奥州街道

【はじめに】

今回こちらのページでは、「五街道の1つである『奥州街道』に付き、整備された目的やその歴史を踏まえた概要を抑えさせて頂き、その歴史に思いを馳せてみたいと思いますが、結論から申し上げると奥州街道は、時には侵攻や制圧を目的とし、時には日本と言う国の発展を支え、時代とともに大きな目的 / 役割を変えつつも「東北・北海道地方が、良い意味でも、悪い意味でも、日本である事」を支えてきた、中央と東北エリア・北海道を結ぶ、歴史ある主要幹線路と思った次第です。

皆さんは、五街道は、ご存じだと思いますが…。東海道中山道甲州街道日光街道・奥州街道の5つの街道の事ですよね…。本ブログ別記事でも記載しましたが、それぞれの街道に、それぞれのイメージがあり、個人的な印象は以下の様な感じになります。

では、本日題材にさせて頂いた「奥州街道」はいかがでしょうか? 私個人の知識量の問題でしょうが、「宇都宮や白河等を通る五街道の1つ…」といった印象しか出てこなかった次第で「何をメインの目的に整備された街道か?」・「どんな歴史を持った街道か?」・「そもそも何処から何処までが奥州街道なのか?」といった疑問が出てきてしまった次第です(お恥ずかしい話ですが…)。

こちらのページでは、「(自身の知識量・情報量の問題でしょうが…)理解が不十分な「奥州街道」に付き、整備された目的やその歴史を踏まえた概要を抑え『奥州街道』という街道に思いを馳せてみたい」と思います。

【奥州街道の概要と歴史】

まずは基本に忠実に、情報の宝庫・Wikipedia の力を借り ”奥州街道” を調べてみますと、以下の様にあります(以下に、サマリ的にまとめておりますので、読まなくても大丈夫です)。

奥州街道(おうしゅうかいどう)とは、江戸時代の五街道の一つ江戸日本橋または江戸城大手門を起点として千住から白河へと至る街道である。下野国宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用されており、宇都宮宿伝馬町の追分で日光街道と分岐していた。

概要
五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、厳密には江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白沢宿から白河宿までの10宿の道筋を指した白河以北の17宿は幕府勘定奉行の管轄であり、賃銭などの統制のほかは、海道沿線の領主や旗本の管理に任されていた白河以南・以北を合わせ、本項の扱う奥州街道は道中に27の宿場が置かれた。江戸時代には江戸と陸奥国さらには蝦夷地間の物流が増加しており、白河はその中継地点として賑わい、奥州街道沿線では下野国宇都宮に次ぐ人口を擁するなど繁盛した。
現在、東京と東北方面を結ぶ国道4号旧道の栃木県宇都宮市以北の区間が「奥州街道」と呼ばれている。白河以北の一部区間では陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道などの名称が併用されていた。
奥州街道の前身は鎌倉時代に成立した中路および奥大道(鎌倉街道)である。

白河以北
江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられたが、江戸中期には蝦夷地開発のため、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した。蝦夷地松前宿以北は福山街道と重複しており箱館まで至る1872年(明治5年)以降はさらに渡島国亀田郡函館から石狩国札幌郡札幌までの札幌本道に接続して、北海道へのアクセス路線を担っていた。1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道・八戸自動車道が通っている。

史跡
岩手県岩手郡岩手町から二戸郡一戸町に至る街道跡の7区間、延長8.86 kmが、「盛岡市の北方に位置するかつての一戸宿周辺には、浪打峠をはじめ往時の姿をとどめる街道跡、一里塚が良好に残っており、近世の交通の歴史を知る上で貴重である」として、国の史跡「奥州街道」に指定されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/奥州街道

また、同じく本ブログ別記事の「五畿七道(五機八道?)」や「中山道」のページでも触れさせていただきましたが、(道としての)「東山道」をWikipediaにて調べてみますと、以下の様にあります。

東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。また、古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編された (略)
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された (略)

東山道ルートでの、京都⇔多賀城の概算距離(810km)
京都 -(22km)- 草津 (滋賀県) -(57km)- 長浜 -(12km)- 不破関 -(36km)- 岐阜 -(26km)- 美濃加茂 -(56km)- 中津川 -(100km)- 塩尻 -(55km)- 上田 -(20km)- 小諸 -(22km)- 碓氷峠 -(41km)- 高崎 -(112km)- 宇都宮 -(75km)- 白河関 -(152km)- 岩沼 -(25km)- 多賀城 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/東山道

更に、上記引用中「五畿七道」・「鎌倉街道」の文字も見えましたので、『「律令国家時代」・「鎌倉時代」で「奥州街道」にかかわりそうと認識している(ちょっと知識量不十分なので、ピンポイントでもうしわけないのですが…)「多賀城」・「奥州合戦」』に関しても、Wikipediaを調べてみますと以下の様にあります。

多賀城(たがじょう/たかのき、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった

概要
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した (略)
創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/多賀城

奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある (略)

出兵
(略) 頼朝は軍勢を大手軍・東海道軍・北陸道軍の三軍に分けて進攻計画を立てた畠山重忠を先陣とした頼朝率いる大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面、千葉常胤・八田知家が率いる東海道軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へ、比企能員・宇佐美実政が率いる上野国の武士団を中心とした北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へそれぞれ進軍することになった (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/奥州合戦

