【はじめに】
本日は、「現在は『玉藻公園』としてその雄姿を残す、香川県高松市にある『日本三大水城(海城)の1つ・高松城』をご紹介」させて頂こうと思います。
参考:
別記事にて、「3度目?となる『高松城』の大人散策」を実行し、「高松城における独自の大人散策ルート」を、多くの写真と共に紹介して折りますので、併せてご参照ください!
香川には、中々用事がなくお邪魔する機会は少なかったのですが、数回だけ出張のチャンスがあり、その機会に「高松城と栗林公園(別記事で記載中)」を回る事が出来るよう、スケジューリングし、巡る事が出来た次第です。その際の実際に回ってきたケースをご紹介申し上げようと思いますが、その前にお城を題材にする際の連想ゲームから入らせて頂きます。
皆様は「高松城」と聞くと何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 日本三大水城(海城)の1つである (他の2つは、今治城(愛媛県今治市)・中津城(大分県中津市))
- 現在でも堀には海水が流れ込んでいる
- 「いくつかの櫓」と「水手御門」が旧国宝に指定され(旧国宝24城の1つ)、現在は重要文化財に指定されている
- 近くの栗林公園が有名で、お気に入りに庭園
- 日本100名城にも選出されている
と言った所でしょうか…。でも改めて思ったのは「私の連想ゲームだけでは高松城の概要が見えない」と思うので、以下「高松城の概要・基本情報」の記載から始めさせて頂きます。
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【高松城の概要・基本情報】
早速ですが、「高松城の概要・基本情報」から抑えさせて頂きます。Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります(引用長いですし、以下にまとめますので、読まなくても大丈夫です)。
高松城(たかまつじょう)は、香川県高松市玉藻町にあった日本の城。別名・玉藻城(たまもじょう)。国の史跡に指定されている。
概要
別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、1587年(天正15年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである (略)
現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。沿革
・安土桃山時代
1587年(天正15年) – 生駒親正が讃岐国12万6千200石(のち高直しで17万6千石)の大名に封ぜられ引田城に入城するが、手狭であったので同年中に聖通寺城に移る。
1588年(天正16年) – 聖通寺城でも不便を感じたため、香東郡篦原庄玉藻浦(現高松市玉藻町)に築城を開始する。
1590年(天正18年) – 高松城完成。・江戸時代 (略)
1642年(寛永19年) – 水戸藩初代藩主・徳川頼房の子の松平頼重が12万石で入封。城の整備に着手する。2代頼常にも改修が引き継がれる。
1669年(寛文9年) – 小倉城を模した3層5階の天守が完成し、頼重は隠居する。隠居所として城の南西に栗林公園を造築する (略)高松城高松城と城下町 絵屏風 高松城 青線が現存する縄張りで、赤線が現存しない縄張り 高松城 天守 明治時代 Wikipediaより ・近現代
1869年(明治2年) – 版籍奉還に伴い廃城となる。
1884年(明治17年) – 老朽化のため天守が破却される (略)
1945年(昭和20年) – 高松空襲により三の丸の桜御門が焼失。
1947年(昭和22年) – 旧国宝保存法により北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、東の丸艮櫓の4棟が当時の国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
1950年(昭和25年) – 文化財保護法の施行により北の丸月見櫓、北の丸水手御門、北の丸渡櫓、東の丸艮櫓が重要文化財に指定される。
1954年(昭和29年) – 高松市に譲渡される。
1955年(昭和30年)
3月2日 – 国の史跡に指定される。
5月5日 – 高松市立玉藻公園として一般公開。
2006年(平成18年)4月6日 – 日本100名城(77番)に選定される。
2007年(平成19年) – 天守台の解体・補強・積み直し工事を開始。
2012年(平成24年) (略) 披雲閣(旧松平家高松別邸)が国の重要文化財に指定される。
2013年(平成25年)3月20日 – 天守台の一般公開を再開。
2013年(平成25年)10月17日 – 披雲閣庭園が国の名勝に指定される (略)城郭
城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていた。 かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっており、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城である。縄張りは黒田孝高(よしたか)が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われている。高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であった (略)高松城2022年に復元された桜御門 高松城 報時鐘 高松城 水手御門と渡櫓(重要文化財) 高松城 内苑御庭 Wikipediaより 三の丸の桜御門は、1945年(昭和20年)の高松空襲で焼失し、その後長らく再建されない状態が続いた (略) 復元に際して大きな課題となったのは木材の確保で、県内では使用できるような大きなものがなく、日本国内から1年をかけて調達された。2022年に完成し、7月16日に記念式典(開門式)が実施された (略)
また、『高松城は、 日本三大水城(海城)」の1つ』の認識ですので、「海城」&「日本三大水城(海城)」に関しても Wikipedia を調べてみると、以下の様にあります。
”海城(うみじろ)は、水運を押さえるため海に直面して築かれ、海水を堀に用い、その一部に舟入や船着場を設置または兼用している城、あるいはその形式”。
https://ja.wikipedia.org/wiki/海城_(城郭)
また、更に同じ項目を読み進んでいくと、以下の記載があります。
”日本の主な海城は以下の通りである。このうち、高松城(讃岐国)・今治城(伊予国)・中津城(豊前国)は、日本三大海城(あるいは三大水城)と呼ばれている”。
https://ja.wikipedia.org/wiki/海城_(城郭)
つまり、、、
高松城は、別名を「玉藻城」とも言い、現在は「玉藻公園」として整備されており、「国の史跡に指定」され、日本三大水城(海城)の1つであり、日本100名城でもあるお城(勝手なネーミングですが「旧国宝24城」の1つでもある認識です…)。その歴史は、戦国期に「生駒親正によって築城」され、江戸初期に「徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修」され、「かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠のすべてに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっていた」と言われ、水軍の運用も視野に入れ設計されていた『日本初の本格的な海城であり且つ輪郭式平城のお城』でもある。現在みられる「北の丸月見櫓・北の丸水手御門・北の丸渡櫓」、「東の丸艮櫓(旭門付近に移築)」の4棟は、旧国宝に指定され(旧国宝24城の1つ)、現在は重要文化財に指定されており、更には旧松平家高松別邸であった「披雲閣」が重要文化財に、その庭園(披雲閣庭園)も国の名勝に指定される城郭跡のお城が『高松城』
と理解した次第です。



