明智光秀と天海

【更新中/準備中】

【はじめに】

こちらのページでは、学術的には、かなり疑わしいかもしれない『明智光秀=天海』の説につき、『どういったケースであれば “明智光秀=天海” と言えるのだろうか?』につき考察(後半戦)」を加えさせて頂こうと思います(前半戦の記事はこちらから…)。

前半戦では『「明智光秀とは?」・「天海とは?」といった感じで、それぞれがどういった人だったのか?』といった感じで「別々にそれぞれの人物としての概要」や「①明智光秀は、室町幕府の諜報員(スパイ? 別班?)だったのか?」、「②天海は、江戸幕府に置いてフィクサーだったのか?」につき、考えて(妄想して)見ましたが、こちらのページでは、思い切って『明智光秀 = 天海だった』と言う仮説を前提にしてしまい、「学術的には、かなり疑わしいかもしれない『明智光秀=天海』の説につき、『どういったケースであれば “明智光秀=天海” と言えるのだろうか?』につき考察」を加えさせて頂こうと思った次第です(こちらの記事は後半戦になります… ⇒ 前半戦の記事はこちらから…)。

【「明智光秀の年表と天海の年表」 ⇒ 「光秀 = 天海?」】

前半戦の記事にて、「明智光秀」と「天海」につき、それぞれの概要を抑えさせて頂きましたので、以下に、それらをまとめて俯瞰すべく、明智光秀と天海の年表をいくつかの説をベースに一覧表でまとめさせて頂きます。以下がその「明智光秀と天海の年表をいくつかの説をベースにまとめた一覧表」になりますので、まずはジックリとみて頂けますでしょうか?

■明智光秀と天海の年表をいくつかの説をベースにまとめた一覧

いかがでしょうか? この年表形式の一覧表を俯瞰的に眺めていると「『明智光秀 = 天海』説」ってあながち否定できない様に見えてきてしまうのは、私だけでしょうか? (それなりに時間をかけて調べたので、もはや願望かもしれませんが…)。故に「『明智光秀 = 天海』説」に関しても、以下の引用を踏まえつつ今少し考察(妄想?)させて頂きます。

■「明智光秀=天海説」に関する勝手な考察(妄想?)

(略) 本能寺の変後の生存説
明智光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に討たれたとされているが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかある。ただしこれらの説は、光秀が天海になったと明示されていない。

  • 京都宇治の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。
    • 『和泉伝承誌』によると、山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後光秀は和泉に向かったと書かれている。
  • 本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。
  • 比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある。
  • 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている
  • 岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び、「荒深小五郎」と改名して関ヶ原の戦い頃まで生き延びたという伝承がある。


天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠
同一人物説論者が根拠とするものには以下のようなものがある。

  • 日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
  • 徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
  • 山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
  • 明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
  • 明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
  • 天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/天海%3D明智光秀説

上記、明智光秀と天海の年表を見た後に、「生存説」・「『明智光秀 = 天海』説」を拝見すると「もう『明智光秀 = 天海』にしか思えない!」状態になってしまいますが、少し冷静に、整理整頓の意味も込めて、前半戦の記事の情報も含め、以下にまとめさせて頂きます。

  • 光秀も、天海も「出自・生年・青年期=若い時」に関しては、史実があいまい
  • 光秀の歴史上確定できそうな経歴は、室町幕府の幕臣になった1565年前後の様だが、それ以前は、斎藤道三や朝倉義景等に仕え、医者としての経歴もあると言われている様子
  • 元々光秀は、足利義昭と織田信長の連絡役として室町幕府(足利義昭)に仕え、幕臣として信長軍と行動を共にしていた様だが、比叡山の焼き討ちにも中心人物として織田軍に参加しており、その後、志賀(滋賀)郡を与えられ、坂本城の築城を開始した辺りから織田信長の家臣になったと言われている
  • 天海の歴史上確定できそうな経歴は、無量寺北院(後の川越喜多院)に来た、1588年以降と言われている様だが(自身も前半生については語ろうとしなかったと言われているらしい…)、龍興寺にて随風と称して出家した後、下野国宇都宮の粉河寺・比叡山延暦寺・園城寺・大和国の興福寺・足利学校等で学び(修行し?)、川中島合戦(2次? or 4次?)を遠望したとも、1571年の比叡山焼き討ちの後、信玄に誘われ(光秀の紹介とも?)甲府に住まい、その後、会津(蘆名氏)にいったとも言われているらしい(1572年には、義昭の信長打倒計画を踏まえ、信玄も動き始めて(西上作戦)いますし…)
  • 光秀は、1582年の甲州征伐(武田攻め ⇒ 甲斐武田家滅亡)の後、(甲州征伐の労をねぎらう名目で?)家康を安土城に招く際、光秀は饗応役を任されるが、その任を解かれ、秀吉の援軍を命じられる
  • しかし光秀はその直後、本能寺で信長を討つが(本能寺の変)、すぐに駆け付けた秀吉に敗れ(山崎の戦)、居城の坂本城に落ちる際、落ち武者狩りで殺害された(深手により自害した?)
  • 光秀の “ものとされる首” は、発見した百姓により翌日、信孝の元に届けられたものの、生存説は様々残っており、秀吉サイドとしても「光秀を討ち取った!」と早々に言いたかったでしょうから「たとえ届けられた首が偽物でも『これは光秀の首だ!』と言い張った可能性」は十分にある
  • 本能寺の変における要因は、はっきりとはわかっておらず、フィクションも含め、本当に様々な視点がる (怨恨説・理想相違説・将軍指令説 / 室町幕府再興説・徳川家康主犯説・徳川家康黒幕説等)
    • 信長家康を暗殺しようとしていた可能性はあり、その実行役に光秀が指名された可能性も排除できない (徳川家康主犯/黒幕説)
    • 光秀が室町幕府と本能寺の変時点でも繋がっていた可能性(将軍指令説 / 室町幕府再興説)もあり、信長が行う政治よりも室町幕府による政治を是としていた可能性(理想相違説)もあり、更には、信長と言う人物に対し、嫌悪感を抱いていた可能性(怨恨説)
  • 天海は、小田原攻め(1590年)の際には、家康の陣中にいたともされ、大坂の陣(1614 & 1615年)の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったと言われる
  • 天海は、江戸幕府草創期の3代将軍(家康秀忠・家光)に仕え、延暦寺再興や無量寿寺北院(現川越喜多院)の再建も行ったと言われ、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想を唱え、寛永寺を創建したと言われる
    • 江戸幕府開府の地を選んだのは天海と言われているらしい(元々家康が拠点を構えていたわけなので当然と言えば当然で、「理由付け」をしたと言った感じでしょうか?)
    • 江戸城の代名詞、「の」の字型の構造である渦郭式の縄張りは、天海によるものと言われ、更に、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したと言われるらしい
    • 天海は、鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していた様で、裏鬼門にあたる位置にある増上寺に2代将軍・秀忠を祀り、鬼門には寛永寺を創建し自ら住職となったとも言われ、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味があったと言われる、江戸の三大祭(神田神社の神田祭・浅草神社の三社祭・日枝神社の山王祭)は、天海に起因するらしい
    • 天海は、家康の神号を「東照大権現」と定め、日光に埋葬したのも天海と言われる様子
    • 元々寛永寺は徳川家の菩提寺という位置づけではなかったが、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせた事により(天海の死後ですが)、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となったと言われ、家光もかなり天海を信頼していたと思われる

いかがでしょうか? それぞれの事象(状況証拠?)をまとめて、そして俯瞰してみると、何か見えてきませんか?

一点「光秀の信長の家臣時代の行動」と「その当時の天海の行動」がマッチ or シンクロするか否か、少々不安な部分もありますが、もし光秀が、室町幕府の諜報員であったとするなら、後に経歴を改ざんする事は容易な事と思われます。同時に、仮に比叡山焼き討ちに参加していた光秀の紹介で天海が甲府に行ったとし、翌年には信玄が義昭の要請に応じて西上作戦を開始した事を考えると「光秀自身も行ったかも知れませんが、実際には連絡役を信玄の元に送り込んだ」とも考えらると思った次第です。

上記の通り、一部つじつまが合わない可能性はあるものの、これだけ並べると、私の考察(妄想? もはやファンタジー?)は、以下の様になってしまった次第です…。少々長文ですが…。

明智光秀は、義昭に拾われた恩義があり、室町幕府の政治に貢献する事が自身の使命と元々感じていた。故に、室町幕府の諜報員(スパイ? 別班?)であり、織田家の家臣になったのも、諜報員としての活動の内信長の強引なやり方に、個人的には嫌悪感を抱いていたが、諜報員として、信長に仕え、時には「比叡山の焼き討ち」や「朝倉攻め」と言った意に沿わない行動をし、時には「恵林寺焼き討ち」と言った耐えがたい事象を見過ごした。しかし同時に、武田との連携をとる様な諜報員としての活動も同時進行で行い、義昭(室町幕府)の悲願である「打倒信長の寸前まで行くが、信玄の病死により頓挫。以降、打開策を見つけられないまま、信長に仕えるが、虎視眈々と「打倒信長」を目論んでいた
そんな時、信長甲州征伐による武田家滅亡により、東国で次の脅威になりつつあった家康を、信長が暗殺しようとした為、光秀にとってはチャンス到来とばかりに、陰で家康と結んだ。しかし信長は、その兆候を見逃さず、逆に光秀に家康暗殺を命じたが、光秀はこれを拒否。これにより、光秀は左遷的に秀吉のサポートに回るよう命令されるも、これ以上信長に仕える振りをしても、諜報員としての活動が出来ず、「元々の使命である幕府の再興は難しい」と考え、ちょうど信長の警備が手薄である状態であった為、(信長の事が嫌いな事もあり)「自身による打倒信長」と言う強行突破に出て、本能寺の変を実行した。しかし、秀吉の素早い行動に阻まれ、「壊滅的な打撃」を受けてしまった為(山崎の戦)、次のチャンスを待つべく、本能寺の変の前に結んだ家康を頼って、その庇護下で身を隠した

