法隆寺

【更新中/準備中】

【はじめに】

こちらのページでは、「『世界最古』を堪能する事が出来る、『聖徳太子ゆかりの寺院・法隆寺』の概要とこれに基づく大人散策のプランニングに付き共有」をさせて頂こうと思います。

奈良の神社仏閣という事では、本ブログ別記事で「春日大社」・「東大寺」・「興福寺」・「大神神社」・「橿原神宮」・「薬師寺」等を記載させて頂きましたが、皆様は「法隆寺」をご存じでしょうか? 勿論答えは「Yes!」だと思います。「仏教を語る上で、法隆寺は外せない!」と思うと同時に、少し世代が上の方であれば「一万円札・五千円札の顔」としても認識され、『和をもって尊しとなす…』で有名な「十七条憲法」や「冠位十二階」を定めるなど、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を意図し、仏教を厚く信仰した「聖徳太子ゆかりの寺院で、「”世界最古の木造建築物群” がある寺院でもあると認識していらっしゃると思います。しかし、個人的な視点で、改めて考えてみると「自身の持っている『法隆寺に関する知識』は、上記がすべて…」と言う残念な物である事に気づいてしまった次第ですし、実際にお邪魔したのは、ウン十年前の中学時代の修学旅行の時のみ…。よく名前は存じ上げているのに、少々残念な気持ちになってしまった次第です。

こちらのページでは、上記の状況を少しでも改善すべく、今少し「法隆寺の概要・歴史」を抑え、今後の「大人散策@法隆寺」に向けた準備をさせて頂こうと思った次第です。すなわち「『世界最古』を堪能する事が出来る、『聖徳太子ゆかりの寺院・法隆寺』の概要とこれに基づく大人散策のプランニングに付き共有」をさせて頂こうと思います。

【「法隆寺」とは?】

まずは「法隆寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。
法隆寺は7世紀に創建され古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

■歴史

>創建(飛鳥、白凰、奈良時代)
574年 (敏達3年)聖徳大子生まれる
586年 (用明元年)法隆寺および薬師仏の造立を発願
607年 (推古15年)法隆寺が完成。用明天皇のために金堂薬師如来像を造願 (略)
670年 (天智9年)4月30日夜半、法隆寺炎上 (略)
708年 (和銅元年)詔により法隆寺を再建
711年 (和銅4年)五重塔内塑像および中門金剛力士像を造る
737年 (天平9年) 行信、聖徳太子の遺品を集める
739年 (天平11年) 4月10日、行信、上宮王院(東院)夢殿を造立 (略)

法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった (略)
石田茂作らによる1939年(昭和14年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる
現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている。また、1939年(昭和14年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている (略)
なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年(739年)、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである (略)

>中世以後(平安、鎌倉、室町、南北朝、江戸時代)
(略) 1023年 (治安3年)10月26日、藤原道長、法隆寺および上宮王院に参詣 (略)
1574年 (天正2年)正月、織田信長、法隆寺境内へ陣取などを禁止する掟を作る
1600年 (慶長5年)豊臣秀頼、このころから1606年(慶長11年)にかけて、法隆寺全伽藍を修理
1614年 (慶長19年) 10月16日、徳川家康、大阪冬の陣に赴く途上、法隆寺で太子尊像を拝し、阿弥陀院で一泊する
 (略)

延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている
近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄 – 宝永年間(17世紀末 – 18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた

>近代以降
1868年(明治元年)3月、神仏分離令。廃仏棄釈運動が起こる
1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された (略)
1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始
1939年(昭和14年) 「若草伽藍」発掘
 (略)
1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見
1949年(昭和24年) 1月26日、金堂より失火。壁画を焼損する
1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く
1951年(昭和26年)6月9日、法隆寺境内、史跡に指定される
1967年(昭和42年)10月20日、法隆寺境内、歴史的特別保存地区に指定される (略)
1985年(昭和60年) 6月30日、昭和の大修理完成 (略)
1993年(平成5年)12月9日 ユネスコの世界遺産に登録 (略)

