(「縄文海進時代の海岸線に考察を加えた記事」(本記事)、「縄文海進時代よりも前の時代の海岸線を考えた記事」、「縄文海進を支える貝塚の分布に関する考察」、「縄文海進を調査中に出会った興味深い言葉」といった内容で、それぞれ記事を記載していますので、併せてご参照ください)
【はじめに:川越に貝塚? ⇒ 主要都市の縄文海進状況】
こちらのページでは、「そもそも縄文海進とは?」、「縄文海進時の日本の状況(海だった場所は?)」につき、当時の想定地図を踏まえ、明らかにしていきたいと思います。
先日、川越市内を散歩している際に、川越にも貝塚があったとの情報を得ました。貝塚と言って、私が真っ先に思い出したのが、大森貝塚です。「貝塚は海の近くにあって、昔の人たちが主に食した後の貝のごみ等を捨てた場所」と言うイメージだったのですが、海から遠く離れた、海なし県、埼玉にある川越に、貝塚があったとは、散歩している時は、あまり実感がありませんでした。
しかし、帰宅後、調べてみると、”縄文海進” なる言葉を発見した次第です。本日は、この縄文海進なる言葉から、大昔の日本の様子を地形の観点で、地図を見ながら、考えてみたいと思います。(ちなみに、ご承知の通り、縄文時代→弥生時代と続きますが、弥生時代は、紀元前4世紀あたりから紀元後3世紀中頃とまでと言われているので、ざっくり600年程度ですが、縄文時代は、更にその前の1万年以上続いた時代と言う事だそうです。1万年以上と言うと、少なくとも、キリスト誕生から今までの期間のの5倍以上と言う事で、ものすごい長い期間です)
【貝塚と縄文海進とは? そしてその関係性・・・】
まず、発端になった、”貝塚”ですが、Wikipedia によると、以下の様にあります。
”貝塚(かいづか)とは、貝類の常食に適した地に居住する先史時代の人々が、日々ごみとして大量に出る貝殻を他の様々な生活廃棄物と共に長年に亘って投棄し続けることで、それらが累積した特定の場所をいう”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/貝塚
破損した土器や石器、人骨も見つかっているようで、様々な解釈はある様ですが、私の大雑把な理解は、間違っていない様です。
そして、”縄文海進” ですが、同じくWikipedia によると、以下の様にあります。
”縄文海進(じょうもんかいしん)は、最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1 – 2センチメートル)、ピーク時である約6,500年前 – 約6,000年まで上昇が続いた(日本では縄文時代)。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下した”、
https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文海進
合わせて理解すると、「縄文時代は、現在よりも、5m程海面が高く、その近くに住んでいた、人たちの貝塚が、その場所に残っている」と言う事の様です。なるほど、と思いながら、現在、川越から海面に最も近いと思われる東京湾まで、おそらく30-40Kmくらいは、あると思われるので、「縄文時代は、40Km位内陸部まで、海面が来ていたと言う事か?」、「いったいどこまで、海面は来ていたのか?」の思いが、ふつふつと沸いてきました・・・。
そこで、実際に標高を自身で設定して、状況が見える地図が、地理院の地図である為、早速試してみました。そのれが、以下の地図なのですが、本当にびっくりです・・・。
【縄文海進時の東京・名古屋・大阪の地図:海面は何処まで来ていた?】
日本の大都市圏である、東京(江戸城に関する記事を記載中)、名古屋(名古屋城に関する記事を記載中)、大阪(大阪城に関する記事を記載中)のそれぞれを、独自に設定した標高で地図に出してみると、平野部の殆どが、水没に近い状況になってしまうのです。言い換えれば、私達が住んでいる、また経済活動を行っている、日本の中心の平野部は、縄文時代は、ほぼ海だったと言う事です。それぞれ、見てきますと以下の様な結果となりました(更に別のエリアや詳細をご確認頂きたい方は、最下部の日本地図より、地理院のHPに飛ぶことが出来ますので、併せてご利用ください)。
【大阪地区】
西から、まずは大阪地区。標高、5-10mのエリアは、あの山崎の戦いがあった、山崎まで、入り込んでいます(別記事で山崎の戦いに付き、天王山と言う言葉で、言葉遊びしています)。一方で、大阪城のある、上町台地は、陸地であった事も理解できます。貝塚も10m~20m位に、いっぱいあるかと思いきや、大阪の貝塚をWikipedia で調べてみると、大阪には「日下貝塚」の1つしかありませんでした・・・(Wikipedia の貝塚一覧(https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の貝塚一覧)。
【名古屋地区】
次に、名古屋地域ですが、こちらもビックリです。現在では、沿岸から遠く離れた、岐阜市(岐阜城に関する記事を記載中)や大垣市の方まで、海が迫って来ていたことが伺えます。ただ以外にも、名古屋城のある、名古屋の中心部は、10m以上ある様なので、水没は免れているエリアと推察でき、やはりお城は、ちゃんと考えられた場所に、作られているんだと、改めて感心してしまいました。また、同様に貝塚も調べてみましたが、こちらは、愛知県だけで、30以上の記載がありました。
(別記事で、名古屋とその周辺で旅行した際の周辺情報を取り上げております(名古屋城、名古屋城本丸御殿、名古屋城二の丸庭園、白鳥庭園、熱田神宮、徳川園、岐阜城、犬山城、明治村等々)
【関東地区】
最後に関東ですが、こちらは、もっとびっくりです。茨城では、土浦・つくばみらい、千葉では、我孫子や流山、埼玉では、久喜・川越付近まで、10m以下の標高のエリアが広がっています。今考えると、それぞれかなりの内陸の印象なので、ここまで海岸線が迫った来ている事を想像することは、難しいかもしれません。
こちらも同様に、貝塚を調べて見たところ、Wikipedia で名前が載っていない貝塚もあるようで、数字が記載れているのですが、千葉で、700、東京で、100、埼玉で、100と桁違いの数が記載されています(先日発見した、小仙波貝塚も、名前だけは記載がありました…)。しかし、江戸城、川越城は、先に触れた大阪城・名古屋城同様、しっかりと台地の上に建てられているようで、こちらも感心してしまいました。
(別記事で、川越観光・川越のレストラン・周辺の史跡を中心としたポタリング情報、江戸城を中心とし大人散策情報報等を記載しております)
【最後に:縄文海進調べて感じた事 & 日本各地の詳細地図は…】
上記の様に調べてくると、川越の目の前まで海が迫ってきたこと、徐々に腑に落ち始めてきましたし、別の視点で、お城(城郭)の築城場所に関しても、しっかりと考えられて、選定されている事、実感を持つようになってきました。
と同時に、「今温暖化で海面上昇と言われているが、また数千年後には川越付近まで海が来るのだろうか?」、「自身が思ってるよりも、平野部にも起伏はあり、現代人よりも昔の人の方が、それを踏まえて、生活してきたんだなー」と言ったような事を思いました。海面上昇もそうですが、台風や高潮、地震による津波と災害が多い日本において、改めて、地形を加味しつつ、生活をしていく必要があるのでないかと、気付かされた印象を持った次第です。
こんな、調べ物をしながら別の視点で、疑問に思った事は、貝塚の数が、東日本と西日本で比較した際、東日本の方が圧倒的に数が多いと言う事です。上記でも触れた、Wikipedia の”貝塚一覧(https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の貝塚一覧)”、のページを見ると、その差は歴然です。
北海道(札幌の観光・ポタリングや小樽観光、函館(五稜郭等)の観光情報を別記事で記載しています)や東北(岩手・秋田・宮城を回る東北の旅も別記事で紹介しています)にも、かなりの貝塚がある様ですし、青森には、日本最大級の縄文遺跡である、三内丸山遺跡もあります。「縄文海進=地球は温暖化していた=西日本よりも東日本・東北・北海道の方が生活しやすかった」と言う事でしょうか? この謎は、今後の宿題とさせて頂こうと思いますが(この疑問に関する勝手な考察を別記事で記載しました:2021年5月更新)、皆さまもご自身の生活する場所の地形や標高を改めて見てみて、昔の人の生活に思いをはせると同時に、災害(この場合は特に水害)対策を考えてみては、如何でしょうか?
また、「縄文海進時代の海岸線に考察を加えた記事」(本記事)、「縄文海進時代よりも前の時代の海岸線を考えた記事」、「縄文海進を支える貝塚の分布に関する考察」、「縄文海進を調査中に出会った興味深い言葉」といった内容で、それぞれ記事を記載していますので、併せてご参照ください。
(高低差の地図は、地理院ホームページにて、作成したものを引用し、位置関係は、Google Map のキャプチャーに自信で手書きで、情報追加)