韮崎

【はじめに:韮崎市の基本情報】

皆さんは、韮崎市」をご存じでしょうか? 聞いた事はございますでしょうか?

私が子供の頃(今でもそうかもしれませんが)、韮崎は「サッカーの街」のイメージが強く、韮崎高校が10年以上連続で全国大会に行き、全国大会でも4-5年位連続でベスト4に入ってくる、サッカーの強豪校でした。また、あの中田選手の出身校でもあります。

同時に、甲斐武田家、発祥の地」とも言われ、歴史を感じる事がが出来る街で、私の出身地・北杜市(当時はいくつかの町と村に分かれていましたが)のお隣で、非常に親近感も土地勘もある街です。

韮崎と言いう街を、Wikipediaにて調べてみますと、以下の様にあります。

韮崎市(にらさきし)は、山梨県北部に位置する市 (略)  

地名の由来 

市名は近世の韮崎宿に由来し、「韮崎」の地名は、長く伸びる七里岩がニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に宿場町が位置しているから、あるいはニラの群生地であったことに由来するなどの説がある 

https://ja.wikipedia.org/wiki/韮崎市 https://ja.wikipedia.org/wiki/七里岩

また、韮崎市のホームページには、以下の様にあります。

(略) 11世紀頃、源氏の一族である新羅三郎義光が甲斐の守護となり、 (略) 信義が武田の姓を名乗ったことから、武田の名は始まります。 鎌倉・室町期を通じて武田氏が甲斐守護職として実権を握っていました。 しかし名君武田信玄公没後は、その子勝頼が長篠の戦いに敗れるなどして、 天目山下田野の地で自刃、武田の歴史は終わりました。 

 その後徳川幕府の直轄の地となり、 静岡より川船が通じるようになってからは産業が発達し、 寛政6年までの約40年間巨摩郡の政治・経済の中心地でありました。 廃藩置県、郡界の制定、町村制の施行などにより名称は幾度も変更されてきましたが、 昭和29年10月10日町村合併して韮崎市となりました。当時、人口32,264人、戸数6,031戸から韮崎市は始まったのです。 

https://www.city.nirasaki.lg.jp/soshikiichiran/sogoseisakuka/seisakusuishintanto/1/1495.html

「市」としての韮崎は、昭和29年に始まった様ですが、韮崎と言う地名は、戦国期にはもう既にあったと言われている様です。そこで疑問が湧いてくるのですが…。「航空機もない昔にどうやって、ニラの先の様な地形になってるって分かったんだ?」と…。昔の人は、上から見なくても、その形状を理解できたと言う事なのでしょうか?

そんな特異な地形と歴史の詰まった韮崎市の大人散策スポットを以下に紹介致します。(別記事でお隣、北杜市の大人観光スポットも紹介しておりますので、併せてご参照ください)

【韮崎を大人散策!】

七里岩/平和観音/雲岸寺/窟観音

韮崎市のかなりの範囲から、白く大きな観音様を見る事が出来ます別記事で紹介しております「七里岩」の突端、「韮崎」の名前の由来になった(かもしれない)、七里岩がニラの葉の先っぽに見えるその場所(七里岩の崖上)に、その観音様はいらっしゃり、眼下には、韮崎駅・市役所等の韮崎の中心部を含め、遠く富士山まで見渡す事が出来る景色が広がっています。

また、その観音様(七里岩の崖下)には、雲岸寺があり、その脇の崖の中腹のお堂には、窟観音がいらっしゃいます。多くの仏像に囲まれた窟観音は、小諸の布引観音の様に中腹のダイナミックな建造物であるお堂と共に、是非ご覧頂きたいスポットです(七里岩の崖下は、参道が掘られており、不思議な雰囲気を持つ空間もございますので、併せてご覧ください)。

・新府城址/桃源郷/能見城址

上記、平和観音から、七里岩の崖上を通る一本道を北(八ヶ岳方面)に進むと、新府城址が出てきます別記事にて紹介しておりまので、詳細はそちらをご確認頂きたいのですが、武田家滅亡時、武田勝頼の最後の居城になったお城です。周囲は、季節が限定されますが(通常3月中旬~4月中旬)、桃の花が美しい桃源郷の様な景色ですので、併せてお楽しみ頂けるスポットです。

