三増峠の戦い

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【はじめに】

こちらのページでは、甲斐武田氏と小田原北条氏が戦ったとされる山岳戦の代表例である『三増峠の戦い』に付き、その概要と戦の経過に付き考察(妄想?)を加えさせて頂こうと」思います

そもそもですが、皆様は「三増峠の戦い(=三増合戦)」ってご存じでしたでしょうか? 私事ですが、母親の実家が神奈川県愛甲郡愛川町であった為、幼少の頃、よく夏休みには愛川町にお邪魔しておりました。一人で2週間ほど預けられる事もしばしばで、落ち着きのなかった私は、近くの中津川に朝から勝手にフラフラと出かけ、釣りや川遊びを楽しみ、それに飽きた頃には、川に服のまま飛び込んで、河原の石で流れをせき止め、川で泳いだ記憶があり、ビショビショで母親の実家に帰ると「ホントあんたは…、何処にいるかと思えば、ずぶ濡れで帰ってきて…、誰に似たんだろうね…」と伯父によく言われた事を思い出します…。また同時に、「中津川から見上げる左岸の河岸段丘の大きさは、故郷北杜市七里岩を連想させる地形」であった事や「伯父がドライブやハイキングで、その河岸段丘の上に連れて行ってくれた際『この場所は、お前の故郷(山梨)で有名な武田信玄小田原の北条と戦った地なんだよ』と教えてくれた事」も思い出します。当時は「へーそーなんだー」くらいの事しか感じませんでしたが、日本史好きな私でしたので、歳を重ね三増峠の戦いにつき、今少し掘り下げて認識していくと、「この戦いって、なんか理解しにくい…、腑に落ちない戦い」と思うようになっていました

こちらのページでは、そんな「甲斐武田氏と小田原北条氏が戦ったとされる山岳戦の代表例である『三増峠の戦い』に付き、『その概要(=三増峠の戦いとは?)』・『何が腑に落ちなかったのか?』・『それらを踏まえた個人的な勝手な理解(妄想?)による三増峠の戦いの戦そのものの経過』につき考察(妄想?)を加えさせて頂こうと」思います

【三増峠の戦いとは?】

まずは、三増峠の戦いの概要(=三増峠の戦いとは?)を抑えるべく、愛川町教育委員会の三増合戦場跡のページ(https://www.town.aikawa.kanagawa.jp/soshiki/kyouikuiinkai/spobun/spobun/info/culture/bunkazaihogo/aikawanobunkazai/mimasekassenjouato.html)を拝見させて頂くと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

上記のピクチャーの内容も含め、戦の経過をまとめますと以下の様になります。

  • 三増峠の戦いは、甲斐武田家駿河侵攻の一環で行われたと言われる小田原侵攻(別記事で詳細紹介中)における最終版、武田信玄小田原城を攻めた後に、現神奈川県愛甲郡愛川町三増で起こった、甲斐武田氏小田原北条氏の戦
  • 武田信玄小田原に侵攻するが、北条氏は小田原城に籠城してしまった為、数日の包囲の後、「鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣」と(虚偽)情報を流しつつ、小田原城の包囲を解いて、甲斐への帰路につく
  • 「鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣」の情報を得た北条氏康(河越夜戦を別記事で紹介中)は、「信玄の帰路は三増峠を通る」と推察し、配下の息子達(滝山城主氏照(三男?)、鉢形城主氏邦(五男?/庶子?)、河越夜戦で半年もの間、河越城に籠城し「地黄八幡」で有名な綱成等)総勢2万程を三増峠に向かわせる
  • 「北条氏照・氏邦・綱成等の軍」は、先に三増の地に到着するも、信玄の到着(10月5 or 7日?)前に、一旦中津川を挟んだ半原台地に布陣
  • 「北条氏照・氏邦・綱成等の軍」が半原台地に陣取っているいる際に、武田軍は三増の高所に布陣(翌日の6 or 8日?)しつつ、三増峠の先(甲斐側)にある北条方の津久井城にも抑えの兵(小幡軍)を配置
  • この時、武田軍の一部(別動隊:津久井城の抑えに行く小幡軍と山縣軍)が、山(の尾根伝い?)を行軍する姿を見た「北条氏照・氏邦・綱成等の軍」は、甲斐へ退却していると思った為、これに攻めかかり三増峠の戦いが始まる
  • 開戦当初は、北条軍優勢で、武田軍を高所に追い詰め(武田側の布陣は右翼/馬場軍を先鋒とし、これに中央/勝頼軍左翼/浅利軍が続く流れだったとも言われているらしい)、武田軍右翼大将の浅利氏が綱成軍の鉄砲に打たれ戦死(左翼指揮官:浅利氏⇒曽根氏)
  • しかしその後、志田沢(武田軍右翼側)を伝って、山縣軍(赤備えの実質的な元祖?)が高所から強襲し、これを機に他の武田軍も高所から襲い掛かり、北条軍は壊滅
  • 壊滅の北条軍(北条氏照・氏邦・綱成等の軍)は、半原の山の方に逃走し、厚木付近まで来ていた氏政(氏康の嫡男で小田原城を拠点)軍も小田原に引き返した
  • 戦死者は北条方3000人以上、武田方1000人弱と言われており、武田軍の勝利と言われる戦と言われている