明治時代になると神仏分離が行われ、鎮守社であった龍田明神(現・龍田神社)と天満宮(現・斑鳩神社)が法隆寺から独立している。1869年(明治2年)には天満宮に法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が移された。
しかし、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となると、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館で保管されている (略)
「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる (略)

>最近の研究
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた (略)
五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている (略)

■金堂
国宝
。入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである (略) 堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。
・釈迦三尊像(国宝) (略)
・薬師如来坐像(国宝) (略)
・阿弥陀三尊像(重要文化財) (略)
・四天王立像(国宝) (略)
・毘沙門天・吉祥天立像(国宝) (略)

■五重塔
国宝
木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝) (略)

■大宝蔵院
百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)に完成した。
・観音菩薩立像(百済観音、国宝) (略)
・観音菩薩立像(九面観音、国宝) (略)
・観音菩薩立像(夢違観音、国宝) (略)
・地蔵菩薩立像(国宝)  (略)
・六観音像(重要文化財)
・梵天・帝釈天立像、四天王立像(重要文化財)  (略)
・玉虫厨子(国宝) (略)
・阿弥陀三尊像及び厨子(橘夫人厨子、国宝) (略)
・金堂小壁画(重要文化財) (略)
また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。

■伽藍 (略)

>西院伽藍
西院伽藍は南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の廻廊が囲む。廻廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた廻廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。廻廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、廻廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない  (略)
・金堂(国宝) – 天智天皇9年(670年)の火災後の再建 (略)
・五重塔(国宝) – 天智天皇9年(670年)の火災後の再建 (略)
・大講堂(国宝)  (略) 平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重要文化財)を安置する  (略)
・経蔵(国宝) – 奈良時代の楼造(二階建)建築。観勒僧正坐像(重要文化財)を安置するが、内部は非公開 (略)
・鐘楼(国宝) – 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安時代
・廻廊(国宝) – 金堂などとほぼ同時期の建立 (略)
・中門(国宝) – 入母屋造の二重門 (略) 門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なもの (略)
・上御堂(重要文化財) (略) 鎌倉時代の建立。釈迦三尊像(国宝)、四天・王立像(重要文化財)を安置。通常非公開だが、毎年11月1日 – 3日に限り堂内を公開 (略) 
・西円堂(国宝) – 西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂 (略) 現存のものは鎌倉時代の建立。堂内の空間いっぱいに坐す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重要文化財)、千手観音立像(重要文化財)を安置する (略) 
・三経院(国宝) (略) 鎌倉時代の建立。阿弥陀如来坐像(重要文化財)持国天・多聞天立像(重要文化財)を安置
・西室(国宝) (略) 
・聖霊院(しょうりょういん、国宝)  (略) 聖徳太子を祀る堂。鎌倉時代の建立
・東室(ひがしむろ、国宝) (略) 後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で (略)
・綱封蔵(こうふうぞう、国宝) (略) 奈良時代から平安初期に建てられた倉庫 (略) 
・食堂(じきどう、国宝) – 奈良時代建立 (略) 
・東大門(国宝) (略) 奈良時代の八脚門 (略) 
・南大門(国宝) - (略) 入母屋造の一重門。室町時代の永享10年(1438年)に当時の西大門を移築したもの。建築当初は切妻屋根であった

>東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された (略) 廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。
・夢殿(国宝) – 奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年(737年)の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている (略) 
 ‐ 観音菩薩立像(救世観音、国宝) – 飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する (略) 現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る
 ‐ 行信僧都坐像(国宝) – 奈良時代の乾漆像 (略) 
 ‐ 道詮律師坐像(国宝) – 平安時代初期の作 (略) 

・伝法堂(国宝)– 切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間 (略) 住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重 (略) 内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重要文化財)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重要文化財)を安置する。
・東院鐘楼(国宝) – 鎌倉時代建立 (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/法隆寺

それなり長い引用になってしまったので、以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。

  • 法隆寺は、奈良県の斑鳩町(生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて、旧大和国と旧河内国(現・大阪府南部)を結ぶ交通の要衝であった場所)にある、7世紀に創建されたと言われる「古代寺院の姿を現在に伝える聖徳太子ゆかりの寺院」で、創建当時は「斑鳩寺」と言われ、現在ではユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている寺院
  • 法隆寺は、大きく『「金堂、五重塔」を中心とする「西院伽藍』と、『「夢殿」を中心とした「東院伽藍』に分けられる様で、「西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群」であり、「東院伽藍は、奈良時代に、聖徳太子を偲んで建立したと言われる建造物」を拝見できる、日本を代表する寺院でもある
  • 法隆寺・西院伽藍」に関しては、「聖徳太子在世時の建築であったとする説」と、「創建時の建造物は一度焼失し再建されたとする説」の論争;「再建・非再建論争」があったらしいが、「旧伽藍(=若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺・西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となった」らしいが、「7世紀後半 or 遅くも奈良時代初めには、金堂を含む、五重塔、中門等の西院伽藍全体が再建・完成していた」とも考えられている事から、現存する世界最古の木造建築物群」である事には間違いないと言われるらしい
  • 西院伽藍の「”国宝” 建造物」一覧
    • 金堂(国宝) 天智天皇9年(670年)の火災後の再建
    • 五重塔(国宝) 天智天皇9年(670年)の火災後の再建
    • 大講堂(国宝)990年に再建
    • 経蔵(国宝) 奈良時代の楼造(二階建)建築
    • 鐘楼(国宝) 建立時代は平安時代
    • 廻廊(国宝) 金堂などとほぼ同時期の建立
    • 中門(国宝) 塑造金剛力士立像(日本最古の仁王像)を安置
    • 西円堂(国宝) 鎌倉時代の建立
    • 三経院(国宝)鎌倉時代の建立
    • 西室(国宝)
    • 聖霊院(国宝)鎌倉時代の建立
    • 東室(国宝)基本的には奈良時代の建築
    • 綱封蔵(国宝)奈良時代から平安初期に建てられた倉庫
    • 食堂(国宝) 奈良時代建立
    • 東大門(国宝)奈良時代の八脚門
    • 南大門(国宝)室町時代に当時の西大門を移築したもの
    • 国宝の金堂」には、「同じく国宝である釈迦如来・薬師如来、阿弥陀如来等を本尊として安置敷いている様で、四天王立像・毘沙門天・吉祥天立像と言った国宝の仏様もいらっしゃるらしい
    • 同様に国宝の五重塔」は、「木造五重塔として現存世界最古のもの」と言われ、初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置されているらしい

  • 「法隆寺・東院伽藍」に関しては、聖徳太子は、601年に飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手し、605年に斑鳩宮に移り住んだと言われている様で、法隆寺の東院の場所が、斑鳩宮の由縁の地」と言われ、「この斑鳩宮に接して建立されたのが法隆寺(=斑鳩寺、恐らく=若草伽藍跡)」と考えられているらしい
  • 東院伽藍の「”国宝” 建造物」一覧
    • 夢殿(国宝)奈良時代建立の八角円堂で、聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置しており、観音菩薩立像(救世観音、国宝:飛鳥時代、木造)・行信僧都坐像(国宝: 奈良時代の乾漆像)・道詮律師坐像(国宝:平安時代初期)等も安置されているらしい
    • 伝法堂(国宝)住居を移転して仏堂に改めた物とされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重
    • 東院鐘楼(国宝)鎌倉時代建立
  • 「百済観音像をはじめとする寺宝を公開している「大宝蔵院」もあり、百済観音・九面観音・夢違観音・地蔵菩薩立像・玉虫厨子・阿弥陀三尊像及び厨子と言った国宝に加え、六観音像・梵天/帝釈天立像・四天王立像等の重要文化財も拝見できるらしい
  • 歴史的な側面では、中世以後「織田信長が法隆寺境内へ陣取などを禁止する掟」を作ったり、「豊臣秀頼が法隆寺全伽藍の修理」を行わせたり、「徳川家康大阪冬の陣に赴く際に、法隆寺で太子尊像を拝し、阿弥陀院で宿泊」したりと、戦国武将との関連も深い寺院らしい
  • 明治期の神仏分離により、困難な時期を迎えるが、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納する事で、金一万円を下賜され、窮状をしのいだり、「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年に至ってようやく完成記念法要が行われたらしい

