近江神宮 手前から北神門、外透塀、外廻廊、神符授与所、楼門

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【はじめに】

こちらのページでは、「歴史的には、『乙巳の変』・『大化の改新』・『白村江の戦い』・『近江大津京遷都』で有名で、『小倉百人一首』でも有名な『天智天皇』を祭神とする『近江神宮』に付き、その概要と周囲の大人散策情報を併せてご紹介」させて頂こうと思います。

いきなりですが、皆様は「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」 と言う唄をご存じでしょうか? これは、小倉百人一首の一番初めに記載されている、近江神宮の祭神・天智天皇の唄との事で「秋に田んぼの脇にある仮小屋の屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」と言う意味らしく、『収穫期(秋)の農村の「侘しさ」と「静けさ」を、農民の事を思いつつ、美しく表現した唄』と解釈されているらしいです。小学生の頃、初めて百人一首に出会った際、2つの唄を記憶しましたが、文学の才が無い私(と言うより皆無…)にとっては、あまり興味も沸かず、そもそもその意味も情景も理解できず、この唄と蝉丸の唄(これやこの 行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも あふさかの関)の2つしか暗記できなかった事を思い出します。蝉丸の唄は、イメージしやすく、すぐ暗記できたのですが、一方で天智天皇唄は、全く意味不明だった記憶がある物のなぜ暗記できたかと言うと「日本史には物凄い興味を持っていたから」です。「乙巳の変」・「大化の改新」・「白村江の戦い」と日本史を学び始めた頃に出くわす Key ワードとセットで出てくる「天智天皇」。「そんな天智天皇が詠んだ唄」という事で、必死に暗記した記憶があるという事です(実は作者は別にいると言う説もあるらしいですが…)。

こちらのページでは、上記の様な思い出のある天智天皇を祭る神社・近江神宮に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「歴史的には、『乙巳の変』・『大化の改新』・『白村江の戦い』・『近江大津京遷都』で有名で、『小倉百人一首』でも有名な『天智天皇』を祭神とする『近江神宮』に付き、その概要と周囲の大人散策情報を併せてご紹介」させて頂こうと思います。

【「近江神宮」とは?】

まずは「近江神宮」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

近江神宮(おうみじんぐう)は、滋賀県大津市神宮町にある神社。旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社で勅祭社でもある

歴史
当地は、667年(天智天皇6年)に同天皇が飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定されている。1908年(明治41年)の大津市制施行10周年を契機として、天智天皇をゆかりの地である大津宮跡に祀ろうという運動が起こり、1938年(昭和13年)に昭和天皇の勅旨によって官幣大社「近江神宮」の創建が決定、直ちに社殿の造営が始められ、1940年(昭和15年)11月7日に鎮座した。
太平洋戦争後の1945年(昭和20年)12月15日、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
例祭は大津宮に遷都された記念日の4月20日に勅使が参向して行われる。このほか主な祭典として、6月10日(時の記念日)の漏刻祭7月7日(年により5日)の燃水祭11月7日の御鎮座記念祭12月1日(年により12月2日)の初穂講大祭1月前半の日曜日のかるた祭(かるた開きの儀)などが行われる。また、日本古式弓馬術協会による武田流鎌倉派流鏑馬神事が11月3日に行われていたが、2015年(平成27年)から6月第1日曜日に変更された。

日本で初めて水時計(漏刻)を設置した天智天皇を祀る神社として、1941年(昭和16年)の時の記念日(6月10日)に第1回漏刻祭が開催され例年行事となった (略)
また、『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月に行われている (略)

祭神
主祭神 – 天智天皇(又の御名:天命開別大神(あめみことひらかすわけのおおかみ))
神徳:時の祖神 開運・導きの大神、文化・学芸・産業の守護神 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/近江神宮

また、近江神宮を知る上で欠かせない存在である「祭神の天智天皇」についても、調べてみますと、以下の様にあります。

天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉) (略) 皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる (略) 中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。

(略) 645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行った。また、有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて、一掃した。
百済が660年に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子の扶余豊璋を送り返し、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在したが、661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御し、百済復興を図って663年に白村江の戦いを起こすも敗戦した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した (略)
中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる (略)
672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたとの云われがある (略) 

百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。
秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌、百人一首の最初の歌 (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/天智天皇

以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。

  • 近江神宮は、滋賀県大津市にあり、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社・勅祭社で、667年に飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定される地に創建された、天智天皇を主祭神とする神社
    • 明治期の終わりに、「天智天皇を “ゆかりの地である大津宮跡に祀ろう” という運動が起こり初め、1938年に昭和天皇の勅旨によって「官幣大社・近江神宮」の創建が決定し、その後直ちに社殿の造営が始められ、1940年に創建された
    • 「例祭」は、大津宮に遷都された記念日の4月20日に勅使が参向して行われ、このほか主な祭典として、6月10日(時の記念日)の「漏刻祭」(日本で初めて水時計(漏刻)を設置した天智天皇に由来)、7月7日(年により5日)の「燃水祭」、11月7日の「御鎮座記念祭」、12月1日(年により12月2日)の「初穂講大祭」、1月前半の日曜日の「かるた祭」(かるた開きの儀(『小倉百人一首』の第1首目の歌を詠んだ天智天皇にちなんで?))、6月第1日曜日の日本古式弓馬術協会による「武田流鎌倉派流鏑馬神事」などがあるらしい
  • 主祭神である天智天皇は、皇子時代の中大兄皇子の名でも知られ、中臣鎌足と共に645年の「乙巳の変」に続く、「大化の改新」を行い、663年には「白村江の戦い」を起こすも敗戦し、667年に近江大津宮(現大津市)へ遷都した後の、672年に近江大津宮で崩御したと言われる、38代天皇で、百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭(百人一首の最初)に「秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」の歌を詠んだ (作者は別人の説もあり)  

天智天皇が、近江大津京に遷都したのは「667年」で、近江神宮の創建は「1940年」との事ですので、「大津京への遷都から1300年近くたって、創建された神社が近江神宮」と理解した次第です。日本史の勉強において、かなり初めの方に出てくる Key ワード;「乙巳の変」・「大化の改新」・「白村江の戦い」で、その中心にいた天智天皇を多くの人が知っているはずですが、別記事紹介の橿原神宮(初代・神武天皇:1890年創建)、平安神宮(50代・桓武天皇:1895年創建)等と同様に、創建にかなり期間がかかっている事は、かなりの期間日本人が自民族のルーツを遡る余裕がなかった期間があったと思われ、それが突然近代になってこういった神社の創建が進んだことは「戦争の影響」と「日本人の地元(国家)に対する誇りの芽生え」の両方が有ったのでないかと(この2つを併せて更に発展させると「ナショナリズム」という事でしょうが…)、創建に至った当時の時代背景を想像してしまった次第です。

また、白村江で大敗を期した天智天皇は「外国からの侵攻に耐えられる政治体制を構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から出て、防衛もしやすい大津を選んだ」とも言われているようです。天智天皇の前後の時代は、794年の平安京(京都)が都になるまで、神武天皇の神武東征により奈良盆地が日本の事実上の中心になり、その後、難波大隈宮・難波高津宮@現大阪等を含めた「奈良+大阪エリア」が日本の中心であったと理解しておりますが、そんな中で、そのエリアを初めて離れたのが、「近江大津京」と認識している次第です。言い換えると、672年(天武天皇の時代)には、都は奈良に移されている認識である事から、「近江大津京が都だった期間が “5年程度” であった事」と「白村江の大敗による一時的な避難」と言った要素を考えると、行宮(あんぐう;かりみや=天皇の一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設)の色合いも強いと思われる為、『「667年に、天智天皇は近江大津京に遷都した」と言って良いのか?』とも思ってしまった次第です(”秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ” の「仮庵」という事ですかね…)。

ちなみに、現在「東京にある皇居」も、『「遷都」でなく「奠都」、すなわち「京都に加え東京」と言った考え方のもので、東京を首都と定めた正式見解はない』ので、『「東京にある皇居」=「行宮」』と言えるかもしれません…。

【近江神宮の大人散策をプランニング!】

上記、近江神宮の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、その「近江神宮における大人散策情報」を記載させて頂きます。尚、最下部の地図は、そのスポットをGoogle My Map でポイントアウトしていますので、併せてご参照頂ければと思います(実際の大人散策においては、自身の位置を確認しつつ移動にご活用いただければ幸いと存じます(但し、歩きスマホはNGで…))

■近江神宮

近江神宮の最寄り駅は、近江神宮前駅になる様で、近江神宮の一の鳥居までは、500m前後の様ですので、10分もかからずアクセスできる認識です(一の鳥居から本殿まで更に500mくらいありそうですが…)。また、駐車場もある様なので「電車でも車でもアクセス良好」と言った理解で良い認識です。ただこちらでは、電車+徒歩でのアクセスを想定させて頂きます(恐らく埼玉川越からですと新幹線+在来線でのアクセスになると思うので…)。

「一の鳥居」から入り、参道を進んで、「二の鳥居」もくぐり、500mほど進むと、「手水舎」・「楼門」が見えてくるようです。「楼門」をくぐると、すぐに「拝殿」がある様ですので、天智天皇にまずはご挨拶申し上げようと思います。その後、何処まで立ち入りできて、何処まで拝見できるか不明ですが、出来る限り社殿を拝見させて頂き、「日本で初めて水時計(漏刻)を設置した天智天皇」という事で「漏刻」・「日時計」・「古代中国の火時計」・「時計館・宝物館」と言った時計にかかわるスポットを散策させて頂き、「小倉百人一首の第1首目の歌を詠んだ天智天皇」ですので、その痕跡も探しつつ「栖松遙拜殿」・「神楽殿」を回りたいと思って折ります。

■近江大津宮の痕跡

上記、近江神宮の大人散策のエリアは結構限られそうですので、併せて「近江大津宮の痕跡」も巡ってみたいと思います。最下部の地図でいくつかその痕跡と思われそうなスポットをポイントアウトしましたが、実際に脚を運んだことがない為、正直どの程度のものかわかりませんが、1300年近く前に、たった5年程、日本の首都であったとも言われる地」ですので、”秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ” の唄を思い出しつつ、「行宮」の要素が強いと思われる近江大津京の痕跡を回り、天智天皇の心持を少しだけでも感じてみたいと思って折ります。

■周囲の大人散策スポットも併せて

この近江神宮があるエリアには、本ブログ別記事で紹介しました、山王信仰の中心延暦寺/日吉大社」』や、『琵琶の浮き城である「瀬田城」・「膳所城(日本三大湖城でもあります)」・「大津城」・「坂本城(明智光秀の居城だった認識)」』、『個人的に興味のある「瀬田の唐橋」やヤマトタケル大国主を祭神とする「建部大社」』等にも、脚を延ばしてみたいと思って折ります。これ以外にも、折角、埼玉川越から参るのであれば、大人散策スポットを見つけできる限り、この地域を感じてみたいと思った次第です。

以上が、近江神宮とその周辺を含めた大人散策のプランニングになります。近江神宮だけであれば、半日もあれば十分で回り切れると思いますが、周囲のスポットまで含めて大人散策する事を考えると、2日あっても良いかと思った次第で、それならいっその事「京都観光(知恩院や平安神宮等)」や「琵琶湖周辺のお城巡り(長浜城現存12天守国宝5城である彦根城織田信長の居城であった安土城五大山城/山岳城観音寺城 / 小谷城等)」も併せて、旅全体を企画しても面白いかもしれないと感じた次第です。

【最後に】

以上が、「歴史的には、『乙巳の変』・『大化の改新』・『白村江の戦い』・『近江大津京遷都』で有名で、『小倉百人一首』でも有名な『天智天皇』を祭神とする『近江神宮』に付き、その概要と周囲の大人散策情報を併せてご紹介」させて頂いた内容になります。

冒頭、『天智天皇の唄「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」 は、「秋に田んぼの脇にある仮小屋の屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」と言う意味らしく、『収穫期(秋)の農村の「侘しさ」と「静けさ」を、農民の事を思いつつ、美しく表現した唄』と解釈されているらしい』と記載しましたが、上記に記載しました「天智天皇と大津京」の歴史を踏まえると、「白村江で大敗し、行宮(=仮宮=大津京)に移らなければならなかった天智天皇が、その地から天皇家が代々基盤にしてきた奈良・大阪エリアを思い、自身の失政を悔やみ、袖を濡らした唄」にも思えてしまった次第です。文才が皆無な私にとって、唄の解釈はあまりイメージできませんが、一方で歴史好きな私にとって、乙巳の変・大化の改新と改革を進めたものの、白村江で躓き、防衛に舵を切らなければならなかった天智天皇の心持」の方がしっくりきた次第で、自身の勝手な思い込みかもしれませんが、その天智天皇の心持に思いを馳せつつ近江神宮と近江大津京の痕跡を大人散策してみたいと思ってしまった次第です。まだお伺いできていませんので、いつの日か訪問を実現し、改めてこちらのブログで報告させて頂ければと思って折ります。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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