁塚(浅間様)
本ブログ別記事で、的場・上戸地域を記載した記事、並びに川越の古墳を紹介した記事でも取り上げさせて頂きましたが、現在川越に現存するこの地方最大級の古墳・牛塚古墳のすぐ近くに、初雁塚(浅間塚)はあります。本当にすぐ近くなので、牛塚古墳と併せて見学する事をお勧めします。
■初雁の池より上戸城跡遠望
初雁橋の近くにある霞ヶ関東小学校の敷地内には「三芳野里旧跡之碑」があり、この付近(恐らく、霞ヶ関東小学校/中学校・東京国際大学第2キャンパス・川越日高線(道路)の辺り?)には、初雁池があったと言われている様で、現代の地形図を見てもその様に推察されます。現在では、川越線・多くの住宅により、上戸城跡(=河越氏館跡の理解)は全く見えませんが、大正期には遠望出来たかと思うと、時代の流れを感じずにはいられないスポットだと思います。
■駒形の一本松
上記の初雁池があったと思われる霞ヶ関東小学校のすぐ近く、入間川を渡る橋・初雁橋の袂(左岸)に「駒形の一本松」とそれを示す石碑があります。「新田義貞が馬をつないだ松」と言う事らしく「駒つなぎの松」とも呼ばれているそうです。まあ、当時の松ではないでしょうし、2代目か、3代目か、それ以上か分かるはずもありませんが、その言い伝えや歴史を残して行くことは重要だと思った次第です…。
■厳島神社(弁天様)
上記、蟹ヶ淵付近を流れる(農業用?)用水路の下流にあります。現在では「駐車場の脇にある祠」といった感じですが、周囲には緑や畑・田園も多く「かつての的場」の雰囲気を感じられるスポットだと思って折ります。
■的塚(御嶽神社)
上記の初雁塚(浅間塚)同様、川越の古墳・塚を紹介する記事でも取り上げさせて頂きました「的塚(御嶽神社)」は、現在では、交差点の傍らにひっそりとある塚で、前の道の車通りは多いと思いますが、実際に中に入った事がある方は少ないのではないかと思います。入口の門が少々手入れが行き届いておらず、内部では狭さも感じるかもしれませんが、その空間にお邪魔すると信仰心がしっかりと感じられます。
■法成寺山門
法成寺は、上記、三芳野天神社のお隣にある寺院です。と言うより、「法成寺の境内に三芳野天神社があるといった印象」を持っております。この付近は、法成寺・三芳野天神社・的塚(御嶽神社)に加え、この地に古くからあると思われる家系の大きな家もあり「元々の的場の中心だったんだろう…」と思える場所です。そこにある法成寺の山門は、「的場八景」には入れない訳に行かないスポットだろうと思った次第で、現在の山門・本殿も中々の雰囲気です。
【最後に】
以上が、「川越の由来になった地域とも言われる『的場』(上戸地域もですが…)にあった『的場八景』につき『判明したそれぞれのスポット』や『それぞれの現在の状況』を共有」させて頂いた内容になります。
長年モヤモヤしていた「的場八景」ですが、「何処を指し、現在はどうなっているのか?」をある程度理解でき、かなりすっきりした次第です。本ブログ別記事でも記載しました通り、この的場(上戸も含みますが…)元祖川越(河越)と言って良い地だと思って折り、その地域における「八景」を抑える事が出来た事は、川越市民として有意義だと思いました。大正期に設定したとの事で、当時とはかなり状況も違うでしょうが、それも歴史の一部。そこを踏まえつつ、現在ある姿の「的場八景」を皆様も大人散策してみてはいかがでしょうか?