和歌山城

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【はじめに】

こちらのページでは、徳川御三家・紀州藩の居城で、日本三大連立式平山城の1つである和歌山城の歴史を含めた概要と、その周囲も含めた大人散策をプランニング」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「和歌山城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  • 徳川御三家・紀州藩の居城
  • 江戸期の将軍として、吉宗・家茂の2名を輩出した
  • 屋根と壁の付いたユニークな橋(御橋廊下)が堀に掛けられている
  • 日本三大連立式平山城の1つ(あとの2つは、姫路城(伊予)松山城)
  • 日本100名城に選出されている(ちなみに和歌山県から100名城に選出されたのは、和歌山城の1城のみで、続日本100名城に選出されたのも新宮城の1城のみ)
  • 中央構造線の上にあるお城
  • 関空から意外と近い

和歌山城と言って、真っ先に思付くのは、徳川御三家・紀州藩の居城と言う事。江戸期に吉宗・家茂と言った将軍を輩出したお城で、日本三大連立式平山城に数えられる名城と認識しておりますが、実はまだお邪魔した事がありません…。それは、サラリーマン時代の出張で、や福岡・熊本といった九州エリア、大阪神戸の中心部、四国の高松(高知はプライベートで参らせて頂きましたが…)等には、何度も出張でお邪魔しておりましたが、和歌山はお邪魔した事がなかった為です。大阪からは、中々仕事の合間を縫っていける距離間でもなく、基本、東京大阪は、新幹線移動がメインでしたので、寄り道する事もありませんでした。また、和歌山と言うと『「那智の大滝」、「熊野本宮大社」、「熊野古道」、「金剛峯寺のある高野山」、「リゾート地の白浜」と言った様なイメージを持ってしまい、大阪からもかなりの距離がある…』と思ってしまっておりました為、「和歌山城へのアクセスも大変だろう…」と勝手に思い込んで折りました

しかし一度だけ、「和歌山城っ意外とアクセスいいかも?」と思った事があります。それは、JALのグローバルクラブの会員になれる権利を得る為、意味もなく、ただ移動だけで、羽田-関空を往復した際の事です(当時、年間50回以上JALを利用するとグローバルクラブの会員になる事が出来る権利で、年末のタイミングで48回の利用であった為…)。当時は、からの出張の帰りで、且つ年末年始休暇に入るタイミングだったので、朝一で、千歳 ⇒ 羽田と移動した後、本来ならそのまま川越に帰宅し、年末年始休暇に入る所を、あえて羽田 ⇒ 関空 ⇒ 羽田と移動して、川越に帰宅するスケジュールとしました。何の意味もない、グローバルクラブの資格を得るためだけの移動だったので、関空の外に出る事はなかったのですが、待ち時間に「関空の回りって何があるの?」とGoogle Map を少し範囲を広げて見ていると「和歌山城」の文字が目に飛び込んできて「関空からだと和歌山城って結構近いんだ…、今後和歌山城にくる機会がある際は、関空を利用すればいいんだ…」と思った記憶がある事、本記事を記載する際に思い出した次第です…。

こちらのページでは、個人的にはそんなどうしょうもない記憶しかない、でもいつか必ずお邪魔させて頂きたいと思っている「徳川御三家・紀州藩の居城で、日本三大連立式平山城の1つである和歌山城の歴史を含めた概要と、その周囲も含めた大人散策をプランニング」させて頂いただこうと思います

【和歌山城の概要】

まずは、和歌山城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

和歌山城(わかやまじょう)は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

概要
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。

徳川頼宣は1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、これも幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。

その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。

明治維新後も本丸の天守、櫓群は遺ったが太平洋戦争末期の和歌山大空襲で焼失する (略)

遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存している。中でも岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は和歌山県指定天然記念物である。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が外観復元されてあるが、老朽化により今後大小天守群、二の丸御殿を木造復元する予定である (略)

江戸時代
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となった。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城した。幸長も引き続き城の改修を行っている。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。
1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。
1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。
1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。

近現代
1871年(明治4年)、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。二の丸御殿は、1885年(明治18年)に大坂城へ移築され、1931年(昭和6年)より大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、戦後米軍施設として使用中1947年(昭和22年)失火により焼失した。
1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放された。
1908年(明治41年)城内の二の丸に和歌山県立図書館が開館。
1931年(昭和6年)に国の史跡に指定され、1935年(昭和10年)には、天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし、1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。
1957年(昭和32年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。翌1958年(昭和33年)に天守群が東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリートにより再建された。
1983年(昭和58年)には1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。
2006年(平成18年)4月、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工した。また、同年4月6日、日本城郭協会から日本100名城(62番)に認定された (略)

天守
天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている (略)
1847年(弘化4年)に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている。
天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1850年(嘉永3年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と『御天守御普請覚張』を参考にして1958年(昭和33年)に再建されたものである。復元には東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート構造による外観復元とされた。復元設計にあたり、参考にされていた文献や図には天守群の高さが記入されていなかったため、焼失前に撮影された写真に写る他の建造物との高低比から天守群の高さが算出された。

二の丸
初代頼宣と14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。また、二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。また、大奥があるのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみである。表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所として機能した。現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され整備されている。

西の丸
和歌山城西之丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であった (略) 西の丸庭園は、江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として、国の名勝に指定されている。
また、鶴の渓門跡に浅野時代の鶴の渓庭園跡がある。西の丸庭園前の山吹谷は、徳川時代までは水堀であった。

御橋廊下
藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋藩主が移動するのを気づかれないために、壁付になっていた。江戸時代の図面をもとに木造復元されており、実際に通ることができる (略)

岡口門
浅野時代には大手門であったが、浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復された。1621年(元和7年)に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門が現存している。現在の門櫓は切妻屋根であるが当初は、門櫓の両側に続櫓があった。

追廻門
砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ門である。馬を追い回したことからそう呼ばれた。姫路城などに見られる旧型の高麗門である。1984年(昭和59年)から翌1985年(昭和60年)にかけての解体修理により、江戸時代には朱が塗られていたことが分かり、赤門であったと見られている。
赤門は御守殿(三位以上の大名家に嫁いだ徳川将軍家の娘)の住む御殿の門として建てられる、または御守殿を迎えた折りに門を赤く塗られたものをいうが、和歌山城の場合は二の丸の「御座の間」(藩主の居所)から見たとき裏鬼門(坤(南西))の方角に当たるため、魔除けのために赤く塗られたと推測されている (略)

石垣
時代により石材や積み方の技法が異なっている 豊臣秀長の時代は緑色片岩を中心とした自然石を切り出してそのまま積んだ「野面積み」の石垣が作られた。 浅野幸長の時代には、友ヶ島等に石切場を整備し、石を打ち欠いて加工しはぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られた。 徳川期には熊野の花崗斑岩を用いて、切石で精密に積んだ「切込みハギ」の石垣が作られた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/和歌山城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 和歌山城は、徳川御三家の一つ紀州徳川家の居城
  • 関ヶ原の戦いの後、桑山氏 ⇒ 浅野氏が城主となったが、1619年に徳川家康の十男・頼宣が入城し紀州徳川家が成立した
  • 城郭は、徳川御三家にも関わらず、幕府に疑いをかけられるほど大規模で、江戸期に何度も火災にに見舞われるが、その都度再建され、現在城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどとの事
  • 天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式で、姫路城松山城(伊予国)と並んで日本三大連立式平山城の一つ(現在の天守は、復元天守)
  • 二の丸には、初代頼宣と14代茂承以外の藩主が居住していた様で、二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた(大奥があったのは、江戸城和歌山城名古屋城のみ)
  • 西の丸にある西之丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であったらしい
  • 上記、「藩主が生活していた二の丸」と「庭園がある西の丸」の間の堀には、これらをつなぐ傾斜のある壁付・屋根付きの橋(=御橋廊下)が架けられており、現在復元され、渡ることができるらしい
  • 1935年、天守など11棟が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定されるも、太平洋戦争末期の和歌山大空襲で、天守を含む多くの遺構が焼失してしまい(天守などの国保指定建造物11棟は、すべてを焼失)、現在見られる遺構は石垣や堀をはじめ、岡口門と土塀(国の重要文化財)、追廻門が現存
  • 城内では、時代によって異なる石垣を見られるらしい
  • 日本100名城に認定されている

さすが徳川御三家・紀州藩の居城と言う事で、姫路城松山城(伊予国)と並んで日本三大連立式平山城の一つとされる天守群は、かなりの “見ごたえ” がありそうな印象を受けます(ただ、御三家にも関わらず、幕府に嫌疑をかけられるとは、少々滑稽ですが…)。太平洋戦争で、天守群を含む多くの遺構が焼失してしまった事は、非常に残念な事ですが、忠実に復元されれていると推測できる「天守群」や「御橋廊下」、戦火を潜り抜け現存する「岡口門と土塀」や「追廻門」と言った遺構は、和歌山城を大人散策するうえで、外してはいけないポイントになると思われ、時代によって違った積み方の残る石垣と共に、広い城郭を楽しみたいと思った次第です。

【和歌山城の周囲を含めた見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました和歌山城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。

和歌山城の大人散策ルートにつき、見所を踏まえプランニングさせて頂きますと、以下の様になりました(最下部のGoogle My Map で作成した地図と共にご参照ください)。尚、まだお邪魔した事が無い為、コース的に無理がある可能性がある旨、予めご了承いただけますと幸いです…。

まずは北側の大手門から

最寄り駅は、和歌山市駅 or 和歌山駅になる様ですので、アクセスしやすそうな、北側にある大手門から大人散策を開始しようと思います。大手門前の一の橋からは、立派な堀と石垣が見える様ですのでこれを楽しみつつ、門をくぐり、一の橋の樟樹(樹齢450年とも言われる楠?の大木)や中の門跡・伏虎像を拝見しつつ、二の丸に向かおうと思います。

二の丸

上記引用から、二の丸は藩主の居住地であり、表(紀州藩の藩庁)・中奥(藩主が執務を行う普段の生活空間)・大奥(正室や側室たちの居所:大奥があったのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみ)があったと言われる二の丸御殿があった場所との事。紀州藩のその歴史に思いを馳せつつ、御橋廊下を渡って、西の丸に進もうと思います。