つまり法隆寺は、

奈良時代よりも前に、旧大和国と旧河内国を結ぶ交通の要衝・斑鳩宮に隣接して創建された「聖徳太子ゆかりの寺院(創建時の名称は「斑鳩寺」)」で、創建時の建造物でなないと思われるが、7世紀後半 or 遅くも奈良時代草創期には建造(再建)されたと言われる、1300年以上の歴史を持つ「現存する世界最古の木造建築物群」が現在でも拝見できる「西院伽藍」と同じく「奈良時代建立の八角円堂で、聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置していると言われる夢殿」を中心とした「東院伽藍」に大きくは分けられ、それぞれ多くの国宝の像(仏様)が安置される「古代寺院の姿を現在に伝える日本を代表する寺院」が法隆寺』

と理解した次第です。

【法隆寺の大人散策をプランニング!】

上記、法隆寺の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では「法隆寺における大人散策を検討」させて頂こうと思います以下に「法隆寺の境内マップ(斑鳩観光協会のHP(https://horyuji-ikaruga-nara.or.jp/maps/)より)」も併せて記載いたしますし、最下部にはGoogle My Map で作成した地図(スマホ片手に自身の位置を確認しつつ大人散策を遂行できます)も共有致しますが、上記にも記載いたしました通り、多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等が存在」するエリアなので、「何処まで入れる(接近できる)か不明ですが、濃密な大人散策が期待できそう」にも思えた次第です。そんな法隆寺における大人散策を検討するにあたって想定したのは、『①南大門から入り「現存する世界最古の木造建築物群」が現在でも拝見できる「西院伽藍」から攻め』、『②西院伽藍に隣接するの「大宝蔵院」付近の建造物を巡って南に下り』、『③「(拝見できないと思いますが)若草伽藍跡付近でその歴史に思いを馳せつつ、東大門から「東院伽藍」に向かう』と言った感じのコース設定を想定致しました。それぞれ以下に記載いたします。

まずは「法隆寺へのアクセス」ですが、電車であれば、大和路線・法隆寺駅が最寄りの駅になる様で、距離は1.5~2.0 ㎞ 程の様ですので、徒歩であれば20分~30分もあれればアクセスできる理解をしました。また車の際は、法隆寺の駐車場は無い様で、周囲の駐車場(有料)を利用する必要がある様です。埼玉の川越から参る私達夫婦の場合は、恐らく電車の利用になると思うので、詳細調べていませんが、利用できそうな駐車場を最下部のMapにポイントアウトのみさせて頂きましたので、参考までにご参照頂ければ幸いです。

いずれにしましても、法隆寺の「南大門(国宝)」を「法隆寺におけるスタートポイント」とさせて頂き、大人散策を開始させて頂こうと考えて折ります。

①南大門から「西院伽藍」へ

室町期の建物と言われる「国宝の南大門」から「法隆寺」にお邪魔させて頂いた後、いきなりですが、「現存する世界最古の木造建築物群」が現在でも拝見できる「西院伽藍を巡りたいと思って折ります。日本最古の仁王像と言われる塑造金剛力士立像を拝見しつつ「中門」を抜け、その中枢にお邪魔し、「金堂」・「五重塔(木造五重塔として現存世界最古のもの)」・「大講堂」・「経蔵」・「廻廊」等をじっくり見学しつつ、1300年以上この地にある建造物に思いを馳せつつも、「本尊:釈迦如来・薬師如来、阿弥陀如来に加え、四天王立像・毘沙門天・吉祥天立像」と言った国宝の仏様にもできる限りご挨拶申し上げたいと思って折ります。その後、「三経院」・「西室」・「西円堂」といった「西院伽藍中枢の西」にある国宝の建造物にも脚を伸ばし、「西院伽藍中枢の北」にある「上御堂(重要文化財)」経由で、「大宝蔵院」方面に向かいたいと思います。

