縮景園はどんな庭園?
浅野家が造園した池泉回遊式の大名庭園で、山水風景を凝縮した意匠が特徴です。
原爆との関係は?
原爆で壊滅しましたが戦後に復旧し、広島の再生を象徴する庭園となっています。
見どころは?
跨虹橋、清風館、池泉回遊式庭園の景観、四季の花々などが挙げられます。
徒歩で巡れる?
はい。園内は歩きやすく、広島城も徒歩圏内です。
【はじめに】

🔗 関連記事:「広島の旅!:広島城・原爆ドーム・宮島・尾道・福山城等を巡る!歴史旅(まとめ記事)」は、こちらよりご参照ください!(更新中)
こちらのページでは、「江戸期の広島藩主・浅野家の『藩主別邸・泉水屋敷』に起源を持ち、広島再生の歴史に思いを馳せる事が出来る『縮景園』の大人散策情報を共有」させて頂きます。
📚本記事で得られる情報📚
✅「縮景園」の概要・歴史
✅「縮景園」における大人散策情報を多くの写真・詳細マップと共に紹介



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広島城が一旦閉城になるとの事で、そのギリギリのタイミング:2026年の早春に、「広島城への登城」を計画しました。そして、川越居住の私達夫婦としては、「どうせ広島まで行くなら、原爆ドーム・平和記念公園は勿論、縮景園や宮島、更に脚を伸ばし、尾道や福山城も巡りたい」という事で、「4泊5日の広島・宮島・尾道・福山を巡る歴史旅(更新中)」を企画させて頂きました。言い換えると、本ブログ別記事で「広島の旅:「広島城・福山城を巡る4泊5日の旅」をプランニング!」で、もう既にある程度計画していた旅を、実行に移した次第でした。
そんな「4泊5日の広島・宮島・尾道・福山を巡る歴史旅(更新中)」で、まず最初に脚を運んだのが「縮景園」。当初の目的は「広島城が閉城するので、その前に改めて現在(1958年竣工)の広島城のお姿を目に焼き付ける事」でしたが、居住地の川越を朝一に出発し、新幹線で広島駅まで参って、「広島城に参る途中にある縮景園」ですので、素通りできなかった次第です。つまり、「中国の西湖周辺の風景を縮めて表したと言われ、西湖堤を模したと思われる橋(縮景園では跨虹橋)が印象的な大名庭園」と理解する「縮景園」を素通りするのは、あまりにも勿体ないと思ったという事です。
こちらのページでは、そんな経緯でお邪魔した「縮景園」に付き記載いたします。すなわち、「江戸期の広島藩主・浅野家の『藩主別邸・泉水屋敷』に起源を持ち、広島再生の歴史に思いを馳せる事が出来る『縮景園』の大人散策情報を共有」させて頂きます。