実際に見学に参らせて頂いた際のボランティア・ガイドさんの話によると、(上記引用にもありますが…)「高松城は、江戸の初め『生駒氏』により治められていた地に築城が開始されたが、改易により『松平氏』が入り、完成に至った『海城』で、現在でも堀には、海水が流れ込んでいる」とおっしゃってました。またこれも引用の通りですが、上記写真の左から海に近い、”月見櫓”、南の隅にある ”艮櫓” の2つの櫓は現存(重要文化財)のものだそうで、“月見櫓に続く「水手御門」・「渡櫓」も現存(重要文化財)“ だそうです。そして、一番右の写真は、大正時代に作られた、同じく重要文化財の ”披雲閣” になります。写真で見て頂いた通り、櫓は「破風」もあり、装飾性の高い建物の様に見え、(結構きれいに(真新しくも)見えますが…)中々の雰囲気を醸し出している印象を受けた次第です。


【高松城が一望できるホテル、JRホテルクレメント高松】
実際の高松城における大人散策は、宿泊先で「高松城の全体図」を拝見した後、「実際の高松城の大人散策」の出掛けた感じです。
この高松城の全体図を見たく調べ、その結果、近くにある「JRホテルクレメント高松 (https://www.jrclement.co.jp/takamatsu/) 」に宿泊させて頂く事を決定しました。狙いは、ばっちりで、高松城の全体図が手に取るようにわかり、「本当に海のすぐ横にある ”海城”」である事が実感できます。下記写真の左から、月見櫓、披雲閣、天守台が見えます(艮櫓は木々に隠れて見えませんでしたが・・・)。マジマジと30分くらい見て、予習をし、早速内部の見学に行きました(勿論ホテルも非常によく、「今後高松に行く際は、こちらのホテルだな」と思った次第です)。






