【はじめに】
こちらのページでは、「現在の川越の『生い立ち(由来?:ちょっと言い過ぎかもしれませんが…)』に関する『面白い情報』を共有」させて頂こうと思います。
本ブロブの別記事で、鎌倉街道上道の大人散策・ポタリング情報(①東武東上線・武蔵嵐山駅~鳩山の大橋バス停、②鳩山の大橋バス停~東武越生線・西大家駅、③東武越生線・西大家駅~智光山公園バス停、④智光山公園公園・バス停~西武(新宿/池袋)線・所沢駅)を取り上げさせて頂きました。そしてその散策の際に「堀兼道」なる古道の存在を知り(上記④の際)、「堀兼道」を調べ、その情報を大人散策情報として紹介させて頂きました。つまり、鎌倉街道の調査も含めた過程にて、「東山道武蔵路」の存在を知り、そして「堀兼道 ≒ 鎌倉街道の枝道 ≒ 東山道武蔵路」と認識し、更に「川城市内の『東山道武蔵路の経路』における位置的な視点で確認できているのは『川越市的場近辺』であると言われている」事を勉強した次第です。
「川越市的場」と言えば、私達夫婦の住まいからは近距離。土地勘もあるので、その周辺にある古墳等の存在も知っており、改めて調べさせて頂きました所、『「今の川越城近辺の主要スポットの配置」は、「その昔の河越氏館があった “上戸並びに的場近辺に酷似” 」しており、「川越城の築城とその周辺の整備にあたっての配置」は、「東山道武蔵路の経路」にも近いこの「川越市上戸・的場(入間川の左岸)の河越氏館があった周辺の主要スポットの配置ポリシー」を受け継いだのでないか?』といった情報も手にした訳です。



言い換えますと、「『今の川城(=川越城近辺)の主要スポット配置』は、『河越(川越市上戸/的場周辺)の配置』をモデルに、計画 / 設計されたと言う事」かと、改めて思った次第で、こういった情報を以って散策するのと、ただ散策するのでは、大きな違いがあり、「大人散策」と言うのであれば、是非前者で実行したいと思った次第です。
以下に、その「概要」と「現地の情報」を踏まえ共有いたしますので、皆様の大人散策・ポタリングプランの参考になれば幸いです。すなわち、「現在の川越の『生い立ち(由来?:ちょっと言い過ぎかもしれませんが…)』に関する『面白い情報』を共有」させて頂こうと思います。
【川越城近辺の景観と川越市上戸・的場近辺の古代の景観が酷似】
そもそも、今回の情報収集ですが、川越市の「博物館だより」のバックナンバーからの情報になります。以下の画面キャプチャーと併せてご確認頂きたいのですが、こらのリンク先より、抜粋し、引用させて頂きますと、以下の様にあります。
(略) 川越を含めその周辺地域にとって、古代の霞ヶ関に東山道武蔵路が通り入間郡家が置かれたことは、その後の歴史の方向性を決める一つの出発点になったと思 われます。そのあと河越氏がこの地に進出し古代的な権威を引き継ぎ武蔵武士として活躍していきます。戦国時代になると、地域の中心は入間川の右岸、川越城 を中心とした地域に移りますが、その時、入間川左岸 から「河越(川越)」の名を受け継ぐとともに、景観から伝説まで様々な文化装置を受け継いだようです。このような歴史文化の伝承のあり方を通じて、いつの間にか関係が忘れ去られた地域と地域の間の繋がりに気付いてみると、あらためて「歴史や文化を受け継ぐということ」の持つ重みを感じないわけにはいきま せん (略)
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/013/725/73.pdf
上記引用の様に、リンク先の P.4 に記載があります。詳細は、リンク先よりご確認頂きたいのですが、『「川越(戦国期から続く川越の中心の川越城近辺)は、河越(上戸・的場等の霞ヶ関近辺)から始まった」と言う事が、川越市の「博物館だより」にも記載してあった』と言う事を一番のメッセージとして、お伝えさせて頂きます(リンク切れもあるかもしれないので、pdf版も以下に共有します)。


