利根川

【はじめに】

いきなりですが、皆さんは、坂東太郎・筑紫次郎・四国三郎」ってご存じですか?

「いきなり何言ってんだ?」って感じかもしれませんが、更に質問で日本三大暴れ川」ってご存じですか?。恐らく多くの人が、ピンと来たのでないかと思います。なので、早々に以下にまとめます。

  • 日本三大暴れ川:利根川、筑後川、吉野川
  • 日本三大暴れ川の異名:利根川=坂東太郎、筑後川=筑紫次郎、吉野川=四国三郎

何故、川に “人名” を付けたんでしょうね? 正直、解りませんが、想像(妄想?)する事は、自由だと思います。故に、こちらのページでは、『「日本三大暴れ川:利根川・筑後川・吉野川」のそれぞれの川の概要』と、『「なぜ川に人命を付けたのか?」』の勝手な考察(妄想?)をさせて頂きたく存じます

(関連記事として、「日本三大河川」、「日本三大急流」と言った内容でも記事を記載していますので、併せてご参照頂けますと幸いです)

【日本三大暴れ川とは?:それぞれの川の概要】

それでは早速、「『日本三大暴れ川』という言葉」の概要と、「それぞの川の概要」から抑えさせて頂きます。

■ 「日本三大暴れ川」とは?

まずは、「日本三大暴れ川」から。Wikipedia の「暴れ川」の項目には、以下の様にあります。

暴れ川(あばれがわ)は、洪水や水害が多い河川のことである。日本では、水源となる山地等から海などに注ぐまでの距離が短い川が多く、それによって流れが速い川が多い。そのような川でひとたび増水すると、その増水分を吸収・緩和できるバッファが少ないことから、堤防の越水・決壊等を招くことが往々にしてあり、そのため「暴れ川」という川が多い。  

治水  
洪水が多い日本では、昔から川の流れや川の流量を調整する治水が多く行われた。その一つとして、利根川東遷事業が広く知られる。それまで、東京湾に注いでいた利根川の下流部(現・江戸川)の流れを千葉県銚子市で太平洋に注ぐように変えた (略)   

日本三大暴れ川   

  • 利根川(坂東太郎)(とねがわ、群馬県・埼玉県・〈東京都〉・茨城県・千葉県、流路延長・日本第2位、流域面積・日本第1位、日本三大河川の一つ)   
  • 筑後川(筑紫次郎)(ちくごがわ、熊本県・大分県・福岡県・佐賀県、規模(流路延長・流域面積)としては九州地方最大の河川)   
  • 吉野川(四国三郎)(よしのがわ、高知県・徳島県)  

その他の暴れ川  

  • 荒川 (関東)(あらかわ、埼玉県・東京都、その名の通り荒ぶる川)  
  • 姫川(ひめかわ、長野県・新潟県)  
  • 常願寺川(じょうがんじがわ、富山県、世界でも屈指の急流河川)  
  • 金腐川(かなくさりがわ、石川県、二級河川)  
  • 信濃川(しなのがわ、長野県・新潟県、流域面積・日本第3位、日本三大河川の一つ)  
  • 天竜川(てんりゅうがわ、長野県・愛知県・静岡県、流域面積・日本第12位)   
  • 木曽川(きそがわ、長野県・岐阜県・愛知県・三重県、流路延長・日本第7位タイ、木曽三川の一つ)   
  • 長良川(ながらがわ、岐阜県・愛知県・三重県、日本三大清流の一つ、木曽三川の一つ)   
  • 揖斐川(いびがわ、岐阜県・三重県、木曽三川の一つ)  
  • 桂川(かつらがわ、京都府、淀川の支流の一つ)  
  • 刈谷田川(かりやたがわ、新潟県、信濃川の支流の一つ)  
  • 手取川(てどりがわ、石川県)   
  • 黒部川(くろべがわ、富山県、上流から中流部が日本三大渓谷の黒部峡谷と呼ばれる)  
  • 九頭竜川(くずりゅうがわ、福井県)  
  • 球磨川(くまがわ、熊本県、日本三大急流の一つ)  (略)  
https://ja.wikipedia.org/wiki/暴れ川

以下に、自身がポイントと思った部分を列挙致します。

  • 日本三大暴れ川」は、「利根川・筑後川・吉野川」で、それぞれ「利根川=坂東太郎、筑後川=筑紫次郎、吉野川=四国三郎」と異名を持つ  
  • その他の「暴れ川」も含め見てみると、上記の利根川含め、信濃川といった「日本三大河川(もう一つは石狩川)」、「日本三大急流の球磨川(あと2つは、富士川・最上川)」、日本三大急流よりも急流として有名な「常願寺川」、東海地域を代表する大河「天竜川・木曽川・長良川・揖斐川」と有名処が含まれる  
  • 川が「暴れ川」になる元凶は、日本の国土の特徴に起因(=国土が狭く、多くの山間部が約70%を占める為、平地は少なく、川は急流になりやすい)

一言で言ってしまいますと、「日本の川は暴れやすい」と言う事だと思った次第です。

■ 利根川坂東太郎

「日本三大暴れ川」に付き、他の暴れ川も含めその顔触れを見てきましたので、「日本三大暴れ川」のそれぞれの川の概要につき見て行きたいと思います。まずは、利根川から。Wikipediaの「利根川」の項目には、以下の様にあります。

利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ一級河川。一級水系であり、利根川水系の本流である。河川の規模は日本最大級であり、日本三大河川の一つ。首都圏の水源として国内の経済活動上重要な役割を果たしている。坂東太郎(ばんどうたろう。“東国にある日本一の大河”)」の異名を持つ日本三大暴れ川の一つで、江戸時代初期に行われた河川改修である利根川東遷事業により、流路を変更された歴史を持つ。  

地理  

上流(群馬県前橋市付近)中流(群馬県邑楽郡明和町付近)下流(利根川河口堰付近)群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、大水上山(標高1,840 m)にその源を発する。前橋市・高崎市付近まではおおむね南へと流れ、伊勢崎市・本庄市付近で烏川に合流後は、東に流路の向きを変えて群馬県・埼玉県境を流れる。江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。

江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、度重なる河川改修によって現在の流路となっている流路延長は約322 kmで信濃川に次いで日本第2位、流域面積は約1万6840 km2で日本第1位であり、日本屈指の大河川といってよい。流域は神奈川県を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が長野県佐久市にも架かっている。河川法に基づく政令により1965年(昭和40年)に指定された一級水系である  (略)  

利根川の別称である「坂東太郎」については、足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/利根川

別記事「日本三大河川」でも紹介させて頂きましたが、日本で一番広い流域面積を誇る利根川。また、他にも理由はある様ですが(詳細は別記事参照)、江戸時代に江戸城下を水害から守る為、江戸湾に流れていた流れを銚子方面に変えた「利根川東遷」でも有名ですよね。水運も含め、関東発展の土台をとなり、豊かな土壌をもたらした利根川は、「坂東太郎」の名にふさわしい大河だと思います(現代風に言えば、「関東の長男で:関東太郎」?)。

■ 筑後川筑紫次郎

次に、筑後川。Wikipediaの「筑後川」の項目には、以下の様にあります。

筑後川(ちくごがわ)は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れ有明海に注ぐ川である。(略) 流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で、規模としては九州地方最大の河川である。  

筑紫次(二)郎(つくしじろう。“西国にある日本第2の大河”の意)の別名で呼ばれることもあり[順位争いで「筑紫三郎」と言われることもある]、利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われる (略)  

開拓と藩政下の治水   

筑後川流域における歴史の第一歩を踏み出した吉野ヶ里遺跡(佐賀県)。筑後川流域に人の営みが培われるようになったのは縄文時代末期の紀元前400年頃と推定される。当時筑紫平野の大部分は海であり、筑後川河口も当時は背振山地南部に偏っていたとされている。この地に大規模な環濠集落である吉野ヶ里遺跡が誕生し、以後弥生時代中期の3世紀まで約700年もの間栄えた。その後海退期を迎えて海岸線が徐々に南西へ移り、筑後川本流・支流の土砂運搬も相まって次第に沖積平野である筑紫平野が形成された。

大化の改新で班田制が施行されると有明海の干拓が開始され、現在の柳川市から佐賀平野に掛けての筑後川下流では条里制による整然としたクリーク(灌漑や水運を目的とし、人手の入った水路や運河をクリーク (creek) とも呼ぶ)が引かれるようになったが、墾田永年私財法により土地私有が認められ班田制が崩壊し荘園が形成されると、それらクリークも雑然と整備されるようになった。鎌倉時代以降室町時代末期まで筑後川流域は少弐氏や大友氏、大内氏、龍造寺氏、島津氏が相次いで支配し、筑後川の戦いを始めとして戦乱が多く繰り返されたが、筑後川の開発については見るべきものがなかった

筑後川の開発が積極的に行われるようになったのは豊臣秀吉が全国統一を果たした安土桃山時代末期、筑後川の中州開拓からである。1592年(天正20年)緒方将監は道海島を開拓するために入部し、肥前国住民からの妨害にも負けず1610年(慶長15年)に18年の歳月を掛けて開墾に成功した。   

1605年(慶長10年)からは肥後国菊池氏の末裔である菊池十左衛門が浮島を、1610年からは筑後国三潴郡(みずまぐん)住人三郎左衛門が大野島の開拓を行い新田を開墾した。これらの島は筑後国領域と認定され、現在でも福岡県の一部となっている。1622年(元和8年)には柳河藩貨幣方だった三潴郡の豪商・紅粉屋七郎左衛門が干拓によって80町歩を開拓している  (略)  

近代の筑後川開発

明治以降の筑後川における治水事業は、当時発達していた水運を考慮に入れて行われた。筑後川は1884年(明治17年)より内務省直轄河川事業の対象となり、1886年(明治19年)より第一期筑後川河水改修事業が河口から大分県日田市間で開始されたが、主なものは水運強化のための低水敷工事が中心であった (略)

第二期では本支流の堤防建設のほか、第一期で着手された筑後川本流の開削工事が本格的に施行され、金島・小森野・天建寺・坂口の4捷水路を開削して河道を直線化し流下能力の向上を図った (略) この捷水路により総延長は9キロメートル短くなった。 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/筑後川

九州地方最大の河川・筑後川。明確ではないと思いますが、縄文時代から続くこの地域の歴史を支えてきた川と認識しております。「明確ではない」とは、本ブログ別記事でも紹介しましたが「この地域は7300年程前の鬼界カルデラ付近で起こった大規模カルデラ噴火で非常に大きな打撃を受け、6000年程前にピークを迎えた縄文海進の後に発展してきた地域と思われる」と個人的には思っており(貝塚の分布が九州地方では少ない為)、『「縄文海進が収まり始めた5 – 6000年程前」~「縄文時代末期の紀元前3-4世紀(吉野ヶ里遺跡が出来た頃)」までの間の「どのタイミングで、集落形成が始まったのか定かではない」と思っている』という物です。

とは言っても、2000年以上の歴史はあると思われ、その間災害もあったでしょうが、筑後川がこの地域の発展の土台となってきた事は間違えなく、人々が、筑後川と共に(筑後川の恵みを受けつつ、時には水害に見舞われつつ)この地を開拓する事で、この地域が発展してきた歴史を持つ」と認識した次第で、その歴史があるからこそ、筑紫次郎」の名前が与えられたと思ってしまいました。

■ 吉野川四国三郎

最後に、吉野川。Wikipediaの「吉野川」の項目には、以下の様にあります。

吉野川(よしのがわ)は、高知県と徳島県を流れる一級水系。吉野川水系の本流で流路延長194 km、流域面積3,750 km2。徳島市で紀伊水道に注ぐ。川幅最長部は2,380 m。  

源流の碑は瓶ケ森の南側を走る瓶ケ森林道脇にある源流の碑から見る総延長は江の川に次いで全国で13番目に長く、川幅は荒川に次いで全国で2番目に大きい。日本三大暴れ川の1つとして数えられ、利根川(坂東太郎)・筑後川(筑紫次郎)と並び四国三郎(しこくさぶろう)の異名を持つ。  

地理   

愛媛県の西条市と高知県の吾川郡いの町に頂を有する瓶ヶ森(標高1896.2 m)より湧き出で、いの町の白猪谷を最源流 とし、四国山地の南側を東流、その後高知県長岡郡大豊町で向きを北に変え、四国山地を横断する。徳島県の三好市山城町で愛媛県の新居浜市の冠山を源とする最長の支流、銅山川が合流し、三好市池田町の池田ダムで香川用水により香川県に分流、三好市池田町で再び東流し、徳島市で紀伊水道に注いでいる。

高知、愛媛、徳島が関係するため、かつて、この付近では三土地川(みどちがわ)とも呼ばれていた。 讃岐山脈と四国山地に挟まれた下流域では徳島平野を形成している。吉野川の流域面積は約3750 km2であり、これは四国の面積の約2割に当たる。唯一水流が四国4県に及ぶ水系である。ただし各県内で一番長い川は高知県では四万十川(四国最長)、徳島県では那賀川である  (略)   

