姫路城

【はじめに】

こちらのページでは、日本が誇る、世界遺産 / 国宝・姫路城の大人散策をその概要や歴史を抑えた上で、プランニングをしていきたい」と思います。つまり、まだ姫路城にお伺いする事が出来ていません…。言い換えると、こちらのページでは、いつか姫路城に訪問すべく、その前段階の大人散策の準備として、情報収集させて頂く」事を目的に記載致します!

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「姫路城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

江戸期の前に築城され、400年以上の歴史を持つ、姫路城の天守群。いつかは、参らせて頂きたいという願望を持ちつつも、まだお邪魔できていないお城です。世界遺産であり、国宝5城であり、現存12天守である姫路城は、現在の日本において、間違えなく「No.1のお城」だと思っておりますので、こちらのページでは、訪問するその日に向けての前準備として、概要を含め調査し、「姫路城・大人散策プラン骨子」を練らせて頂きたいと思います

【姫路城の概要】

まずは、姫路城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)。

概要
姫路城は播磨国飾磨郡の、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城や「三名城」「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、大名が頻繁に交替して城主に成っている。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や、親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還時の酒井忠邦まで約270年間、城主は6氏31人(赤松氏から数えると約530年間、13氏48人)が務めた  (略) 

名称の由来と別名
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。万葉集巻9・1776に『絶等寸(たゆらぎ)の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ(播磨娘子)』とあるが、井上通泰はこのたゆらぎの山を姫山のこととする。

橋本政次『姫路城の話』では、別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来として、推論も含め、以下の4説が挙げられている

姫路城が「鷺山」に置かれているところから。
白漆喰で塗られた城壁の美しさから。
ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
黒い壁から「烏城(うじょう)」「金烏城(きんうじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。

白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもある  (略)

他にも以下のような別名がある。

不戦の城
幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから。

白い不死鳥
特に第二次世界大戦での空襲で奇跡的に炎上を免れ、市民に復興への勇気を与えた逸話から (略)

(略) 

・池田氏時代(1603年頃):300石以上の中級武士が約500人。
・本多氏時代(1617年から1639年):忠政の家臣が700人以上、忠刻の家臣が500人以上、足軽や小者を含め約4000人。
・榊原氏時代(1649年から1667年、1704年から1741年):家臣・足軽など約3000人。
・酒井氏時代(1749年から1871年):家臣・足軽など約2200人。

藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再び越前松平家、再び本多家、再び榊原家、再々度入封した越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野国前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫路城

少々引用が長くなってしまいましたので、最初の段落の内容と少しかぶりますが、以下にポイントをまとめます

  • 姫路城の今見る事の出来る天守群は、江戸期(1603年~1868年)よりも前に池田輝政によって大改修された(1601年の天守築城らしい)
  • 400年以上たった現在でも、その雄姿を拝見できる現存12天守で、且つ国宝5天守あり、更には世界遺産である
  • 日本三名城であり、三大平山城であり、三大連立式平山城でもある
  • 「白鷺城(はくろじょう)」(「しらさぎじょう」とも読まれることあり)の別名を持ち、「不戦の城 / 白い不死鳥」とも言われている
  • 戦国時代には、羽柴秀吉黒田孝高(官兵衛)が居城としていた時期もある
  • 城主としては、池田氏に始まり、譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や、親藩の松平氏が配属され、一番長い期間城主を務めたのは、酒井氏で120年強で、明治を迎える

姫路城と言うと、個人的には、西国将軍とも言われた「池田輝政」のイメージが強いのですが、「池田氏の統治は15年程」と言うのは、少々意外な印象を持ちます。同時に、天守群としては、400年以上の歴史を持ち、お城としては、室町時代から存在するお城で、羽柴秀吉黒田官兵衛が居城としたお城と言う事は、別記事で紹介しました中国大返し」の舞台の1つにもなったお城と言う理解です。『現存する巨大城郭・「世界遺産」兼「国宝5天守」兼「現存12天守」である「姫路城」は、「正に日本のみならず、世界の宝」』と言うべきお城だと思った次第です。

【姫路城の明治期以降の歴史】

上記、江戸期までの概要を抑えさせて頂きました姫路城ですが、「世界遺産 / 国宝・姫路城」を今現在拝見できるその理由を理解すべく、明治期以降の歴史に関しても抑えさせて頂きます(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

1878年(明治11年)12月26日には姫路城の腐朽を憂いた陸軍省第四局長代理中村重遠大佐が名古屋城と姫路城を国内無比の名城となし、我が国往古の築城の模範としてこれを保存し、保存修理に要する費用は陸軍省に於いて負担すべき旨、陸軍卿山縣有朋に報告し、太政官に上申された結果、1879年(明治12年)1月29日の姫路城と名古屋城の保存が決定した (略)

しかしその後も年を経るにつれて腐朽は進み、いつ倒壊してもおかしくない状態になったため、更なる大規模工事が必要となった。市民の間でも姫路城の保存修理を求める運動が高まり、1908年(明治41年)には白鷺城保存期成同盟が組織され、政府や衆貴両院に陳情を行った。その結果1910年(明治43年)第26回議会を通過し、9万円の予算をもっての「明治の大修理」が行われることになった (略)

1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである (略)

太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととしたしかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、最上階南側の薄い窓板を貫通して横滑りするように、最も衝撃が小さく、爆発しにくい角度で城内に入り込んだため、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。阿部知二は天守が赤く燃える町の火炎の色を映すさまを目撃し「妖しい生命を持った美しい怪鳥、生霊」と表している。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫路城

今現在、姫路城の雄姿を拝見出来る事、正に奇跡と言った内容だと思いつつ、以下にポイントをまとめます。

  • 明治期の姫路城は、かなりボロボロだったが、国内無比の名城と言う事で、名古屋城と共に保存が決定された
    • とは言いつつ、年々腐朽がすすんでしまうが、市民の間でも姫路城の保存修理を求める運動が高まり「明治の大修理」にいたった
  • 太平洋戦争中も、姫路城の白壁は非常に目立ち、また姫路は、陸軍の部隊が置かれた軍需産業の拠点でもあった事から、攻撃対象とされる事が容易に予測できたため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠し、お城を守ろうとした
  • しかし姫路は空襲により、戦火に見舞われ城下は焼き尽くされた
  • 西の丸にも着弾し、また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったり、消化を行った結果、焼失は免れた
  • 翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したと言われている

現在では、天下の名城として、誰もが大切に思うお城も、明治期は結構傷んでいた事が伺えますが、これを「何とか守ろう!」と言って、地域の方々を中心とした一般の方も、偉い人も多くの方が立ち上がり、お城を守ってきた事が伺えます。また、太平洋戦争時には、名古屋城は焼失してしまいましたが、姫路城が、砲弾を受けつつも残った事は「正に奇跡」で、「お城を守るべく奮闘してきた地域の方々の思いが詰まったお城である事を忘れてはいけない」と改めて感じ入っていまった次第です。

姫路城の修理の歴史に関しても、以下に抜粋させて頂きます。

(略)  修理の歴史
江戸時代の修理
大天守の大規模な補強修理は、1656年(明暦2年)に東・西大柱の腐った根元を取り除き栂材をはめ込み、更に帯鉄を巻き添え柱を建てる根継ぎ補強工事、1684年(貞享元年)と1700年(元禄13年)の梁などへの補強支柱の組み入れの他、1692年(元禄5年)、1743年(寛保3年)にも行われている (略)

明治の大修理
・第一期工事
工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。 (略)

・第二期工事
修理個所は、井郭櫓・折曲櫓・帯郭櫓・帯渡櫓・菱の門・喜斎門・各門(に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ)・各櫓と渡櫓(い・ろ・は・に・ほ・ち・り・を)・土塀各所が対象となった他、場内の通路整備などが行われた。1910年(明治43年)10月25日、第一期工事と同じ場所と参加人で工事入札が行われ、松村雄吉が2万9015円で落札した。同年11月5日から第一期工事の資材を再利用して工事が始まった。 (略)

昭和の大修理
昭和の大修理は、1934年(昭和9年)6月20日、西の丸の「タの渡櫓」から「ヲの櫓」が豪雨のため石垣もろとも崩壊したことに端を発する。1935年(昭和10年)2月から修復工事が始まったが同年8月の雨で「ルの櫓」の石垣が崩落する。これを受けて修理計画を見直し西の丸全域の修理を国直轄事業で進め、全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直すという方法が採られることとなった。(略)

■第一期工事
第一期工事は1935年(昭和10年)から1950年(昭和25年)3月まで行われることとなり、まず天守以外の建物のある西の丸及び北腰曲輪の櫓群や門・土塀などがその対象となった (略)

■第二期工事
姫路空襲による焼失の危機を免れると、1949年(昭和24年)、姫路市長らが「白鷺城修築期成同盟」を結成し市民の署名とともに『姫路城補修、保護施設費国庫補助請願』を政府に提出し、衆議院本会議において採択された (略) 1950年(昭和25年)に大修理が再開され、第二期修理計画は第一次と第二次に分かれて行われた。

・第一次六カ年計画(昭和25年度 – 昭和30年度
菱の門・帯の櫓・帯郭櫓などの櫓8棟のほか、門7棟、土塀13箇所、石垣3箇所が解体修理され、1956年(昭和31年)3月末までに天守以外の修理を完了した。第一次修理では当時の額で約1億円を要した。
・第二次八カ年計画(昭和31年度 – 昭和39年度
大天守・東小天守・西小天守・乾小天守とイ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われた。一般で言われている昭和の大修理は、この第二次修理を指している (略)

平成の修理

工事正式名称は「国宝姫路城大天守保存修理工事」で工事期間は2009年6月27日着工から2015年3月18日竣工。事業費は28億円(素屋根工事費 12億6千万円、補修工事費 15億4千万円)と見積もられている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫路城

こうやって改めてみてみると、江戸期前に現在の天守群が築城された姫路城ですが、江戸期にも、明治期にも、昭和の時代でも、そして平成になっても、修理・改修作業が続いており、先人の方々の誠意と努力が受け継がれてきたお城である事をちゃんと理解しなければいけないと思ってしまうのは、私だけではないと思いますので、大人散策にあたっては、「先人の方々と地域の方々の思いが詰まったお城だからこそ、世界遺産であり、国宝5城であり、現存12天守である事」を心に留め置いて、拝見させて頂こうと思った次第です。

【姫路城で現在見る事が出来る『すごさ』】

上記、姫路城の修理も含めた歴史を見て参りました。現在、姫路城が世界遺産であり、国宝5城であり、現存12天守であるその根源を見てきた感じですが、こちらの段落では、姫路城で現在見る事が出来る『すごさ』」を見て行きたいと思います。まずは、Wikipediaの「姫路城」の項目における「国宝」のパートを拝見すると以下の様にあります。

(略) 国宝
以下の5件8棟が1951年(昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。

大天守(だいてんしゅ)、東小天守(ひがしこてんしゅ)、西小天守(にしこてんしゅ)、乾小天守(いぬいこてんしゅ)、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)

上記の天守と渡櫓計8棟は、1931年(昭和6年)1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、1950年(昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。1951年(昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記の大天守以下の5件(8棟)が改めて国宝(新国宝)に指定された (略)

重要文化財(建造物/城郭)
1931年(昭和6年)12月14日指定(国宝保存法に基づく「旧国宝」指定)。
イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓、ニの渡櫓、ホの櫓、ヘの渡櫓、トの櫓、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓、折廻り櫓、井郭櫓、帯の櫓、帯郭櫓、太鼓櫓、ニの櫓、ロの櫓、化粧櫓、カの渡櫓、ヌの櫓、ヨの渡櫓、ルの櫓、タの渡櫓、ヲの櫓、レの渡櫓、ワの櫓、カの櫓、菱の門、いの門、ろの門、はの門、にの門、への門、との一門、との二門、との四門、ちの門、りの門、ぬの門、水の一門、水の二門、備前門、との四門東方土塀、との四門西方土塀、との二門東方土塀、との一門東方土塀、への門東方土塀、への門西方土塀、水の一門北方築地塀、水の一門西方土塀、ニの櫓南方土塀、水の五門南方土塀、イの渡櫓南方土塀、にの門東方上土塀、にの門東方下土塀、ロの櫓東方土塀、ロの櫓西方土塀、はの門東方土塀、はの門西方土塀、はの門南方土塀、ろの門東方土塀、ろの門西南方土塀、化粧櫓南方土塀、ワの櫓東方土塀、カの櫓北方土塀、菱の門西方土塀、菱の門南方土塀、菱の門東方土塀、いの門東方土塀、太鼓櫓南方土塀、太鼓櫓北方土塀、帯郭櫓北方土塀、井郭櫓南方土塀、トの櫓南方土塀    計74棟 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫路城

大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟で、計5件(8棟)が国宝で、重要文化財は、74棟との事。言い換えると、城内は、国宝と重要文化財に囲まれた空間と言う事になり「堀の中は江戸時代」と言っても過言ではないと思った次第です。姫路城は、時代劇等でよく使われている様ですが、「忠実に再現された空間」と言うより、「江戸時代その物」の風景が映し出されている事と思いつつ、今後は時代劇も拝見させて頂こうと思いました。

また、400年以上の歴史のある姫路城ですので、「石垣」も見所がありそうです。同じくWikipediaの「姫路城」における、「石垣」のパートには、以下の様にあります。

(略) 石垣
(略) 築かれた時代によって大きく5つの時期に分けられる。本多氏以降は城郭の増改修に幕府の許可が必要となったため補修が主になっている。

1期 – 羽柴氏時代
1580年(天正8年)-1582年(天正10年)に築かれた石垣で、二の丸に多く残る。野面積み

2期 – 池田氏時代
1601年(慶長6年)-1609年(慶長14年)に築かれた石垣で、本丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み、扇の勾配

3期 – 本多氏時代
1618年(元和4年頃)に築かれた石垣で、西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み

4期 – 江戸時代
1867年(慶応3年)までに行われた三の丸など各所の補修。切り込み接ぎ

5期 – 明治時代
1878年(明治7年)以降に行われた西の丸や三の丸(本城)などの補修  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/姫路城

「戦国期から江戸末期の石垣」を拝見できる様です。本ブログ別記事でも「石垣の分類」を記載させて頂きましたが、時代と共に、石の加工技術が発展し、美しく整形される様になった、切込接の石垣をもあれば、荒々しい戦国期の野面積の石垣もある様です。個人的には、自然石を積み上げた「野面積の石垣」が好みの石垣ですが、権力を示すような風格漂う「切込接の石垣」の美しさも魅力的。江戸期その物の雰囲気の中で、各時代の石垣を拝見できるのは、この上ない贅沢だと思うので、是非じっくり拝見させて頂きつつ、大人散策させて頂こうと思いました

【最後に:姫路城の見所は?】

ここまで、姫路城の「歴史的な概要」とその「すごさ」に付き、サーチさせて頂きましたので、これらを踏まえ、姫路城にお伺いし、大人散策をする際の抑えるべきポイント:姫路城、大人散策骨子プラン」を以下に列挙します。最下部のMap(:Google My Mapで作成した地図で、自身の位置を確認しつつ大人散策が出来ます!)と共に、一つの案ですが、散策ルート案も確認できますので、ご参照ください!

  • 何と言っても「世界遺産」兼「国宝5城」兼「現存12天守」の天守群を遠くからも、まじかっからも、様々な角度で拝見すべきと思いました
  • また城内は、地域の方々の思いの詰まった歴史のある空間と理解しましたので、その思いを受けつつ、このお城を守ってきた先人の方々の心意気に思いを馳せつつ、74もある重要文化財を、全ては見切れないとしても、できる限り拝見させて頂くべきと認識しました
  • そして石垣。戦国期からの石垣の変遷も楽しめる様ですので、これを楽しみつつ、大人散策させて頂こうとも思いました
  • 更に、今回のサーチで上記には記載しませんでしたが、城内には「好古園」と言われる庭園(池泉を備えた大名庭園?)もある様ですので、庭園好きの私達夫婦にとっては、こちらの庭園を大人散策で、他の庭園と比較しつつ楽しむのも一つの方法かと思った次第です。

以上が、日本が誇る、世界遺産 / 国宝・姫路城の大人散策をその概要をを抑えた上で、プランニング」させて頂いた内容になりますが、そのエリアは非常に広大。どうやって回れば良いかも見えなかったので、上記にも記載しましたが、Google My Mapで大人散策ルートの案も踏まえ作成させて頂きました。一つの案にすぎませんが、最下部の地図でポイントアウトしたスポットを上から順に回っていくと、姫路城を概ね隅から隅まで回ることが出来る認識ですので、併せてご参照頂けますと幸いです。

そして思った事があります。正直まだ訪問できていないので、なんとも言えませんが、「1日でたりるかな???」と言う事です。実際に拝見できていれば、どのくらいで回れて、天守群内部の状況も見え、より効果的なご紹介が出来ると思ったのですが、訪問できていない故、「これだけの巨大城郭を1日で回ってこれるかな?」と思ってしまった次第です。しかしそれも旅の一部と思うようにし、「旅は計画した時から始まっている」と自身に言い聞かせ、実際に訪問し、より効果的な紹介が出来るようになった暁には、改めて本ブログで紹介させて頂こうと思った次第です!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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