川越

【はじめに】

こちらのページでは、川越の顔の1つとも言える、喜多院の境内における(若干周辺の中院/川越日枝神社も含みますが…)、歴史や見所を踏まえ大人散策情報をご紹介いたします。

私達夫婦が住まう川越は、歴史と文化の息づく街で、現在でも多くの観光客の方がいらっしゃいます。別記事で紹介しておりますが、川越の観光地として有名なのは、蔵造の街並みとして有名な「一番街(通称:蔵通り)」、蔵通りの北側に位置する「菓子屋横丁」、菓子屋横丁の東に位置する「現存4御殿の1つ、川越城本丸御殿」、川越城本丸御殿の北に位置する「川越まつりの源、氷川神社」といった辺りが、「川越観光における主役たち」と言った所だと認識しています。

勿論上記以外にも、♫とおりゃんせ♫発祥の地と言われる「三芳野神社」大正浪漫が香る、「大正浪漫夢通り」河越夜戦の舞台の1つと伝わる「東明寺」(個人的には違う仮説を持っていますが…)等もあり、更に範囲を広げれば、古墳美味しいレストラン等もあり、本当に魅力的な街です。

そんな川越の顔の1つ、上記主役の川越観光スポットと同じ位置づけにあるのが「喜多院」川越の歴史を語る上で、最も重要な寺院(観光スポット)と言って良いと思います。こちらのページでは、そんな喜多院を大人散策できる様、喜多院の簡単な歴史、概要 、 境内の地図と共に若干の周囲情報も含め、見所をご紹介致します

【喜多院の概要】

まずは、大人散策実行にあたり、喜多院の概要を抑えさせて頂きます。信頼できるWikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう小江戸川越七福神めぐりの第3番で大黒天を祀る。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れる (略)  

平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が天台宗の教えを東国に広めるために無量寿寺として開創したのが始まりとされる。当時の無量寿寺は阿弥陀如来を本尊として、不動明王・毘沙門天を脇侍として祀った。その後、平将門の乱や比企の乱によって、無量寿寺は衰退する。

その後、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に、伏見天皇が天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に勅願寺無量寿寺の再興を命じる。関東天台宗の本山とした。上代文学研究者の山野清二郎は、二度の蒙古襲来によって北条執権に対する不満が高まっており、承久の乱以来失墜していた朝廷・公家の権威と存在感の回復を示すためと推測している。また尊海は成田氏の助力を受け、まず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるためとして、1301年(正安3年)後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられた。その後、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立した。後奈良天皇からは「星野山(現在の山号)」の勅額を賜るが、戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年 (天文6年)に炎上し、寺勢も衰退した (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/喜多院

上記にも記載しましたが、正月の三が日だけで、40万の参拝客がある喜多院は、やはり川越の顔と言うべき存在のお寺で、その歴史もかなりの長さがあり、創建は、830年(1200年程前)と言われている様で、当時の名称は「無量寿寺」。戦国期までは、戦乱等により、受難の時代が続いていた事、ご理解頂けると思います。

以下、今少しその後の歴史を見てみますと、以下の様にあります。

(略)  慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。

なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築したこれが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/喜多院

喜多院の繁栄は、「明智光秀ではないか?」とも言われる「天海僧正」が入寺した、江戸期の初めあたりからスタートしたと言って良いようです。また、川越大火で、境内の多くの建物が焼失してしまった為、江戸城にあった紅葉山の御殿を移築した事により、現在、「家光誕生の間」や「春日局の化粧の間」、「仙波東照宮」等の重要文化財を拝見出来ていると言う事である様です。また、これらの材料・資材を運搬する為に、やはり別記事にて紹介致しました新河岸川の舟運が開かれた事、ご理解頂けると思います。

川越の顔の1つ・喜多院の繁栄は、江戸期の初め辺りから始まり、川越大火をきっかけに、更に江戸との関りを持ち、現在に至っている寺院と理解して良いのでないかと思った次第です。

【喜多院の見所】

上記、喜多院の概要を理解させて頂きましたので、以下に喜多院の具体的な大人散策スポット(=見所)をご紹介致します。それなりの広さのある寺院ですので、最下部の境内の地図と共に、ご参照頂けますと幸いです

・喜多院山門 / 天海大僧正像 / 鐘楼門附銅鐘

川越の各駅(本川越/川越市/川越駅)からですと、反対側になりますが、喜多院の正式な入口・山門からご紹介します山門は、上記の通り、川越大火でも被害に合わずに済んだ喜多院の中で最も古い構造物で、1632年に作られたものと言われているそうです。威風堂々とした山門は、川越の顔の1つである喜多院の門として、風格あるもので、国指定重要文化財です。

また、山門入口付近には「天海僧正の像」、山門をくぐって左手には「鐘楼門附銅鐘」もあります。ちなみに「鐘楼門附銅鐘」も川越大火を逃れた可能性があるとも言われれいる様で、江戸期始めの構造物となり、国指定の重要文化財だそうです。

・五百羅漢

山門をくぐった先の右手には、五百羅漢の入口があります(以下に紹介する、書院等は有料になり、こちらでチケットを購入すると、五百羅漢のエリアにも入れるので、順番的には、「書院⇒五百羅漢」が良いと存じます…)。五百羅漢に関しては、Wikipediaの同じ「喜多院」の項目に、以下の様にあります。

(略) 「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/喜多院

語呂が良かったので、「”500” 羅漢」にしたのでしょうが、実際には、それ以上の羅漢像がいらっしゃる様で、その表情は千差万別。楽し気な像もあれば、哀愁感じる像もあり、見ていて飽きません。「深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている」という伝承がある事も納得の数量ですが、深夜にこのエリアに入る事は現在では出来ない様です…。

・慈恵堂(外から) / 多宝塔 / 大黒天 / ご神木 (槇)

五百羅漢のエリアを出ると、喜多院の本堂・慈恵堂と多宝塔がございます慈恵堂は、喜多院を紹介する写真や映像で良く出てくる、正に川越喜多院の顔。大きな屋根を持つこの建物は、堂々とした佇まいで、どっしりと構えています。また、多宝塔は、昭和の時代に移築・解体修理で復元された建物との事ですが、江戸時代の特徴伝える建物との事で、春先の桜に映える朱色は、美しいものです

尚、慈恵堂と多宝塔の間に、寺務所(庫裏・書院・客殿)への入口につながる小石の広場があるのですが、その南側(=慈恵堂の脇)に、大黒天とご神木(槇)と言われる大木があります(川越市内+近郊の名木/巨木等を別記事で紹介しております)。喜多院は、「川越七福神めぐりにて、大黒天を祀る寺院である事」と「天海僧正お手植えの樹齢350年と言われるご神木(槇)がある事」は、あまり知られていない様です…。

・「庫裏(寺務所)・書院・客殿」 / 紅葉山庭園 / 慈恵堂(内部)

大黒天とご神木(槇)の北には、庫裏(寺務所)・書院・客殿があります。こちらは、有料エリアになりますが、喜多院に初めて訪れる方は、是非訪れてい頂きたいスポットです(上記、五百羅漢の拝観料もセットですので…)。と言いますのも、上記にも記載しましたが、この庫裏(寺務所)・書院・客殿の建物は、川越大火の後の復興に際し、1638年に江戸城の紅葉山にあった建物を移築したものと言われており、春日局化粧の間(書院)・家光誕生の間(客殿)と伝わる部屋もあり、移築とは言え江戸初期の建物、しかも江戸城内の建物を実感できるこの場所は、歴史を感じずにはいられないスポットです(写真は上記参照)。

更に、こちらの客殿から望む庭園も美しく、特に春先の枝垂桜(ソメイヨシノよりも若干早く咲く傾向)と秋の紅葉は格別で、時が過ぎるのを忘れて佇んでしまいます(庫裏の入口にある枝垂桜も素敵ですが…)。そしてもう一つ、この庫裏から、歩くと足元が「キュウキュウ」なる渡り廊下をつたって、慈恵堂の内部にもアクセスできます

庫裏(寺務所)・書院・客殿と言った国指定重要文化財の建物と共に、季節を感じる美しい庭園や慈恵堂内部の厳かな雰囲気を合わせて感じてみてはいかがでしょうか?

・慈眼堂古墳 / 松平大和守家廟所

庫裏(寺務所)・書院・客殿を出て、慈恵堂の前まで戻ると、更に南側に、慈眼堂のある小高い丘が目に入ると思います慈眼堂は、家光の命により天海の木像を安置したお堂で、歴代住職の方々のお墓もございます。ちなみにこの小高い丘は、元々古墳と言われている様ですので、「古墳の上に歴代住職のお墓と天海の木像が祀られている」と言う事になり、少し珍しいお墓の形だと思います。

また、慈恵堂/慈眼堂の間を西に向けた先に、松平大和守家廟所がございます。喜多院のHP(https://kitain.net)、松平大和守家廟所の項目には、以下の様にあります。

慈恵堂の裏手に、石の柵に囲まれ、大きな五輪塔が並んでいます。ここは明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所びょうしょとして知られています

松平大和守家は、徳川家康公の次男結城秀康の子直基を藩祖とします。同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で亡くなった5人の藩主、朝矩、直恒、直温、斉典、直候が葬られています。 

https://kitain.net

江戸期の中盤から幕末のかけ、川越の街を治めた松平大和守家、5人の藩主に手を合わせてみてはいかがでしょうか?

・どろぼう橋 / 堀?

松平大和守家廟所の南には、ちょっと変わった名前の橋・どろぼう橋がございます。言い伝えによると、「町内で盗みをはたらいた者が、役人から逃れるため、江戸幕府が管理する(町方の役人は入れない)喜多院に、この「どろぼう橋」から逃げ込んで、その後、川越大師にお参りをする事で、自身の罪を悔い改めた」と言う逸話の残る橋で、このことから「どろぼう橋」と言う名前になったとの事です。

また、このどろぼう橋の下は、深い堀になっております。城では無く、寺院の喜多院にこれだけの堀があると言う事は、先の「概要」の項目で記載した、戦渦に巻き込まれた歴史からでしょうか? その真意までは分かりませんが、どろぼう橋から再び慈恵堂/慈眼堂の間を抜け、南にある仙波東照宮に向かう途中より、堀の底を散策する事が出来ます。堀の底を歩けるスポットはあまりないと思いますので、是非大人散策し、どろぼう橋を見上げみて下さい。

・仙波東照宮 / 随身門

堀の底を散策した後は、仙波東照宮に向かいます(明治期の神仏分離政策により、現在は喜多院と別管理の様ですが…)。基本こちらの仙波東照宮は、通常は公開されていないので、葵の御門が入った柵の外からしか拝見出来ませんが(写真は、2022年に川越市制施行100周年記念で特別公開された際の写真)、新河岸舟運の契機となったこのお社は、是非ご見学頂きたいスポットです。尚、参道入り口には、随神門があります。随身様はいらっしゃらない様ですが、堂々としたお姿の門は、併せてご覧頂きたい構造物です。

・中院 / 光西寺

仙波東照宮を出て、南に200m程進むと、春の枝垂桜/秋の紅葉が美しい中院がございます。中院に関しては、Wikipediaの「喜多院」・「中院」のそれぞれの項目に以下の様にあります。

喜多院の項目より
(略) 永禄年間(1558年 – 1570年)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/喜多院

中院の項目より
(略) 平安時代、淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と号した。鎌倉時代、尊海僧正によって再建する。日蓮が尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。東国580ヶ寺の本山の勅書を受けるなど隆盛を極めた。無量寿寺には仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)が存在し、後伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。天台宗の学問所である仙波談義所が開かれ関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たした。仙波東照宮建立の際に中院は移動した。(略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/中院

元々、喜多院は、無量寿寺の中の1つ(仏蔵院(北院))で、無量寿寺の中心は、仏地院(中院)であったが、天海僧正の入寺と共に、中心は仏蔵院(北院)に移り、名称も「喜多院」となり、更に川越大火によって仙波東照宮が再建されたタイミングで、仙波東照宮の場所にあった中院は、現在の場所に移転した」と理解しました。言い換えると、喜多院と中院は、兄弟で、兄貴分的存在の中院よりも喜多院の方が、現在では有名になったと言う事の様です。

喜多院程の大きさはありませんが、内部は凛とした雰囲気が漂っており、春先の枝垂桜(ソメイヨシノよりも若干早く咲く傾向)、秋の紅葉は、大人散策には外せないスポットです。また、季節限定ですが、中院の道を挟んだ南隣の光西寺にも、立派な枝垂桜が、松平周防守家(上記、松平大和守の後の川越藩主)廟所付近にございますので、併せてご覧頂きたいです。

日枝神社(川越)

中院を見学された後は、来た道を戻る形で、喜多院の山門付近まで戻り、川越日枝神社に参ります。こちらの日枝神社に関しては、Wikipediaに以下の様にあります。

日枝神社(ひえじんじゃ)は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。  

歴史  
円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)   

本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日枝神社_(川越市)

正直、あまり大きいと言えない神社ですが、東京の赤坂にある日枝神社は、川越の日枝神社から分祀したとの事(神猿で有名な赤坂の日枝神社の方が、現在の視点で見ると親分的に見えてしまいますが…)。本ブログ別記事でも紹介しておりますが、川越城と江戸城の関係は、元々の築城主が同じと言う事もあってか(太田道灌)関連深い様に思え、この象徴表れの1つだと思います

また、こちらの神社は、喜多院の慈眼堂同様、古墳に作られたとの事です。やはり別ブログで紹介しております通り、この付近は、貝塚(縄文海進の痕跡:小仙波貝塚)多くの古墳があり、喜多院よりもはるか長い歴史を刻んで地域である事は間違いない様なので、その歴史に思いを馳せて参拝されても良いと思います。

ちなみにこの地域は、「♪あんたがたどこさ?♪」(手毬唄)の発祥の地とも言われているそうです川越城本丸御殿の西隣・三芳野神社は、「♫とおりゃんせ♫」発祥地とも言われていますので、古墳わらべ歌/手毬歌の切り口と併せ、川越を大人散策されても面白いと思います!

「♪熊本何処さ?♪」⇒「♪船場さ♪」⇒「♪仙波山にはタヌキがおってさ♪」と言う感じ(漢字)で、仙波山がこの付近で、ここ(=川越日枝神社付近)が、「♪あんたがた何処さ?♪(手毬歌)の発祥」の地と言う事らしいです… (信じるか信じないかは、自由です…)

・境内での軽食

喜多院・中院・日枝神社と、上記内容で回ると、まずまずの距離になるので、小休止・若干の腹ごしらえも必要になるかもしれません別記事で川越の大人レストランを一覧でご紹介していますので、そちらもご参照頂きたいのですが、喜多院境内にも、お団子屋さんやお土産屋さんもあり、若干の腹ごしらえが可能です。同時におすすめしたいのが、山門脇にある「紋蔵庵」の「つばさかりん」。柔らかめのかりんとうの中に、サツマイモ味の白あんが入っている感じで、香ばしさとサツマイモの甘みを感じる一品です。

【最後に】

以上が、越の顔の1つとも言える、喜多院の境内における(一部外部も含みますが…)、歴史や見所を踏まえた大人散策情報になります。

しかし、最後にもう一点…。喜多院では秋に「菊まつり」も実施しているケースがございます。11月の紅葉の季節にお伺いするのであれば、「菊まつり」も頭の片隅に留め置いて頂いて、併せて脚を運ばれてはいかがでしょうか?

それなりの広さもあり、歴史も感じる喜多院境内。周囲の中院や川越日枝神社、更に少し脚を延ばせば、古墳巡りわらべ歌発祥地巡り現存4御殿の1つで江戸城と兄弟城だと思っている川越城本丸御殿等の見所もあります。是非、以下GoogleMapで作成した地図と共に、大人散策頂ければ幸いです!

川越と言えば、一番街の蔵通りや菓子屋横丁を連想される方が多いかもしれませんが、今回ご紹介申し上げた喜多院は勿論、上記のスポットも中々魅力的で、大人散策には良い環境だと思いますので、各種ご検討頂き、川越での大人散策を楽しんで頂きたいと、川越市民として強く切望しております!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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