武田神社

【はじめに】

こちらのページでは、甲斐武田家3代(信虎・信玄・勝頼)の居城で、現在は武田神社として有名な躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)につき、その概要と大人散策情報を紹介」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます(現在は、武田神社なので、英雄系カテゴリーの神社仏閣でもありますが、「躑躅ヶ崎館」の城跡としての武田神社として…)。皆様は、「躑躅ヶ崎館(武田神社)」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

いくつかの別記事でも記載いたしましたが、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の代表格は、甲斐武田氏。市河荘(甲府盆地の南側)を勢力基盤とし、義清(義光の子)・清光(義清の子)期には古代官牧であった八ヶ岳山麓の逸見荘へ進出し、鎌倉時代の始まる前の時代に信義(清光の子)が、韮崎・武田八幡宮で武田を名乗った事が、甲斐武田氏の始まりと言われているそうです。故に、甲斐武田家は400年程続いた家であった訳ですが、その甲斐武田家としての晩年で、最も反映したと言って良い、信玄を含む前後60年の居城が躑躅ヶ崎館であると言う理解でをしております。

と言う事は、恐らくここに「御旗楯無もご照覧あれ」で有名な、御旗・楯無(御旗:「日本最古の日の丸」とのも言われている、甲斐武田家の家宝、楯無:「源氏に伝わる8種類の鎧=源氏八領」の1つで、同じく武田家の家宝)もあったかと思うと、甲斐武田家の歴史に思いを馳せてしまう場所である事、ご理解頂けるのでないかとも思います。現武田神社境内には、武田家の宝物殿もあり、(御旗楯無はありませんが…)孫子の旗・風林火山で有名な武田家の軍旗や武田家に思いを馳せる事が出来る展示もありますので、個人的には、武田神社に脚を運ばれた際には、宝物殿も見学頂きたいと思って折ります(ちなみに、別記事でも記載しておりますが、風林火山の旗に書かれている文字は、「風林火山」ではなく「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動」のうち「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」のみの記載です…)。

こちらのページでは、そんな「甲斐武田家3代(信虎・信玄・勝頼)の居城で、現在は武田神社として有名な躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)につき、その概要と大人散策情報を紹介」させて頂きます

【躑躅ヶ崎館の概要】

まずは、躑躅ヶ崎館の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または日本の城)。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。

概要
甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。
戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。
県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。

躑躅ヶ崎館の歴史
(略) (信虎の先々代)武田信昌は嫡男の信縄(信虎の先代)に家督を譲り落合(山梨市落合)に隠居するが、信昌は次男の信恵(油川氏)を後継者とすることを望み、守護・信縄と信恵の間で内訌が発生した。信縄の子の信虎(初名は信直)は永正5年(1508年)に信恵を敗死させると、信虎による甲斐統一が進捗した

武田信虎の躑躅ヶ崎館建設と甲府開創
信虎も川田館
(甲府盆地東部の甲府市川田町)を本拠としていたが、『高白斎記』によれば永正16年(1519年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館移転を行った。 (略) 
信虎は新館の建設と同時に有力国人の城下町移住を行っている有力国人は甲府への集住に対して抵抗し、『勝山記』によれば永正17年5月には栗原氏・大井氏・逸見氏らが甲府を退去する事件が発生している。また、館を守備する支城の築城も行われ、『高白斎記』によれば、永正17年6月には背後の積翠寺丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)が築かれ、大永3年(1523年)には城下西方の湯ノ山に湯村山城(甲府市湯村)が築城されている (略)

武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館
晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃・駿河・上野・遠江・三河などを勢力下に収めるが、武田家の本拠地は一貫して、周辺の要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった (略)

1575年(天正3年)の長篠の戦いで敗北したことにより武田家の領国支配に動揺が生じた。武田勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図したが、家臣団から多くの反対の声が上がった。結局、武田勝頼は韮崎に新たな城「新府城」(韮崎市中田町中條)を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転した。
しかし、まもなく実施された織田氏の甲州征伐の結果、武田勝頼は建築途中の新府城に火を放ち、廃城にし、その後、武田氏は天目山で滅亡した。

近世・近現代の躑躅ヶ崎館
1582年(天正10年)の武田氏滅亡後、河内領を除く甲斐一国・信濃諏訪郡を統治した織田家臣の河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、異説として岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたとする説がある。同年6月に本能寺の変が勃発し、秀隆はその後の混乱の中落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた

1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。
1705年(宝永2年)に甲府に入封した柳沢吉保は、それまで「古城」と呼ばれていた躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶよう甲府市中に発した。吉保は自らを甲斐源氏の後裔と位置付けており、父祖とされるものの権威の正当な顕彰を意味する (略)

館の構造・遺構
広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。
外濠・内濠・空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪・梅翁曲輪うち、味噌曲輪・御隠居曲輪・梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成されると考えられ、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀・馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、正確な年代は不明であるが丸馬出が築かれていたことが判明した。
内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏・浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた (略) 

現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。遺構として土塁・堀・石垣・虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の息子誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた (略)

詰城と城砦群
外縁には詰城として城砦群が発達し、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山(のちに甲府城が築かれる)にも山城や砦が築かれ、居館と詰城・支城による府中防衛体制を整えた

2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/躑躅ヶ崎館

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 躑躅ヶ崎館は、甲斐武田氏の居館で、詰城として背後に要害山城を配置した構造の甲斐・領国経営における中心地=政庁
  • 信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能
  • 築城者は、信玄の父・信虎で、信玄は一貫して躑躅ヶ崎館を拠点としたが、勝頼の代で織田・徳川連合軍との長篠合戦(1575年)後(滅亡直前)に、韮崎新府城を作り移った
  • 織田氏の甲州征伐による武田氏滅亡(1582年)後、織田家(家臣の河尻秀隆)が入るも、本能寺の変(1582年)がおこり、天正壬午の乱(武田遺領を徳川・北条で争った)を経て徳川家康が入った(この時、館域は拡張され天守も築かれた?)
  • 六義園で有名な柳沢吉保(北杜市が起源の武川衆の末裔で墓所は信玄と同じ恵林寺)は、それまで「古城」と呼ばれていた躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶように定めた
  • 現跡地には、1919年創建の武田神社があり(この時現在の南入口(参道)が作られた)、「武田氏館跡」として国の史跡に指定され、日本100名城にも選定されている
  • 縄張りは、外濠・内濠・空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館で、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪・梅翁曲輪(うち、味噌曲輪・御隠居曲輪・梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣 or 徳川時代に造成?)等から構成されており(Wikipedia の情報と甲府市HPのパンフレットと記載の違いもあり不明瞭な部分もあるが、総合的にみると)、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀・馬出しなどの防御施設を配した構造

現在、武田神社にお伺いすると、七五三の親子連れの家族がいらっしゃったり、南側の入口(参道)には、左手に富士山が見え、半分観光地化されているのかお土産屋さんもあり、歴史ファンのみならず、多くの方が様々な目的でいらっしゃるスポットだと思います。しかし、良く目を凝らし、躑躅ヶ崎館時代の痕跡を見つけようとすると、あちらこちらにそれを見つける事が出来る歴史的なスポットである事、ご理解いただけるとと思います。

上記の通り、「人は城、人は石垣、人は堀(情は味方、仇は敵なり)」と言ったと伝わる信玄の居城らしく、少々小ぶりな印象も受けますが、広く深い堀に、馬出しや、虎口とそこを守る土塁・石垣と、縄張り全体に見える防御の工夫を感じる事が出来ます長篠合戦(1575年)から1582年の武田滅亡(織田氏の甲州征伐)までは、「あの武田が滅ぶ…」と全国から注目され、その直後(同じく1582年)の本能寺の変で、西では光秀と秀吉の山崎の戦い ⇒ (「美濃大返し」があった)賤ケ岳の戦い(1583年)が、話題の中心だったでしょが、東では、「武田遺領を徳川が取るか、北条が取るか(=天正壬午の乱)」が、話題の中心であっただろと思います。1583年頃?に甲府城の築城を開始したと言われる徳川でしたが、すぐに秀吉の小田原攻め(1590年)が起こり、一時徳川の手ははなれますが、関ヶ原の後再び徳川が甲府を収める事になるも、甲府城の完成(1590年?)と共に、政庁の機能を甲府城に譲ったお城が、躑躅ヶ崎館と理解しています。言い換えると、まさにこの期間(1575年位~1590年位)、日本の歴史における中心の一つであった場所が、躑躅ヶ崎館だと思う次第です。

【躑躅ヶ崎館における大人散策】

上記、概要を抑えさせて頂きました躑躅ヶ崎館(現武田神社)ですが、こちらのパートでは、その大人散策情報を記載させて頂きます。

①躑躅ヶ崎館(現武田神社)へのアクセス

甲府駅から躑躅ヶ崎館(現武田神社)までは、北に2.5㎞程。少し登坂ですが、徒歩でもアクセスでき、多くのバスも出ておりアクセスしやすい環境だと思います。同時に、最下部の地図をご参照頂きたいのですが、広い駐車場もいくつかございますので、車でのアクセスも全く問題無い認識です。いづれにしても、武田神社についたら、現在の入口(参道)の神橋から大人散策を開始します。

②神橋~拝殿

現武田神社のメインの入口(参道)の神橋から大人散策を開始します。こちらの入口は、躑躅ヶ崎館時代にはなく、1919年の武田神社創建に併せて、整備されたものと理解しています。甲府駅からまっすぐ伸びる道は、まさに武田神社の参道。戦国期は、防衛を考え、これだけ真っ直ぐな道は作らないと思うので、武田神社の創建に合わせ、甲府駅から参道と南側の入口を整備したのでないかと勝手に思っています。

この神橋を渡る際、堀の広さと深さを実感頂けると思います。神橋は大正期に掛けられた橋であっても、堀その物は武田期からある物。そして、堀を渡り切った後の階段の高さは、石垣の高さを感じる物。「人は城、人は石垣、人は堀…」と言ったと言われる信玄ですが、それなりの構えであったことはご理解いただけると思います(武田期は土塁だったかもしれませんが…)。階段(石垣)を超え、そのまま参道を進むと、左手に手水舎があり、その先に拝殿がございますので、まずはご挨拶(参拝)を致します。

拝殿~御隠居曲輪

拝殿にてご挨拶(参拝)を終えた後。拝殿に向かって左に進むと、信玄に娘が誕生した際に産湯として利用されたことから名づけられた、姫の井戸や水琴窟があります。右手に行くと、社務所や信玄が使っていたと言う井戸があり、その先には、宝物殿があります。上記にも少々触れましたが、この宝物殿は、さほど大きな施設ではありませんが、武田の歴史を感じる展示がある事は間違えありませんので、特に武田神社が初めての方は、脚を運んでいただければと思います。

宝物殿の後は、そのまま東に歩を進めます。土塁の木々の先で、堀を超え神社の外に出てしまいますが、ここが武田期の正式な入口で、躑躅ヶ崎館の大手門(跡)になります。近年の発掘調査で、堀の東側に三日月型の堀があり、馬出の後も見つかっているとの事で、武田流の築城術の痕跡を感じられる場所です。石塁は復元していますが、三日月形の堀は復元していないので、「三日月型の堀も復元してくれれば、もっとイメージつくのに…」と思いながらも、現地の説明看板と共に、武田流築城術に思いを巡らせて頂くのも良いと思います。大手門跡の次は、境内に戻らず、堀に沿って北上する形で、御隠居曲輪方面を目指します。

④御隠居曲輪~西曲輪

御隠居曲輪は、信玄の母・大井夫人の隠居所とも、豊臣統治時代に拡張されたとも言われているエリアの様で、この御隠居曲輪と主郭の間には、桝形虎口があった様です。この武田神社の北側エリアには、来る方もかなり少なく、ゆっくりと見学する事ができます。武田神社(戦国期の主郭)を分ける堀の深さ(若干水もありますが現代はほぼ空堀)を実感でき、稲荷曲輪・味噌曲輪(豊臣統治時代の造成?:2023年時点発掘作業中)も見学する事が出来ます武田神社の南側と違い、躑躅ヶ崎館の本当の雰囲気は、この北側でこそ感じられると個人的には思っている次第です。ちなみに、味噌曲輪の北側には、躑躅ヶ崎館の詰城・要害山(城)を望むことが出来ます。

