興福寺

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【はじめに】

こちらのページでは、「多くの国宝・重要文化財の建造物や彫刻 / 美術工芸品等が存在する『興福寺』の概要を抑えた上で、大人散策をプランニング」させて頂こうと思います。

皆様は、「興福寺」をご存じでしょうか? どんなイメージを持っていますでしょうか? 私の場合は、「同じく藤原氏と強いつながりを持った春日大社と神仏習合の元『春日興福寺』とも言われ一体化し、絶大な力を持った寺院」・「南都焼討」・「多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品がある」と言ったイメージを持っていると同時に、「周囲には多くの鹿さん達が闊歩している…」と言ったイメージを持っております。しかし、「具体的にはどんな歴史を持つ寺院なの?」・「春日大社との繋がりってどの程度のものだったの?」・「どんな国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品があるの?」と言った疑問も持っている次第でもあります…。

こちらのページでは、上記の疑問を解決すべく、「興福寺」に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「多くの国宝・重要文化財の建造物や彫刻 / 美術工芸品等が存在する『興福寺』の概要を抑えた上で、大人散策をプランニング」させて頂こうと思います。

【「興福寺」とは?】

まずは「興福寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来南都七大寺の一つ藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている (略)

創建
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である (略) 山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した (略)
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けたこの710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる (略)

南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた (略)
しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた (略) 治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害も甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した。
この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走し、朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている
鎌倉時代や室町時代には武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められた (略)

近現代
慶応4年(1868年)に神仏分離令が出された (略) 僧は全員自主的に還俗し「新神司」として春日社に神職として仕えることとなった (略)
1880年(明治13年)2月14日に旧興福寺境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。一乗院跡は現在は奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている (略) 
1881年(明治14年)2月9日、興福寺の再興が許可された。1884年(明治17年)には金堂基檀から奈良時代の鎮檀具が発掘された。
1897年(明治30年)6月10日の古社寺保存法の発布で北円堂・三重塔・五重塔が特別保護建築物に指定された (略)
1998年(平成10年)に世界遺産に登録され、1999年(平成11年)から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂と南大門の再建が計画され、中金堂は2018年(平成30年)10月に落慶法要を迎えた (略)

門跡
興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である (略)

中金堂
2018年(平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返した (略) 創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した。
 > 釈迦如来坐像 – 当寺本尊。5代目で文化8年(1811年)に仏師・赤尾右京により作られた (略)
 > 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重要文化財)  (略) 現在は本尊・釈迦如来坐像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)に造立されたもの
 > 木造四天王立像(国宝)鎌倉時代の作 (略)

東金堂
国宝応永22年(1415年)再建。5代目 (略) 1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている (略) 東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された (略) 現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築である (略)
 > 銅造薬師三尊像(重要文化財)中尊は応永18年(1411年)の火災後の再興像で室町時代の作脇侍の日光菩薩像・月光菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作である。
 > 木造維摩居士坐像(国宝) 本尊薬師如来像の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶の作 (略) 実在の老人のようにリアルに表現されている。
 > 木造文殊菩薩坐像(国宝) – 本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。作者は不明だが、維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定される (略)
 > 木造四天王立像(国宝) – 堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像 (略)
 > 木造十二神将立像(国宝) – 薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作 (略)

五重塔
国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永33年(1426年)の再建であるが、高さは50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものである。
明治初期、廃仏毀釈政策に基き、奈良県令四条隆平より塔撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された。1905年(明治38年)7月には三重目の東北隅肘木に落雷が命中し黒煙をはくが、大事には至らなかった。これにより、1907年(明治40年)8月に避雷針を設置している  (略)

北円堂
国宝。承元4年(1210年)再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。北円堂は養老5年(721年)8月、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である (略)
 > 木造弥勒仏坐像(国宝)本尊晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)頃に完成させたもの
 > 木造法苑林菩薩・大妙相菩薩半跏像 – 弥勒仏の脇侍像だが、制作年代は室町時代に下る
 > 木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝) – (略) 本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作。鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品で、日本の肖像彫刻の最高傑作の1つとして高い評価を得ている (略)
 > 木心乾漆四天王立像(国宝)堂内の他の諸仏より古く平安時代のごく初期の像である。弘安8年(1285年)の修理銘によると、本来は大安寺のもので、延暦10年(791年)に造立されたという (

