【はじめに:「栗よりうまい13里」で有名な川越と川越街道】
今回こちらのページでは、「『川越街道』に関し、『栗よりうまい13里』と言うフレーズと共に少しだけ、頭の体操的に深堀をさせて頂こう」と思います。
いきなりですが…、皆さんは「川越街道」ってご存じでしょうか? 東京・埼玉にお住まいの方、住んだ事がある方なら、多くの方がご存じではないかと思います。また、川越の観光に関しては、本ブログの別記事(川越まつりのページや川越大人観光(①川越の雰囲気を感じるコース・②川越を知るコース・③それぞれの楽しみ方で川越を楽しむ・川越のおすすめレストラン一覧)・川越周辺の古墳や季節の花々を巡る散策/ポタリング情報等)でも紹介しましたが、以下の「フレーズ」を耳にした事がある方も多いのでないかと思います。
「栗(九里)より(四里)うまい十三里(サツマイモ)」
=「川越は江戸から13里の所で、栗よりも美味しい “サツマイモ” が有名」、また、「9+4=13」と言うような、少し、”しゃれっけ” のある意味も含まれるらしい・・・
一般的に、「江戸から川越街道を通って川越まで、13里である事」、「(先の為「13里=サツマイモ」の意味もあるらしいので、13里の所にある川越名産物の)サツマイモは、栗よりもうまいよ!」と言った、商売における「キャッチフレーズ」的に、この「栗よりうまい十三里」なるフレーズが誕生し、昔から使われているという事らしいです…。つまり、上記の様なフレーズが出来るくらい、「川越は、サツマイモが有名」と言う認識をしている次第です…。

しかし同時に、ある疑問が沸いて来てしまいました…。それは「江戸から川越って本当に13里なの?」という事と、「川越街道ってどんな歴史を持った、どんな道なの?」と言うものです。こちらのページでは、そんな疑問を持ってしまった「川越街道」と「栗よりうまい十三里」と言うフレーズに付き、記載させて頂きます。すなわち、「『川越街道』に関し、『栗よりうまい13里』と言うフレーズと共に少しだけ、頭の体操的に深堀をさせて頂こう」と思います。
【13里も必要ない川越への道のり…】
いきなり結論的に記載しますと、「川越は、残念ながら江戸から13里の所にある訳ではありません…」。
「川越街道の江戸側の起点」を、「江戸の日本橋」とするのであれば、そこからしばらく 中山道 として進み、現在の板橋区の板橋三丁目付近の平尾追分(「追分」に関しては、別記事で紹介しています)で、中山道に別れを告げ、川越を目指す認識です。現在の視点に置き換えると、「254号線と、ほぼ近しいルートを通っていた認識の川越まで伸びる道」と言う認識になります。一方、「川越側の起点」は、イメージしやすい様に申し上げると小江戸・川越の顔である「蔵通り(一番街)」を北に進んで過ぎた所にある ”札の辻” or 川越市役所前の “市役所前”(昔の川越城西大手門前にあたる)と言う交差点と言われているそうです(様々調べてみたのですが、正確に「”札の辻” or “市役所前”」のどちらが「川越側の起点」として正しいか、明確になりませんでした…、まっ、たいした違いはありませんが…)。




江戸時代の地図(アプリ・大江戸今昔めぐり(https://www.edomap.jp)より)

そして、その注目の距離ですが「江戸日本橋 ~ 川越は、42 ㎞ 程度(平尾追分~川越であれば、30 km 強)」。1里は、約 3.9 ㎞ と言われているので「42 ㎞ ÷ 3.9 ㎞」で計算すると「11里程度」。つまり『13里かける事なく、江戸の日本橋から川越まで来てしまう』事になります。
故に「13里には、2里程足りない計算」になってしまいますが、もしかしたら、ちょっと何処かに寄り道する事を前提に、13里と計算したのかもしれません。しかし、普通に考えれば、『「13里=サツマイモ」の意味もある事を前提に、「栗よりうまい十三里」と言うしゃれっけの利いた「フレーズ」を思い浮かべて、知っていてか、知らないかは別にして、「川越は江戸から13里の所」にあり「栗よりも美味しいサツマイモが有名な街:川越」を商売として売り込みたかった』という事だと思えた次第ですが、皆様はどの様に思われましたでしょか?