そんな躑躅ヶ崎館の雰囲気を感じつつ、散策してると味噌曲輪の南側に、堀を人ひとりが渡れるほどの幅しかない盛土で堀を渡る通路があり、その先で西曲輪の虎口を抜けると西曲輪に出る事が出来ますここの「盛土で堀を渡る通路」は、個人的に躑躅ヶ崎館のなかで最も雰囲気のあるスポットだと思って折り、今場所を見ないで多くの人が武田神社を後にされるのはもったいないと思っている次第です。

⑤西曲輪~梅扇曲輪

「盛土で堀を渡る通路」を超え、西曲輪の北側の虎口(しっかり石垣と土塁で守られています)を抜けると、武田信玄が義信の婚儀に合わせ造営し、義信の居住エリアだったと伝わる西曲輪に出ます。土塁と堀で囲われたそのエリアは、武田期の遺構だと思われ、歴史の重みを感じるエリア。東側の堀の先は、徳川が抑えていた時代(1582年の天正壬午の乱から1590年の秀吉の小田原攻め)には、天守もあったと言われる名残の天守台側面らしき遺構(天守台は武田神社の本殿(主郭)奥なで、見る事が出来ませんでしたが、上記のパンフレット内には、石垣の写真ありました…)も見えますし、秋にはモミジの紅葉も美しいスポットですので、西曲輪全体をのんびり大人散策頂ければと思います。

北側の「盛土で堀を渡る通路」より入った西曲輪ですが、南に進むと同じく土塁と石垣に固められた虎口がありますので、その防御性を実感しつつ歩を進めると南側の堀を渡り、梅扇曲輪に出る事が出来ます。この梅扇曲輪は、武田滅亡後に造営された曲輪の様です。近年整備されたようで、非常にきれいで歩きやすスポットです。富士山も目るスポットですので、その景色を含め、見学されてみては如何かと思います。

【最後に】

以上が、甲斐武田家3代(信虎・信玄・勝頼)の居城で、現在は武田神社として有名な躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)につき、その概要と大人散策情報を紹介」させて頂いた内容になります

躑躅ヶ崎館跡を実際に回ってみると、しっかりと防御性を意識し、工夫の見られる館跡だと思いますが、同時にあの武田信玄の館としては、やはり物足りない印象を受けます。やはり信玄の言葉通り「人は城、人は石垣、人は堀(情は味方、仇は敵なり)」のお城(館)が、躑躅ヶ崎館だと思った次第です。更に申し上げると、信玄が他界し、勝頼が長篠合戦で敗れた後、「躑躅ヶ崎館では物足りない」と言って、新府城に移った事も理解できると言う事です。言い換えると、『「武田信玄だからこそ貫けたポリシーを反映した、武田信玄の格をよりも見劣りする館跡」が、「躑躅ヶ崎館」』だと思った次第です。

躑躅ヶ崎館の北・3㎞程の場所には詰城の要山城、南・2.5㎞程の甲府駅に隣接する形で、武田家滅亡後の政庁・甲府城(舞鶴城)もありますので、歴史ファンの方は、是非、要害山城と甲府城(舞鶴城)も そして、できる事なら新府城も併せて回り、甲斐武田家の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

尚、本ブログ別記事では、甲府とその周辺の大人散策 / 観光スポット信玄治水工事の痕跡・信玄堤甲斐武田家発祥の地・韮崎の武田八幡宮信玄が品の攻略のために整備したと伝わる信玄棒道武田24将の一人で赤備えの元祖ともいえる山縣昌景の御子孫が経営する温泉宿・山縣館信玄の隠し湯とも言われる甲府湯村温泉の柳屋常盤ホテル甲府城址近くの温泉があるホテル・談露館小名屋ホテル等も紹介しておりますので、皆様のニーズに合わせご参照頂ければと思います。

また同じく別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

更に、本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

TOP Pageへ or ブログ内関連情報タグ一覧へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA