広島城天守(2012年11月撮影)

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【はじめに】

こちらのページでは、江戸期前の築城時から太平洋戦争末期まで、戦の舞台にはならなかった事で天守が現存し、旧国宝24城の1つとなったが、太平洋戦争末期に原爆により崩壊してしまったお城『広島城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「広島城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  • 元々は、毛利元就が、安芸国守護・武田氏を滅ぼし & 厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利した事で、毛利氏によって「最も地(=広島?)」に築城されたお城
  • 太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって天守を始めとする現存城郭建築(=旧国宝24城の1つだった)が倒壊してしまったお城
  • 日本100名城のお城で名古屋城岡山城(・二条城松本城?)と共に「日本三大平城」に数えられているお城
  • またの呼び方を「鯉城(りじょう)」とも言いい、元高校球児としては「広島東洋カープ(CARP=鯉)」を連想してしまうお城

正直な所、まだ広島城にはお邪魔できていませんが、「広島は毛利氏によって開かれ、江戸期前の築城時から太平洋戦争末期まで、旧国宝24城の1つに指定された天守があったが、原爆により崩壊してしまったお城が『広島城』」と言った大雑把な知識は持っている状況です。言い換えると、戦国期・江戸期の遺構は、原爆投下により、その遺構は、ほとんどなくなってしまったが、広島と言う地域が背負わされた悲しい歴史は、日本の歴史の大変大きな1ページであり、今後こう言った悲惨な出来事が繰り返されないよう「平和を祈る地」でもある認識です。つまり、まだお伺いできていない、且つ広島の地にご縁がある訳でもない私が、記載するにはおこがましいですが、「戦国期の歴史に思いを馳せつつも、原爆投下と言う悲しい歴史にも思いを馳せつつ、未来に向けて一歩を踏み出す事を願う地」でもあると言う認識です。

こちらのページでは、個人的にそんな思いを持っているものの、まだお邪魔したことがない「広島城」に付き記載いたします。すなわち江戸期前の築城時から太平洋戦争末期まで、戦の舞台にはならなかった事で天守が現存し、旧国宝24城の1つとなったが、太平洋戦争末期に原爆により崩壊してしまったお城『広島城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂きます

【広島城の概要】

まずは、広島城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

広島城(ひろしまじょう)は、安芸国佐東郡広島(広島県広島市中区基町)にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城国の史跡に指定されている。毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである。

概要
江戸時代初頭に入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は広島市中央公園内 の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万m2 と三の丸跡の一部が残る (略)
大坂城や岡山城などと共に初期近世城郭の代表的なもので 、また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城に数えられる日本100名城の一つに選定されている。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』によると、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1592年に毛利輝元によって創建された大天守は、外壁仕上げの下見板張りや最上階に高欄を持つ外観仕様が国宝指定(1931年)の理由の一つとなった。近代は日清戦争時に、本丸に大本営が置かれるなど軍都広島の中心であった。1945年のアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下により、現存していた天守は倒壊し、櫓や城門も失われた。近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している現在の天守は鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である (略)
本丸跡、二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、史跡外で確認できる遺構は、堀の石垣の天端石、広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡、空鞘橋東詰南側の外郭櫓跡程度である。

別称
別称は「鯉城(りじょう)」。広島城があった一帯は昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われていることから、この名がついた。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる (略)
2003年、中区八丁堀の国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の金箔瓦」が1点出土している。金箔が施されていることから毛利氏時代のもの (略) と推定されているが、天守と関係あるものかは不明。
鯉城通り、鯉城会館、鯉城高校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、鯉城グループなど、市内中心部にある施設に鯉城を冠した名前のものが多い。 また鯉城から「広島東洋カープ」(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられた

歴史
・前史
この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた。
承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになる (略)
元就の孫・毛利輝元の時代、天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる。中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた
1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている (略)

・築城
1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し (略) 「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた (略)
1593年(文禄2年)石垣が完成、1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成した。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている (略)
関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。

・藩政時代
(略) 福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である (略) 大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている。さらに、1619年(元和5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封された。
同1619年(元和5年)8月8日、浅野長晟入城以降は浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた (略)
1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる。

