上野公園

【はじめに】

こちらのページでは、上野公園における日本史を Key にした、大人散策情報を記載させて頂こう思います。言い換えますと、本ブログ別記事で記載いたしました「上野公園の大人散策情報(サマリ版)」にて、「①上野公園で神社仏閣巡り 」、「②日本史の視点で楽しむ上野公園」、「③様々な切り口で上野公園を(で)楽しむ (文化 / 芸術 / レクレーション等を楽しむ) 」と言った内容で記載させて頂きましたが、こちらのページでは、②日本史の視点で楽しむ上野公園」についての詳細版の位置づけになります。

元々上野公園は、寛永寺の敷地内で、江戸から明治に移る時代の中で、戊辰戦争の1つと言われる「上野戦争」が起こり、焼け野原になってしまった経緯があります。その後、公園として活用された歴史があると言う事ですが、上野公園は、上記の通りで、本ブログ別記事で紹介している上野戦争の舞台。歴史好きの私達夫婦にとっては、その戦いが行われた痕跡を辿ることが出来る場所と言う事です。

また寛永寺は、増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺。一般の方のお墓もあるので、中々足を踏み入れる訳にはいかない部分もありますが、一般道から歴代徳川将軍の霊廟の一部も見る事が出来るこのエリアは、日本の歴史、取分け江戸・明治期の日本の歴史に思いを馳せる事が出来る大人散策スポットだと思っている次第です。

以下、その中心となる上野戦争 / 寛永寺(歴史的な側面を中心)の概要を抑えた上で、詳細の大人散策情報を記載させて頂きますので、皆様の「大人散策・上野公園/日本史バージョン」の参考になれば幸いです。

【上野戦争 / 寛永寺の概要】

まずは、「大人散策・上野公園/日本史バージョン」の Key となる「上野戦争寛永寺(歴史的な側面を中心)の概要」から抑えさせて頂きます。

■上野戦争の概要

早速ですが、上野戦争に関し、Wikipedia の力を借り、調べてみますと、以下の様にあります(サマリで引用の後にまとめていますので、読み飛ばして頂いても大丈夫です)。

上野戦争(うえのせんそう、慶応4年5月15日〈1868年7月4日〉)は、戊辰戦争の戦闘の1つ江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。

背景
(略) 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立博物館)に集結して、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立した (略)
大総督府は寛永寺の旧幕府軍を討伐することを正式に決め、翌日の戦火に備えて徳川家達に徳川家の位牌や宝物などを寛永寺から避難させるように命じた。また、輪王寺宮には寛永寺からの速やかな退去を勧めた (略)

経過
新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという (略) 軍事的反抗を行う旧幕府勢力には妥協せず徹底的に殲滅するのが当時の新政府軍の方針であり、その方針は続く会津戦争で遺憾なく発揮されたからである (略)
新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。
戦闘中に江戸城内にいた大村が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も大村の予測通りであったとされる (略) 
戦闘の際生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。戦闘が行われた黒門は荒川区の円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/上野戦争

本ブログ別記事でも、孫子の教え「囲師には必ずかく」の例として記載しましたが、新政府軍は、大村益次郎が全体の指揮を執り、寛永寺に立てこもる旧幕府軍(彰義隊)を、南(黒門跡;薩摩軍)・西(東大の敷地内;アームストロング砲等)・北西(団子坂)・北(谷中)と言った各方面から攻めたようです。一方の旧幕府軍(彰義隊)は、当初、現・上野東照宮付近に本陣を置き、現・西郷像の付近から応射するも、薩摩軍に黒門を突破され、現・根本中堂跡(スターバックス)付近まで退却するが、団子坂・谷中方面の北西から更なる攻撃を受け、北東(根岸方面=鶯谷駅方面)に撤退していった戦いが「上野戦争」で、1日で決着がついた戦いであったと理解できます。

寛永寺(歴史的な側面を中心)の概要

上野戦争と同じく、寛永寺に関し、Wikipedia の力を借り、調べてみますと、以下の様にあります(歴史的な側面を中心に… (寛永寺の遺構的な側面を中心とした内容は別記事参照)。

(略) 寛永寺と増上寺
近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/寛永寺

個人的な印象としては、「徳川将軍の菩提寺=増上寺」のイメージを持ってしまいますが、知識としては「徳川将軍家の菩提寺=増上寺 & 寛永寺」と言う事は理解できます。事実、寛永寺には、最下部の地図に示す通り、歴代将軍とその正室の霊廟もあります。江戸期を治めた徳川将軍の約半分がこちらで眠っていると思うと、その歴史に思いを馳せてしまいます。

【日本史の視点で楽しむ上野公園】

上記上野戦争寛永寺(歴史的側面を中心)の概要を抑えさせて頂きましたので、以下に実際の散策スポットを記載いたします。尚記載に当たっては、大人散策コースの順番に沿って記載し、併せて「①上野戦争の痕跡」、「② 徳川将軍家の菩提寺として寛永寺」、「③ その他」と言った感じで記載いたしますので、予めご了承ください。また、寛永寺の歴代将軍の墓所は、一般の方も眠る墓地の中ですので、その墓地には足を踏み入れる事なく、一般道から見える霊廟のみとさせて頂きましたので、それぞれの墓所は地図上の位置関係の把握のみにさせて頂きます。最下部の地図と共にご参照頂けますと幸いです(歴史/日本史の関連は「赤茶色の★/🔶(寛永寺関連)(一部橙色の🔶黄色の✪(今回の散策のスコープ外)」を参照)。