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【縮景園の概要】
まずは、「縮景園の概要・歴史」から抑えさせて頂きます。以下、Wikipedia より引用いたします(引用後にまとめますので、読まなくても大丈夫です)。
縮景園(しゅっけいえん)は、広島県広島市中区上幟町にある庭園。
概要
国の名勝、日本の歴史公園100選。施設は県が管理する。
元和6年(1620年)、広島藩浅野氏初代藩主である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源であり、歴代浅野氏から寵愛を受け現在まで拡幅し、1940年(昭和15年)浅野氏が広島県に寄贈し現在に至る。最初の作庭は上田宗箇によるものだが、現在の庭園の原型は京都庭師の清水七郎右衛門による後の大改修によって形成されたもので、1900年代初期明治末期頃に現在のものとなったものの、1945年広島市への原子爆弾投下により荒廃、1970年代までに再建された。なお、清水は当時の著名な庭師の一人であり、縮景園の他にも吉水園と滄浪園を広島藩内に造園している。
広島市内中心部付近にあり、太田川水系京橋川沿いにあり、その河口から約6.4km上流に位置する。西側に広島城、京橋川を挟んで東側に広島駅がある。周辺は緑が多く、京橋川上流側に東部河岸緑地が整備されている (略)名称
縮景とは、各地の景勝を聚め縮めて表したことを意味し、あるいは中国の西湖周辺の風景を縮めて表したことによると言われる (略)園内
池泉廻遊式庭園。入り口は南端に位置する。
中央に「濯纓池」と呼ばれる池を配しそれを「跨虹橋」によって東西に二分、その池を基準に北・東・西に小山を築き宗箇山・二葉山・弥山などの借景としている。主要建物は、跨虹橋の南に位置する「清風館」で、その他茶室や四阿を備える (略)
水源は、園の北に位置する京橋川から引いた河川水と、園内3箇所ある井戸の揚水からなる (略)
- 主要庭景
- 濯纓池(たくえいち) – 面積8,020m2×平均水深1m。敷地の20%を占める。
- 跨虹橋(ここうきょう) – 天明6年(1786年)竣工、石製アーチ橋と陸橋からなる園内でも数少ない戦前からある建造物。長さ27.4m×幅2.1mで主要部分は花崗岩で出来ている。7代藩主浅野重晟が2度も作りなおさせたと伝わっている。日本百名橋(番外)の一つ。
- 南側エリア
- 清風館(せいふうかん) – 1964年建築、建築面積178.23m2、木造平屋建ての寄棟造・柿葺、東側に花頭窓がある数寄屋造の茶室。園のほぼ中央に位置する、園内最大の建物。園内その他建物はこの清風館を基準に配置が決められたと考えられている。
- 清風池(せいふういけ) – 1964年頃新設。
- 東側エリア
- 迎暉峰(げいきほう) – 園内最高峰の小山で標高約10m。樹木がほぼなく、かつてはここから遠方の広島湾の島々を望むことができたと伝えられている。
- 悠々亭(ゆうゆうてい) – 1969年再建、建築面積11.10m2、木造平屋建てで入母屋造・茅葺の四阿。かつてはここで茶会や歌会が行われていた。
- 有年場(ゆうねんじょう) – 4枚の小水田。江戸時代、五穀豊穣を祈って藩主が田植をしていた。毎年6月田植え祭り(茶会)が行われている。
- 香菜圃(こうさいほ) – 茶畑。江戸時代、藩内の有名品種が植えられていた。現在のものは1958年復元されたものであり、毎年5月茶摘茶会が行われている。
- 北側エリア
- 祺福山(きふくさん) – 標高約5.8m。頂上には戦前まで稲荷神社社殿があった。
- 踏雲橋(とううんきょう) – 祺福山の北側にある木橋。『縮景園記』ではこの付近が最も古色蒼然と評されている。
- 明月亭(めいげつてい) – 1974年再建、建築面積43.16m2、木造平屋建てで寄棟造・茅葺の数寄屋造りの茶室。水屋の窓に牛舎の車輪が特徴的な建物。
- 慰霊碑 – 広島原爆関連のもの
- 西側エリア
- 丹楓林(たんぷうりん) – 小丘陵。カエデなどの紅葉樹が植えられていたことに由来する[23]。
- 夕照庵(せきしょうあん) – 1970年再建、建築面積7.60m2、木造平屋建てで入母屋造・茅葺の茶室。
- 超然居(ちょうぜんきょ) – 1970年再建、建築面積7.45m2、木造平屋建てで寄棟造・茅葺の四阿。園内最大の島にあり観瀾橋および洗心橋の2つの橋で結ばれている (略)
広島 縮景園・冠木門 広島・縮景園Map(こちらのHPより) 広島 縮景園・清風館付近からの濯纓池と跨虹橋 川越 東屋の店舗前の様子 歴史
■ 前史
安土桃山時代、毛利輝元により広島城が築城され開かれた城下町は、関ヶ原の戦い以降入封した福島正則により更に整備されていく。
そもそも現在の広島市中心部は毛利氏による築城以前においては、太田川下流域の広島三角州内にあった何もない中州の一つであった (略)
江戸時代に描かれた毛利氏時代の町割絵図『芸州広嶋城町割之図』には、この地は寺社地として描かれている。つまり寺の跡に造園されたことになるが、寺の来歴などの詳細は不明 (略)■ 浅野氏の別邸として
(略) 家老で茶人でもあった上田宗箇に別邸建設を命じ造られたのがこの泉水屋敷である。つまり、1620年は竣工年ではなく着工年である。当時は小さな庭園であったが(右地図参照)、歴代浅野氏藩主の寵愛を受け、次第に拡大していく。■ 天明改修
宝暦8年(1758年)宝暦の大火(あるいは広島大火災)で城下は灰燼に帰した。以降7代藩主浅野重晟により城下の再構築が行われ、その一環として天明3年(1783年)重晟は京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ新作に近い大改修を行った。天明8年(1783年)完成 (略)■ 文政改修
8代藩主浅野斉賢時代、(略) 斉賢は積極的な文化・教育政策を進め、その一環として文政13年(1830年)大改修が行われた (略)
明治以降、最後の藩主であり大名華族となった浅野長勲の別邸として利用され、「泉邸」と呼ばれるようになった。
明治後期の日清戦争時、広島大本営が設置された際には「大本営副営」(明治天皇の宿泊所)となった。ただ記録によると、明治天皇は大本営にずっと篭もって指揮をとっており、泉邸に行幸したのは1894年(明治27年)11月6日の一度きりであった (略) また同年11月22日には皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が、翌1895年(明治28年)3月31日には昭憲皇太后がこの地へ行啓している (略)■ 県の庭園として
1913年(大正2年)からは一般にも開放され観覧できるようになり、1940年(昭和15年)には浅野家から広島県に寄付され、同年7月12日国の名勝に指定された (略)
1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下、爆心地から約1.35kmに位置したこの園は壊滅的な打撃を受けた。縮景園は空襲時の市民の避難先に指定されていたため、被爆直後の園内は多くの被災者であふれた (略)
1949年(昭和24年)広島平和記念都市建設法施行により復旧開始し、1951年(昭和26年)復旧途中ではあったが「縮景園」と改称され再開園した。本格的な復旧工事は1962年(昭和37年)から始まり、1970年代にほぼすべて完了している (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にサマライズ致します。
「縮景園」は、広島城下の形成期に浅野家初代広島藩主・浅野長晟が命じて造営した「藩主別邸・泉水屋敷(大名庭園)」を起源とする池泉回遊式庭園。 元々毛利氏の支配地であった広島だが、関ヶ原後の福島氏を経て、浅野家が入封した流れの中で整備され、江戸初期から昭和初期まで浅野家が所有した。戦前に浅野家から広島県へ寄贈され、戦災復旧を経て1951年に「縮景園」として再開園した(管理は広島市)。現在は国の名勝・日本の歴史公園100選に選定されている。
園名「縮景園」は、諸国の景勝を“聚め縮めて”表した庭、または中国・西湖周辺の風景を縮景した庭に由来する理解。園内には、石造アーチ橋の跨虹橋(ここうきょう:西湖堤)、茶室・書院の清風館、悠々亭・明月亭・夕照庵などの建物が点在し、迎暉峰(げいきほう:園内最高峰)や超然居(四阿≒東屋)からは、中心となる濯纓池(たくえいち)と積翠巌(せきすいがん)等の島々を含む景観を楽しむことができる。
日清戦争時には、大本営が広島に置かれたことから天皇行幸の舞台にもなったが、後の太平洋戦争では原爆により甚大な被害を受けた歴史を持つ。その復興を経て現在に至る姿は、「広島の歴史を象徴する庭園美と再生の物語」といった視点で見ても魅力的な庭園。
といった理解をした次第です。






【縮景園を大人散策!】
上記、「縮景園の概要・歴史」を抑えさせて頂きましたので、こちらでは、具体的な「大人散策情報@縮景園」に付き記載致します。全体的なコースとしては、唯一の出入口である「冠木門」から入って、「清風館」より東(右)に進み、東端まで行き、その後、池泉「濯纓池」の北側(上側)を東(右)から西(左)まで進んで、池泉「濯纓池」を一周し、その後「清風館」まで戻って、「冠木門」から失礼するルートになります。以下の「縮景園の園内マップMap(こちらのHP(https://shukkeien.jp/)より)」、並びに「最下部の GoogleMyMap で作成した地図(緑色の✪印参照)」をご参照頂きつつ、ご一読頂けますと幸いです。

■ 冠木門 ~ 迎暉峰
先に記載しました通り、「縮景園の出入口」は、南側の「冠木門」だけになります。ここを潜り、「チケット売り場」でチケットを購入した後、まっすぐ北(上)に進んで、「清風館」まで行きます。「清風館」は、「1964年築の木造平屋建てで、寄棟造・柿葺で、東側に花頭窓がある数寄屋造の茶室」と言った理解。勿論戦後の再建ですが、中々味のある建造物です。その建造物を楽しみ、向かいにある「原爆被災説明板」をご一読頂きつつ、「広島の歴史」に思いを馳せ、本格的な「大人散策@縮景園」のスタートです。
「清風館」から東(右)側に進むと、早々に大きな池泉「濯纓池(たくえいち)」が目に飛び込んできます。多くの島々が配置され、いくつも橋の掛けられた空間で、直ぐ橋を渡りたくなってしまいますが、一旦我慢し、「縮景園の東端」まで歩を進めます。「縮景園の東端」までくると、「薬草園」・「竹林」が見え、更には「京橋川」も見えてきます。「広島」の名の由来である「広い島」を意識しつつ、方向転換し、「薬草園」を見ながら、「竹林」の中に通された道を、その風情を感じながら進むと、だんだん登り坂になってきます。その登坂を登り切った先が「迎暉峰(縮景園の中で一番高い場所)」になります。


















■ 迎暉峰 ~ 悠々亭
「迎暉峰(げいきほう)」は、そんなに高い場ではありませんが、「縮景園の中で一番高い場所」に変わりはないので、視界は開け、「縮景園を立体的に楽しむ事」が出来ます。中々の景色ですので、その景色をちょっと時間を掛けて満喫し、西側に「迎暉峰」を下ります。「香菜圃」方面の「京橋川」・斜めに植わっている「大銀杏」・五穀豊穣を祈願したと言われる「有年場」・変化する「濯纓池」等の景色を楽しみつつ、坂を下りきると、「迎暉峰」を下から望む眺望、そして「濯纓池」にかけられた「いくつかの橋」に通じる道になります。ここで少しだけ「いくつかの橋」を往復する形で、眺望と共に楽しみ(足元にお気を付けください…)、「悠々亭」を目指します。「悠々亭」付近は、「濯纓池」越しの西側の「奥行きのある眺望」を楽しめると思います。

















■ 悠々亭 ~ 白龍泉
「悠々亭」で、「濯纓池」越しの西側の「奥行きのある眺望」を楽しんだ後は、更に西側に歩を進めます。「濯纓池」越しの景色を楽しめる園路が続き、「濯纓池」の中に配置された「島々」が、その眺望に変化を与えてくれますので、楽しみながら歩を進める事が出来ると思います。そして、しばらく行くと、「縮景園の顔」とも認識する「跨虹橋(ここうきょう)」の北側に出ます。