吉野川開発史  

「坂東太郎」(利根川)・「筑紫次郎」(筑後川)と並び「四国三郎」と渾名される吉野川の名は「ヨシが河原に多く繁る川」から来たと言われている四国四県を網羅するその水系は流域の生命線として多大なる恩恵を与えると同時に、数多くの水害の歴史を持つ。有史時代では886年(仁和2年)の洪水が初出である。  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野川

流路延長(川の長さ)は、四国最長と言う訳ではない様ですが、「四国一の流域面積を誇る川が、吉野川」と理解しております。上記引用にもある通り、人々に多くの恩恵と苦難(水害)を与えてきた川の様ですが、「四国三郎」の愛称がある通り、地域の人にとっては、欠かせない河川であった事、間違えないと思った次第です。

【「日本三大暴れ川」に、それぞれに「人名」使われた理由の勝手な考察(妄想?)】

上記にて、「利根川=坂東太郎」、「筑後川=筑紫次郎」、「吉野川=四国三郎」の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらでは、何故それぞれの川に、人の名前が与えられたのか?」の勝手な考察(妄想?)をさせて頂きます

その前に、この「利根川=坂東太郎、筑後川=筑紫次郎、吉野川=四国三郎」とは、いつ位から言われだしたのかを抑えさせて頂きます。インターネットでサーチをかけてみますと、コトバンクの「(四国三郎ではなく)四国二郎」の項目に、以下の様にあります。

四国地方を流れる吉野川の異称。関東地方の坂東太郎(利根川)、九州地方の筑紫三郎(筑後川)とともに日本三大河の一つ。筑後川を筑紫二郎と呼ぶ場合には四国三郎と呼称される。

本朝俗諺志(1746)一「坂東太郎は刀称川四国二郎は此吉野川筑紫三郎は筑後川を云。是日本三大河也」 (略) 

https://kotobank.jp/word/四国二郎・四国次郎-2045600

「四国二郎 or 三郎」 vs 「筑紫二郎 or 三郎」で、どっちが二郎でどっちが三郎か議論になってしまいそうですが、ここではそれは置いておいて、河川に人の名前が異名として与えられたのは、江戸時代の様です。

では本題の何故、それぞれの川に、人の名前が与えられたのか?」について、個人的な考察(妄想?)を下記に記載しますと、

人々は河川に、恩恵による愛着と災害による恐れを併せ持ち、常に身近にそれを感じてきた。これは、『八百万の神々』を崇める、日本人の宗教観(神道)の考え方と結びつき、『日本三大怨霊に代表される:御霊神』と似た存在と考え始め、河川を擬人化した。更に、『栗よりうまい十三里』の様に、“文字る” 事が好きな日本人は、江戸期になってその要素も加え、擬人化された地域を代表する河川(今回の場合は流域面積の広さ?)に、人の名前を与える事で『恩恵も与えるが、災いももたらす神』として敬った事で、その異名が浸透していった」、

とい言った感じになりました。少々違った書き方をしますと、以下の様になります。

人々の河川に対する愛着と恐れ」+「八百万の神々の考え方」+「御霊神の考え方による擬人化」+「“文字る” 事が好きな日本人の特性」』=『「利根川=坂東太郎」・「筑後川=筑紫次郎」・「吉野川=四国三郎

勝手な考察(妄想?)をさせて頂きましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?

【最後に:四郎から八郎まで…】

以上が、「日本三大暴れ川:利根川・筑後川・吉野川」のそれぞれの川の概要』と、『「なぜ川に人命を付けたのか?」の勝手な考察(妄想?)』をさせて頂いた内容になります。

日本三大暴れ川:「利根川=坂東太郎」・「筑後川=筑紫次郎」・「吉野川=四国三郎」』ですが、少々ネットで調べてみますと、何処まで本当かはわかりませんが、「日本三大河川の1つ・信濃川の1つ・信濃川=越乃四郎」、「日本三大急流の1つ・最上川=陸奥五郎」とも言われているそうです…。それぞれの地域で、地域名に加え、知名度・規模感を考慮したネーミングがされていいる様で(どこまで本当で、何処まで浸透しているかわかりませんが…)、それぞれの河川で、それぞれの思いを持ちつつ、人々の河川との営みがある事を想像してしまいます。そして連想してしまいました。つまり、北海道地方最大(流路延長/流域面積共に)で、日本三大河川の1つ・石狩川には「蝦夷六郎の名を、日本三大急流の1つ・富士川には「甲駿七郎の名を、そして日本三大急流のもう1つ・球磨川には「肥後八郎の名を、それぞれ与えたいと思ったのは、私だけでしょうか?

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