また、新府城から更に北に進むと能見城がございます。こちらは、ほとんど遺構を見る事が出来ませんが、位置関係だけでもご確認頂けますと、より新府城の意味が見えてくるのでないかと思います。(詳細別記事ご参照ください)

・徳島堰

能見城址から今少し北に進むと、狭い道ですが、七里岩を釜無川(西)方面に下る道が出てきます。ここを下ると、徳島堰の直ぐ近くに出る事が出来ます。Wikipediaには、徳島堰に付き、以下の様に記載があります。

徳島堰(とくしませぎ)は、山梨県韮崎市と南アルプス市を結ぶ農業用水路。延長は17km。国の登録記念物に登録されている (略)  

江戸深川の商人・徳島兵左衛門俊正は、身延山に参詣した際に釜無川右岸(現在の堰の流路一帯)を通り、水が乏しいために広い土地が荒地となっている事を知った。このため堰の開削を計画し、寛文4年(1664年)に甲府藩主・徳川綱重の許可を得ると翌年に現・韮崎市円野(まるの)町、上円井(かみつぶらい)で着工した。この際に徳島俊正は藩から芝地の開墾を請負い、初年度のみ水代を徴収し、2年目以降は年貢の1割を下付されるという契約を交わした (略)  

寛文7年(1667年)の春には現・南アルプス市の曲輪田(くるわだ)新田まで約17kmの通水に成功したが、同年の夏と秋に台風の被害を受け、堰が2回にわたって大破している。徳島俊正はこの修復のために多くの資材を準備したが、それまでの工事費4,165両を補償する条件で堰を甲府藩に御入用堰として譲渡し、江戸に帰った。開通に伴って永代年貢1割を与える事を藩がきらい、退去させたと考えられている (略)  

当初は武川西郡新田堰と呼ばれたが、戸田周防守は徳島俊正の功を賞し、徳島堰と名付けた  

https://ja.wikipedia.org/wiki/徳島堰

写真にありますが、日本三大堰の1つと言われる徳島堰。地味な印象ですが、別記事で紹介しました東京の玉川上水程ではありませんが、取水口の水量はかなりのものがあり、迫力満点その後の流れは、逆に玉川上水と違って、かなりの水量で、「落ちたら命はないな…」と思えるほどのもので、かなりの迫力です。八ヶ岳や七里岩との自然とのコントラストも良いので、ちょっと立ち止まり、徳島堰を眺めてみてはいかがかと存じます

・願成寺

徳島堰同様、釜無川の右岸を流れに沿ってしばらく進むと、願成寺にアクセスできます。こちらのホームページには、以下の様にあります。

宝亀2年(771年)、祇園寺の末寺として京都の権大僧都心休了愚法印が開創しました。延長6年(928年)仏刹を建立、地蔵菩薩を安置し、願成寺としました。後に武田家始祖武田信義公が諸堂を整備し興隆しました。その際、京都七条仏師による阿弥陀三尊像を迎えて御本尊としました (略)   

http://www.ganjoji.jp

甲斐武田氏の始祖、武田信義と関りを持ち、彼のお墓があるお寺です。武田家発祥の地と言われる韮崎の象徴の様なお寺だと認識しています

・武田信義館跡

上記、願成寺のパートで触れました、武田信義の館跡が、小さいですが、願成寺の北西数百mの場所にあります。特に何がある訳ではありませんが、誰もが知る戦国武将・武田信玄の15代前の武田家当主で甲斐武田家の始祖の館跡です。そんなスポットで甲斐武田家の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

尚、近辺には車の駐車スペースがございませんので、以下に紹介するワニ塚の駐車場のご利用が、若干距離ありますが、宜しいのではないかと存じます。

・ワニ塚の桜

武田信義館跡の西、数百mの所に、圧巻の桜がございますワニ塚の桜と言われ、樹齢320年とも言われるエドヒガン桜の大木は圧巻の一言です。勿論桜の季節がベストですが、そうでなくても迫力満点。八ヶ岳や富士山をバックに見る一本桜は「必見」だと思っています。

・武田八幡神社

ワニ塚の桜から更に山を登った方面にある、武田八幡神社に付き、韮崎市の観光協会ホームページ(https://www.nirasaki-kankou.jp/index.html)には、以下の様にあります。