南円堂
重要文化財。寛政元年(1789年)再建。4代目。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。1986年(昭和61年)12月20日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている (略) 南円堂は藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813年)に創建した八角堂である (略)
 > 木造不空羂索観音坐像(国宝) – 運慶の父・康慶一門の作で、文治5年(1189年)に完成 (略)
 > 木造四天王立像(国宝) – (略) 運慶の父・康慶一門の作。2018年(平成30年)度に国宝指定
 > 木造法相六祖坐像(国宝) – 運慶の父・康慶一門の作 (略)

国宝館
文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)に食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている (略)
 > 乾漆八部衆立像(国宝) 奈良時代の作。もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ (略) 中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名である
 > 乾漆十大弟子立像6躯(国宝)奈良時代の作 (略) 6体のみが寺に現存する (略)
 > 銅造仏頭(国宝)旧山田寺仏頭。白鳳時代の作で頭部のみ残っている (略)
 > 木造仏頭(重要文化財)廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。鎌倉時代の作 (略) 従来、運慶の父・康慶の兄弟子・成朝の作とされていたが、近年、興福寺別当(住職)信円の日記の記述から、文治2年(1186年)1月に運慶によって作られたとする説が有力となっている。
 > 木造金剛力士立像(国宝) – もと西金堂安置。鎌倉時代の作。定慶作とする説もある。
 > 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝) – もと西金堂安置 (略) 架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作である。龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。
 > 木造千手観音立像(国宝)もと食堂(じきどう)本尊。現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置される (略)
 > 板彫十二神将像(国宝)平安時代11世紀半ばの作。日本では珍しい檜板に浮き彫りで制作された仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。12面完存している (略)
 > 金銅燈籠(国宝)南円堂前に立っていた銅製の燈籠現在は国宝館に展示されている。平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものである (略)

伽藍
かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は創建以来火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治時代以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺

それなり長い引用になってしまったので、以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。

  • 興福寺は、奈良市登大路町にある、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った法相宗の大本山の寺院で、中金堂の釈迦如来を本尊とし、南都七大寺の一つで、現在は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている
  • 669年に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した「山階寺(後に藤原京に移った後、地名の高市郡厩坂をとって「厩坂寺」に)」が起源と言われ、710年の平城京への遷都に際し、藤原鎌足の子不比等が厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた事から、710年が実質的な興福寺の創建年と言われるらしい
  • 興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち(=春日社と一体化=春日興福寺)、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となり、その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された
  • 1180年の治承・寿永の乱(源平合戦)における平重衡による南都焼討による被害受けたが、さほど時を空けず復興がなされ、鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けたが、戦国期になると織田信長豊臣秀吉に屈する形となり、知行は春日社・興福寺合体で、21,000石とされ、江戸期になっても大きな違はなかった
  • 明治期の神仏分離令が出されると、春日社と完全分離され、興福寺は更なる苦難の時を迎え、その敷地は縮小するが、金堂基檀から奈良時代の鎮檀具が発掘(@明治17年)されたり、古社寺保存法の発布で北円堂・三重塔・五重塔が特別保護建築物に指定(@明治30年)されたり、世界遺産に登録(@平成10年)されたりし、平成11年からは、国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められ、平城京・創建1300年を機に中金堂と南大門の再建が計画され、中金堂は平成30年に落慶法要を迎えた(尚現在では、旧興福寺の敷地は、奈良公園・奈良地方裁判所(一乗院跡)、奈良ホテル(大乗院跡)等になっている)
  • かつての興福寺には「中金堂・東金堂・西金堂という3つの金堂」があり、「寺の中心部には、南から北に『南大門・中門・中金堂・講堂』が一直線に」並び、「境内東側には、南から『五重塔・東金堂・食堂』」が、「境内西側には、南から『南円堂・西金堂・北円堂』が建っていた」と言われ、この他、「境内南西隅の一段低い土地に『三重塔』が、境内南東部には『大湯屋』がそれぞれ建てられた」らしいが、創建以来、焼失と再建を繰り返してきた歴史や、明治期の神仏分離令による縮小により、「創建された頃の整然とした伽藍配置」を想像することは困難と言われる

  • 現在の建造物と安置される彫刻・美術工芸品は以下の通り(一部のみ)
  • 中金堂:2018年再建で、現在の建物は、9代目の建造物だが、創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として710年の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されるらしい
    • 釈迦如来坐像 – 当寺本尊
    • 木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重要文化財) – 鎌倉時代の1202年に造立
    • 木造四天王立像(国宝) – 鎌倉時代の作

  • 東金堂国宝で、1415年に再建されたらしい、5代目の建造物
    • 銅造薬師三尊像(重要文化財) – 中尊は、1411年の火災後の再興像で室町時代の作で、脇侍の日光・月光菩薩像は奈良時代の作
    • 木造維摩居士坐像(国宝 – 本尊薬師如来像の向かって左の像で、鎌倉時代・1196年の定慶の作
    • 木造文殊菩薩坐像(国宝 – 本尊薬師如来の向かって右の像で、作者は不明も、上記維摩居士像と同じ頃の定慶の手になるものと推定
    • 木造四天王立像(国宝 – 堂内四隅に安置
    • 木造十二神将立像(国宝 – 薬師如来を守護する12の眷属の像。鎌倉時代・1207年頃の作

  • 五重塔国宝で、1426年に再建された、6代目の建造物と言われ、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものらしく、明治初期の廃仏毀釈政策に基き、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止され、明治38年には三重目の東北隅肘木に落雷が命中し黒煙をはくが、大事には至らなかった歴史があるらしい(神がかり的に現存している?)

  • 北円堂国宝で、1210年の再建と言われ「興福寺に現存する中で最も古い建造物」らしい
    • 木造弥勒仏坐像(国宝) – 本尊で、晩年の運慶が一門の仏師を率いて1212年頃に完成させたものらしい
    • 木造法苑林菩薩・大妙相菩薩半跏像 – 制作年代は室町時代に下ると言われるらしい
    • 木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝 -運慶一門の作と言われ、鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品として、日本の肖像彫刻の最高傑作の1つとして高い評価を得ているらしい
    • 木心乾漆四天王立像(国宝 – 堂内の他の諸仏より古く平安時代のごく初期の像らしく、791年に造立されたとも言われるらしい

  • 南円堂:重要文化財で、1789年に再建の、4代目の建造物で、元は、藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のために813年に創建した八角堂と言われるらしい
    • 木造不空羂索観音坐像(国宝 – 運慶の父・康慶一門の作で、1189年に完成
    • 木造四天王立像(国宝 – 運慶の父・康慶一門の作
    • 木造法相六祖坐像(国宝) – 運慶の父・康慶一門の作

  • 国宝館:文化財の収蔵と展示を目的とする施設で、1959年に食堂及び細殿の跡地に建てられた様で、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されているらしい
    • 乾漆八部衆立像(国宝– 奈良時代の作で、中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名
    • 乾漆十大弟子立像6躯(国宝) – 奈良時代の作
    • 銅造仏頭(国宝) – 旧山田寺仏頭
    • 木造仏頭(重要文化財) – 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部で、鎌倉時代の作
    • 木造金剛力士立像(国宝 – もと西金堂安置されていた像で、鎌倉時代の作と言われ、定慶作とする説もあるらしい
    • 木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝 – もと西金堂安置されていた像で、架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作らしい
    • 木造千手観音立像(国宝 – もと食堂本尊で、現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置
    • 板彫十二神将像(国宝 – 平安時代11世紀半ばの作
    • 金銅燈籠(国宝 – 南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、816年の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものになるらしい

上記、少々長くなってしまいましたが、興福寺の概要を抑えさせて頂きました。『710年の平城京遷都と時を同じくして「興福寺」として創建され、藤原氏との強いつながりを背景に春日社と共に発展するも、戦国期の信長秀吉により逆境となり初め、明治期には神仏分離令に伴い、延暦寺(日吉社と山王信仰の元表裏一体だった)と同じく、かなり厳しい状況に追い込まれるが、その刻んできた歴史は本物で、現在では多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等を所有する日本その物の歴史を具現化した世界遺産が「興福寺」』と理解させて頂いた次第ですが、皆様は、どの様にお感じになられましたでしょうか?

【興福寺の大人散策をプランニング!】

上記、興福寺の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では「興福寺における大人散策を検討」させて頂こうと思います改めて以下に「興福寺の境内マップ」も併せて記載いたしましたが、そちらを拝見すると意外と境内は限られた広さ」に思えた次第ですが、その中身は、「多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等が存在」するエリア「濃密な大人散策が期待できそう」にも思えた次第です。そんな興福寺における大人散策を検討するにあたって想定したのは、「①国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等を楽しむ」、「②現在では限られた範囲に思える興福寺の当時の姿を妄想する」、「③周囲の大人散策スポットも併せて巡り、日本の歴史に思いを馳せる」の3点になります。それぞれ以下に記載いたします。

■①国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等を十来る楽しむ

上記記載の通りですが、興福寺には、多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等が存在するにもかかわらず、広さは限られた物。故に、興福寺内のそれぞれの施設を巡って行けば、自然と多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等拝見できる認識です。その為難しく考えることなく、まずは『「南大門跡」⇒「中門跡」⇒「中金堂」⇒「仮講堂」』と直線的に進んで、そこから西に進路を取り『「北円堂」⇒「西金堂跡」⇒「南円堂」⇒「三重塔」』と北から南に歩を進め、その後東側に移動して『「五重塔」⇒「東金堂」⇒「国宝館(食堂跡)」』と進んで行きたいと思います

距離的には大したことはないと思いますが、それぞれが、建造物としての魅力は勿論、その内部には国宝・重要文化財の彫刻 / 美術工芸品がひしめく場所じっくり & じっくり時間をかけて興福寺が誇る国宝・重要文化財を出来る限り拝見させて頂き、より多くの国宝・重要文化財の彫刻 / 美術工芸品があると思われる「国宝館(食堂跡)」で〆たいと思った次第です。

■②現在では限られた範囲に思える興福寺の当時の姿を妄想する

上記、「現在の興福寺のエリアは限られる範囲」と記載しました。別の言い方をすると、「かつての興福寺の境内はもっと & もっと広かった」という事になります。しかしどの程度広かったのでしょうか? 詳細は解らずとも、大枠ではどの程度のものか体感できるのでないかと思って折ります。上記の引用には、「旧興福寺の敷地は、奈良公園・奈良地方裁判所(一乗院跡)、奈良ホテル(大乗院跡)等になっている」とありますので、現在の興福寺の境内を拝見した後は、『北側にある「奈良地方裁判所(一乗院跡)」⇒ 「菩提院大御堂」&「大湯屋」を経由して南側にある「奈良ホテル(大乗院跡)」⇒ 東側にある「奈良公園」』と巡り、興福寺創建当時の『「南大門・中門・中金堂・講堂が中央に一直線に」並び、「境内東側には五重塔・東金堂・食堂」が、「境内西側には南円堂・西金堂・北円堂」が建っていたと言われ、この他、境内南西隅の一段低い土地に「三重塔」が、境内南東部には「大湯屋」がそれぞれ建てられた』お姿を妄想しつつ、そしてその広さを感じつつ大人散策を楽しめればと思って折ります。

■③周囲の大人散策スポットも併せて巡り、日本の歴史に思いを馳せる

上記、興福寺の大人散策情報のプランニング骨子を「①国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等を楽しむ」・「②現在では限られた範囲に思える興福寺の当時の姿を妄想する」と言った内容で記載いたしましたが、興福寺の周囲に目を向けると「日本史の勉強においては必ずと言って良いほど耳にする『東大寺』」や「神仏習合により興福寺と表裏一体の歴史を歩んできた『春日大社」も隣接しています。春日大社の主祭神は、現在の茨城にある鹿島神宮の祭神・武甕槌命(日本神話・国譲りにおける功労者)が、白い鹿に乗ってやってきた事から「鹿が春日社の神使」となり、現在多くの鹿さん達がこのエリアを闊歩している認識ですので、多くの鹿さん達と戯れつつ、日本神話(国譲り)」・「平城京遷都と興福寺創建」・「藤原氏つながりの春日興福寺の時代(超繁栄期)」・「南都焼討」・「戦国期の信長/秀吉の圧力」・「明治期の神仏分離令による苦難」・「世界遺産登録」と言った興福寺の歩んできた歴史に思いを馳せつつ、「東大寺」・「春日大社」と巡ってみたと思った次第です。

【最後に】

以上が、「多くの国宝・重要文化財の建造物や彫刻 / 美術工芸品等が存在する『興福寺』の概要を抑えた上で、大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります。

藤原氏と強いつながりを持った春日大社と神仏習合の元『春日興福寺』とも言われ一体化し、絶大な力を持った寺院で、多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等を有する寺院が『興福寺』」と言った理解をさせて頂き、『それを踏まえた大人散策をプランニング』させて頂きましたが、皆様はどの様に感じられましたでしょうか? 仕事で2-3回、奈良には参らせて頂きましたが、その時は(春日大社・東大寺を含め)興福寺に参る事はできておらず、前回参ったのは、中学校の修学旅行の際だったので、運十年前の話。今回、興福寺を改めてサーチさせて頂き「また参らせて頂きたい!」と強く思ってしまった次第です。どのタイミングになるかわかりませんが、是非とも脚を運び、実現の暁には、本ブログで報告させて頂こうと思います!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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