【はじめに】
こちらの記事では、東京の「国分寺崖線」と、それに沿う様に流れる「野川」の大人散策情報を紹介致します。
そもそも、皆様は野川・国分寺崖線をご存じでしょうか? 私は、大学時代、武蔵小金井に居住していた事があり、この時この近辺を新聞配達していたので思い入れのある地域です。しかし、当時は別記事で紹介しました玉川上水沿いや、今回記載する野川沿いの遊歩道をランニングする程度で、「自然の多い、山梨の北杜から出てきた者にとっては、自然を感じる気持ちの良い場所」と言った程度でしかありませんでした。しかし、年を重ね改めて当時の事を思いつつ、この地域を大人散策させて頂くと、地形・歴史(神社仏閣含む)・アニメと様々な視点で魅力的な地域である事を改めて感じさせてくれる魅力的なエリアである事を感じます。
その為、今回は野川・国分寺崖線沿いを世田谷の二子玉川(野川と多摩川の合流地点)から、国分寺の水源(厳密にはその手前ですが)まで、寄り道しながら大人散策させて頂きました情報を共有させて頂こうと思います。ただ、それなりの情報量になりますので、以下の2部構成で、記載させて頂こうと思います。
- 前編:二子玉川~武蔵小金井
- 後編:武蔵小金井~西国分寺(こちらからどうぞ)
(尚、それぞれ立ち寄らせて頂きました、調布の深大寺、武蔵国分寺跡に関しても、別記事で様紹介しております)
まずは以下、前編・二子玉川~武蔵小金井の区間に付いての大人散策情報を記載いたします。
【野川とは?】
実際の大人散策(フィールドワーク)情報に入る前に、そもそもですが、「野川」の基本情報をWikipediaの力を借り、抑えさせて頂きますと、以下の様にあります。
野川(のがわ)は、東京都を流れる多摩川水系多摩川支流の一級河川である。国分寺市東部の日立製作所中央研究所敷地内を水源とし、世田谷区南部の二子玉川で多摩川と合流する。全長20.5km。(略) 国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所敷地内の湧水が源とされ、近接する市道の休憩所には案内板が設置されている。年2回の一般公開や地元小学校の見学などが行われている。南下して西武国分寺線・JR中央本線の盛土を抜け、住宅地を抜けて東へ向きを変え、国分寺街道の不動橋で真姿の池湧水群からの湧き水を合わせる。 鞍尾根橋で、東京経済大学国分寺キャンパスの新次郎池からの湧水が合流するとともに国分寺市から小金井市へ入り、河川管理境界も東京都北多摩南部建設事務所へと移る。(略)
多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・東急大井町線二子玉川駅のホーム下で右岸が、世田谷区玉川一丁目付近で左岸が多摩川に合流する。野川は、南岸が平坦、北岸が急斜面となっていて、両岸の高さが違う。北の崖は、武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの、深大寺から成城みつ池にかけて多くの清水が湧き、都内でも珍しい自然が残っている。(略)
先史時代:野川が流れる立川段丘面は、2万~3万年前の更新世に古多摩川が流れて作った河岸段丘である。その時代の多摩川は、立川段丘面に礫を残しながら、武蔵野段丘を横から削っていた。多摩川本流が流路を変えた後に、国分寺崖線の湧水を集め、多摩川旧河道を流れた小河川が、野川である。野川には多摩川が運んで残した礫の層(立川礫層)を削るほどの流量がなく、礫層を川底にして浅い谷を作った。野川の上流部北側には旧石器時代の遺跡がある。また、野川流域には横穴墓が見つかっている。川沿いには弥生時代から水田が開かれ、奈良時代には上流部に武蔵国分寺が作られた。(略)
六郷用水開削による流路変更:かつての野川は、小金橋(調布市と狛江市の市境、調布市立調和小学校の南東)あたりから野川緑地公園に近い流路で現在の狛江市中心部を流れ、そのまま南流し岩戸川(現在の岩戸川緑地公園)及び町田川に接続し、宇奈根付近で多摩川に注いでいた。(略)
昭和の流路変更:1967年(昭和42年)になって六郷用水も川の流路を失わない範囲で大部分が埋められ(一部が野川緑地公園と滝下橋緑道に整備)、野川の流路を東に寄らせる改修が行われた。(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/野川_(東京都)
途中「略」を入れながら記載しましたが、それなりの長さになってしまいました。その為、私なりのサマリを記載すると、以下の様になります。