【川越市上戸・的場近辺にある史跡・スポットの情報】
史跡スポットの散策が好きと言う理由だけで、これまであまり上記の様な情報はなく、川越市上戸・的場近辺を夫婦で散策させて頂いていましたが、「『鎌倉街道上道』の散策をし、『堀兼道』の存在を知ったと思ったら、川越付近を『東山道武蔵路』が通っていた可能性がある事を知り、更にその調査の過程で『川越の生い立ち(由来?)』に至る情報を得た訳で、『こういった情報を知った上で散策』したら別の意味で楽しいだろうと思い、『これこそ大人散策』だと改めて思った」次第です。以下に、そんなスポットを、鎌倉時代より前からある歴史的なスポットをメインに、改めての部分もありますが共有させて頂きます。
・日枝神社
上記地図にも記載がある、上戸・的場地区の日枝神社です。Wikipediaに、上戸の日枝神社の項目はありませんでしたが、『河越氏館跡の一角にある「常楽寺」』の項目の中に、記載がありました。そのパートによると、以下の様にあります。
(略) 新日吉神社:常楽寺の北西ほど近くに新日吉神社(現在の上戸の日枝神社)がある。永暦元年(1160年)、後白河法皇が京都東山に新日吉山王社を祀ったのにともない、河越氏がこの地を新日吉山王社に寄進、新日吉社領河越荘となった。河越重頼は京都の新日吉山王社から分祀してこの地に新日吉神社を創建、以来、河越荘の総鎮守として河越氏一族が崇敬した神社であった。明治時代の神仏分離令で「日枝神社」と名を変えて現在に至っている。(川越市小仙波の日枝神社とは別。) (略) かつては常楽寺より新日吉神社に鎌倉街道が通っていた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/常楽寺_(川越市)
鎌倉時代よりも前の創建と言う事の様で、大変歴史のある神社と言う事の様です。境内は大規模な神社と言う訳ではありませんが、それなりの広さがあり、厳かな雰囲気を醸し出しています。ちなみにに、本ブログ別記事の「狛〇を巡る大人散策」で紹介させて頂きましたが、本殿の脇に狛犬ならぬ「狛猿」がいらっしゃいますので、脚を運ばれた際には、併せてみてみてください!
日枝神社の様子
・鎌倉街道の伝承の道 (寄り道)
鎌倉街道と名前がありますので、鎌倉時代にはもう既にあった道と言う認識で、上記、上戸日枝神社の引用の中で、”かつては常楽寺より新日吉神社に鎌倉街道が通っていた”、とありますので、寄り道情報としての共有です(この鎌倉街道は、いわゆる上道ではなく、堀兼道の様です:「堀兼道≒鎌倉街道の枝道≒東山道武蔵路」)。日枝神社の北側に、小畔川があり、その川を渡った先に、この「鎌倉街道の伝承が残る道」があります。森の中に看板が設置されており、ちょっと解りにくいかもしれませんが、さほど遠い訳ではありませんので、可能であれば脚を伸ばしてみて下さい。


・八差路 (寄り道)
こちらも寄り道情報です。しかし、面白いポイントです。理由は2つあって、1つ目は「八差路」と言う事で「純粋に珍しい」と言う事です。「一般的な交差点の倍の道が1か所にまとまっている」って中々無いと思いますので…。そしてもう一つが、「この道が、この近辺のそれぞれ重要な場所(スポット)に通じている」と言う事です。今となっては、それぞれの先の道その物がなくなってしまっているケースもあれば、新しい道が追加された可能性もあると思うので、想像の域は出ませんが、この「八差路」が通じている(通じていた)と想像される場所(スポット)は、以下が上げられます。
- 上記の上戸日枝神社
- 入間郡家があった言われる方面(下記参照)
- 牛塚古墳(下記参照)
- 河越氏館跡(下記参照)
- 上記の鎌倉街道伝承地(小畔川に通じて折り、これを超えるとそのままこの伝承地に通じている事、容易に想像できます。またこの道は、入間郡家から「東山道武蔵路」に通じるために通され、時代の流れと共に、名称を鎌倉街道(堀兼道)と変え伝わって行ったという、勝手な妄想までしてしまいます…)


・河越氏館跡・常楽寺 (「的場八景」の一つに関連するスポット)
河越氏館跡・常楽寺に関しては、本ブログの別記事で紹介させて頂いいておりますので、そちらをご参照頂きたく存じますが、平安時代~鎌倉時代あたりに活躍した一族「河越氏」の館跡とその一角にあるお寺・常楽寺で、国の指定史跡です。入間郡家の後に、台頭してきた一族と理解して折りますが、「川越の生い立ちを考える上で、重要なスポット」である認識です。広い敷地では、流鏑馬が実施されますので、イベントに合わせ訪れても良いかもしれません。
河越館跡の様子・市立博物館の展示物・河越館跡で行われる流鏑馬の様子
・入間郡家(霞ヶ関遺跡?)
そもそも、”郡家” ですが、私の理解では、”律令国家の時代における郡の支配拠点・政庁” といった意味と理解しています。つまり、武蔵国における入間地方の「”政庁” があった場所が “霞ヶ関遺跡” 」と言う事と理解していいようです(当時の「入間の範囲」が、明確には見えていませんが…)。「政庁=霞ヶ関遺跡」と言うと、どうしても今の日本の政治の中心、東京の霞ヶ関を思い浮かべてしまいますが、関係あるのでしょうか?(「霞ヶ関カントリークラブに行く駅」なんて噂を聞いた事がありますが…)。正確な位置もわかりませんが、大雑把に霞ヶ関駅、入間川、河越氏館跡を直線で結んだ三角形の中の理解で良いようです。
詳細マップ(正確な場所は分かりませんが、この辺りで発掘調査していた認識です):https://goo.gl/maps/fzQkK1qhkTRoceNy8



・三芳野の里の碑 (「的場八景」の一つに関連するスポット)
三芳野の里の碑は、霞ヶ関東小学校の構内にあります。門の右側に、フェンス状の出入り口が設置され、入って構わない旨の張り紙がありました。恐らくこの辺りが、上記Mapにも記載されている、「初雁池」辺りと言う事だと認識しました。また、下記一番最後の写真は、川越市立博物館で撮影した写真で、江戸時代に描かれたものらしく、初雁池と併せて、「牛塚古墳」と今はなき「三芳野塚」等が描かれています。





・初雁橋 (寄り道)
川越城も、別名「初雁城」と言いますが、元祖川越(河越)と目される、この辺りにも「初雁」の名前が付く場所が多い認識です。その現在の代表が、この「初雁橋」だと思います。橋の袂には、雁をかたどったオブジェもあり、「初雁」を強調しています。晴れた日(特に冬)は、富士山も見え、入間川とのコントラストは、非常に美しい景色となります。




・牛塚古墳
こちら「牛塚古墳」も、上記Mapに記載されている、Keyとなる古墳です。Wikipediaによると、以下の様にあります。
(略) 牛塚古墳(うしづかこふん)は、埼玉県川越市にある前方後円墳である。的場古墳群を構成する一基。(略)
概要:入間川左岸の台地上に築造された全長47メートル、後円部径27メートル、前方部幅27メートル、高さ4メートルの小型前方後円墳で前方部を北西に向ける。川越地方においては最大の前方後円墳であり、墳丘は3段構築で墳丘に相似な周溝を巡らせている。1965年(昭和40年)に二度にわたり発掘調査が行われ、北側くびれ部から葬送儀礼に使用されたと思われる須恵器群が発掘されている。2回の埋葬と石室の改変が行われている。(略)
築造時期は、わずかながら埴輪が発掘されていることから6世紀末から7世紀初頭とみられ、また金銅製指輪が出土したことから被葬者は高句麗系渡来人に関わりのある人物と推定されている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/牛塚古墳_(川越市)
ちなみに、実際に牛塚古墳を訪れた際に、近くで畑仕事をされていた方と雑談した際に得た情報ですが、この牛塚古墳の前の道、「モーモーコース」とも言うそうです。「牛塚古墳の前の道だから…」、「牛を飼っている所があったから…」等の説はあるそうで、良くは分からないそうですが、ある程度長く住む地元の方は「モーモーコース」のと言う名前がある事は、ご存じとの事でした。近くに、小中学校があるので、子供向けのネーミングなのかとも思いましたが、中々、日本人的センスのあるネーミングだと思いました。




・浅間宮(初雁?)塚 (寄り道) (「的場八景」の一つに関連するスポット)
上記牛塚古墳から、モーモーコースを西に数百メートル行った左側に出てくる塚が「浅間宮(初雁?)塚」です。古墳なのか否かは分からない様ですが、名称として、この地域では、「初雁塚」とも言われている様で、昔的場駅にあった看板にも「初雁塚」と記載されていました(別の呼び方もあり、「初雁塚は別の消滅した古墳」といった説もある様ですが…)。言いたいことは、この地域には「上記に記載した『初雁池』・『初雁橋』同様、『初雁』の名の付くものが多い」と言う事です。牛塚古墳の近くですので、是非合わせて脚を延ばしてみて下さい。

・法城寺 / 三芳野天満宮 (「的場八景」の一つに関連するスポット)
上記、「三芳野の里の碑」の部分でも触れました「三芳野塚」ですが、「ここ三芳野塚(現霞ヶ関東第5公園付近)には、三芳野天神があったと言われている」様で、中世に「現在の川越本丸御殿前にある、「♪とうりゃんせ♪発祥の地」と伝わる三芳野神社に、ご神体が移った時期もあった」との事です(川越城が作られ、街の中心が移ったタイミング?)。その後、「東上線や宅地の開発により、三芳野塚が取り壊された後、川越霞ヶ関駅と的場駅の中間近くにある、三芳野天満宮に移された」と言われている様です。
以下に、川越市立博物館に展示されている、「江戸時代のこの川越上戸/的場地域の絵図」と共に、以下に写真記載します。尚、現代のマップに関しては、最下部の地図をご参照ください。
法城寺・三芳野天満宮の様子と現地説明文+川越市立博物館にあった絵図(位置関係を補足)
・若宮八番神社 (「的場八景」の一つに関連するスポット)
「東山道武蔵路の駅」と目される場所です。Wikipediaの「東山道武蔵路の項目」によると、以下の様にあります。
(略) 八幡前・若宮遺跡(川越市的場):「驛長」の墨書土器が出土し、こちらも駅跡の可能性が高いとして注目されている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/東山道武蔵路
現地の説明文では、「東山道武蔵路の駅だったと思われる痕跡」に関しては、かけらも触れていませんでしたが、この付近を「東山道武蔵路」が通っていたと、想像するだけで、ワクワクしてしまいます。尚、現在の「若宮八番神社」は、ほんの少しだけ、位置が動いている様ですので、「東山道武蔵路の駅」もちょっとだけ違った場所になってしまう認識です…。



・おなぼり山公園・御伊勢塚公園 (寄り道)
おなぼり山公園も、若宮八番神社同様、東山道武蔵路の痕跡を想像できるスポットです。同様に、Wikipediaの「東山道武蔵路の項目によると」によると、以下の様にあります。
(略) 女堀遺跡(川越市的場):現在確実に武蔵路の遺構として考えられている最北の遺跡 (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/東山道武蔵路
しかし、こちらも残念な事に、名前の痕跡以外、正確な場所・説明看板等を探す事は出来ませんでした。あくまでも自身の頭の中で、想像して楽しむスポットになります。また、この辺りは、古墳が多い事でも知られており、その一つの痕跡が近くにあります。それが、御伊勢塚公園ですので、お時間がある様であれば、脚を伸ばしてみて下さい。



・現在の東武東上線川越市駅と霞ヶ関駅間の入間川の両岸にある古いレンガ積みの橋脚(おまけ的に寄り道)
こちらも寄り道情報で、それも、律令国家時代の話に比べ、かなり最近の話の物です。現在の、東武東上線の川越市駅・霞ヶ関駅間の、入間川の右岸(川越市駅側)の近くに、今は無き「田面沢駅」と言うものがあったそうです。本記事の上部の引用で紹介した『川越市の「博物館だより」』の中にも記載がありますが、その付近には、昔のレンガ造りの橋脚が入間川の両岸に残っています。あまり話題に上がらない構造物ですが、味のある構造物だとも思いますので、上記の近辺ですし、お時間あれば脚を延ばしてみて下さい。



【最後に】
以上が、「現在の川越の『生い立ち(由来?:ちょっと言い過ぎかもしれませんが…)』に関する『面白い情報』を共有」を共有させて頂いた内容になります。
元祖・川越(河越)と目される地域と認識する「川越市の上戸・的場近辺の大人散策情報」を記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? また、「今回ご紹介の内容(川越市上戸・的場(入間川の左岸)の河越氏館があった周辺の主要スポットの配置ポリシー)」と「比較対象になる各スポット」に関しては、本ブログ別記事の川越観光情報(喜多院・川越氷川神社・川越城祉 / 川越城本丸御殿・川越街道)や、川越の(近辺も含めた)古墳や塚の散策/ポタリング情報等でもまとめておりますので、そちらも併せてご確認頂けますと幸いです。比較して頂くとわかると思いますが、川越市の「博物館だより」には、記載がなかった、的場の牛塚古墳に似た位置関係で、喜多院の慈眼堂古墳や、その隣の日枝神社古墳がある事が分かりますし、現在川越城祉の南に池はありませんが、地形的に池があっておかしくない事、ご推察頂けると思います。こんな情報を持ちつつ、それぞれ現地を散策する。正に大人散策だと思いますので、皆様も機会があれば、脚を運んで見て下さい。
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!