太田道灌

【はじめに】

本日は、川越の市立博物館をご紹介致します

別記事で、川越の観光情報を記載させて頂きましたし、日本三大奇襲に数えられる河越夜戦日本に4つしか現存しない御殿の1つ川越城本丸御殿古い道(鎌倉街道東山道と思われる道の痕跡)牛塚や山王塚と言った古墳川越の生い立ちに関連する的場国指定史跡の河越氏館跡紅葉や花々を楽しめるスポット大樹を巡る大人散策/ポタリングスポット川越の大人レストラン情報等、様々な切り口でご紹介してまいりました。川越在住の私達夫婦にとって、日々楽しむ事が出来る街が、川越なのですが、先日久々に川越市立博物館にお邪魔し、改めて川越の面白さを知った次第です

「博物館なんて・・・」と思いがちで(実は私達夫婦もそうだったのですが・・・)、中々脚を運ぶ機会がないとは思いますが、この川越市立博物館は、ちょっと違います。いい意味で、面白いのです。川越は、長い歴のある街で、歴史の中心にも何度か顔を出す街でもあり、その魅力を再発見できるスポットが、この川越市立博物館なのです

【川越市立博物館の位置情報】

まずは位置関係から。

川越市立博物館は、川越・本川越駅方面から行くと、川越の観光地の顔、一番街の蔵通りを抜けた先の東側にあります。道を挟んだすぐ南には、日本で4つしか現存しておらず、関東にはここ川越だけの、川越城本丸御殿があり、その入り口の直ぐ東には、「♫とうりゃんせ♫」発祥の地と言われる三芳野神社があります。北の目を向けると、徒歩5分程度も場所に、氷川神社があります。これらの近くにあると言う事は、現在の観光地からは一歩外れた場所にある様な印象も持ちますが、かつて(戦国から江戸時代にかけて位?)ここは正に川越の中心だった場所で、土地として非常に良い場所にあるのです(ちなみに、戦国の前の時代は、川越の上戸・的場付近と言われている様です)。

博物館なので、建っている場所は、あまり関係ないかもしれませんが、折角いらっしゃるのであれば、周囲の景観や、川越観光の重要スポット(本丸御殿氷川神社等)にも、脚を伸ばしてみてはいかがでしょうか?

【川越市立博物館の内部・展示物】

歴史のある街、川越だけあって、展示物は充実しています。広さはさほど広い訳ではありませんが、一つ一つの展示物のレベルは高く、大人の知的欲求を満たしてくれます。以下にいくつかの展示物を紹介致します。

・江戸期の城下町の模型

中々の力作です。今日の川越の鳥観図を意識しなから拝見させて頂くと、現在と多少の違いはあれど、どこに何があるのか、十分に理解できます。川越の歴史は現代にも息づいてる事を十分に理解できるこの模型はかなりの時間を見ていても飽きず、この模型を見るだけでも、この博物館に脚を運ぶ価値があると思います。

・天海の像

徳川家とのつながりが強く、川越観光の見せ場の1つ、喜多院と深いつながりを持つ天海の像があります。像その物と言うより、この像を拝見させて頂く事で、改めて思ってしまう説があります。それは、(御承知の方も多くいらっしゃると思いますが)天海=明智光秀」と言う説です。本ブログの別記事、「天王山と言う言葉を考える」ページでも触れさせて頂きましたが、明智光秀は、山崎の戦いで秀吉に敗れ、その後戦場から落ち延びる途中で、亡くなったと言われている説が最も市民権を得ている内容ですが、明智光秀=天海」と言う説もあるのです。Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

”(略) 天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠:同一人物説論者が根拠とするものには以下のようなものがある

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。

一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。 (略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/天海%3D明智光秀説

そんな事を考えながら、天海の像を拝見させて頂くと、歴史の面白さを改めて感じてしまいます。

・川越大火

現在の川越観光の顔、一番街の蔵造り通りですが、「小江戸」と言われいますが、多くの蔵造の建物が建てられたのは、明治期の様です。

このきっかけになったのが、1893年(明治26年)3月17日の川越大火と言われている様で、この大火で、1件だけ焼け残った商家(大澤家:写真参照)が蔵造であった事から、周囲もまねて蔵造で再建したとの事で、現在の重厚な蔵造の通りが出来上がったと言う事の様です。

現在は復活していますが、何年か前にも、菓子屋横丁で大きな火災があり、「川越の歴史には火事はつきものか?」と思てしまった事がありましたが、今の街並みをつくるきっかけとなったこの悲しい歴史をしっかり学ぶべきだと思いました。

・蔵造の商家の原寸大の模型

上記で触れた蔵造の建物ですが、その構造を原寸大の大きさで、復元しており、蔵造りの建物の構造を見る事が出来ます。昼間の一番街は、「人が多く、賑やかな観光地」と言った印象ですが、(地元の特権で訪れる事が出来る)早朝・夜間の一番街は、もっと魅力的です。

それはその建物一つ一つをしっかり拝見でき、雰囲気を味わえるからで、「これだけ立派な建物が、これだけの数、これだけまとまってある様は、確かにすごい」といつ行っても思ってしまいます。その建物の構造を勉強できるこの博物館は、川越ならではの展示だと思います。

・古墳からの出土品

本ブログ別記事でも紹介しましたが、川越には、郊外も含め、多くの古墳がありますが、この博物館では、それらの出土品を展示しています。大人散策やポタリングでそれぞれ古墳にはお邪魔していますが、現地で出土品を見る事はありません(たまに土器の破片を見つける事はありますが・・・)。「この博物館で出土品を拝見し、改めてそれぞれの古墳にお邪魔し、歴史に思いを馳せる」、正に大人の楽しみ方だと思った次第です。

・入間郡家(古代の役所)や東山道にかかわる展示

やはり、本ブログの別記事で記載させて頂きましたが、川越の西部の霞ヶ関・的場地区は、かつての川越(もっと言ってしまえば、入間郡)の中心であったと言われている様です川越地方最大規模の前方後円墳の牛塚があり、入間郡家(=古代入間郡の役所)跡ではないかと言われている、霞ヶ関遺跡もあり、更には古代道の東山道武蔵路が近くを通っていたとされています。こういった情報や出土品も展示されており、地元民としては、ワクワクしてしまう情報が眠っています。

・河越氏・太田道灌・北条氏等に係る展示

川越にかかわった武将として有名処で名前が出てくるのは、「国指定史跡として館跡が現代に伝わり、源義経の正妻を輩出している河越氏」、「江戸城もですが、川越城も築城した太田道灌」、「日本三大奇襲に数えられる、河越夜戦の立役者、北条(氏康)氏」と言ったあたりだと思いますが、この辺りの展示も充実しています。ここ得た知識を持ってして、また現地に足を運ぶ。こんな楽しみ方を出来る街・川越は、本当に「大人の知的好奇心を満たしてくれる街」だと改めて思えてきます。

【最後に】

以上が、個人的にチョイスした、川越市立博物館の展示内容です。昔一度、参らせて頂いた事はありますが、まだ大人になり切れていなかったせいか、あまり記憶に残ってはいませんでしたが、「へーそうだったのかー」と思った記憶だけはありました。しかし、30年の川越在住期間で、あちこちに脚を運び、少しづつ知識や情報を得て、改めてこちらの博物館に参らせて頂くと、「そー言えば、「元々の川越は、川越西部から来てる」との情報は、最初はここで勉強したんだった」であったり、「牛塚で発掘されたこの指輪って、こんな金色が鮮やかなんだ」といった感じで、改めて認識する事や感情があり、きりがないと思えてきます。

こんな素敵な街・川越に住まわしてもらっている事を感謝しつつ、「しばらくのフィールドワークの後、改めてこの川越市立博物館に脚を運んで勉強させてもらおう」というのが個人的にこの博物館に思う印象です。「大人の知的好奇心を満たしてくれる内容」だと思うので、是非皆様もこの博物館に脚を運んで頂き、川越の歴史に今一歩踏み込んでみてはいかがでしょうか? 

(上記展示以外にも、企画展があり、内容も変わる様なので・・・(ちなみに今回お邪魔した際の企画展は、昭和の街川越でした・・・)

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