「現在では、国分寺東部から世田谷の二子玉川まで、国分寺崖線にほぼ沿って流れる、20㎞位の長さの川だが、その流路は、人の生活の営みの中で変遷してきた歴史を持つ。古多摩川によってつくられた国分寺崖線より、湧水を集めた川であり、旧石器時代の遺構も近くで見つけられ、奈良時代には、その上流部付近に武蔵国分寺が建てられたことからも、人の営みが非常に長い年月にわたって行われてきた痕跡を随所に見る事が出来る地域を流れる川」
野川に関しては、上記の様な理解をさせて頂きました。
【国分寺崖線とは?】
野川の予習を上記にて行いましたが、国分寺崖線に関しても、簡単に予習させて頂こうと思います。故に、改めてWikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。
(略)立川面と武蔵野面とは国分寺崖線(こくぶんじがいせん)によって分けられている。国分寺崖線は武蔵村山市緑が丘付近に始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、JR中央線を国立駅の東側で横切り、国分寺市・小金井市と府中市の市境に沿って東に進む。さらに野川の北に沿いながら調布市に入って深大寺付近を通り、つつじヶ丘などの舌状台地を作りながら世田谷区の砧地域、玉川地域南部を通り、大田区の田園調布を経て同区の嶺町付近に至る。世田谷区の等々力渓谷は国分寺崖線の一部である。高低差は20メートル近くになる。なおこの国分寺崖線は、古多摩川(関東ローム層下に存在)の浸食による自然河川堤防と考えられている。国分寺崖線は国分寺-玉川崖線とも呼ばれる。(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵野台地#国分寺崖線
また、同じ項には、以下の様に記載があります。
(略)武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたものであって、最も低い段丘(低位面)を立川段丘あるいは立川面、それよりも一段高い段丘(高位面)を武蔵野段丘あるいは武蔵野面と呼ぶ。(略)各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖になっており、武蔵野の方言ではこれを「ハケ」や「ママ」などと呼ぶ。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子を、学術的には崖線(がいせん)と呼んでいる。武蔵野台地周辺ではいくつかの崖線がよく知られている。(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵野台地
こちらも私なりのサマリを記載しますと、以下の様になります。
「武蔵野台地(特に東京都内)は、「武蔵野面」と「立川面」の大きく分けて2種類の河岸段丘が見られ、この2つを分ける崖が国分寺崖線で、この地方の方言でこの崖をハケと呼ぶ」
国分寺崖線:武蔵野面・立川面に関しては、上記の様な理解をしました。
【野川を国分寺崖線を意識しつつ大人散策・前編】
上記、野川と国分寺崖線の基本情報を抑えさせて頂きましたので、以下より実際の大人散策(フィールドワーク)情報を、エリアを区切りつつ、ご紹介させて頂きます。
・二子玉川~次大夫堀公園
スタートは、田園都市線の二子玉川駅からです。駅を西口(246号線側)に出て、側道を進むと、多摩川の方に出られる遊歩道が出てきますので、ここを川の方に下ると、野川を超える「兵庫橋」が出てきます。野川と多摩川は、このすぐ下流で合流していますので、ここをスタートポイントにします。ちなみに、兵庫橋を越えた先は、兵庫島公園と言うようで、そこには、若山牧水の歌が刻まれた「牧水碑」があります。大人散策のスタート地点として、最適なポイントです。
そこから、野川の右岸(流れを向いて立った時の右側)を、1.5㎞程進むと、「野川水道橋」が出てきます。この橋には、かつて、一定期間ですが、水道管があったとの事でこれを由来とする橋と、袂にはその由来を語り継ぐモニュメントがございます。また、もう一つ上流の橋は、天神森橋と言うようで、野川の左岸にある天神社が由来との看板があります。いずれの橋も、生活に溶け込んできた橋である事、理解できます。
そして更に、東名高速をくぐり、天神森橋から、1㎞少し進むと、「次大夫堀公園」が野川の右岸に出てきます。次大夫堀公園は、Wikipediaによると、以下の様にあります。
次大夫堀公園(じだゆうぼり こうえん)は、東京都世田谷区喜多見にある区立公園である。
概要:当公園は1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。当公園ではかつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/次大夫堀公園
勿論、現在この周囲には、「農村」は見当たりません。しかし、こういった施設を見ると、私の様な田舎出身の者のみならず、懐かしさを覚えるのでないかと思ってしまいます。子供たちが、土の上を元気に走り回っている姿は、自身の幼少期を思い出させてくれ、暖かな気持ちにさせてくれるスポットでした。
・次大夫堀公園~世田谷トラストまちづくり ビジターセンター
次大夫堀公園を出て、更に野川を上流に進むと、小田急線をくぐった辺りで、喜多見不動堂が出てきます。ここは、野川の直ぐ脇にある、国分寺崖線の「急さ」とその「高低差」を感じるポイントの1つだと思っています(別の見方では、成城と呼ばれる高級住宅街です)。
この不動尊で高低差を感じつつ、更に坂を登って行くと、旧山田家住宅が出てきます。世田谷区の有形文化財との事で、昭和の初期に建てられた建物との事ですが、建物としても、デザイン的にも古さを全く感じません。と言うより、現在の建物よりも味があります。ちょっと急坂を登る形になりますが、脚を運んで頂きたいスポットです。
また、このエリアは、上記にも記載いたしました通り、日本を代表する高級住宅街と言って良いと思っています。建物の質は高く、緑も豊か(成城みつ池緑地等)。私の様な者が、あまりウロウロしていると不審者と思われてしまうかもしれませんので、庶民には手の出ないエリアの雰囲気を少しだけ味わせて頂き、その高低差を意識しつつ再度国分寺崖線を下り、野川脇のビジターセンターの緑地帯に戻りました。
・世田谷トラストまちづくり ビジターセンター~深大寺
世田谷トラストまちづくり ビジターセンターから、改めて野川を上流に沿って、散策を再開いたします。この付近は、遊歩道や河川敷脇の散策路(水辺の直ぐ脇を歩ける)が整備されており、ストレスなく散策その物を楽しめます。世田谷トラストまちづくり ビジターセンターから、3㎞程上流に進むと、京王線・甲州街道が出ていますので、これらを越え、更に2㎞程進むと中央道が出てきます。
この中央道をくぐったあたりで、一旦野川から離れ北側に進むと(最下部地図参照)、深大寺が出てきます。お蕎麦(深大寺そば)で有名な深大寺ですが、その歴史ある建物と湧水群は、野川の散策においては、是非脚を延ばしていただきたいスポットです。ちなみに、Wikipediaには、以下の様にあります。
深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市深大寺元町にある仏教寺院。天台宗別格本山で、山号は浮岳山。(略) 「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。奈良時代の733年(天平5年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。東京都では浅草の浅草寺(縁起によれば628年開基)に次ぐ古刹である。(略)
山門:元禄8年(1695年)に建てられたもので、深大寺で最も古い建造物(略)
深大寺山門の様子 水と深大寺:深大寺は湧水の多い国分寺崖線の崖面に抱かれるように立地し、現在でも境内に複数の湧水源を持つ。湧水を利用した「不動の滝」は「東京の名湧水57選」に選定されている。(略) 崖線から湧き出す豊富な水は古くから田畑を潤し、人びとの素朴な信仰を集めてきた。深大寺によれば、水源地であるがゆえに霊場でもあったこの地が仏教の伝来以降あらためて注目され、“水神「深沙大王」”ゆかりの深大寺建立に至ったのではないかという。
寺院内には、水が豊富である事に認識できます +御朱印の写真も 「深大寺そば」が付近の名物として発達したのも水の恵みと無関係ではない。蕎麦の栽培、そば打ち、釜茹で、晒しに湧水が利用されただけでなく、水車を利用してのそばの製粉も行われてきた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/深大寺 今回の散策で頂戴した門前・お蕎麦屋さんとお蕎麦