【水城の意味を認識しつつ天守台へ】
「JRホテルクレメント高松」で「高松城の全体図」を頭に入れた後、「実際の高松城の大人散策」に参りました。まず目指そうと思ったのは「本丸」・「天守台」。「二の丸」側(西門)から入ったのですが、そこにいらっしゃったのが、上記もう既に登場済みの「ボランティア・ガイドさん」。故にその「ボランティア・ガイドさん」の話を、再度活用させて頂きますと、「二の丸南側にある『高松城の天守台(本丸)』は、元々は『独立した浮島』の様になっていたとの事で、通常本丸に行く手段は、下記写真・2番目の橋(鞘橋と言うようです)だけしかなかった」そうで、故に「もし敵襲があった際は、この橋を落とし、船で海に逃げる事を想定」していたとの事です。「これは本当に海城ならではの発想!」だと思いつつ、その橋を渡り「天守台」に行き、写真を撮って「天守台の石垣、結構綺麗だなー」と思いつつ元の場所に戻ると、やはり同じガイドさんが、「つい数年前に、天守台は復興された物である事」を教えてくださいました。どおりで、石が綺麗な訳だと思いつつ、ガイドのお礼を申し上げて「披雲閣」方面に向かいました。









【格式を感じる披雲閣とその庭園】
ガイドさんの度重なるレクチャーにお礼を申し上げ「披雲閣」に向ったのですが、残念ながら、中を拝見させて頂く事はできませんでした。しかし、外観と庭園を拝見させて頂く事は出来、本当に立派な建物で「ホテルから見ていた時は『全体図』を理解」できましたが、「地上に降りてしまうと『大きすぎて全体図がわからなく』なってしまう感じ」だった次第です。ただ、格式のある立派な建造物である事は、まじかで見るとよく理解でき、また庭園(内苑御庭)も素晴らしく、特に松が美しく感じました。「さすが『国の名勝』に指定される事はある!」と思いつつ、「松と言えば、栗林公園(別記事で記載中)!」なんて連想ゲームをしつつ散策をさせて頂きましたが、規模感こそ違いますが、高松城の松もよく手入れされ、品格を保っている事を感じた次第で、『「高松の松平氏」と言うくらいですから「松」には、特別な思いがあるんじゃないか?』と更なる連想ゲームをしながら大人散策を楽しんだ次第です。









その後、「桜御門(戦火による焼失も復元)」を抜け(訪問時は未再建も、2022年に再建されたらしい)、「艮櫓(現存・重要文化財)」を拝見し、再び「披雲閣」の庭園を縫って「月見櫓・水手御門・渡櫓(現存・重要文化財)」を拝見し、お宿に戻った次第です。「艮櫓」、「月見櫓・水手御門・渡櫓」に関しては、もう既に記載済みですので、感想のみ申し上げると「非常に見た目が綺麗で、『ホントに現存?』」と思ってしまいましたが、同時に戦火を潜り抜けた建造物、「よくぞ残ってくれた!」と言った感情も持ってしまった次第です。
【最後に】
以上が、「現在は『玉藻公園』としてその雄姿を残す、香川県高松市にある『日本三大水城(海城)の1つ・高松城』をご紹介」申し上げた内容になります。
別記事で、栗林公園を紹介しており、個人的には、この「栗林公園」の方が有名な気がしていました。しかし、高松城を実際に拝見させて頂くと、「艮櫓」、「月見櫓・水手御門・渡櫓」と言った現存構造物も魅力的であると同時に、城内に植えられた松も大変立派な印象で「結構見所ある!」と思った次第です。つまり「さすが日本三大海城と呼ばれる『高松城』」といった感じです。規模感こそ現状はありませんが見所は十分ですので、高松にいらっしゃった際は「栗林公園のみならず、この高松城にも」是非脚を運んで頂き「日本三大海城」を堪能して見ては如何かと思う次第です。
参考:
別記事にて、「3度目?となる『高松城』の大人散策」を実行し、「高松城における独自の大人散策ルート」を、多くの写真と共に紹介して折りますので、併せてご参照ください!
尚、栗林公園、高松城、丸亀城(丸亀市内・金刀比羅宮若干含む)等、それぞれの大人散策情報を別記事で紹介しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。また、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿、(勝手なネーミングですが)旧国宝24城等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。