・近代
1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県。浅野氏による藩政体制は終りをつげ広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置された (略) 1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになる (略) 1874年(明治7年)本丸および二の丸で起こった火災では、本丸御殿が全焼した (略)
1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置される (略) 同年9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで明治天皇は広島に行幸した。これに伴い第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能した (略)
1931年(昭和6年)1月天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定される。

・太平洋戦争末期
(略) 太平洋戦争末期には本土決戦に備え、1945年(昭和20年)4月第二総軍司令部が二葉山麓の東練兵場そばにあった元騎兵第五連隊兵舎に置かれた。さらに同年6月には広島師管区司令部が中国軍管区司令部に改編され、本丸に司令部を置き、本丸の南端で内堀の石垣に沿ってシェルター化した防空作戦室(現在の中国軍管区司令部跡)を建設した。
また太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた (略)
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった。ここは爆心地からほぼ1キロメートル離れたところに位置した。 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している (略) 唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった。ここから被爆の第一報を通信している (略)

・現代
(略) 本丸および二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた (略)
1951年(昭和26年)、広島国体にあわせて木造仮設天守が作られた (略) 国体終了後に解体されたが、後の天守再建の機運へとつながった
1953年(昭和28年)3月31日、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった。戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した (略) 1957年(昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工 (略)
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された (略)

構造
・縄張
(略) 藩政時代の広島城は、福島正則が輪郭式平城として整備したものであり、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の、広さ約90万平方メートルの規模があった (略)
二の丸は「馬出」と呼ばれる曲輪で、広島城の特徴の一つである。毛利氏による築城当初は存在せず後の改修により造られたもので、1598年(慶長3年)から1600年(慶長5年)の間に造られたと考えられている (略)

・島普請
島普請とは、現在で言う地盤改良と堀の浚渫、築堤工事のことを指す
当地は太田川下流域三角州の低地にあり、低湿地帯の砂地上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込んだ上に基礎を築いた工法が採用されたと伝えられてきた。ただ近年の発掘ではその証拠が見つかっておらず、それ以前の毛利元就時代の弘治元年(1555年)2月には山県就相宛の書状で現在の広島の地に堤が作られていた事から、実際に島普請が行われたかについて否定的な意見を唱えるほうが主流となりつつあるく (略)
浅野氏が支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている。その対策として、河川の堤防を高くしたり、川水の流れを抑制する石垣の設置、水害防御目的で植林したり、川の浚渫を行っている (略)

天守
 >初代
(略) 1592年(文禄元年)4月、文禄の役に参加した常陸佐竹氏家臣の平塚滝俊は、佐竹軍が名護屋城に向かう際に通過した広島にて広島城の天守や石垣を見て「見事なること申すに及ばず候」と書簡に残していることから、天守はこの年以前に建てられたものと考えられている (略)
天守の形式は連結式と呼ばれるものの内、特に複連結式と呼称される「五重の大天守から渡櫓で南と東に2つの三重小天守を連結する」構造であった。大天守の高さは『広島藩御覚書帖』によると、17間6尺(約32.7メートル)あった。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、屋根には金箔押の軒瓦や鬼瓦(金箔瓦)が葺かれていた (略) 築城から江戸時代の間この城自体は戦場にはなっておらず、戦中は旧陸軍の重要書類が多数積み込まれていたことから、終始倉庫として利用されていたことになる (略)
1931年(昭和6年)、他の現存する建造物とともに国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されていたが、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による原子爆弾投下の影響によって倒壊した。倒壊の様子について原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風による衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱した、という事が近年の研究で判明倒壊後はしばらくそのまま放置されていた (略)

 >2代目(仮設)
1951年(昭和26年)、広島国体開催に合わせて仮設の木造模擬天守が建てられた (略)

 >3代目(現在)
現在の大天守は1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際、外観復元された (略) 再建するにあたり、以下の方針がとられた。
 ・初代天守を忠実に再現する。
 ・最上階で市内を展望できるようにする。
 ・博物館として利用する
 (略)
最上階のみを木造での復元としたり、懸魚の形状を古写真に基づくものではなく創建当初のものを想定するなど初代天守の忠実復元を試みていた一方で、窓の意匠について本来、突上窓であるものを、連子窓(格子窓)として復元したり、南廊下の1階・2階に窓を新たに開けるなど、戦災以前の外観とは異なる部分が指摘されている (略)
三代目となる天守については耐震性を満たしておらず、耐震改修せずに2025年度後半に閉館し、2026年度に三の丸に資料を展示するための代替施設を開館させる。天守の展示施設閉館後は安全面を考慮して来訪者は天守に入ることができなくなるが、外観は当面維持するとしている (略)

 >木造天守の復元計画
(略) 再建後、60年以上経過している鉄骨鉄筋コンクリート構造の現天守は老朽化による、耐震性の問題があり、耐震診断調査の結果、震度6から7で倒壊する恐れがあるとされていた。その為、耐震対策が課題になっていて、広島市は天守を補強や木造で復元するのかの判断を迫られていた (略) 2021年(令和3年)3月16日に松井一実広島市長は市議会予算特別委員会で「木造復元を目指す本格的な調査、検討を進める」などと述べ木造で再建する方針を示した。事業費は86億円と見込んでいる (略)

・本丸御殿
藩主が生活し政務を行った本丸御殿は、本丸上段つまり本丸の北大部分を占める場所に位置した (略) 1874年(明治7年)本丸および二の丸での火災により全焼したことから、現存はしていない

遺構 (略)
金鯱瓦
(略) 2009年(平成21年)3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設による前調査の際に、金鯱瓦が一対発見された (略) ほぼ完全な状態での金鯱瓦出土は国内初で、更に日本でも古い部類の鯱瓦にあたることから、完品として現存最古の金鯱瓦である (略)
金箔瓦が作られた当時の豊臣政権下において、この瓦は「権威の象徴」とみなされ設置は秀吉の許可が必要だった。また豊臣政権下でのこの瓦は朝鮮や明からの使者に日本の栄華を見せつけることを主目的としたため、同時代に築城した北部九州から大阪にかけての城でいくつか出土例があり、県内では厳島神社でも出土している (略)

・被爆遺構 (略)
 >被爆建物
中国軍管区司令部跡 – 爆心地から790メートル (略)
 >被爆樹木
江戸時代末期、城外からの目隠しとして内堀の際に松や杉・雑木が多数植えられていた。その後も生き続けていたが被爆によりそのほとんどが倒壊した。2012年現在、被爆後も生き続けている被爆樹木が3本ある
 ・クロガネモチ – 爆心地から910メートル (略)
 ・ユーカリ・マルバヤナギ – 爆心地から740メートル (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/広島城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 広島城は、現・広島県広島市にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城で、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって天守を始めとする現存城郭建築(=旧国宝24城の1つだった)が倒壊してしまうものの、戦後外観復元の天守が再建され、現在は「国の史跡」 & 「日本100名城のお城で、大坂城岡山城などと共に「初期近世城郭」の代表とされ、名古屋城岡山城(・二条城松本城?)と共に「日本三大平城」に数えられているお城
  • 尚旧国宝24城の1つだった天守は、複連結式の天守群だったと言われ「五重の大天守から渡櫓で南と東に2つの三重小天守を連結する」構造で、「大天守は、高さ・32.7m程の望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面だった」と考えられているらしい
  • 広島城は、別称を「鯉城(りじょう)」とも言いい、付近の発掘作業で「鯉の金箔瓦」が出土したり、「広島東洋カープ(CARP=鯉)」・鯉城通り・鯉城会館・鯉城高校(現広島県立広島国泰寺高等学校等、「鯉城」を基礎にした名前のものが多く、「『広島』と『鯉』をつなぐ架け橋的な城郭」と言って良い認識
  • 広島(城)の歴史は、承久の乱以降、安芸国守護に命じられた武田氏により治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし、厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、毛利氏によって支配されることになり、元就の孫・輝元の時代になると、「最も地(=広島?)」である五箇村(太田川河口のデルタ地帯)に築城することが決められたと言われ、関ヶ原合戦の前に、初代の城郭は完成していたと言われる(「広島」という名はこの頃に付けられたと言われているらしい)
  • その後、関ヶ原合戦で減封され、広島を去った毛利氏に代わって、1600年城主となった福島正則によって改築されるも(輪郭式縄張りとしたらしい)、大規模な城整備と城下町作りは徳川家康の怒りを買い、正則は謹慎させられ、さらに改易され信濃国川中島へ転封されると、浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いたと言われ、幕末の第一次長州征討の際には、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となり、戊辰戦争の際には、広島藩は官軍として戦ったため城郭が残った歴史がある
  • 明治の廃藩置県後、広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになり、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置され、短期間ではあるものの明治天皇が広島に行幸した事で「臨時首都」として機能した歴史も持ち、その後天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されたが、太平洋戦争末期には、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下により、城郭は崩壊(なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊と言われているらしい)してしまう事になる
  • つまり、「江戸期前の築城時から、江戸期・明治・大正・昭和と、戦の舞台にはならなかった事で天守が現存し、旧国宝24城の1つの城郭となったが、太平洋戦争末期の原爆で崩壊してしまったお城」という事になり、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたもので、将来的には耐震性の観点から木造での復元計画があると言われているお城でもある

Wikipediaより:広島城天守

長い引用をサマリ的にまとめさせて頂きましたが、それもやっぱり長いので(すいません…)、更にまとめますと以下の様になりました…。

広島城は、別称を「鯉城(りじょう)」とも言い、現・広島市にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城で、現在は「国の史跡」 & 日本100名城」のお城でもあり、大坂城岡山城などと共に「初期近世城郭」の代表とされ、名古屋城岡山城(・二条城松本城?)と共に「日本三大平城」に数えられているお城でもある。
その歴史を見ると、広島は、戦国時代に毛利元就が武田氏を滅ぼし、厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、毛利氏によって支配されることになった事で、この地の「最も地(=広島?)」である五箇村(太田川河口のデルタ地帯)に、関ヶ原合戦の前には初代の城郭が築城されたと言われ、関ヶ原合戦後に入場した福島氏はすぐに改易されるが、その後は、浅野氏の居城としての時代が明治時代に至るまで続き、城郭も残ったと言われる。
この為か、明治の廃藩置県後、広島城には軍関連施設が建てられるようになり、大本営もおかれるようになると、結果としてアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下を誘発し「国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定されていた天守群」も崩壊してしまった歴史を持つお城で、つまり、「江戸期前の築城時から、江戸期・明治・大正・昭和と、戦の舞台にはならなかった事で、天守群が現存し『旧国宝24城の1つの城郭』となったが、太平洋戦争末期の原爆で崩壊してしまったお城」という事になる。故に、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものであるが、将来的には耐震性の観点から木造での復元計画があると言われているお城でもある

と言った理解になった次第です。

日本史好きの自身にとって、返すがえす毛利氏によって築城されたと言われる「旧国宝24城の1つであった天守群」が原爆により無くなってしまった事は非常に残念な事であると思ってしまいます。しかしそれ以上に、(上記の引用に詳細な記載が有る訳ではありませんが、日本人として)原爆によって多くの方が亡くなり、生き残った方も苦しんできた歴史を考えると、現代に生きる我々は『「平和な世界を作るよう努力を惜しんではいけない」と心に誓う地が広島と言う場所』と思ってしまった次第です。

【広島城の周囲も含めた見所】

上記、広島城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。今後の広島城における大人散策のプランニングの内容になりますので、以下皆様の参考にもなれば幸いです。

・スタートは「広島駅」で、まずは「縮景園」を目指す

私達夫婦の居住地は「埼玉の川越」ですので、飛行機のアクセスになるか、新幹線でのアクセスになるか不明ですが、空港と広島中心部の距離感を地図で拝見すると、飛行機でも新幹線でもあまり時間的に変わらない気がしますので、新幹線利用想定で「広島駅」を大人散策@広島のスタート地点にしようと思って折ります。その前提で広島城周辺の地図を拝見すると目に飛び込んでき来たのは「縮景園」と言う庭園。庭園好きでもある私達夫婦としては、素通りする訳にはいかないと思い、Wikipedia にて調べてみますと、以下の様にありました。

縮景園(しゅっけいえん)は、広島県広島市中区上幟町にある庭園

概要
国の名勝、日本の歴史公園100選。施設は県が管理する。
元和6年(1620年)、広島藩浅野氏初代藩主である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源であり、歴代浅野氏から寵愛を受け現在まで拡幅し、1940年(昭和15年)浅野氏が広島県に寄贈し現在に至る (略) 1945年広島市への原子爆弾投下により荒廃、1970年代までに再建された (略)
池泉廻遊式庭園。入り口は南端に位置する。
中央に「濯纓池」と呼ばれる池を配しそれを「跨虹橋」によって東西に二分、その池を基準に北・東・西に小山を築き宗箇山・二葉山・弥山などの借景としている。主要建物は、跨虹橋の南に位置する「清風館」で、その他茶室や四阿を備える (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/縮景園

江戸期の大半、広島の地を治めた浅野氏ゆかりの大名庭園に起源を持つものの、原爆により荒廃してしまい、戦後再建された池泉廻遊式庭園」と理解させて頂いた次第です。お邪魔した事はないので、イメージしにくいですが、航空写真を拝見する限り、中々の規模感の庭園に見えますので、まずは、広島駅から「縮景園」に移動し、広島での大人散策を開始いたしと考えて折ります。

・「広島城」の規模感を感じつつ「御門橋」から「現・広島城」に入る

「縮景園」を派遣した後は、かつての広島城の規模感を感じつつ、東側から南側に「中堀跡」・「外堀石垣のモニュメント」等を拝見しつつ回り込んで、何処まで近づけるか不明ですが「三の丸跡」も拝見して、「御門橋」から現在の広島城の城郭にお邪魔したいと考えて折ります。

・「広島城」を「戦争の遺構」を確認しつつ「天守」まで大人散策

「御門橋」からお邪魔すると、そこは「二の丸跡」のエリアの認識。ここでは「表御門」・「西側塀」・「平櫓」・「多聞櫓」・「太鼓櫓」・「番所跡」・「馬屋跡」等の復元建造物や遺構等を拝見しつつ、原爆を生き抜いた「被爆樹木ユーカリ」等の樹木も拝見し、「中御門跡」から本丸エリアに。そして、「鏡石」・「本丸 番所跡」・「本丸 米蔵跡」・「本丸 南西隅二重櫓跡」等を拝見しつつも、まずは「広島護国神社」で、しっかりとお参りさせて頂き(神社仏閣好きでもあるので…)、「中国軍管区司令部軍人・軍属・動員学徒慰霊碑」・「大本営跡」等の太平洋戦争の遺構も拝見し、その歴史に思いを馳せつつ、戦国・江戸期関連のスポットである「本丸御殿跡」・「上段 東多聞櫓跡」・「上段 二重櫓跡」・「旧天守の礎石」・「東小天守跡」・「東廊下跡」・「南廊下跡」等も拝見した上で、「天守」をじっくりと拝見させて頂こうと思います。外観復元天守の認識ですので、旧国宝24城としてのお姿と基本同じと思いつつも、元々は「複連結式の天守群」だった認識でもありますので、その痕跡も探りつつ大人散策を満喫させて頂こうと思います

・「広島城・天守」を拝見した後は「裏御門跡」から出て東⇒北⇒西と「広島城外輪部」を回る

現在の外観復元された広島城の天守」で「複連結式の天守群」の痕跡探った後は、本丸東側の「裏御門跡」から、広島城本丸を失礼し、現在の城郭を「東⇒北⇒西」へ回り込む様に大人散策を遂行「(いくつかの)中堀跡 / 外堀跡」・「東松原口御門跡」・「宇津御門跡」・「東不明御門跡」・「西不明御門跡」・「白島口御門跡」・「四角堀 外郭隅櫓跡」・「西松原口御門跡・土橋跡碑」・「今門跡」・「外郭 櫓跡」等を拝見しつつ、「広島城の本来の規模感と輪郭式縄張りを少しでも感じたいと思って折ります。そして、旧太田川(本川)の左岸を進んで「二代目・平和の鐘」経由で「原爆ドーム」を目指したいと思います。

原爆ドーム」・「平和記念公園で太平洋戦争に思いを馳せ平和を祈願

「原爆ドーム・平和記念公園」は、ちょっと大人散策のトピックにおけるカラーが「広島城」と違いますので、それぞれその概要を抑えさせて頂きます。まずは、「原爆ドーム」から。Wikipedia を調べてみますと、以下の様にあります。

原爆ドーム(げんばくドーム、英: Atomic Bomb Dome)は、1945年(昭和20年)8月6日8時15分に広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物(被爆建造物)である広島平和記念碑(ひろしまへいわきねんひ、英: Hiroshima Peace Memorial)とも呼ばれる。もともとは広島県のさまざまな物産を展示するための広島県物産陳列館として開館され、戦時中から原爆投下時までは広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)(ID775)に登録されており、平和を訴える記念碑として、特に負の世界遺産と呼ばれている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/原爆ドーム

併せて「平和記念公園」も調べさせて頂きますと、以下の様にあります。

広島平和記念公園(ひろしまへいわきねんこうえん、英語: Hiroshima Peace Memorial Park)は、広島県広島市中区中島町にある無料の市民公園。平和記念公園(英: Peace Memorial Park)もしくは単に平和公園(英: Peace Park)とも呼ばれる

概要
(略) 1949年の11月1日には国会で可決された特別立法「広島平和記念都市建設法」が制定された。世界に向けて人類の平和を願い訴えることと、過去の過ちを繰り返さないことを目的に、同年、広島平和記念都市建設法を受けた国家の記念碑的コンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」を広島市主催で実施。約140件の応募案のなかから1等に岸田日出刀審査員が推す丹下健三以下3名(浅田孝・大谷幸夫・木村徳國)の案が選ばれた (略)
1951年8月6日に現在の区域を平和記念施設とすることを決定し、1954年4月1日に完成した (略)
毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる (略)
平和記念公園は被爆前も公園だったと誤った認識があるが、被爆前は中島地区と呼ばれ幕末から明治・大正にかけて市内有数の繁華街として栄えた歴史のある街であった (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/広島平和記念公園

原爆ドームは、広島市に投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物(被爆建造物)で、広島平和記念碑とも呼ばれ、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されているが『平和を訴える記念碑として、特に負の世界遺産』と呼ばれている」という事の様です。

また、「広島平和記念公園は、『世界に向けて人類の平和を願い訴えることと、過去の過ちを繰り返さないことを目的』に、丹下健三氏等の建築家によって、1954年4月1日に完成し、毎年8月6日には平和記念式典が開催され、原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる公園」と理解させて頂きました。

「広島城」を中心に今回プランニングさせて頂いた大人散策ですが、広島の地にお伺いし「原爆ドーム」・「平和記念公園」を素通りするのは、日本人としてどうかとも思えますので、「原爆ドーム」・「平和記念公園」にも脚を運ばせて頂き、「広島の悲しい歴史にしっかりと向き合って、平和を祈願させて頂くべき」だと思った次第です。

平和記念公園の後は、「広島城」外輪部を南⇒東と回り込む

「平和記念公園」で平和な未来を祈願した後は、再び大人散策のTopic を「広島城」に戻し、「平和記念公園」から「平和大橋」を渡って進路を北に取って「一丁目口御門跡」まで行き、そこから東に進路を変え、「研屋町口御門跡(真鍋御門跡)」・「立町口御門跡」・「八丁堀外堀跡」・「京口御門跡」等を巡って、最後に「西国街道」の痕跡も探しつつ、スタート地点である「広島駅」まで行き、「大人散策@広島」をコンプリートとさせて頂こうと思います。

【最後に】

以上が、江戸期前の築城時から太平洋戦争末期まで、戦の舞台にはならなかった事で天守が現存し、旧国宝24城の1つとなったが、太平洋戦争末期に原爆により崩壊してしまったお城『広島城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂いた内容になります

「広島城」の大人散策を中心にプラン / ルートを検討させて頂きましたが、広島にお邪魔するのであれば、広島城の歴史に思いを馳せると同時に、「原爆ドーム」・「平和記念公園」にも脚を運んで、この地域の悲しい歴史にも思いを馳せ、未来の平和を祈願する事も併せて実施させて頂くべきだと改めて思った次第です。また広島は、居住地である埼玉の川越からはそれなりの距離。であれば、広島だけではなく、「厳島神社や毛利元就の厳島の戦いで有名な宮島」・「大和ミュージアム」・「江戸から明治の街並みが残ると言われる重要伝統的建造物群保存地区がある竹原」・「”坂のまち” として有名で、映画やアニメの舞台によくなる尾道」・「旧国宝24城の1つであったが、戦争で焼失してしまった福山城」と言った周囲のスポットも、もう数泊増やして巡ってみたい(別記事でプランを作成しようと思って折ります)と思ってしまった次第です。広島城を含め、これらの地域にも参った事はないので、実行できた暁には、本ブログで報告させて頂こうと思って折ります!

Wikipediaより

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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