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【はじめに】
こちらのページでは、「850年程の歴史を持ち、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に開かれた『浄土宗の総本山の寺院・知恩院』の概要と周囲を含めた大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。
皆様は、京都にある「知恩院」をご存じでしょうか? 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に開かれた、浄土宗の総本山の寺院が「知恩院」と認識して折ります。私達夫婦がこの知恩院に参らせて頂いたのは、もう10年以上の昔。別記事で紹介いたしました「平安神宮」・「八坂神社」・「建仁寺」・「無理庵」等と併せて参らせて頂いたのですが、その時に拝見した知恩院の三門と御影堂(本堂)の圧倒的な迫力を持つお姿は鮮明に記憶している次第です。この時は、「平安神宮の神苑」や「無理庵」、「建仁寺のお庭」、そして「知恩院の方丈庭園」をメインにしていた事もあり、建造物にはあまり焦点を置いていなかった事もあって、「知恩院の三門と御影堂(本堂)が国宝である事」を存じ上げず拝見したのですが、帰宅後「知恩院の三門と御影堂(本堂)は国宝」としり、「十二分に納得」しましたが、どうじに「勉強不足でじっくりと拝見しなかった事」を悔やんだ次第でした。そして「次に参る時には、しっかり・じっくり拝見させて頂こう!」と思いましたが、それから10年程たってしまった次第です…。
こちらのページでは、そんな改めて参らせて頂こうと思ってから10年以上たってしまっている「知恩院」に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「850年程の歴史を持ち、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に開かれた『浄土宗の総本山の寺院・知恩院』の概要と周囲を含めた大人散策情報を共有」をさせて頂こうと思います
【「知恩院」とは?】
まずは「知恩院」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。
知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である (略)
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている (略)歴史
知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(現・岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。法然は東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てると、そこに入った。
「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である (略)
天正13年(1585年)には豊臣秀吉より寺領190石が寄進されている。現存の三門、御影堂(本堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長8年(1603年)に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進したうえ、翌慶長9年(1604年)からは、北に隣接する青蓮院の地を割いて知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行っている。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている (略)知恩院境内マップ(知恩院のHP(https://www.chion-in.or.jp/)より)と法然(Wikipediaより) 境内
知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、御影堂(本堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つに分かれている。このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって江戸幕府の全面的な援助で新たに造営されたものである。・御影堂(国宝) – 本堂、大殿とも呼ばれる。知恩院境内は下段、中段、上段の3段に整地されており、本堂はそのうちの中段に南面して建つ。寛永10年(1633年)の焼失により、寛永16年(1639年)に徳川家光によって再建された。法然ゆかりの吉水草庵があった場所であるとされている (略)
・阿弥陀堂 – 御影堂の向かって左に東面して建ち、阿弥陀如来坐像を安置する (略)
・多宝塔「七百五十万霊塔」 – 1958年(昭和33年)建立。
・法然上人像
・写経塔
・経蔵(重要文化財) – 御影堂の東方に建つ宝形造本瓦葺き裳階(もこし)付きの建物。三門と同じ元和7年(1621年)に建立された建物で、徳川秀忠の寄進による宋版大蔵経六千巻を安置する輪蔵が備えられている (略)
・宝仏殿 – 1992年(平成4年)建立。御影堂の南側に北面して建つ寄棟造の仏堂。内部には阿弥陀如来立像と四天王像を安置する (略)
・大鐘楼(重要文化財) – 宝仏殿裏の石段を上った小高い場所に建つ。延宝6年(1678年)再建。ここにある梵鐘(重要文化財)は日本有数の大鐘で、寛永13年(1636年)の鋳造である (略)
・集会堂(しゅえどう、重要文化財) – 寛永12年(1635年)に徳川家光により再建 (略)
・新玄関(重要文化財) (略)
・大方丈(おおほうじょう、重要文化財) – 御影堂の右手後方に建つ。寛永18年(1641年)に建立 (略) 洛中随一の名書院とされる。
・方丈庭園(国の名勝) – 江戸時代初期の寛永10年(1633年)に作庭が始まった (略)方丈庭園 方丈庭園 二十五菩薩の庭 知恩院の様子 (一部写真Wikipediaより) ・唐門(勅使門、重要文化財) – 寛永18年(1641年)建立。
・小方丈(こほうじょう、重要文化財) – 大方丈のさらに後方に建つ。大方丈と同じ寛永18年(1641年)に建立された建物 (略)
・庭園「二十五菩薩の庭」 – 阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したもの (略)
・御廟(京都府指定有形文化財) – 法然上人の死後、門弟たちの手によって勢至堂の東に建てられたもので法然の遺骨を納めている。賜蓮堂とも呼ばれる。現在の建物は慶長18年(1613年)に常陸国土浦藩主松平信一の寄進を得て改築されたもの (略)
・御廟拝殿 – 宝永7年(1710年)建立。
・御廟唐門
・勢至堂(重要文化財) – 本地堂。境内東側、急な石段を上った先の小高い場所にある。法然の住房であった大谷禅房があった地であり、知恩院発祥の地である。入母屋造本瓦葺き。寺内の建物では最も古く、室町時代の享禄3年(1530年)の再建で知恩院最古の建築物である (略)
・山亭庭園 – 大方丈前から石段を上った山腹に位置し、京都市街を一望できる眺望のよい場所にある。庭園は江戸時代末期造営の枯山水庭園である (略)
・黒門 – 慶長年間(1596年 – 1615年)に山岡道阿弥により伏見城から移築・寄進された (略)
・友禅苑 – 宮崎友禅ゆかりの池泉回遊式庭園 (略)
・三門(国宝) – 総門(新門)を通り、緩い坂道を上った先に三門が建つ。元和5年(1619年)9月に徳川秀忠の命で三門と経蔵の造営が始められ、元和7年(1621年)秋にはほぼ完成した (略) 日本三大門のひとつに数える説がある (略)
以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。
- 知恩院は、1175年に比叡山から下りた法然(浄土宗の宗祖 ⇒ 専修念仏:いかなる者も、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えれば極楽往生できるとする思想で、徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集めた)により開山された、法然上人像(御影堂)・阿弥陀如来像(阿弥陀堂)を本尊とする浄土宗の総本山の寺院で、現在の知恩院のある場所は、法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地
- 知恩院は、豊臣秀吉・徳川家康からも大切にされた寺院で、特に徳川家は、①徳川家が浄土宗徒である事、②知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟である事、③二条城とともに京都における徳川家の拠点とする事、③徳川家の威勢を誇示し京都御所を見下ろし朝廷を牽制する事、といった「政治的な背景」から知恩院の造営に力を入れたと言われており、現在拝見できる「国宝の『三門』」は、江戸期の2代将軍・徳川秀忠の時代に、同じく「国宝の『御影堂(本堂)』」は、3代将軍・家光の持代に造営された物と言われる
- 知恩院の境内は、「三門や塔頭寺院のある “下段”」、「御影堂(本堂)など中心伽藍のある “中段”」、「勢至堂、法然廟(御廟)などのある “上段”」の “3つに” 分かれており、この中で “上段” が開創当初の寺域であり、”中段・下段” の大伽藍は江戸時代になって江戸幕府の全面的な援助で新たに造営されたものらしい
- また建造物としては、「国宝の “御影堂(本堂)”・”三門”」を初め、「多くの重要文化財;経蔵・大鐘楼・集会堂・新玄関・大方丈・小方丈・唐門・勢至堂(知恩院発祥の地に、1350年に建てられた知恩院最古の建築物)等」があり、更に「国の名勝に指定された “方丈庭園”」、「二十五菩薩の庭」・「山亭庭園」・「友禅苑」と言った庭園も楽しむ事も出来る
つまり、『知恩院は「浄土宗の宗祖・法然によって、法然ゆかりの地に建てられた浄土宗の総本山の寺院」で、江戸期には徳川将軍家により(政治的背景があったと言われるが)大切にされ、現在でも「江戸初期に建造された “三門”・”御影堂(本堂)” と言った国宝」を拝見できる上「国の名勝に指定された “方丈庭園”」と言ったいくつかの庭園も楽しめる寺院』と理解した次第です。
【知恩院の大人散策をプランニング!】
上記、知恩院の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、その「知恩院における大人散策情報」を記載させて頂きます。尚知恩院は、「三門や塔頭寺院のある下段」、「御影堂(本堂)など中心伽藍のある中段」、「勢至堂、法然廟などのある上段」の 3ブロックに分かれているとの事ですので、「下段」⇒「中段」⇒「上段」の順で記載させて頂きます(プラスで、周囲の大人散策スポットの列挙しますが…)。また、最下部の地図は、そのスポットをGoogle My Map でポイントアウトしていますので、併せてご参照頂ければと思います(実際の大人散策においては、自身の位置を確認しつつ移動にご活用いただければ幸いと存じます(但し、歩きスマホはNGで…))
■知恩院・三門や塔頭寺院のある「下段」
知恩院における大人散策は「知恩院新門」からのスタートを想定したいと思います。「知恩院新門」から入り「知恩院道」を東に進むと知恩院の下段における最大の見所である「三門」が見えてきますが、まずはその北にある「黒門」を拝見。その後来た道を戻って国宝で、江戸初期の建造物である「三門」をじっくり拝見させて頂いた後、その隣にある「友禅苑」を拝見し、「男坂」or「女坂」で、「御影堂(本堂)」のある中段を目指そうと思います。
■知恩院・御影堂(本堂)など中心伽藍のある「中段」
「男坂」or「女坂」で、中段まで登った後は、まずは国宝である「御影堂(本堂)」でお参りさせて頂き、その大迫力の建造物をじっくりと楽しませて頂こうと思います。その後、江戸期に整備が進んだと言われる知恩院の中段には、多くの建造物がある認識ですが、少なくとも「新玄関(重文)・阿弥陀堂(本尊安置)・多宝塔・宝佛殿・大鐘楼(重文)・経蔵(重文)・写経塔・法然上人像・唐門(重文)・集会堂(重文)・大方丈/小方丈(重文)」と言った建造物は拝見させて頂き、更には、「二十五菩薩の庭」・「方丈庭園(国の名勝)」といった庭園もじっくりと楽しませて頂こうと思います。
■知恩院・勢至堂、法然廟などのある「上段」
「方丈庭園(国の名勝)」を拝見した後は、更に登って知恩院開創当初の寺域(知恩院発祥の地)である上段を目指します。「山亭庭園」からは、京都の街並みが眺望できるらしいですので、庭園その物と眺望を楽しみ、1350年に建てられた知恩院最古の建築物と言われる「勢至堂」で、その歴史を感じ、「法然廟(御廟)」で法然にご挨拶申し上げたいと思って折ります。「法然廟(御廟)」への参拝をもって知恩院の大人散策は基本終了になるので、下段の「三門」を目指して降りるのですが、その際、来る際に登った坂とは違う坂:「男坂」or「女坂」を通って、知恩院を失礼させて頂こうと思って折まます。
■周囲の大人散策スポットも併せて
上記、知恩院に付き記載しましたが、周囲の大人散策スポットも記載させて頂きます。本ブログ別記事でも記載いたしましたが、「京都は日本の都」ですので、皆様ご承知の通り、1日や2日で回りきる事は不可能なほどの大人散策スポットが多くあります。故に「京都大人散策分割作戦」として、「日帰りで何度もお邪魔する作戦」をとって、何度かお邪魔していますが、まだまだ参りたい大人散策スポットがあります。1週間くらいまとまった休暇を取っても、回り切れない程だと思って折ります。つまり、「京都大人散策分割作戦」としては、日帰りで参らせて頂く事は勿論、一つのスポットに行った際は、出来る限り周囲にある多くの大人散策スポットを回るべきだと思って折ります。今回、知恩院を記載させて頂いたので、個人的なチョイスですが、知恩院周辺の「気になる大人散策スポット」も以下にリスト形式で紹介させて頂きます。
- 東山慈照寺(銀閣寺):銀閣と呼ばれる建造物・観音殿は勿論、庭園も必見の認識
- 南禅寺・哲学の道:南禅寺界隈近辺は、大人散策の絶好のスポットの認識で、雰囲気のお裾分けを頂きたい
- 無理庵:東京の椿山荘でも有名な、山縣有朋の庭園
- 平安神宮:「794年に長岡京から平安京へ都が移された時の50代天皇・桓武天皇」と「平安京(京都)で最後の天皇である121代・孝明天皇」を主祭神とする神社
- 丸山公園:知恩院のすぐ近くの庭園で、日本庭園も楽しめる
- 八坂神社:日本三大曳山/山車祭の祇園祭で有名な八坂神社で、隋神様が守る西楼門も中々の迫力
- 祇園の街並み:京都の風情を感じる通り
- 建仁寺:苔の中庭が魅力の臨済宗建仁寺派の大本山の寺院
- 清水寺:「清水の舞台」や「音羽の滝」で有名な、就学旅行でも定番のスポット
- 方広寺:明智光秀と同一人物説が有る川越喜多院中興の祖・天海が絡む『「国家安康」・「君臣豊楽」』に言いがかりを付けた「方広寺鐘銘事件」の正にその梵鐘が拝見できる
- 豊国神社:別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社の豊臣秀吉を祀る神社
- 京都国立博物館:平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心にした文化財を拝見でき、正門・明治古都館(重要文化財)と言った建造物も魅力的な博物館
- 三十三間堂:千手観音を本尊とする天台宗の寺院で、33間(内側の桁行(建物の桁の長さ)が110mちょっとあるらしい)の桁行から三十三間堂と言われるが、正式名称は蓮華王院本堂
【最後に】
以上が、「850年程の歴史を持ち、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に開かれた『浄土宗の総本山の寺院・知恩院』の概要と周囲を含めた大人散策情報を共有」をさせて頂いた内容になります。
今回、知恩院の記載に当たり、改めて認識した事は「国宝の “御影堂(本堂)”・”三門”」に加え、「多くの重要文化財」がある事、そして「知恩院の上段にある “勢至堂”」が知恩院にある建造物の中で最も歴史がある事でした。上記紹介致しました周囲の大人散策スポットの中には、まだお伺いできていないスポットも、お伺いしたことがある物の今一度参らせて頂きたいスポットもあるので、これらと併せ、知恩院にも改めて脚を運び、国の名勝・方丈庭園は勿論、「国宝の “御影堂(本堂)”・”三門”」に加え、「多くの重要文化財」に指定された建造物にも注目し、大人散策を実行してみたいと思った次第です。実行の暁には、本ブログにて報告させて頂ければと思って折ります!
また別ページにて、①日本書記 vs 古事記 (日本書紀とは? 古事記とは? 日本神話とは?) 、②天地開闢の神々の分類と国生み (別天津神・造化三神・神世七代・天津神・国津神とは?) 、③天照大御神 vs 須佐之男命 (黄泉国神話と天照大御神 vs 須佐之男命の誕生・誓約の神話とは?)、④アマテラスが岩屋れる「天岩屋神話」とは? (天孫降臨神話への序章?)、⑤「スサノオによるヤマタノオロチ退治の神話」とは?、⑥大国主関連の神話 (因幡の白兎& その後(スサノオの住む根国訪問)・国作り神話とは?)、⑦大国主関連の神話 (国譲り神話とは?)、⑧天孫降臨とは?、⑨ニニギと息子2人(海幸彦・山幸彦)ってどんな人?、⑩神武東征とは?、⑪ヤマトタケル(日本武尊)ってどんな人?、⑫日本神話の全体図を勝手に理解、⑬日本神話の全体図から “メッセージ” と “リアリティの程度” を妄想、⑭天皇家の「欠史八代」って何?、⑮神話の時代から天皇家の家系を三種の神器って何?、と言った内容でそれぞれ記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。