勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく

【はじめに:「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」を直訳的に理解すると?】

本日は、孫子の教えの中に出てくる言葉で、勝兵は鎰を以て銖を称るがごとくを、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

ちなみに、このフレーズの出てくるパートは「形篇」であり、ここでは、皆さまも聞いた事があるフレーズでと思われる善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」や「善く戦うものの勝つや、智名なく、勇功なし」等が出てくるパートでもあります。これらも同様に、「戦をするのであれば、勝てるときに誰もが勝てるように、安全に勝ちましょう”」と言っている事だと認識します。しかし、これって当たり前ですよね…。では、「なぜこれらのフレーズが有名に?」なっているのでしょうか?

勝兵は鎰を以て銖を称るがごとくって、ちょっと意味が分かりにくいですよね? これは、「鎰(いつ)」と「銖(しゅ)」が、なじみのないものだからだと思います。ちょっとだけ説明させて頂くと、「鎰(いつ)」、「銖(しゅ)」とは、昔の中国における重さの単位だそうです。いろいろ調べてみますと、「鎰」は、「銖」の500倍の重さと言われているようです。つまり、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」とは、500倍の兵力で攻める様に、戦は、確実に、そして安全に、勝つべくしてして勝つべき」といったメッセージと理解できます

【「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」のメッセージは?】

私の認識ですが、孫子が、このパートで、最も言いたいことは、上記ではなく、上記はあくまでも、結果・効果だと思っており、「そこに至る過程」が重要だと認識しています。事実、同じパートの中で、以下の内容があります。

兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝」、「地は度を生じ、度は量を生じ、量は数を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず

この部分の私なりの解釈ですが、「兵法は、一に国土の大きさ、二に量、三に数、四にそれらの比較、五に勝つ目算」。つまり「土地には大きさがあり、その土地によって量が決まり、さらに量によって数が決まり、そして数によって比較できるようになり、比較した結果によって勝敗が予見できる」と言った感じでしょうか? 

更に申し上げると、戦う前に、しっかり論理的に分析し「勝てる見込みがあるかどうかを考えなさい」と言う事で、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の様に勝てる算段をつけてから、戦うようにする事が重要と言っているという認識です。

故に結果として、「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」や「善く戦うものの勝つや、智名なく、勇功なし」となる理解です。もう少し言いますと、『「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」の状況を作り上げる事が出来る非凡な才能の持ち主』のやる事は水面下に隠れた状況認識や戦略建てがある為、凡人が全体図で理解することはできないので、「善く戦うものの勝つや、智名なく、勇功なし」と言った事になると言う事でしょう。

”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。

”『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている”

https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)

2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。

【「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の日本史における武将とそのエピソードは?】

では、上記を実践した日本史上の人物って、誰か思い浮かびますでしょうか? 私の個人的な見解は、秀吉だと思います。ただ上記の様なポリシーで戦が出来たのは、小田原攻め」だけだったと思います。それまでは、まだ、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の体制になく、ほぼほぼ天下の定まった、この天下統一の総仕上げのタイミングで、初めて「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の戦が出来たタイミングだと思った次第です。

しかしこの戦、秀吉の視点でなく、北条伊達の視点に立った時に、孫子の教えが最も生きてくると思います(伊達政宗の騎馬像がある仙台城を別記事で紹介しています)。つまり、北条・伊達の視点で「兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝」」と考えれば、秀吉圧倒的有利なので、秀吉とは戦ってはいけないと孫子は言っていると言う事になります。

しかし、北条は、戦いを選択してしまった訳です。沼田城割譲」~「名胡桃城事件」の経緯を見ていると、孫子の教えを守っていれば、北条は、もう少し打てる手があった気がします(名胡桃城沼田城に関しては、別記事で紹介しています)。以下に、「沼田城割譲」~「名胡桃城事件」の経緯につきWikipedia からの抜粋を記載します(北条秀吉に対する不満を見て取れる認識です)。

※Wikipedia の小田原征伐における、沼田城割譲の項目
”(略) 沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った。(略) 沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた”

https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐#沼田城割譲

※Wikipedia の小田原征伐における、名胡桃城事件の項目
”(略) 北条氏は真田領となった領分の拠点である名胡桃城に沼田城代猪俣邦憲を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した(略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐#名胡桃城事件

一方で伊達は、当初は「対秀吉」の考えを持っていたようですが、秀吉の戦力を認識するや、小田原城に参陣すると言った方向転換をしっかりしている様です。この方向転換は、「ギリギリ間に合った」と言われているようですが、その後の北条伊達の行く末には、大きな違いが生じます。

※Wikipedia の伊達政宗における、小田原合戦と豊臣政権下の項目

”(略) 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになった。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月に、豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した(略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗#小田原合戦と豊臣政権下

結果は皆様のご承知の通り、北条は滅亡しますが、伊達は生き残り、江戸期を通じて(「現在も」の認識ですが…)家名を残す事となります。このように歴史を見ると、『「鎰(いつ)」なら攻めるけど、「銖(しゅ)」なら戦ってはいけない』と言う当たり前の事を改めて認識した次第です。(沼田城小田原城仙台城は、本ブログ別記事で、紹介しています)

【最後に】

上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」=『「鎰(いつ)」なら攻めるけど、「銖(しゅ)」なら戦ってはいけない』。恐らく、北条もわかっていたのでしょうが、武士としてのプライドが、それを許さなかったのでしょうね。それはそれで、素晴らしい事だと思いますし、非難するつもりはないどころか、名誉を重んじた武士らしい行動だったとも思います。

しかし同時に、家が滅亡してしまったら、それはそれで困る人が大勢いるはずなので…。皆さんが、秀吉ににらまれた時、伊達派ですか?それとも北条派ですか? 今度そんな事を考えながら、改めて小田原城仙台城を、そして大阪城長浜城(秀吉が初めて城持ち大名になったお城)を訪れてみたいと思いました(⇒ 別の機会で訪問する事が出来ました!:別記事で長浜の大人散策情報と共に記載中ですので、ご参照ください!)。

(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

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