そんな状況であった為「明智光秀」を名乗る事は出来ず、「室町幕府の諜報員として活動していた時の寺院との繋がり」や「家康が治める関東の寺院とのつながり」を活用し、僧侶として生きていく事になった(=天海の前半生;川越喜多院に来る前位までの経歴は捏造による物なので、天海も自身の生い立ちを話したがらなかったかも…)。同時に、あまたの戦国武将と交わり、室町幕府の政権中枢ともつながっていた光秀と言う人材は、家康にとっても重要な人材であった為、戦場にも同行してもらいつつ、良き相談役として家康と行動を共にする様になっていった。その為、江戸にとっても重要で、かかわりの深い無量寺北院(現川越喜多院)の僧侶・天海として表舞台に出てくる事になった。
天海は、光秀時代に得た情報や知識・経験を「かつて夢見た室町幕府の再興」と重ねる様に、江戸草創期の政に活かす事で貢献し、気が付くと家康秀忠・家光の3代の将軍に仕えていた。天海の江戸幕府における貢献は目を見張るもので、彼の情報・知識・経験は、家康を魅了し、光秀ゆかりの人や寺院の復権を後押しするものとなった。更に秀忠・家光も魅了し、江戸の街の為と言う大義ではあるが、秀忠は、天海の為に寛永寺創建の為の土地を与え家光に至っては、天海がもう既に他界しているにも関わらず、自身の葬儀は、それまで徳川の菩提寺とされていた増上寺ではなく、寛永寺で行う様に遺言した。
つまり、天海は、明智光秀の後半生の姿であり、室町幕府の諜報員(スパイ・別班?)として活動したことにより得た情報や知識・経験を江戸幕府草創期の政に活かす事で信頼を得て、影の支配者であり、フィクサーになって行った」と言う事である。

【最後に:童謡「かごめかごめ」にも「光秀 = 天海説」が?】

以上が、学術的には、かなり疑わしいかもしれない『明智光秀=天海』の説につき、『どういったケースであれば “明智光秀=天海” と言えるのだろうか?』につき考察(後半戦)」を加えさせて頂いた内容になります(前半戦の記事はこちらから…)。

いかがでしたでしょうか? 皆様はどの様にお感じになられましたでしょうか? 正直個人的には「光秀 = 天海であってほしい!」、「光秀の野望が天海として実現されていたと思いたい!」と願望を持ってしまった次第です…。

そして、その願望ついでですが、『童謡「かごめかごめ」にも「光秀 = 天海説」が隠れている』と言う説と、自身の勝手な解釈(願望)も併せて以下に紹介します。

歌詞

かごめかごめ 籠の中の鳥は、いついつ出やる 
夜明けの晩に鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ?

■一般的な内容 

  • かごめかごめ 籠の中の鳥は:籠の中にいる鳥(=土岐氏=光秀?)
  • いついつ出やる:いつになったら出て来るの?
  • 夜明けの晩に:「晩=終り(朝が始まりなら晩は終り)」であり、「夜が明ける終りの部分」つまり「日の出=日光を見る(日光東照宮の方向を見る)」
  • 鶴と亀が滑った日光東照宮御宝塔(御墓所)の真前に(側近くに)置かれている「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」のことであり、徳川家康の側近つまり天海が「統治する(陰で操る)」という意味
  • 後ろの正面だあれ?:明智光秀の出身地(岐阜県可児市)から日光(日光東照宮)の方向を向くと「後ろの正面」はちょうど、日本で唯一、明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺 がある大阪府岸和田市(貝塚市)になる

ちょっと強引な感じもしないでもないですが、「光秀 = 天海説」を信じたいという意思を感じる解釈だと思います(上記解釈はWikipediaを参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/かごめかごめ))。

■勝手な理解

  • かごめかごめ 籠の中の鳥は:室町幕府では諜報員、江戸幕府ではフィクサーで、表舞台に出れない「光秀=天海」の事を籠の中に例えている
  • いついつ出やるいつになったら出て来るの?
  • 夜明けの晩に:夜が明ける前の晩;「夜明け=徳川幕府成立の比喩」で、「その前の晩=前の政権」になるので「豊臣・織田政権の期間(「晩」なので「暗黒時代」と言いたかった?)」を指しいる
  • 鶴と亀が滑った:豊臣家の家紋を「鶴」、織田家の家紋を「亀」になぞらえ、それぞれが統(す)べた(=治めた)が、崩壊した(=「統べた」/「崩壊した」を「滑った」と一言で言っている)
  • 後ろの正面だあれ?:その後、夜が明け、徳川の世となるが、裏(=後ろ)で糸を引いている人(=正面;正しいメンツ=本当の人)は誰? ⇒ 光秀=天海」(で「もう既に籠の中から出ているよ!」というオチ…)

こちらも強引な感じですが、「光秀 = 天海説」を前提に本記事を記載いたしましたので、お許しいただければと思うと同時に、この説を強く信じたいという意思を感じて頂けたのでないかと思います。皆様は、どのように思われましたでしょうか?

TOP Pageへ or ブログ内関連情報タグ一覧へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA