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【はじめに】
こちらのページでは、「関ヶ原合戦時の西軍の拠点となった旧国宝24城の1つ『大垣城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「大垣城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 賤ヶ岳の戦いの後、池田恒興が城主となったお城
- 関ヶ原の戦いの際、石田三成ら西軍主力が入城したお城
- 旧国宝24城の1つ
- 天守等が旧国宝に指定されていたが、太平洋戦争時の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失してしまったお城
- 続日本100名城
近いと言えば近い、名古屋城・犬山城等にはお邪魔した事があるのですが、実はまだ、大垣城にはお邪魔した事がありませんし、土地勘もないエリアにあるお城ですので、上記の通りあまり連想ゲームが進まなかった次第です。しかし、「旧国宝24城の1つ」で「続日本100名城」のお城である事は存じ上げて折り、名古屋・京都・大阪と言った都市には何度もお邪魔した事がある為、いつも新幹線の中で「いつか途中下車して拝見させて頂こう!」と長年思っているお城でもあります。
Wikipedia・国立公文書館デジタルアーカイブのHP(https://www.digital.archives.go.jp/)より
こちらのページでは、個人的にそんな状況の「まだお邪魔したことがない・大垣城」に付き記載いたします。すなわち、「関ヶ原合戦時の西軍の拠点となった旧国宝24城の1つ『大垣城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂きます。
【大垣城の概要】
まずは、大垣城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。
大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。
概要
宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない。宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。戦国時代になると氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭としての整備された。伊藤祐盛が4重4階の天守閣を加え、石川氏によって総堀が加えられ、久松松平氏により天守が改修されている。慶安2年(1649年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治に至る姿となった。歴史
・中世
(略) 戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わった (略) 永禄2年(1559年) に桑原直元(氏家直元)が城主となり、永禄6年(1563年)に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。・近世
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後、この地域の支配権を獲得した羽柴秀吉によって池田恒興が城主とされた。所領は15万石とされる。池田氏以後、大垣城は近世城郭としての整備が進んだ。翌、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、翌年の天正13年(1585年)に輝政は岐阜城主に転じた (略) 天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正地震の被害に遭って全壊焼失した (略)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯(三成の義弟)らが守将となって残ったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りにより窮した福原は、やむなく西尾光教の仲介で降伏勧告を受け入れて落城した(大垣城の戦い) (略) 江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にした (略)寛永12年(1635年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった (略) 並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。また、東総門から西総門にかけて、総堀の中の郭を美濃路が抜けていた。
・近現代
https://ja.wikipedia.org/wiki/大垣城
明治6年(1873年)に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、昭和11年(1936年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。
天守は昭和34年(1959年)に、乾櫓は昭和42年(1967年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた (略)
平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(144番)に選定された (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 「大垣城」は、築城年代・築城者等は特定できていないらしいが、岐阜県大垣市にあった「麋城」 or 「巨鹿城」とも呼ばれ平城で、戦国時代には争奪戦が繰り返され、織田・斎藤氏の間で支配権が移り、1583年の賤ヶ岳の戦いの後、池田恒興が城主となってから近世城郭としての整備が進んだお城いらしい
- 1600年の関ヶ原の戦いの際には、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となったらしいが、西軍本隊が関ヶ原に移動しそこでの本戦で西軍が敗北すると、大垣城は東軍に攻囲され、落城(=大垣城の戦い)した歴史を持つお城でもある
- 江戸期には、徳川家康が譜代大名として石川氏配置し、次いで戸田氏が城主となって、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城だったお城らしく、並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構とし、本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守が建てられたらしい
- 明治に入り発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年に天守等が国宝(旧国宝)に指定されるも、1945年の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失してしまったが、その後、天守は1959年に、乾櫓は1967年に、鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元され、2017年には、続日本100名城に選定された
つまり、、、
築城年代・築城者等は特定できていないらしいが、戦国時代には織田・斎藤氏の間で支配権が移り、池田恒興も城主となって近世城郭としての整備が進んだ平城で、関ヶ原の戦いの際には、石田三成ら西軍の主力部隊が入城するも、西軍の敗北により落城してしまう歴史を持ち、江戸期には、戸田氏が長く城主を務め、4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守が建てられ、明治の廃城令に際しても、天守などの建物は破却を免れ、国宝(旧国宝)に指定されたが、1945年の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失してしまった為、戦後、天守・乾櫓が外観復元され、現在では続日本100名城に選定されたお城が『大垣城』
と理解した次第です。
【大垣城の周囲も含めた見所】
上記、大垣城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。今後の大垣城における大人散策のプランニングの内容になりますので、以下皆様の参考にもなれば幸いですので、最下部の地図(Google My Map で作成した地図で、スマホ片手に現地で、自身の地を確認しつつ大人散策を遂行できます(しかし歩きスマホはNGで!))。
・「大垣城」を大人散策!