‐ 黒門跡・西郷さんの像・彰義隊戦死者の碑・清水観音堂 (①上野戦争の痕跡)

西郷が率いる薩摩軍が突破した場所が、現在の黒門跡にあります。上野駅から最も近い上野公園の入口の一つになる認識です。その黒門跡から階段を北に登ると、上野公園で御馴染みの西郷さんの像が見えてきます。ここは、清水観音堂の舞台までいくとアームストロング砲が放たれた方面の不忍池との高低差を理解できますが、彰義隊が、新政府軍の攻撃に応射したと言われる場所付近です。また、西郷さんの像のすぐ北側には、彰義隊戦死者のお墓があります。黒門を攻めた西郷さんの背後に彰義隊のお墓とは、なんとも因果な感じのする配置ですが、彰義隊の思い、西郷さんの生涯に思いを馳せつつ、手を合わせるべきスポットだと思います。

博士王仁碑・天海僧正毛髪塔・摺鉢山古墳・正岡子規記念球場・野口英世像・小松宮彰仁親王銅像 (その他)

清水観音堂すぐ西側から、博士王仁碑・天海僧正毛髪塔・摺鉢山古墳・正岡子規記念球場・小松宮彰仁親王銅像と言ったスポット続けて見学する事が出来ます。「王仁:日本に『論語』を伝えた百済の人」、「天海僧正川越喜多院の中興の祖とも言われ、寛永寺とも縁の深い僧」、「摺鉢山古墳:上野公園内にある前方後円墳(古墳)」、「正岡子規:明治期の日本を代表する俳人で、野球が日本に伝わった頃は実際に愛好家でもあった野球好きな俳人(上野公園内で野球を楽しんでいたらしい…)」、「野口英世:主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られ、黄熱病の研究中に自身も感染し死去してしまった医師/細菌学者」「小松宮彰仁親王:陸軍大将を務めた軍事であり、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁も務めた皇族」といった日本の歴史における重要な方々のスポットですので、回ってみてください。

上野東照宮寛永寺根本中堂跡 (①上野戦争の痕跡)

小松宮彰仁親王銅像の西側には、彰義隊の本陣が最初に置かれたと言われる「上野東照宮」があります上野戦争の痕跡として巡るのも良いですが、徳川家康・吉宗・慶喜を祭る神社ですので、徳川幕府・江戸時代に思いを馳せるべきスポットだとも思った次第です。また、別記事で触れておりますが、建造物としての価値もかなりの物ですので、併せてご見学ください

そして、小松宮彰仁親王銅像の北側には、戦況が不利になり始めた彰義隊が本陣を移したと言われる「寛永寺根本中堂跡」があります。勝手な妄想かもしれませんが、上野東照宮からさほど距離は離れていないので、「彰義隊は、当初上野東照宮に本陣を置くいたが、劣勢になるにつれ、主家の徳川ゆかりの神社が戦火に巻き込まれる事を恐れ、本陣を移したのでないか…」とも想像してしまった次第です。

– 上野戦争記碑(現寛永寺根本中堂)・常憲院(5代綱吉)/厳有院(4代家綱)霊廟勅額門・信濃/屏風坂(彰義隊退却路?) (①上野戦争の痕跡・③徳川将軍家菩提寺としての寛永寺)

寛永寺根本中堂跡から少々ありますが、北西方向に進むと、現在の寛永寺があります現在拝見できる寛永寺の本堂(根本中堂)は、明治期に川越喜多院から(恐らく新河岸川の舟運を利用して)移築された建物との事で、かなり立派な建物で、そこそこ広い境内に思えますが、江戸期の敷地を考えると、比べ程がないかなりの小規模。そんな歴史の移ろいを感じつつの散策は、正に大人散策だと思いますので、境内の上野戦争の碑と共にその歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

また、現在の寛永寺を(裏口的な)北東側の出入口から失礼すると、いくつかの徳川将軍の霊廟を、一般道からも拝見する事が出来ます(墓地内の徳川将軍の霊廟は、墓地内と言う事で、お参りしておりません為マップ上の位置関係のみ)。また、東京国立博物館の北東の角まで来たらそのまま道なりに進むと、東側は傾斜(崖)になっている事が理解できます。現在となっては、想像の域は出ませんが、江戸期の古地図を拝見すると、現在の北東(鶯谷駅)方面に伸びる道は、江戸期にはなかった様ですが、この付近に信濃坂・屏風坂と言う道がある様なので、「ここの辺りが大村益次郎の用意した退却路になり、彰義隊はこの付近から崖を降り、北東方面敗走していったのかな?」と思った次第です。

【最後に】

以上が、上野公園における日本史を Key にした、大人散策情報を記載させて頂いた内容になります(=「日本史の視点で楽しむ上野公園 」についての詳細版)

個人的には、「江戸時代を治めた徳川(将軍家)の歴史」と「江戸から明治に移る時代(上野戦争)」に思いを馳せる事がスポットが、周辺を含め上野公園には多くあると、改めて思った次第ですが、皆様はどの様にお感じになられましたでしょうか?(+α のスポットも簡単にご紹介致しましたが…)

以下地図は、別記事で紹介中の①上野公園で神社仏閣巡り」、「③様々な切り口で上野公園を(で)楽しむ (文化 / 芸術 / レクレーション等を楽しむ)等も含んでおりますので、皆様のニーズに合わせてご活用いただき、大人散策を楽しんで頂ければ幸いと思って折ります!

 

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