■西の丸

屋根付き・壁付で、傾斜のある御橋廊下を、殿様気分で渡った先が、西の丸になる認識で、紅葉渓庭園とも呼ばれる日本庭園もあるとの事。藩主の隠居所であったとも言われるこの場所は、落ち着きある空間ではないかと推察しております。そして、日本庭園を楽しんだ後は、鶴の門跡まで行き、砂の丸は後回しにして、本丸を目指そうと思います。

本丸 / 天守群

裏坂と言う名前からして、登坂を本丸を目指し登る事が出来る認識です。本丸に到着の後、日本三大連立式平山城の一つとされる天守群を外からも、中からもじっくりと見学させて頂こうと思って折ります。写真で拝見する限りですが、中々の規模もある様ですので、和歌山城の大人散策におけるメインスポットだと認識しています。

本丸御殿跡 / 岡口門 等

日本三大連立式平山城の一つとされる天守群を外からも、中からもじっくりと拝見した後は、本丸御殿跡・七福の庭等を拝見しつつ、また高低差を感じつつ、表坂 / 岡中門後経由で、現存する構造物の1つ・岡口門を目指します岡口門は、和歌山城においては、数少ない現存構造物ですので、じっくり拝見させて頂くべきと思っています。

不明門 / 砂の丸 / 追廻門

現存する構造物の1つ・岡口門の後は、城郭の南側を、つつじ園や不明門跡、砂の丸櫓台石垣の規模感を感じつつ、西側に進み、新裏坂の入口を超えて、現存する構造物のもう1つである追廻門や砂の丸に参ろうと思います。本丸の南西側の外縁(重要な防衛ライン?)を大人散策することになると思うので、その高低差と石垣を楽しむ事が出来るのでないかと推察しております。

その他:和歌山県立博物館 / 吉宗像や誕生の地 / 紀州徳川家御廟

追廻門で、和歌山城の大人散策は終了となりますが、お城の南側の地図を拝見していると、和歌山県立博物館 / 吉宗の像や誕生の地 / 紀州徳川家御廟と言ったスポットも目に飛び込んできました。徳川御三家・紀州藩の歴史に思いを馳せるには良いスポットではないかと思いましたので、脚を伸ばしてみようと思います。

また、折角和歌山に行くのだから、「那智の大滝」、「熊野本宮大社」、「熊野古道」、「金剛峯寺のある高野山」、「リゾート地の白浜」等は、距離もある様なので、改めてプランニングするにしても、和歌山城近郊での大人散策もできないかと思い、以下にその候補をピックアップさせて頂きました。

■紀三井寺

紀三井寺は、紀州徳川家歴代藩主が訪れたと言われるお寺で、奈良時代の創建と伝わる1200年以上の歴史を持つ神社の様です。写真からも、立派なお寺である事、容易にそうぞ出来ます。

和歌浦湾:海禅院多宝塔・三断橋 / 不老橋

三断橋を渡った海禅院多宝塔付近からは、和歌浦湾を望む、素晴らしい景色を楽しめるスポットの様です。幕末に掛けられた味のある不老橋も近くにある様ですので、併せて拝見させて頂きたいと思えるスポットです。

■紀州東照宮 / 和歌浦天満宮

当然と言えば当然ですが、この徳川御三家ゆかりの紀州にも、東照宮紀州東照宮がある様です。本山の日光東照宮私達夫婦の居住地・川越にある仙波東照宮との比較も含め、お参りさせて頂こうと思います。また、地図を拝見している際、目に飛び込んできた和歌浦天満宮にも、脚を伸ばしてみたいと思います。菅原道真由来の天満宮と言う事で、狛犬ならぬ狛牛が、門前を守護されているか否か、確かめたいと思います…。

■養翠園 / 番所庭園

紀州東照宮 / 和歌浦天満宮からトンネルを抜け、西に進むと「養翠園 / 番所庭園」と言った、日本庭園がある様です。養翠園は、紀州藩第10代藩主徳川治寶によって作られた、大きな池泉を有する雄大な景色が楽しめそうな大名庭園で、番所庭園は、和歌浦湾に突き出た岬に作られた、海の景色をダイナミックに楽しめる庭園の様です。庭園好きの私達夫婦には外せないスポットだと思った次第です。

【最後に】

以上が、徳川御三家・紀州藩の居城で、日本三大連立式平山城の1つである和歌山城の歴史を含めた概要と、その周囲も含めた大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります

まだお邪魔した事のない和歌山城ですが、日本三大連立式平山城の1つである天守群と現存する岡口門と追廻門、そして様々な歴史を感じる石垣は、その規模感も含め期待が持てるお城だと思われます。また周囲に目を向ければ、紀三井寺・和歌浦湾・紀州東照宮 / 和歌浦天満宮・養翠園 / 番所庭園と言った大人散策スポットもある様です。いつの日か必ず訪問させて頂き、その報告を、こちらのページを更新する形でお伝えできればと思って折ります!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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