②西院伽藍に隣接するの「大宝蔵院」付近の建造物を拝見

「法隆寺」にお邪魔したのは、中学の時の修学旅行が最後なので、ウン十年前の話。法隆寺内部の建物の配置もルートも全く記憶して折りませんが、このエリアには「聖霊院(御朱印所も?)」・「東室」・「綱封蔵」・「食堂」といった国宝の建造物があり、「大宝蔵院」・「大宝蔵殿」では、法隆寺のお宝を拝見できるエリアと認識して折ります(現在では、「大宝蔵院」で、展示しきれないお宝を「大宝蔵殿」で展示しているらしい)。であれば、建造物の配置も詳細情報もありませんの、右往左往すると思いますが、「聖霊院」で御朱印を頂戴しつつ、「東室」・「綱封蔵」・「食堂」を含めた国宝建造物を堪能し、「大宝蔵院」・「大宝蔵殿」で、「観音菩薩立像(百済観音)・「観音菩薩立像(九面観音)」・「観音菩薩立像(夢違観音)」・「地蔵菩薩立像」と言った国宝の仏様や重要文化財を拝見させて頂きたいと思います。

③東大門から「東院伽藍」へ

「大宝蔵院」周辺エリアで、国宝の建造物と仏様を拝見させて頂いた後は、国宝「東大門」経由で「東院伽藍」を目指したいと思っております。この際、恐らく見学する事は出来ないでしょうが、「東大門」を含む南西側を中心としたエリアに『法隆寺創建時の痕跡「若草伽藍」があった場所』と言われているようですので、見学できれば最高ですが、見学できずとも法隆寺の歴史に、そして聖徳太子に思いを馳せつつ進み、どんな施設か不明ですが「聖徳会館」も拝見しつつ、「東院四脚門」をくぐり、「東院伽藍」を目指したいと考えて折ります。

そして「東院伽藍」「斑鳩宮の跡地に建設られた」と言われる「東院伽藍」の中心は聖徳太子の等身像とされる『救世観音像』を安置する、奈良時代建立の八角円堂『夢殿(国宝)』との事ですので、「夢殿」を中心に考えつつも(また「絵殿・舎利殿」と言った重要文化財を拝見しつつも)「伝法堂」・「東院鐘楼」と言った国宝建造物や、それぞれの内部に安置された「観音菩薩立像(救世観音)」・「行信僧都坐像(乾漆像)」・「道詮律師坐像」等の国宝の仏様にもできる限りご挨拶申し上げ、「聖徳太子の功績」に思いを馳せつつ大人散策を遂行したいと思って折ります。

基本「東院伽藍」の散策を持って、「法隆寺における大人散策」は終了と考えていますが、「中宮寺」等の周囲にも目を配りつつ歩を進め、可能であればできる限り周囲の「子院」にも脚を目ばせたら良いかもしれないと思っている次第です。

【最後に】

以上が、「『世界最古』を堪能する事が出来る、『聖徳太子ゆかりの寺院・法隆寺』の概要とこれに基づく大人散策のプランニングに付き共有」をさせて頂いた内容になります。

「世界最古の国宝建造物」を拝見でき、「聖徳太子の痕跡」を感じる事が出来る「法隆寺」の概要と大人散策情報(プランニング版)』を記載させて頂きましたが、皆様はどの様に感じられましたでしょうか? 個人的に思った事は、『「日本における仏教の草創期の姿」=「古代の寺院の姿」を、1300年後の現在に拝見できる寺院』と思ってしまった次第で、「中学生の時にお邪魔した際、少しでもそんな理解をしていれば、もっと違った見え方・記憶の残り方になったのでないか」と思ってしまいました。中学校時代の修学旅行以来となるはずですが、訪問の暁には、本ブログで報告させて頂こうと思います!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

TOP Pageへ or ブログ内関連情報タグ一覧へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA