【はじめに】
本日は、入間川両岸の狭山市・入間市の大人散策・ポタリングスポットを紹介します。この地域は、入間川の河岸段丘によって、低地と台地がはっきり分かれており、地形的にも面白いのですが、様々な時代を感じる事が出来るスポットがあり、歴史的にも魅力のあるエリアです。
若干マイナーな感じもしますが、川越に近いエリアと言う事もあり、また入間市にお気に入りのレストラン(料亭?、うなぎ屋さん?)、”魚いち”、もある事から、私達夫婦が良く散策・ポタリングをするエリアでもあります。そんな若干マイナーながら、魅力的なスポットをいくつか紹介致します。ルートとしても見て頂ければ、ポタリング・散策の計画にもお役立ち出来るかもしれませんで、以下ご参照ください。
【狭山市・入間市のポタリング・散策スポット(ルート)】
①城山砦跡
こちらもは、河越夜戦の城跡・陣屋跡散策の別記事で取り上げさせて頂きましたが、河越夜戦の舞台の一つになったと伝わる城(陣屋)跡と言われている場所です。狭山市のホームページによると、以下の様な記載があります。
”柏原にあります「城山砦跡(しろやまとりであと)」は、別名「上杉砦(うえすぎとりで)」とも呼ばれ戦国時代の砦跡だといわれております。その昔、天文14年(1545)、扇ヶ谷上杉朝定・山ノ内上杉憲政・古賀清氏こがはるうじとの連合軍8万余騎が北条綱成つなしげの守る川越城を攻めました。そのとき川越城は、わずか3千の兵でしたが、北条軍はよくはげましあって戦い、簡単には落城しませんでした。(籠城半年にもおよんだといわれています。)
やがて、天文15年(1546)、川越城を助けるため北条氏康軍(早雲の孫)が駿河(静岡県)より8千余騎でもって、夜をさいわいにと猛攻撃をかけ、油断していた8万余騎の連合軍をみごと打ち破りました。10倍近い大軍を負かしたということから、後の世まで 『川越夜戦(かわごえやせん)』といわれ語り伝えられています。この時、上杉憲政などが陣をはったところが、柏原の城山であったといわれております。また、鎌倉時代の武将柏原太郎の館跡やかたあとではないかとの説もあります”。
https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/minwa_densyo/kasiwabara_chiku/siroyamanohanasi.html
(写真は、自身で撮影した物)
山ノ内上杉氏の陣屋あとと伝わる場所の様ですが、こちらは、陣屋跡の遺構をよく確認できます。土塁跡も残っており、城跡好きには、それなりに興味深いスポットだと思います。河越夜戦は、地元と言う事もあり、思い入れの深い戦いで、別記事にて個人的な勝手な考察(仮説)を記載しておりますので、併せてご参照頂き、現地のフィールドワークのお供にして頂ければ幸いです。
②九頭竜大権現 (石碑)
「九頭竜」とWikipediaで調べてみると、「九頭竜伝承」と言う項目があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/九頭竜伝承)、日本各地にその伝承が残っているようです。九頭竜は、川の流れをイメージ化した物と認識しており、急流の川の多い日本において、洪水等の被害を治める為の信仰の形と理解してよいのでないかと思います。狭山市のホームページには、以下の様に記載されていました。
”この石塔は入間川の堤防に沿った下奥富に祭まつられており、嘉永3年(1850)12月に造立されたものです。九頭龍くずりゅうとは、洪水のときの河川の荒れ狂う様子を九頭の龍の姿に見立てたものと考えられ、ここに九頭龍大権現を祭ったのは入間川の水の猛威を鎮しずめ、田畑を洪水から守ることを祈ってのことと考えられます。なお、九頭龍信仰のもとは、長野県の戸隠とがくし神社奥社の九頭龍大権現と考えられ、古くから豊作をもたらす神として信じられてきました”。
https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/sekibutu/okutomi_chiku/kuzuryu.html
ちなみに、この九頭竜大権現の石碑、上記の城山砦跡と下記の三ツ木公園を直線で結んだ、ほぼその線上に位置しております。近くには、「郷愁を誘う橋でも紹介させて頂きました、『くずはき橋 (現いるまがわ大橋)』」もあるので、昔も今もこの辺りで、入間川を渡っていたと言う事でしょうか? また、近くには、別記事で紹介しました、桜や「はなもも」の綺麗な、下奥富河川敷公園もありますので、併せてポタリング・散策してみては、いかがでしょうか?
