甲府駅前武田信玄公像

【はじめに】

突然ですが、御旗楯無もご照覧あれ」ってご存じですか? 聞いた事ありますか?

私が初めてこの言葉を耳にしたのは、小学生の頃。はっきり言って、全く意味が分かりませんでしたが、「このフレーズカッコいい!」と思った事だけは、鮮明に覚えています。「みはたたてなしもごしょうらんあれ」、それからウン十年たち、今聞いても、カッコいいと思うのは、私だけではないと思います。特に、中井貴一さんが武田信玄を演じて下さった際に、このフレーズをおっしゃった場面は、その映像と共に、私の記憶に残っています

でも、「御旗楯無もご照覧あれ」ってどういった意味なのでしょうか? 初めてこのフレーズを聞いてからウン十年。改めてこのフレーズの意味する所を、表面的な理解だけでは無く、今少しだけ深堀して考察しようと思いましたので、以下ご参照頂けますと幸いです

【「御旗」とは? 「楯無」とは?】

そもそも、「御旗楯無もご照覧あれ」の「御旗」、「楯無」とは一体何でしょうか?

まずは、「御旗」から。信頼できる、Wikipediaを調べてみました。現在その「御旗」を所蔵する、雲峰寺のページとともに、以下の様にあります。

(略) 御旗:天正10年(1582年)に武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで滅亡した時、武田家の家宝である 「日の丸の御旗」、「孫子の旗」、「諏訪神号旗」、「馬標旗」(武田家の末裔と言われた三菱創業の岩崎彌太郎の家紋「三階菱」の元になったと言われる)などを山伝いに運んだとされる。現在も6旒保存され(山梨県指定文化財)、寺宝として保存され宝物殿で見ることができる (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/雲峰寺

更に、その「御旗」を所有する雲峰寺のホームーページを拝見させて頂くと、以下の様になります。

日の丸の御旗  

日本最古とされる日の丸の旗。  

伝承によると、天喜4年(1056)に源頼義が後冷泉天皇より下賜され、頼義三男の新羅三郎義光から武田家に代々伝わったものといわれている。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している (略)  

https://unpoji.ko-shu.jp/treasure.html

「日本最古の日の丸」とのも言われている、甲斐武田家の家宝で、現在でも見る事が出来る様です。天皇から下賜された、武田家の家宝で、今も昔も変わらない尊いものである事が伺えます国宝級のお宝と思いきや、「山梨県の指定文化財」と言う事の様で、最古の日の丸にしては、ちょっとかわいそうな印象も持ってしまいました。

そして次に、「楯無」をWikipediaを調べてみますと、以下の様にあります。

楯無(たてなし)とは、源義光伝来の鎧とされる源氏八領の一つ特に甲斐国の武田家に伝わる大鎧で名高い (略) 清和源氏嫡流に代々伝えられた鎧の一つが楯無である (略)   

武田家の楯無 楯無鎧の伝承と記録  

楯無鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、甲斐源氏の惣領武田氏の家宝として相伝された「楯無」の号を持つ鎧で、御旗(みはた)と呼ばれる義光から受け継いだ日章旗と対になっている。御旗は甲州市塩山上萩原の雲峰寺に所蔵されている。  

戦国時代には、戦国大名となった武田氏の家中で神格視され、御旗楯無に対して「御旗楯無も御照覧あれ」と誓い出陣したという。武田信玄は楯無鎧を鬼門鎮護のため甲府から北東にあたる山梨郡於曽郷(甲州市塩山上於曽)の菅田天神社宝殿に納め、武田氏の一族である於曽氏が管理し必要に応じて持ち出されたという。 

天正10年(1582年)、武田氏滅亡に際して武田勝頼の家臣の田辺左衛門尉により向嶽寺の杉下に埋められたという。その後、甲斐を領した徳川家康により回収され再び菅田天神社に戻され、江戸時代には盗難に遭い破損し、寛政10年(1798年)には補修、文政10年(1827年)に補修が行われたという。昭和27年(1952年)11月22日に「小桜韋威鎧 兜、大袖付」(こざくらがわおどしよろい かぶと、おおそでつき)として美術工芸品の区分で国宝に指定された (略)   

https://ja.wikipedia.org/wiki/楯無

源氏八領とは、清和源氏に代々伝えられた8種の鎧の事を言うようで、鎧を数える際の単位として「領」を使うそうです。故に、「楯無」は、『源氏に伝わる8種類の鎧の内の1つで、山梨の菅田天神が所蔵する鎧が、源氏八領の内、現存する唯一の鎧「楯無」の可能性が高い』と言う理解をしました。 

尚、上記御旗」は、武田家が所有した家宝である事は間違いなさそうですが、日本最古の日の丸か否かについては、まだ議論の余地がある様です。また、楯無」についても、武田家の家宝と言う所は同様に異論はなさそうですが、『新羅三郎義光から受け継いだ「楯無」であるか否か』、『「楯無」は1つだけなのか、複数あるのか』等については、議論が分かれる様です(安芸武田家に伝わった鎧もある様ですし、源義朝が平治の乱における敗走中に脱ぎ捨てたという話もある様です)。ただ間違いなさそうな部分で記載いたしますと「雲峰寺にある「御旗」と菅田天神にある「楯無」は、当時武田家の中で神格化された甲斐武田家の家宝」と言う事になる認識をさせて頂きました。

【「御旗楯無もご照覧あれ」が意味する所は?】

上記、「御旗楯無も御照覧あれ」の「御旗」と「楯無」に付き、情報を整理しましたが、これを踏まえ、フレーズの全体「御旗楯無も御照覧あれ」に付き、考察を加えさせて頂きたく存じますが、考察を加えるにあたり、「御旗楯無も御照覧あれ」にかかわるエピソードや事実関係を以下に列挙します。

  • 「御旗」と「楯無」は、甲斐武田家の惣領の証として受け継がれてきた
  • 「御旗」も「楯無」甲斐武田家の家宝で、神格化されていた
  • 長篠の戦いにおいて、退却を主張する家臣がいる中、勝頼は「御旗楯無」に抗戦を誓い、家臣団もそれに従った』と言うエピソードがある

上記、事実関係やエピソードから、誠に勝手な個人的な考察を加えますと、以下の様になります

甲斐武田家は、家臣団も強く、親方と言えど、独裁的な意思決定はあまり好まれず、合議制に近い形で、組織運営がなされていた。重要な局面で、議論が煮詰まった際、もしくは意思決定をしなければならない状況になった際には、親方が意思決定をリーダーとしてしなければならないが、その意思決定は、神仏(この場合は祖先)に対し行う神聖なもので、強い意思を持って判断がなされ、その象徴として、武田家に家宝として伝わる神格化された「御旗・楯無」の前で行われた。その強い心で示された親方の決定には、家臣は、たとえ自身の意にそぐわない内容だったとしても、親方同様に心を決め、武田軍が一丸となって行動したそれぞれの心に踏ん切りをつけ、和を持って組織の力を最大限に活かすために用意された儀式であり、その時の魔法の言葉が、『御旗楯無も御照覧あれ』だった。

ちょっと長めの考察になってしまいましたので、もっと簡単に言ってしまいますと、「重要局面における判断を、組織として遂行するための魔法のフレーズが、『御旗楯無も御照覧あれ』だった」と言う事です。勝手な考察をしてしまいましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?

【最後に】

以上が、「御旗楯無も御照覧あれ」のフレーズに対する、個人的な考察になります

「御旗楯無も御照覧あれ」と言って、意思決定をし、戦いに挑んだ長篠の戦いでは、武田軍は大敗し、滅亡への道を進み始める訳なので、「神仏(祖先)のご加護は無かったのか?」と思ってしまいますが、逆の見方をすると、「『戦わない』、『退却する』といった選択肢はあったのか?」とも考えてしまいます。その場にいない者が、どんなに考えても、その心持を理解する事は出来ませんが、勝頼は決して弱い大将だった訳でもないですし、バカな大将でもなかったはずです。Wikipediaの「武田勝頼」のページには、様々な評価が並んでいますが、どちらかと言うと彼を評価する記載が多く、信長の評価においては、以下の様な記載があります。

勝頼の首級と対面した信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給いて、かくならせ給う物かなと御仰けり」と、勝頼は運がなかったという感想を漏らした『三河物語』 

https://ja.wikipedia.org/wiki/武田勝頼

個人的には、信長同様、「御旗楯無も御照覧あれ」と祖先に誓って、戦いに望んだ勝頼でしたが、運がなく滅亡してしまったと思っていますが、皆様はどの様に思われますでしょうか? 「御旗」は、山梨県の雲峰寺にあり、「甲斐武田家の楯無」も同じく山梨県の菅田天神にあります「楯無」は原則非公開の様ですが、「御旗」は、基本風林火山の軍旗と共に拝見できる様ですので、脚を運び、「御旗楯無も御照覧あれ」のフレーズと共に、勝頼の心持に思いを馳せてみては、いかがでしょうか?

以下地図は、雲峰寺(「御旗」所蔵)、菅田天神(「楯無」所蔵)に加え、大善寺(勝頼滅亡直前の投宿地)、周囲の花々や歴史散策スポットを記載しております。

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