引用が多岐にわたり、それなりのボリュームですので、以下にまとめさせていただきます。

  • 江戸時代の五街道の一つである奥州街道(正式には奥州道中)は、江戸日本橋、または江戸城大手門を起点として、白河へと至る街道(宇都宮宿以南の区間は日光街道と共用)で、厳密には江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白沢宿から白河宿までの10宿の道筋を指したらしい(白河以北の宿場は幕府勘定奉行の管轄であったらしい)
  • 江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に用いられ、江戸中期には蝦夷地開発のため、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した事で、(正式な名称は別として)道そのものは函館まで伸びていたらしく(福山街道と重複)、江戸と陸奥国さらには蝦夷地間の往来・連絡・物流等を支えたらしい
  • 明治期以降は、さらに函館から札幌まで接続して、北海道へのアクセスを担っていた様
  • 現在は、大部分が国道4号となり、並行して東北自動車道・八戸自動車道が通っており、東京と東北方面を結ぶ国道4号旧道の宇都宮市以北の区間が「奥州街道」と呼ばれている
  • また、中山道日光例幣使街道・奥州街道などに再編されたと言われる「東山道は、(五畿七道における行政区分の一つの意味ではなく)諸国を結ぶ幹線道路であり、京都と多賀城(現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵(律令政府が蝦夷を支配するための国府(役所)、且つ軍事拠点で、奈良時代から11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地)を結ぶ街道であったらしい
  • 更に、奥州街道の前身は鎌倉時代に成立した鎌倉街道中道(≒中路(下野国(現栃木県)に至る道))および奥大道(≒奥州街道)であるとも言われているらしく、1189年に起こった奥州合戦(鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦い)時には、源頼朝率いる大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面(平泉)へ出兵したと言われる

上記、引用をまとめさせて頂きましたが、まだ錯綜感があると思うので、更に個人的理解を加えつつまとめさせて頂きます。

  • 奥州街道の意味(≒目的/活用)
    • 律令国家時代に、道としての東山道が、「東北地方を収める拠点の多賀城」と「京都」を結ぶ目的をメインに通され、鎌倉時代には、鎌倉政権が平泉を抑える為に活用し、江戸期になると参勤交代・蝦夷地(北海道)開拓 / 防衛と様々な目的に利用されてきたようだが、一貫して言える事は東北・北海道地方を日本の管轄とすべく活用された道」という事になる理解で、統治・制圧・侵攻・発展といった、様々な日本の歴史を、良い意味でも、悪い意味でも支えてきた道が、奥州街道と理解した次第
  • 奥州街道の区間
    • 律令国家時代に通された、道としての東山道における宇都宮以北が、奥州街道の最初の原型になる様に思われるが、鎌倉期には鎌倉街道中道もつながり、江戸期初めの日光街道の整備で宇都宮以南も踏襲されたかと思えば、江戸期中盤以降から明治にかけては、名称の問題はさておき、北海道の函館札幌まで(水上も含め)つながった道と思われ、定義的には「江戸(日本橋 or 江戸城大手門)~厩石(陸奥国)」or「宇都宮~厩石(陸奥国) & 江戸~宇都宮は日光街道 or 共通」or「宇都宮~白河 & 江戸~宇都宮は日光街道 or 共通)」or「白沢~白河」等々、様々な範囲(区間)の理解があるが、宇都宮から以北の東北の主要地を結んでいた(いる)道である事は事実」と言って良い認識で、本来の道の役割を考えれば、奥州街道の区間をあえて決める必要はなさそう

以上の様な理解になった訳ですが、上記の通り定義的に「奥州街道は、○○~●●の区間の道」と言い切れないと思うので、「私なりの奥州街道に関する勝手な理解」は『奥州街道は、時には侵攻や制圧を目的とし、時には日本と言う国の発展を支え、時代とともに大きな目的 / 役割を変えつつも「東北・北海道地方が、日本である事」を支えてきた、中央と東北エリア・北海道を結ぶ、歴史ある主要幹線路』といった理解をさせて頂いた次第です(かなり大雑把ですが…)。

【最後に】

以上が、「『奥州街道』の整備された目的やその歴史を踏まえた概要を抑え、奥州街道という街道に思いを馳せてみた」内容になりますが、皆様は、どの様にお感じになりましたでしょうか?

正直申し上げると『「奥州街道は、○○~●●の区間の道」で、「歴史上○○や●●、更には△△の舞台にもなった歴史ある街道」です!』といった様な感じの記事にしたかったのですが、上記の通り、結構大雑把な内容になってしまい、自身の知識の無さや思考の浅さが、嫌になってしまいました…。同時に、これまで「奥州街道とは?」と質問されても、ほとんど語れなかったでしょうが、少なくとも奥州街道は、時には侵攻や制圧を目的とし、時には日本と言う国の発展を支え、時代とともに大きな目的 / 役割を変えつつも「東北・北海道地方が、日本である事」を、良い意味でも、悪い意味でも支えてきた、中央と東北エリア・北海道を結ぶ、歴史ある主要幹線路といったイメージを持つことが出来たのは、収穫だったと思います。今後、東北北海道地方に参る際には、今回調べた「奥州街道」の情報を頭の片隅に置きつつ、大人散策を楽しみたいと思いました。

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