【はじめに】
こちらのページでは、「日本三大水城(海城)の一つで、続日本100名城にも選定され、徳川家康・武田信玄・黒田官兵衛・細川忠興と言った戦国期の有名武将とも関連深い『中津城』の大人散策を、周囲の日本三大〇〇と併せてプランニング」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「中津城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 日本三大水城(海城)の一つで、続日本100名城でもある
- 黒田官兵衛の築城に始まり、細川忠興が完成させたお城と言われ、それぞれの時期の石垣が、同時に見られる
- 江戸期で最も長く、明治期まで城主を務めた奥平氏は、徳川家康の血を引く一族
- 現在は株式会社が所有・運営をしている珍しい城郭
- 現在の模擬天守は、資料館になっており、徳川家康・武田信玄ゆかりの展示もあるらしい…
- 近くには、日本三大八幡・宇佐八幡、日本三大奇景・耶馬渓もあるらしい
中津城と言えば、「日本三大水城(海城)の一つで、黒田官兵衛が築城を開始し、細川忠興が完成させた名城」と言ったイメージで、江戸期の最後の城主・奥平家は、生き抜く為に戦国期に主家を何度も変えたようですが、最終的には徳川家康の血を引く一族となった家と理解しております。しかしながら、まだお邪魔した事が無く「『タイミングを見ていつかはお邪魔したい!』と思っているお城」と言うのが、私達夫婦の中津城に対する印象といった感じです(他の日本三大〇〇(八幡/奇景)も、近くにありますが…)。
こちらのページでは、そんなまだお邪魔できていませんが、今後の訪問に備え「日本三大水城(海城)の一つで、続日本100名城にも選定され、徳川家康・武田信玄・黒田官兵衛・細川忠興と言った戦国期の有名武将とも関連深い『中津城』の大人散策を、周囲の日本三大〇〇と併せてプランニング」させて頂きます。
【中津城の概要】
まずは、中津城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
中津城(なかつじょう)/中津川城(なかつがわ(の)じょう)は、大分県中津市二ノ丁(豊前国中津)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。 大分県指定史跡。享保2年(1717年)からは、奥平家が居城としていた(中津藩も参照)。
構造
周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。
中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。中津城の縄張りを示したパンフ(中津市のHP(https://www.city-nakatsu.jp/doc/2013100100011/)より) 天守
江戸時代の絵図には天守は描かれておらず、「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。しかし、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とある。その後、元和5年1月5日細川忠興書状に、小笠原忠真(忠興の三男忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲るとあり、当時忠真が築城中だった明石城へ送られたが、実際の明石城には天守はなく、他の建物に転用されたと考えられる。また、文禄2年(1593年)に亡くなった小河信章の跡を継いだ小河之直へ長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述があるが、これが中津城かその後の居城福岡城を指すかは不明である。堀・石垣
中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる (略)歴史
天正15年(1587年) – 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となる)を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。
天正16年(1588年) – 黒田孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた (略)
慶長5年(1600年) – 黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。
同年 – 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。
慶長7年(1602年) – 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
元和7年(1621年) – 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。
寛永9年(1632年) – 細川家の熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。
享保2年(1717年) – 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった (略)
明治3年(1870年) – 中津藩士福沢諭吉の進言により御殿を残し、その他建造物を破却する (略)
明治10年(1877年) – 西南戦争の際、西郷隆盛挙兵に呼応した増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により中津支庁舎であった御殿が焼失する。
昭和39年(1964年) – 旧藩主奥平家当主奥平昌信が中心となり、市民らの寄付を合わせて模擬天守が建造される (略)
平成22年(2010年)10月4日 – 中津勧業が模擬天守等の建物を民間の企業千雅に売却することを決定。
平成23年(2012年)5月 – 千雅が管理運営を一般社団法人中津城に移管する。現在は、一般社団法人中津城から業務を引き継いだ株式会社千雅商事が運営を行っている。国内で唯一の株式会社が保有運営する城郭である (略)
平成29年(2017年) – 続日本100名城(191番)に選定された (略)中津城の資料パンフ(中津市のHP(https://www.city-nakatsu.jp/doc/2013100100011/)より) 模擬天守閣
昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた (略)展示品
https://ja.wikipedia.org/wiki/中津城
模擬天守は奥平家歴史資料館として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した「大」の字の陣羽織、徳川家康真筆書・徳川家康軍法事書や奥平信昌真筆書など古文書類が展示されている (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 中津城は、黒田官兵衛(如水)が築城を開始し、細川忠興が完成させたお城で、最終的には徳川家康の血を引く奥平家の居城になった
- ほぼ直角三角形の様な形をなしていたため、扇形に例えて、別名・「扇城」とも呼ばれていた(いる)
- 構造的には、大分県・中津川の河口の地に築城された梯郭式の平城で、堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ、日本三大水城(海城)の一つで、続日本100名城
- また、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている
- 江戸時代の絵図には天守は描かれていないが、黒田官兵衛(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、実際の所、天守があったか否かは不明
- 黒田官兵衛(如水)の時代に普請した石垣は、現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものであり、模擬天守北面下には、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られるらしい
- 歴史的にみると、「黒田家(10年ちょっとで肥前に)」 ⇒「細川家(30年ちょっとで熊本に)」⇒「小笠原家(80年ちょっとで無嗣改易の後播磨に)」⇒「 奥平家(160年ちょっとで明治に)」⇒「役所」⇒「民間(1964年: 旧藩主奥平家当主奥平昌信が中心となり、市民らの寄付を合わせて模擬天守が建造:中津勧業所有)」⇒「民間(民間企業・千雅に売却し、千雅が管理運営を一般社団法人中津城に移管)」⇒「民間(一般社団法人中津城から業務を引き継いだ株式会社千雅商事が運営;国内で唯一の株式会社が保有運営する城郭)」
- 現在の模擬天守は奥平家歴史資料館として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した「大」の字の陣羽織、徳川家康真筆書・徳川家康軍法事書や奥平信昌真筆書など古文書類が展示されている
奥平定能の時代、今川・織田・徳川・武田・再び徳川と主君を変え、定能の長男・貞昌(=信昌)が家康長女・亀姫と婚儀を結んだ
黒田官兵衛の築城に始まり、細川忠興によって完成された中津城は、日本三大水城(海城)の一つに数えられており、現在では、続日本100名城に選ばれている名城と理解致しました。同時に、現在の天守は、史実に基づかいない観光要素の強い模擬天守との事で、歴史好きの視点から行ってしまうと少々残念な気もしないでもないですが、中津城の実質的な最後の城主の家・奥平家が市民の力も得て建てた天守は、また違った意味で価値のある物だとも思いました(「株式会社が所有運営する日本で唯一の城郭」と言うのも中々個性的ですし…)。そしてその家がもとになったであろう、奥平歴史資料館の展示物には、戦国期に今川・織田・徳川・武田、そして最終的には再び徳川と主家を変えつつ生き抜いて、徳川と血縁関係を持った奥平家の歴史が込められた展示と理解でき、武田信玄ゆかりの陣羽織や徳川家康の血を引く一族らしく、徳川家康由来の武具・書物の展示がなされている事は魅力的(展示物なので、タイミングによっては見れない可能性もあるでしょうが…)で、黒田家・細川家・武田信玄家・徳川家との関わりを奥平家を通して、その歴史に思いを馳せる事が出来るスポットあるとも思った次第です(黒田時代の石垣と細川時代の石垣が並んでみられる珍しい石垣もある様ですし!)。
【中津城の周囲を含めた見所】
上記、概要を抑えさせて頂きました中津城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。
■中津城とその周辺
・スタートは中津駅から三ノ丸であったであろうスポットを大人散策
少々土地勘が無いので、最も無難と思われる、中津駅からのスタートを想定いたします。駅を北側に出て、西へ線路に沿う様な感じで進んでいくと、島田口・金谷口・自性寺お囲い山跡とあり、そこから北に進路をとると広津口・小倉口・西門跡と出てくるようです。そこで、進路を東にとり、生田門・大手門跡・御用屋敷遺跡を回って、黒御門跡・椎木門跡と回り、現在の城郭へ入らせて頂こうと思って折ります。少々遠回りルートですが、恐らく上記ポイントを回る事で、中津城の三ノ丸であった部分を散策することになると思うので、かつての城郭の規模感を肌で感じつつ、大人散策を楽しませて頂くべく、あえて遠回りさせて頂こうと思った次第です。
・椎木門跡から現在の中津城の城郭に入り、模擬天守(奥平歴史資料館)へ
椎木門跡から、現在の中津城の城郭に入った後、まずはかつて、本丸と三ノ丸を分けていたであろう石垣と堀を楽しみつつ、進路を東にとり、途中可能であれば、蓬莱園・中津市歴史博物館に寄り道しつつ、水門跡まで行き、再び本丸中心部へ進路をとりつつも、この付近から中津川の河川敷へ行ける様ですので、河川敷からの中津城の石垣も堪能させて頂こうと思って折ります。その後、再び本丸に戻り、現在ではいくつか神社がある様なので(金刀比羅宮・城井神社・扇城神社・中津大神宮・奥平神社)それぞれお参りしつつも、河川との高低差やお城の痕跡(歴史的に、もし天守が存在していたなら、この付近の河川側が天守があった場所とも言われている様なので)を探しつつ、黒田官兵衛資料館・大鞁櫓と回って、現在の中津城の天守(奥平家歴史資料館)に参らせて頂くルートを想定しております。尚、模擬天守内の奥平家歴史資料館にでは、(展示物なので拝見出来ない可能性もあるでしょうが)武田信玄・徳川家康ゆかりの展示をしっかり拝見させて頂こうと思って折ります。
・現在の中津城の天守から二の丸を抜け、福澤諭吉旧居·福澤記念館へ
模擬天守(奥平家歴史資料館)で、武田・徳川ゆかりの展示を拝見した後は、現在の城郭を失礼し、東側の堀を北に進み、途中黒田時代と細川時代の石垣を拝見すべく寄り道しつつ、二ノ丸跡と思われる二ノ丸公園を目指します。二ノ丸公園の北側の端・中津城北門 武家屋敷跡付近までが二ノ丸であった場所と推測しますので、城郭のサイズ感を認識しつつ進んだのちは、東に進路をとって福澤諭吉旧居·福澤記念館を目指します。福澤様には、あまりご縁がありませんが、ご縁が持てる様、心の中で祈願しつつ、この歴史ありそうな施設を拝見させて頂こうと思います。
・福澤記念館からかつての中津城の痕跡を巡りつつ中津駅へ
福澤記念館で、ご縁が持てる様、歴史ある施設を拝見した後は、更に東に進路をとって、大塚口まで行き、そこで進路を南にとり蛎瀬口を回って、南西に進路を変え、鷹匠町おかこい山・合元寺(黒田官兵衛と共に姫路からこの地に来た空誉上人が開いたお寺らしく、朱色の壁が見所らしいです…)と回って、スタート地点の中津駅に戻り大人散策を終了させて頂こうと思います。
以上が、中津城とその周辺の大人散策のプランニングコース(ルート)となります。現在では限られたエリアの城郭ですが、周囲も含めて大人散策すると城郭の規模感や歴史を感じる事が出来そうなコース(ルート)に思えた次第です。
■少し広範囲の大人散策
上記、中津城とその周辺の大人散策ルートをプランニングさせて頂きましたが、今少しスコープを広げてみると、宇佐神宮と耶馬渓は、この地域において脚を延ばしたいスポットだと思いましたので、以下に紹介致します。
・宇佐神宮:日本三大八幡
本ブログ別記事でも紹介致しましたが、宇佐神宮は、全国に44,000社ある源氏の氏神と言われる八幡宮の総本社で、石清水八幡宮・筥崎宮 or 鶴岡八幡宮と共に日本三大八幡宮の一つと言われる神社です。中津駅からであれば、車であれば1時間弱、電車で1時間強程度でアクセス出来そうですので、神社仏閣好きの私達夫婦にとっては、外してはいけないスポットだと思った次第です。
・耶馬渓:日本三大奇景
宇佐神宮に加え、この地域でもう一つ足を運びたいスポットは、耶馬渓です。実物を拝見した事はないのですが、日本三大奇景の一つと言われるその景色は、写真を拝見する限り、別記事で記載しました真田氏が治めていた事もある群馬県東吾妻町の岩櫃城や山梨県甲府市の昇仙峡の様な景色にも見え、是非実物を拝見したいと思った次第です。
耶馬渓へのアクセスは、車でのアクセスが基本になりそうですので、中津駅付近でレンタカーを借り、宇佐神宮・耶馬渓と併せて、日本三大〇〇を訪問させて頂くと同時に、実際の訪問にあたっては、更に範囲を広げ「1日レンタカーで回れる範囲」を検討しつつ、大人散策(ドライブ?)を検討させて頂こうと思った次第です。
【最後に】
以上が、「日本三大水城(海城)の一つで、続日本100名城にも選定され、徳川家康・武田信玄・黒田官兵衛・細川忠興と言った戦国期の有名武将とも関連深い『中津城』の大人散策を、周囲の日本三大〇〇と併せてプランニング」させて頂いた内容になります。
日本三大水城(海城)で、続日本100名城に一つである中津城の城郭としての魅力は勿論、(間接的なつながりも含めて)中津城がかかわってきた武将の歴史も合わせて、大人散策を楽しめそうなお城だと思った次第です。同時に、全国にある八幡様の総本社で、日本三大八幡の一つである宇佐神宮や日本三大奇景の一つである耶馬渓もあり、「『日本三大〇〇』ツアー」を実現できるのでないかと思った次第でもあります。実際に訪問できた暁には、更に情報を更新し、報告させて頂こうと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。