私達夫婦の場合は、こちらで深大寺の建造物と湧水を拝見させて頂きつつ、休憩も兼ね、「深大寺そば」を頂戴しました。二子玉川をスタートして、12~13㎞程の行程になっていると思いますので、一休みにも丁度良いポイントだと思います。尚、深大寺に関しては、別記事で詳細を記載しておりますので、あわせてご参照頂けますと、幸いです。
・深大寺~野川公園
深大寺を西参道から失礼して(一部野川の散策が出来ませんが)、そのまま西に進むと改めて野川に出る事が出来、上流に進むと2㎞ちょっとで、右岸に「野川の水車」が出てきます。またこの対岸には、「大澤の里」と呼ばれる、国分寺崖線のキワに再現された、田園や古民家、湧水を見る事が出来るエリアが広がっています。この地域の原風景と言った感じですので、しばし足を止めてみて下さい(夏にはホタルも見れるそうです)。
この大沢の里の上流、1㎞もない所から、野川公園に入って行きます。東八道路をくぐったすぐの左岸には、「自然観察園」があり、野川の自然(木々や美しい水の流れ(東京の名湧水57選:わき水広場?))を観察できます。この穏やかな雰囲気は、しばらく続きますので、ゆったりと散策を楽しんでください。
しばらく進んで、西武多摩川線をくぐった辺りから、野川の左岸を沿う様な道が出てきます。「はけの道」と言うようで、上記にも記載しました「はけ=崖」と言う事ですから、「国分寺崖線の崖沿いの道」と言う意味と理解しました。
この「はけの道」(野川公園の散策路でもOKですが)を進んでいくと、このハケ(国分寺崖線)に沿って、ウッドデッキの様な階段が出てきます(はけの森97階段)。まずまずの眺めですので登ってみて下さい。また、崖下には、「武蔵野公園低湿地遺跡」、「小金井水田跡碑」など、昔の人々の生活の痕跡が残っていたエリアとの事です。ここから先、多くの名前の付いた「坂」があり、それらの坂を見つつ、崖の上と下を昔から多くの人が行き来していたと思うと、「人々の生活が昔からここにはあったんだ」と改めて思えるエリアです。
・野川公園~武蔵小金井
野川公園を過ぎ、一旦野川の流れから離れ、「はけの道」を、「ムジナ坂」や「観音坂」といった坂を横目で見つつ歩を進めると、「はけの森美術館」が出てきます。「はけの森美術館」は、小金井市運営の美術館で、洋画家・中村研一氏の作品を見る事が出来ます。
また敷地内には、中村研一氏の住居をそのまま利用した喫茶スペースや、自由に散策可能な庭園があり、湧水の流れ(東京の名湧水57選)と共にこの地域の自然を楽しむ事が出来ます。
更に、「はけの森美術館」の道を挟んだ向かいには、「はけの小径」があります。この脇には、小川が流れており、「ちょっと歩いてみたくなる小道」が続いています。ここは、アニメ・「借りぐらしのアリエッティ」のモデルになった場所とも言われている様です(ちなみに野川の今少しの上流にかかる天神橋もこのアニメにおけるモデルになった場所と言われている様です)。
上記、「はけの小径」を抜け、西に進むと、鎌倉時代初めの創建と伝わる菅原道真を祀る天満宮・小金井神社があります。社殿は新しくなっていましたが、歴史のある神社ですので、是非ご挨拶頂きたく存じます。またこの神社、徒歩であれば、南の正面から入り、西側の側面からも出れれますので、そちらから出て、はけの森緑地・車屋の坂経由で、この地域の豊かな自然と高低差を実感しつつ、国分寺崖線(はけ)の上に出れば、武蔵小金井の駅は目の前です。
【最後に:でも後編に続きますが…】
以上が、「東京の国分寺崖線に沿う様に流れる、野川の大人散策情報を紹介・前編」、になります。
武蔵野台地の武蔵野面と立川面を分ける「国分寺崖線=はけ」、そして「その脇を流れる野川」。ここには、高低差を感じる地形の面白さや、この高低差によって生まれる湧水等の自然、そしてその自然を生かして古代から続くこの場所で生きてきた人達の営み等を感じる事が出来る遺構・歴史、更には神社仏閣と、非常に満足度の高い大人散策が遂行できる地域です。現在では、これらを残そうとする地域の方々の努力があってこそのものだと思い、将来にわたって、この環境が続けばよいと思うのは、私だけではないと思います。
後編(武蔵小金井~西国分寺)に続きますが、是非皆様もこの地域で大人散策(フィールドワーク)頂き、この地域の地形/自然・歴史・神社仏閣といった魅力を感じてみてはいかがでしょうか?
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!