個人的には、まあ、細かな事は気にせず、「江戸~川越は13里!」とそれを言い張るのも、なんとなく日本人ぽい感じもしますし、事実は別にして、それを受け入れるのも、いい日本人の大人な対応に思え、ほのぼのしてしまいました…。また、『「栗よりうまい十三里」のフレーズで有名な川越は、サツマイモがおいしい所だが、実際は、13里ではなく11里程で行けちゃう街』と現代風にアレンジしても、また面白いのでないかと思ってしまった次第でもありますが…。
(ちなみにですが、『「江戸日本橋から中山道を行き、平尾追分で分かれず赤羽付近の新河岸川まで行き、そこから船(舟運)を利用するなら50㎞位かなー」、それなら「3.9㎞(1里) × 13 = 50.7㎞」となるので計算合うかなー、もしかして陸路でなく、「ALLで新河岸川の舟運利用前提で13里?」といった感じなのかなー』、と色々考えてしまいました・・・)
平尾追分・川越街道碑の地図
【群馬県高崎まで続き、中山道と交わる川越街道】
そして、その川越街道は、「札の辻 or 市役所前の交差点」で終了ですが、道その物は、群馬県の高崎まで続いております。そして、ここ高崎付近で、また 中山道 と交わる訳ですが、この「川越 ~ 高崎間の道」の事を「児玉街道(児玉往還)」と言うようで、川越から高崎までの距離は、60~70㎞程と考えられます。また、川越街道と児玉街道を合わせると「川越児玉往還」と言うようで、「100㎞以上の距離になる道」になる訳です。
つまり、中山道は、大宮・鴻巣・熊谷・深谷と言った宿を抜け、高崎に至ります。一方、川越児玉往還は、練馬・川越・武蔵嵐山(菅谷宿)・児玉と抜け、高崎に至るルートです。
地図で見た感じ、「江戸と高崎間」は、 中山道を行こうが、川越児玉往還を行こうが、距離的も、高低差的にも、たいして変わらないように見えます(気持ちだけ、 川越児玉往還の方が、短く感じがする一方、高低差は、 中山道方がない気がしますので、労力的には、ほとんど変わらない気がします故、どちらを行っても大差ないと思います…)。
皆さんが、江戸から高崎まで行くのであれば、どちらのルートを選択しますか? 恐らくそんな状況で生まれたフレーズが「栗よりうまい十三里」でなかったのでないかと想像してしまいました。つまり「川越の商売人としては、『中山道ではなく川越街道の方が、美味しくて、腹持ちする “サツマイモ” もあって良いですよ! 中山道ではなく川越街道をご利用ください!』と、中山道の浦和・大宮・鴻巣・熊谷・深谷といった宿に対し勝負を挑んでいるんだな…」といった想像をしてしまった次第です…。







【最後に:川越街道の前身は?】
以上が、「『川越街道』に関し、『栗よりうまい13里』と言うフレーズと共に少しだけ、頭の体操的に深堀をさせて頂いた」内容になります。
ちなみに、川越街道の前身は、本ブログ別記事・「江戸城と川越城は兄弟城?」でも記載しましたが、『同じ築城者(太田道灌)で、同じタイミング(1457年)に築かれた「江戸城」と「川越城」を結ぶ軍用路だった』と言われているそうです(以下に本ブログ別記事の「川越城の大人散策」でも触れた「引用」を共有します(ご興味ありますれば「川越城」のページもご参照ください)。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/川越城
つまり、「江戸~川越間の軍用路」が、時代を下り「一般道として川越街道」になったと言う事の様ですが、こんな事を考えながら、 中山道や川越街道、川越児玉往還の地図を見ていると、頭の中で当時に勝手にタイムスリップして、妄想的な旅を楽しんだような気になり、中々楽しいものです。故に今度は、日光街道や甲州街道、東海道、奥州街道といった五街道、更には、鎌倉街道、東山道武蔵路、東山道 vs 中山道といった別の街道(海道?)も、同じように楽しんでみようかと思います。皆さんも、地図の上で街道を眺めつつ、時代を超えた妄想の旅をしてみては如何でしょうか?