甲斐武田家の氏神として尊崇を集めた神社です。三間社流造檜皮葺の本殿は、武田信玄公が再建したもので国の重要文化財にもなっています。武田八幡宮の歴史は古く822年に嵯峨天皇の勅命により、武田王を祀るために創建されました。1140年に甲斐武田家の祖である武田信義公がこの武田八幡宮で元服をして源信義から武田太郎信義と名を変えたことにより甲斐武田家が発祥したとされています 

https://www.nirasaki-kankou.jp/eriabetsu_kakou_spot/kamiyama_asashi_area/jinjya_bukkaku_rekishi/4958.html

甲斐武田家発祥の地の由縁が、ここ武田八幡神社にあります。参道をのぼった脇に駐車スペースもありますので、是非脚を延ばしてみて下さい。

・韮崎大村美術館

韮崎市の宝である事は勿論、世界の宝、韮崎市出身のノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏が自費で建設し、韮崎市に寄贈した美術館です。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 大村智が生涯収集した展示・所蔵品を公開するため生家の近くに自費で建設し、2007年に開館した。翌2008年に作品を含めた施設を韮崎市に寄贈。館長は引き続き大村が務めている。

館内には約2500点以上の絵画や陶磁器などを所蔵している (略) 施設に付随する形で日帰り温泉施設「白山温泉」や蕎麦処「上小路」があるが、これらも大村が自費で掘削・建設したものである (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/韮崎大村美術館

ノーベル賞学者と言うだけで、ものすごい尊敬してしまいますが、それだでなく地域に対しこういった行為をして下さる、人としての側面に対しても、尊敬し、畏敬の念を抱いてしまいます。美術品の鑑賞のみならず、大村先生のお人柄も感じつつ、大人の時間を過ごしてみてはいかがでしょうか?

・日本のへそ

韮崎大村美術館から、3㎞強南東に行った場所に、日本のへそ」なる場所があります。周囲は、畑と住宅のエリアで、観光的な施設はありませんが、次の「将棋頭/高岩を含む信玄堤」の方面ですので、若干分かりにくい場所ですが、通りがてらに立ち寄ってみてはいかがかと存じます。

・将棋頭/高岩を含む信玄堤 (ちょっと韮崎から出ます…)

信玄堤に関しては、別記事にて記載をしております為、詳細はそちらをご確認いただきたいのですが、簡単に記載しますと、信玄堤とは、堤防の事だけでなく、それ以外の水を治める為に作られた、様々なインフラや仕組みを総合的に含めて、信玄堤と言う」と言った理解をしております。甲府の街を水害から守る為、武田信玄が行ったとされる治水事業の痕跡が、今でも見る事が出来ます。堤防(協議の意味の信玄堤)だけでは無く、将棋頭・竜王用水・お御幸様の三社神社等も含め、見て頂ければ、いかに信玄か考えて治水事業を行ったか、ご理解いただけるのではないかと思います

・泣石 (ちょっと韮崎から出ます…)

信玄堤から、上記で少々触れた「高岩」の上を現在は、甲州街道のバイパス線が伸びていますので、その道を北に進むと、中央本線の脇に、泣石が出てきます。元々の位置から動かされ、鉄道工事により水脈が断たれてしまったとの事ですが、その昔、岩の中央部から水が流れ出していたとの事です。また、甲斐武田家滅亡時のエピソードも伝わる岩ですので、ちょっとだけでも脚を停めてみて下さい。

【最後に】

以上が、韮崎市(一部市外に出ますが…)における、地域の自然や文化、歴史を感じる大人観光スポット/大人散策情報の紹介になります

誰もが知っている戦国武将、武田信玄。その甲斐武田家の始まりの地が、韮崎です。また、信玄の跡を継いだ勝頼が、武田家滅亡の際に最後の居城とした新府城があるのも韮崎です。更に、ワニ塚の一本桜や桃源郷を感じさせる桃畑の桃のお花と言った花々を楽しめる場所が韮崎です大村先生の美術館で芸術に触れる事も出来ます。

そんな歴史、自然(季節の花々)、芸術等を楽しめる韮崎で、大人散策(ドライブ?ポタリング?City Walk?)を楽しんでみては、いかがでしょうか? また、別記事でお隣の北杜市の大人散策情報/大人観光スポットも紹介しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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