居住地である埼玉の川越から参らせて頂く事になるはずですので、車ではなく「新幹線と在来線」を乗り継いで(名古屋乗り換え?)「大垣駅」に参らせて頂き、そこから大人散策をスタートさせて頂こうと思います。大垣駅から見て、「南側に大垣城」はある様ですが、「名古屋口門跡」・「大垣宿高札場跡」・「大垣宿脇本陣跡」・「 東口大手門跡」等、現在の大垣城のエリアだけでなく、この地域(美濃路;江戸時代に東海道・宮宿と中山道・垂井宿とを結んだ脇往還(Wikipediaより))の歴史も感じつつ進み、現在の大垣城のエリアには「ニノ丸跡」・「鉄門跡」からお邪魔させて頂こうと思って折ります。
その後、「七間多門跡」・「辰巳櫓跡」・「東埋門跡」を拝見しつつ「本丸」にお邪魔し、外観復元された天守をしっかりと見学し(外観復元との事だが、観光天守の要素も強いらしい)、内部の展示も拝見し、「東門(柳口御門移築)」・「艮隅櫓(天守と共に外観復元?)」・「丑寅櫓」・「水之手門跡」・「乾隅櫓 (戌亥櫓;復元?)」・「おあむの松(おあん物語の象徴?;下記参照)」を巡って、「西門」から本丸を失礼し、「戸田氏鉄公騎馬像」付近で「おあむの松」と「天守」をセットで拝見(撮影)させて頂こうと考えて折ります。
おあん物語:
(略) 江戸時代前期に老尼から聞き書きした戦国時代の体験記 (略) 石田三成の家臣・山田去暦の娘であった老尼が、少女時代に体験した関ヶ原の戦いの頃の様子を子供たちに語った話の筆録 (略) 戦国時代の武家の暮らしを女性の立場から描写した貴重な史料とされる (略)
Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/おあん物語)より
・大垣城周囲も、芭蕉に思いを馳せつつ大人散策
大垣は「松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地」という事らしく、これにかかわる散策路が「かつての大垣城の総構えの堀?」に沿って整備されているようなので、大垣城の痕跡も探しつつ、松尾芭蕉に思いを馳せながら大人散策を継続させて頂こうと思います。
上記、大垣城の中枢を楽しんだ後は、「戸田氏鉄公騎馬像」の西にある「土塁跡」を拝見し、「旧戸田鋭之助邸正門 附船板塀」・「大垣市郷土館」を巡って、その後、「大垣公園」経由で「南口大手門跡」・「大垣宿本陣跡」・「西総門跡(京口門跡)」等も巡って大垣城の規模感を感じつつ、「奥の細道むすびの地記念館」に参らせて頂こうと思います。そして「奥の細道むすびの地記念館」付近から、「かつての大垣城の総構えの堀?」に沿って、大垣駅方面に遊歩道を進む事が出来る様で、その道々(「ミニ奥の細道」?)には「芭蕉が奥の細道で訪れた場所・その時に詠んだ句に関する石碑(20あるらしい)」・「大垣城の遺構(竹橋口門跡・辰之口門跡等)」等がある様です。大垣城の規模感を肌で感じる事が出来、芭蕉関連では、実際に参らせて頂いた事もある「日光」・「平泉」・「金沢」等に関する石碑もある様なので、それぞれの地域や芭蕉の奥の細道に思いを馳せつつ大人散策を遂行し、大垣駅を目指そうと思った次第です(「ミニ奥の細道」は、「奥の細道むすびの地記念館」からだと、⑳ ⇒ ①の順になる様です…)。
・出来れば「関ヶ原」・「墨俣一夜城」にも…
上記、「大垣城」・「芭蕉の奥の細道」と言った Key Ward の大人散策となりましたが、少し広いエリアで見てみますと「大垣城と関連が深い『関ヶ原古戦場』」・「秀吉が出世の道を歩み始めたとも言われる『墨俣一夜城』」も、近いと言えば近いエリアにある事が認識でします。「関ヶ原古戦場」を大人散策するのであれば、しっかりと準備して、少なくとも丸々1日は費やすべき広さだと思うので、「ちょっとついでに…」とはいかないかもしれませんが、「墨俣一夜城」は限られた範囲の様で、近くには「何処にでもある『鎌倉街道』の痕跡」もある様ななので、併せて巡りたいと思って折ります。ただ、埼玉の川越から参らせて頂くのであれば、もう1泊余分にスケジュールを抑え、「関ヶ原古戦場の大人散策」も遂行すべきかと思っている次第ですが…。決行時のスケジュールによるかと…。
【最後に】
以上が、「関ヶ原合戦時の西軍の拠点となった旧国宝24城の1つ『大垣城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂いた内容になります。
現在、江戸期から残っている天守は 12ある認識です(=現存12天守)。また、太平洋戦争で焼失・消滅してしまった天守は「名古屋城」・「大垣城」・「岡山城」・「福山城」・「広島城」だと認識して折りますので、もし残っていれば「現存17天守」だったと思うと、残念で仕方ありません。つまり『「石田三成を含む関ヶ原・西軍の Key Person 達が拠点としたお城」の実物をこの目で拝見したかった』と思うのは私だけでは無く「日本史好き共通の願望」だと思う次第です。しかし同時に、現在それを拝見する事はかないませんので、イメージを膨らませ、大垣城とその地域が歩んできた歴史に思いを馳せ、大人散策を遂行したいと思った次第です。大人散策を実行できた暁には、本ブログで、改めて報告申し上げようと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。