「跨虹橋」は、正に大名庭園でよく見かける「西湖堤」その物。本ブログ別記事で紹介した「小石川後楽園・旧芝離宮恩賜庭園・名古屋の徳川園」等でも見る事が出来ます。「西湖堤」は、「北宋の詩人・蘇東坡の詩」によって有名になった様で、「景勝地である中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を模して庭園に取り入れた」と認識をしております。そんな「跨虹橋(=西湖堤)」ですので、直ぐに渡りたくなってしまいますが、ここは一旦我慢して、「濯纓池」の北側を西側に進みます。
「祺福山」を拝見し、「祺福山近くの木製橋(踏雲橋?)」を越え歩を進め、ちょっと寄りする感じで「明月亭」の東側面を見学。「小さなお庭を備えた、木造平屋建ての寄棟造・茅葺建造物は、数寄屋造りの茶室」との理解ですので、中々「味のある建造物」です。しかし、東側を見学した後は、一旦来た道を戻って、「白龍泉」を見学しつつ、「明月亭」の南側面(こっちが入口?)に向かいます。「明月亭」の南側には、「車輪をかたどった様な窓」があり、上記の「通り味のある建物」であると同時に、「遊び心」も感じるものだと思った次第でした。
ちなみに「白龍泉」は、個人的には「白龍」と言うより「赤龍」と言った感じ。現在は井戸水を使用しているそうなので、「井戸の装置がさびているのかな?」それとも「これも、赤をあえて白と言う遊び心?」と思ってしまいました…。まっ、ちゃんと調べない限り、皆様のご想像次第だと思うので、ちょっと心に留め置きつつ、周囲の「濯纓池」の景色と共にお楽しみ頂ければと思います。
※ 参考 ※
本来「白龍泉」は、水音・水勢・白泡の迫力を楽しむ“動の水景”として設計されていたと言われる。「縮景園における白龍泉」は、園の東奥に位置する 三段の滝と曲水から成る水景であり、水が段落ちしながら白い泡を立てて流れ落ちる姿が、「伏せた白龍の背のように見えることからこの名が付けられたとされる。つまり白龍泉は、単なる湧水や水源ではなく、滝・曲水・象徴的命名が一体となった庭園の景観装置と理解できる。
さらに縮景園の構造を俯瞰すると、白龍泉は「庭園奥の名勝ゾーンの核」を担っている。古松渓から流れ込む水が白龍泉で勢いを増し、その下流には蓬莱式鶴石組の「積翠巌」が配置され、さらにその先には名亭「明月亭」が控える。つまり、この「連続性」によって、「縮景園の“奥の名勝”が形成」されていると言える。
























■ 白龍泉 ~ 梅林
上記、「白龍泉」の「参考」にて、『流れ込む水が白龍泉で勢いを増し、その下流には蓬莱式鶴石組の「積翠巌(せきすいがん)」が配置され、さらにその先には名亭「明月亭」が控える。つまり、この「連続性」によって、「縮景園の“奥の名勝”が形成」されていると言える』なんて記載しました。つまり、既に「白龍泉」・「明月亭」に関しては、記載しましたが、「縮景園の“奥の名勝” ゾーン」で、まだ「積翠巌」記載していないので、紹介しますが、文章だけでは、「はあっ???」って感じでもあると思うので、図解も一緒に記載します…。
「積翠巌」の石組は、
- 蓬莱式鶴石組:島全体を蓬莱山に見立て、正面の石組で“鶴が羽を広げた姿”を象徴する
- 三尊石:中央に主石、左右に従石を置く仏教的な三尊配置を応用した構造
- 枯滝式:水を使わず、石だけで“滝の流れ”を表現する技法
といった三要素が組み合わさった、縮景園でも特に象徴性の高い石組です。
この石組を、先に記載した「白龍泉」と合わせて立体的に捉えると、 白龍泉(実際の水の流れ) → 積翠巌(蓬莱山の象徴+枯滝の流れ) → 明月亭(仙境を眺める観望点) という連続した景観構造が浮かび上がります。つまり、縮景園が意図した “奥の名勝ゾーン” は、 水景・石組・亭舎が段階的に連動することで成立しており、 この一連の流れを理解することで、庭園の奥行きある世界観をより深く味わうことができます。
と、少し堅苦しい説明になってしまいましたが、話を戻し、「積翠巌」から更に西に歩を進めます。「積翠巌」西の「飛び石橋」を渡り、「御腰掛なば石」は、座らず拝見だけして、進むと「濯纓池西の浜洲」が見えてきます。ちなみに「浜洲」とは、「池の縁に“浜(≒海岸?)”を作ることで、 庭園に “(海の)広がり・奥行き・遠近感”を生み出す技法」なんて理解をしていますが、この付近は、正に「濯纓池西の端」で、庭園の奥行きを感じる場所。そして、その「浜洲」は、そのまま「夕照庵(茶室)」に続いていますので、「『海岸に佇む茶室』なんてイメージで作ったのかな?」と妄想しつつ、見学させて頂きました。また、「夕照庵」の南には、「梅林」があり、また「積翠巌」の西端を沿う様に「ちょっとした高台(丹楓林(小丘陵)?」に「園路」も通されております。梅の季節に「梅林」は外せないでしょうし、「ちょっとした高台(丹楓林(小丘陵)?」からの「積翠巌の奥行ある景色」も中々ですので、併せて見学されるべきと思います。






















■ 梅林・ちょっとした高台(丹楓林(小丘陵) ~ 清風館
「梅林」・「ちょっとした高台(丹楓林(小丘陵) 」を抜け、次に目指すのは、「超然居」。「超然居」は、「四阿」なんて言われますが、まっ(身もふたもない言い方かもしれませんが)簡単に言ってしまえば「東屋」です…。しかしその「超然居」からの景色は、中々のもの。ちょっと高くなっており、且つ島になっているので、「濯纓池がすべて見渡せるのでないか?」と言った景色を堪能できます。









その後、「超然居」のある島を「赤い手すりの橋」を渡って、「楊貴妃型石灯籠」も拝見しつつ歩を進めると「清風館」が見えてきます。つまりここで、「濯纓池」を一周した事になる訳ですが、ここで忘れていけないのが、「縮景園の主役の1つ」と理解する「跨虹橋」。「濯纓池」の北側で、一旦我慢した「跨虹橋」は、先に記載した通り、『大名庭園でよく見かける「西湖堤」』その物。「小石川後楽園・旧芝離宮恩賜庭園・名古屋の徳川園」の「西湖堤」と比較しつつ、じっくり見学させて頂きました。「北宋の詩人・蘇東坡の詩」によって有名になり、「景勝地である中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を模して庭園に取り入れた」と認識をする「西湖堤(=跨虹橋)」で、且つ太平洋戦争前から存在する歴史的建造物なので、「広島の歴史と庭園美を堪能する大人散策@縮景園のオオトリ」に相応しいのではないかと思う次第です。
「跨虹橋」の後、最初に拝見した「清風館」の北・西側面も拝見し、南下して唯一の出入口「冠木門」より「縮景園」を失礼し、「大人散策@縮景園」をコンプリートした感じでした。















【最後に】
以上が、「江戸期の広島藩主・浅野家の『藩主別邸・泉水屋敷』に起源を持ち、広島再生の歴史に思いを馳せる事が出来る『縮景園』の大人散策情報を共有」申し上げた内容になります。
「跨虹橋(=西湖堤)」・「濯纓池」・「迎暉峰(最高所)」・「白龍泉・積翠巌・明月亭(奥の名勝)」といった多くの見所がある「縮景園」。でも、1時間程度で十分巡れると思います(私達夫婦の場合は、50分位でした…)。故に、皆様も広島に脚を運んだ際は、是非、「縮景園」も大人散策スポットの1つとして候補に入れ、「広島の歴史と庭園美」を味わってみてはいかがかと思う次第です。
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