③三ツ木公園(三ツ木原古戦場)
こちらの公園には、「三ツ木原古戦場」と言われているようで、新田義貞が鎌倉を攻めた時(1333年)、北条氏綱が川越城を奪った時(1537年)の戦場と言われており、写真の通り、古戦場の碑があります。狭山市のホームページ(https://www.city.sayama.saitama.jp/shisei/kouhou/koho/sayamanofuukei/shinsayama/fuukei09.html)には、新田義貞の事についてのみ触れられ、現地の説明文には、新田義貞の事も触れていますが、メインは有名な河越夜戦の原因となった、北条氏綱が、扇谷上杉氏の朝定より河越城を奪った戦を記載しています。上記、①の城山砦でも、別記事でも記載していますが、個人的には、日本三大奇襲の1つ、河越夜戦の際、北条氏康はこの付近に陣取ったと思っており、戦国時代、関東の派遣を争った、最前線の地だと言って良い場所の認識です。
④七曲井
西武新宿線の入曽駅近くにある「七曲井」は、狭山市のホームページ(https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/siteibunkazai/nanamagari.html)によると、「古代の井戸」だそうです。すり鉢のような形に堀った、その下に井戸があります。人間水がないと生きていけないので、これだけの労力をかけてでも、掘ったんだろうと、感心してしまうほどの物でした。
⑤稲荷山公園
西武池袋線の稲荷山公園駅のすぐ近くにあります。Wikipediaによりますと、以下の様にあります。
”(略) 戦後米軍が使用していたジョンソン空軍基地(現 航空自衛隊入間基地)の一部が返還されたもの。1945年(昭和20年)、米軍がこの地を接収した際、基地内の公園として整備したもので、米軍管理下の時代には「ハイドパーク」(Hyde Park)という英語名があり、返還後も周辺住民には長く同名で呼ばれていた。(略) 造成がアメリカ人の主導によって行われたため、今でもアメリカの公園のような雰囲気を持つ”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/狭山稲荷山公園
確かに、日本の公園とは一味違た感じで、広々とした印象があり、雰囲気的には、別記事で紹介した、札幌の真駒内公園のような印象も持ちました。また、公園の中には、レンガで作られた、古いバーべキュウコンロの様な物があり、「昔、米軍関係者の住居があった頃、ここでバーべキュウをして楽しんだのかな?」と勝手な想像をしてしまいました。ここは、その昔小規模ながら古墳があった場所の様ですが、一見、公園内にある谷のような場所が、土塁にも見えますし、入間川方面から公園に入るウッドデッキの道は、竪堀の様にも見え、個人的には、城か陣屋があったのでないかとも思いました。
⑥自衛隊入間基地の飛行機
稲荷山公園から、彩の森公園へ向かう途中に、写真の飛行機を見る事が出来ます。さすが、自衛隊入間基地。中々カッコいいです!
⑦彩の森入間公園
こちらの公園、彩の森入間公園も、稲荷山公園同様、札幌の真駒内公園と川越の水上公園を足して、2で割ったような、異国情緒を感じる公園でした。Wikipediaによると、以下の様にあります。
”1973年に米軍のジョンソン基地が返還され(現在も一部には航空自衛隊入間基地がある)、防災拠点として1998年に公園が開園した”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/彩の森入間公園
参らせて頂いたタイミングは、非常に紅葉が綺麗で、秋の大人散策コースの定番になりそうな予感がしました。
⑧ジョンソンタウン
昔から存在は認識しておりましたが、参らせて頂いた事がなく、上記「彩の森入間公園」に参ったタイミングで、すぐに目の前の近い場所だったので、参らせて頂きました。正直あまり期待していなかったのですが、非常に雰囲気が良く、今のアメリカよりも、アメリカの雰囲気を出しているエリアだと思いました。今回は、訪れた時間が遅かったので、街の中を散策するだけで終わってしまいましたが、ショップやレストランもあり、「次回はちゃんと時間を取ってきたいな」と思える場所でした。
⑧旧石川組製糸西洋館
さほど大きい訳ではありませんが、かなり立派な洋館で、テレビドラマの撮影でもよく利用されている様です。入間市のホームページ(http://www.city.iruma.saitama.jp/event/bunkazai/seiyokan_sekai.html)によると、機械製糸により成功を収めた、石川氏が、大正時代に ”迎賓館” として建てた建物との事です。本ブログ別記事で紹介しました、入間市の料亭(うなぎ屋さん)、”魚いち”、の直ぐ近くですので、併せて訪れてみてはいかがでしょうか?
⑨武蔵豊岡教会
国道16号が拡幅するのに伴い、曳家で今の場所に移った教会との事で、上記の旧石川組製糸西洋館と同時代の大正時代の建物らしく、外観は真新しいのですが、内部は昔と変わらない状態で、現役の教会との事です。旧石川組製糸西洋館と16号を挟んだ反対側にあり、非常に近いので、洋館・教会・料亭(魚いち)のセットでめぐってみてはいかがでしょうか?
⑩万世橋
本ブログの別記事で、「郷愁を誘う橋」をいくつかご紹介させて頂きましたが、エリアが違いますが、霞川にかかるこの橋(=萬世橋)も、同じく懐かしさを感じる橋です。
⑪万世橋の西側の高台
上記、武蔵豊岡教会方面から、万世橋を渡り、西武池袋線をくぐったすぐ右に、斜面を登る階段が出てきます。かなりの急勾配ですが、写真の通り、階段を登り切った所からの景色は抜群で、西武池袋線の電車が眼下を走っていくのも絵になりますし、入間川の河岸段丘をしっかり確認する事が出来ます。
⑫影隠地蔵/清水八幡神社(入間川をはさんで少し離れますが…)
こちらの「影隠地蔵」の由来は、狭山市のホームページによると、以下の様にあります。
”源義仲の嫡男で頼朝よりともの娘婿となった清水冠者義高が、実父の死をきっかけに頼朝から追われる身となったとき、難を避ける目的で一時的に地蔵の背後にその姿を隠したため”、
https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/siteibunkazai/kagekakusijizou.html
結局、義高は殺されてしまう訳ですが、義高は、父・義仲と縁の深い現在の嵐山町(別記事で紹介中)を目指し、この鎌倉街道を進もうとしていたのだろうと、そんな鎌倉時代の歴史を感じる事の出来るスポットです。
また、その義高を悼んで、当時地元の方が埋葬されたとの事で、義高を祭神とする神社・「清水八幡神社」が、入間川の対岸にあり、入間川の河川敷では、5月の端午の節句では、「義高の鯉のぼり」と言う事で、多くの鯉のぼりを見る事が出来ます。尚、清水八幡神社に関しては、狭山市のホームページによると、以下の様にあります。
”入間川3丁目にある清水八幡は、清水冠者義高(しみずのかじゃよしたか)を祭神とする神社です。ここに同社があるのは、元暦元年(1184)4月、源頼朝みなもとのよりともが放った追手により「入間河原いるまがわら」で討たれた義高の死を悲しんだ入間川の里人が、その遺骸いがいを埋めて墓を築いたためです。(略) 入間川3丁目の八幡神社所蔵の『八幡神社縁起』によると、義高の死を哀れんだ北条政子ほうじょうまさこが手厚く保護したためで、立派な社殿が築かれましたが、応永9年(1402)に起こった入間川の洪水ですべてが押し流されてしまい、その後は成円寺じょうえんじ(江戸時代まで旧中央公民館の場所にあった寺院)に移されたとあります。”
https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/siteibunkazai/simizuhatiman.html
ちなみに散策情報として、影隠地蔵がある坂を、”信濃坂”といい、入間川方面に坂を下って進むと、すぐに”奥州道”と言う、交差点が出てきます。つまり、「入間方面からこの鎌倉街道を進むと、奥州道の交差点のすぐ先に信濃坂になり、そこに影隠地蔵様がいらっしゃる」と言う事で、なんだかややこしくなっています。
この鎌倉街道の上道は、上野、信濃方面に向かう道と理解しているので、「信濃坂」はまだ理解できますが、「奥州道」は、理解に苦しみます・・・。確かに、江戸時代であれば、信濃坂を登ってしばらく進み、智光山公園(別記事で紹介中)を越えてすぐに、日光街道の脇往還(別記事で紹介中)にぶつかるので、日光方面から奥州方面に行ける感じはしますが・・・。それとも鎌倉時代から、 日光脇往還 の名前は無くても、道その物は存在していたと言う事でしょうか?
【最後に】
上記、12のスポットをご紹介させて頂きましたが、古代、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、大正、昭和、現代とそれぞれに思いをはせる事の出来るエリアだと思った次第です。また、街道の切り口でも楽しめそうなエリアで、お腹がすいたら、おすすめの大人レストラン、魚いち、で懐石とウナギを楽しむ事が可能な場所です。そんな、狭山・入間近辺の大人ポタリング・散策皆様も楽しんでみては、いかがでしょうか?
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!