以上が、簡単ですが「三増合戦の “戦いの経過”」と理解した次第です。

【三増峠の戦いにおける疑問点】

上記この戦の概要を「戦いの経過」も含め、抑えさせて頂きました「三増峠の戦い」ですが、皆様はどのようにお感じになられましたでしょうか? 私個人的な印象は、「全体図は理解できるものの、腑に落ちないポイントがいくつかある…」です。具体的には、以下の様になります。

  • 三増の地に先着した北条氏照・氏邦・綱成等の軍であったにも関わらず、なぜ武田軍が、高所を抑えた布陣図になっているのか?
  • 三増の地に先着した北条氏照・氏邦・綱成等の軍であったにも関わらず、なぜ武田軍が、来る前に、わざわざ中津川を超えて半原台地に陣取った? そもそも、小田原から来る氏政軍と挟み撃ちする作戦ではなかったのか?
  • 三増の地に北条氏照・氏邦・綱成等の軍が陣取りしたのであれば、武田軍は、三増の高所(三増峠/志田峠)どころか、その先にある津久井城にも兵を配置するのは難しいのでないか?
  • 武田信玄が、「鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣」との虚偽の情報を流したと言う事は、「北条氏照・氏邦・綱成等の軍」と「小田原から来る氏政軍」の挟み撃ちにあう可能性が高い三増の地を、武田信玄が合戦の地としたかったと言う事か?
  • 武田軍の一部(津久井城の抑えに行く小幡軍と山縣軍)の進軍を、なぜ、わざわざ北条氏照・氏邦・綱成等の軍から見えるルートを通ったのか?
  • 開戦当初、有利な高所に陣取ったはずの武田軍が、なぜ劣勢に立たされたのか?

こういった疑問がフツフツと湧いてきてしまった次第です…。

【三増峠の戦いの過程を妄想】

上記、上記「フツフツと湧いてきてしまった疑問」ですが、ある仮設(妄想?)を1つだけさせて頂くと、全ての疑問が解消される事、最近気が付いた次第です。それは「三増の地にあった『田代城』を小田原攻めとほぼ同じタイミングで武田方が抑えていた」と言う仮説です。言い換えますと、「もし、北条氏照・氏邦・綱成等の軍が三増に来る前までに、武田軍が田代城を抑えていたとするなら、全て “つじつま” が合ってくる」と言う事です。これを共有すべく、以下紙芝居的にストーリーを記載します。

①三増の地の地形図

三増の地の地形図と主要なスポットの位置関係は以下の感じになる認識です。

②信玄は予め三増の地を決戦地と決め、北条軍を誘い込んだ?  (孫子の教え:人を致して人に致されず)

仮に、小田原を攻めると同時に(もしくは前もって)、武田軍が田代城を落としていた(田代城に関しては、現地説明看板によると、”田代城は、武田信玄小田原攻めの際に落城した”、とあり、三増合戦時ではなく、その前に落城していた可能性も十分にあると認識)と仮定すれば、武田信玄は「三増が決戦地」と最初から想定していた事になり、ここに北条軍を呼び込むため、現地を調べ、田代城を “予め” 落とし「鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣」と虚偽の情報を流した事になり(「帰りは三増を通ろうかなー」と言っている様な物?)、三増の地に先着したと言われる北条氏照・氏邦・綱成等の軍が、武田信玄の到着を前に、挟み撃ちを恐れ、(同じく北条方のお城・細野城がある)中津川対岸の半原台地に移動したと考える事が出来ます

③信玄の誘導作戦により、武田軍有利な布陣で開戦 (孫子の教え:軍は、高地を好んで低地を嫌い…)

実際の開戦は、武田軍が、半原台地にいる北条氏照・氏邦・綱成等の軍から “あえて” 見えるように行軍する事をトリガーに開始(別動隊:津久井城を抑えに行く小幡軍と志田峠/志田山の高所に布陣をすべく移動する山縣軍)。これを見た北条氏照・氏邦・綱成等の軍は、「武田が甲斐に逃げようとしている!攻め時だ!」と中津川を渡り攻込んだと思われるが、武田軍のすぐ南は中津川の河岸段丘もあり、渡河は難しかった為、少し迂回して、台地上にある沢を軍の前にあてられる場所に陣取ったと思われる。ただ一方で、この時もう既に武田軍は、高台の有利な場所に布陣は完了していた。恐らくこの北条軍の動きを見て、三増峠に進む小荷駄隊の武田・内藤軍は、(中には荷物を捨てて逃げ出す兵もいたでしょうが)急いで三増峠を越えていったと思われます。

④逆斜陣がけ?で、北条軍を誘い込む (孫子の教え:正を以って合し、奇を以って勝つ)

武田軍別動隊の小幡・山縣軍が、北条氏照・氏邦・綱成等の軍から、あえて見える様に行軍する事で、北条軍を誘い込み、開戦した三増峠の戦い実際の戦闘ですが、信玄の卓越された戦術はこれで終わりません。武田軍の先鋒は、右翼の馬場軍。この軍が、先鋒としてまずは攻込みますが、これは陽動の攻込みと思っています。つまり武田軍全体としては右翼の馬場軍から攻込み、戦いながら(上流部に山縣軍が控える)志田沢方面に引いて行く(=逆斜陣がけ?)事で、北条軍を誘い込んで行ったのでないかと推察しております。恐らくこの時、勝頼軍も馬場軍の対する敵に、横から押し込む形を取れれば、北条軍は更に志田沢の方に流れていくと思われます。また、この戦いにおける扇の要的な浅利軍(「逆斜陣がけ」の実現をする為には、浅利軍は引いてはいけない)の戦闘は激しく、浅利氏が戦死した事も理解できます。言い換えると、一般的には「開戦当初は、北条軍優勢」と言われているようですが、これは「武田・山縣軍が、北条軍の側面に突っ込む為の環境を作る陽動作戦」と認識(妄想?)しており「北条軍のみならず後世の私達も含め、正面から組み合っているように見えて、実は奇襲の準備している戦い方」と思った次第です。

⑤誘い込まれた北条軍は、山縣軍の奇襲を受け壊滅 (孫子の教え:正を以って合し、奇を以って勝つ)

先鋒・馬場軍の「陽動の攻込み」 & 「逆斜陣がけ」で、志田沢の近くまで誘い込まれた北条軍に、その志田沢を伝って、赤備えの実質的な元祖と言って良いと思われる山縣軍の精鋭が、側面から北条軍に襲い掛かります(この瞬間の布陣図が、上記引用の絵図に残る布陣図だと思っています)こうなると、中央の勝頼軍も、左翼の浅利軍(浅利氏戦死の後は、指揮官は曽根氏に代わっていた様です)も高所の利を活かし攻込み、沢でお互いの連携を阻まれた北条氏照・氏邦・綱成等の軍にはなすすべなく、河岸段丘を下り(中には崖を飛び降り)、退却するしかなかったはずで、これをもってして、三増峠の戦いは、武田軍の勝利で終了となる訳です。

以上が、「三増合戦の実際の “戦いの経過”」を、紙芝居的にストリー仕立てにして、考察(妄想?)させて頂いた内容になります。正直実際に、どういった流れで戦闘にいたり、戦闘その物がどう展開されたのかは分かりません。しかし、予め武田軍が田代城を攻略していて、三増の地に北条軍を誘い込んだ」なら、上記のストリーが流れ出し、これまでの疑問も解消できた訳です

【最後に】

以上が、甲斐武田氏と小田原北条氏が戦ったとされる山岳戦の代表例である『三増峠の戦い』に付き、その概要と戦の経過に付き考察(妄想?)を加えさせて頂いた」内容になります

勝手な考察で、妄想ともいえる内容である事は、重々承知しておりますが、この戦い方、どこかで聞いた事ありませんか? 私の思う、類似した戦い方は「三方ヶ原の戦い」です(と言うより、時系列で考えると、三増峠の戦いにおける成功体験が、三方ヶ原の戦いの戦略を産んだのかも…)。後の三方ヶ原の戦いで、浜松城の前を素通りし、三方ヶ原台地に徳川家康を誘い込んだ作戦と同じで、小幡・山縣軍の別動隊が、あえて敵軍の前を素通りする事で、北条氏照・氏邦・綱成等の軍を半原台地から、信玄が予め決戦地と想定していた三増の地に誘い込んだと思われると言う事になる訳です。領内を荒らした敵軍(氏邦の鉢形城も、氏照の滝山城もこの戦の前に攻め込まれていますし…)が目の前を通り過ぎ、その背中を見せられると、武将と言うものは、追いかけて攻め込みたくなってしまうんでしょうね…。この心理を突いた信玄は、まさに戦上手だと思った次第ですが、皆様はどのようにお感じになられましたでしょうか?

この三増峠の戦いは、別記事で記載した甲斐武田家の小田原攻めの行程の1つであり、更にこの小田原攻めは、駿河侵攻における陽動作戦だっと思っている次第で、三増峠の戦いの2-3か月後には、信玄は駿河を手にする訳です局地戦である、三増峠の戦いもあっぱれですが、少し大きく考えた際の小田原(関東)侵攻の意味は、駿河侵攻を実現するための軍事行動だと思って折り、信玄の目的を達成するた為の視野の広さとその戦略には、感服してしまい、「自身の行動も今少し戦略性をもって動かないといけないな…」、「『人を致して人に致されず(=主導権を握る)』ってホント難しいな…」と思ってしまった次第です。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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