春日大社

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【はじめに】

こちらのページでは、「奈良時代に、関東の鹿島神宮・香取神宮から、藤原氏によって勧請された『春日大社』の概要と大人散策情報(プランニング版)の共有」をさせて頂こうと思います。

皆様は、「春日大社」をご存じでしょうか? ほとんどの日本人が知っている神社で、多くの方が「沢山の鹿さん達が、自由気ままにウロウロしている画像」を思い浮かべるのでないかと思います。では「なぜ春日大社には、多くの鹿さん達がいて、その起源は何処にある」のでしょうか? 上記もう既に鹿島神宮香取神宮の両神宮」と記載させて頂きましたので、ご推察の通りですが、日本神話の「国譲り」で活躍した武甕槌命・経津主命を祭る「鹿島香取の両神宮」に起因している認識です

こちらのページでは、上記を今少し掘り下げつつ、「奈良時代に、関東の鹿島神宮・香取神宮から、藤原氏によって勧請された『春日大社』の概要と大人散策情報(プランニング版)の共有」をさせて頂こうと思います。

【「春日大社」とは?】

まずは「春日大社」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

春日大社(かすがたいしゃ、英: Kasugataisha Shrine)は、奈良県奈良市春日野町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称は「春日社」、神紋は「下がり藤」。
全国に約1,000社ある春日神社の総本社である。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良時代の神護景雲2年(768年)に平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建され、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る。主祭神の武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。

祭神
主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
武甕槌命 – 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神
経津主命 – 第二殿。同上(下総国香取の神
天児屋根命 – 第三殿。藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 – 第四殿。天児屋根命の妻(同上)。ただし、その正体は天照大御神であるとの説がある。

歴史
創建
奈良・平城京に遷都された和銅3年(710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もあるが、社伝では、神護景雲2年(768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって春日社の創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる (略)

・神仏習合
藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が興福寺に南円堂を建立した際、その本尊の不空羂索観音は、春日社の第一殿の祭神・武甕槌命の本地仏であるとされた。神仏習合が進むにつれて春日社と興福寺は一体のものとなっていくと、春日大明神は法相擁護の神とされ、天暦元年(947年)からは神前読経が始められた (略)
11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。もうこの頃には春日社と興福寺と合わせて「春日興福寺」と称せられるようになっていった。
この頃になると、第一殿・武甕槌命の本地仏は不空羂索観音。第二殿・経津主命の本地仏は薬師如来。第三殿・天児屋根命の本地仏は地蔵菩薩。第四殿・比売神の本地仏は十一面観音。若宮社・天押雲根命の本地仏は文殊菩薩とされるようになっていた (略)
興福寺と共に春日社は大いに繁栄し、隆盛を誇った。
しかし、興福寺や東大寺が平清盛と対立すると治承4年(1181年)12月28日に平重衡によって南都焼討が行われた (略)
春日信仰は貴族だけではなく武家や町人からも厚い信仰を受けた。その際、信者が良く燈籠を寄進したために春日大社は日本で一番燈籠が多くある神社となっている。その数は石燈籠が約2,000基、釣燈籠が約1,000基である。中でも全国にある室町時代の石燈籠のうちの7割は春日大社のものである。
鎌倉時代以降、鎌倉幕府も室町幕府も大和国には守護を設置せず、興福寺がその代わりを行っていた。興福寺は大和国の国人を興福寺に属する衆徒と春日社に属する国民として統制し、全国にある広大な荘園から収入を得てその勢力を誇った。しかし、戦国時代になると全国の荘園は各地の武将に横領されて収入は激減し、興福寺衆徒であった筒井順慶などが織田信長の家臣となるなどし、興福寺と春日社の威勢はすこぶる衰えていった。天正8年(1580年)には興福寺は2万1,000石、春日社は1,400石の石高しかなくなっていた。
豊臣秀吉の天下統一後の文禄4年(1595年)には、春日社は秀吉により大和国添上郡大柳生、東九条、中城、大江に3,206石の所領を認められた。その内の1,554石は社家の所領である。
江戸時代になると、江戸幕府によって元和3年(1617年)に興福寺と春日社は両方足して2万1,119石の石高のみ認められた (略)

・神仏分離
慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈を引き起こし、春日社と一体の信仰・神仏習合が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった (略) 春日社の中にあった興福寺関連の建物は名称を変更されて使用されたり、破却処分にされたりし、仏像仏具の一切は撤去され徹底的に仏教色は排除されていき、完全に春日社は興福寺と分離された。
興福寺が、その存続さえ危ぶまれていた時期である1871年(明治4年)、春日社は社名を「春日神社」に改称すると共に官幣大社に列し「官幣大社春日神社」となった。結局興福寺は境内地の大半が奈良公園にされたものの、存続は許された (略)
1946年(昭和21年)12月、近代社格制度の廃止に伴い、このままでは単に「春日神社」となってしまい、他の多くの春日神社と混同されてしまうので、これを避けるために社名を「春日大社」に改称している。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
1998年(平成10年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録された (略)

文化財
春日大社は平安時代に奉納された貴重な刀剣・甲冑・美術工芸品などの国宝、重要文化財を含んだ多数の文化財を所蔵することから「平安の正倉院」と呼称されている。これらの文化財の一部は2016年10月に新装開館した「春日大社国宝殿」(旧称春日大社宝物殿)で鑑賞することができる
2016年(平成28年)度から、1939年(昭和14年)に宝庫の天井裏から発見された12振りの太刀を順次研ぎ直し始めた結果、複数の太刀が国宝・重文級の貴重な文化財であることが判明しており、研ぎ直された貴重な太刀は報道発表に続いて国宝殿で順次公開されている (略)

国宝
・建造物本社 本殿 4棟(附:透塀、内鳥居、瑞垣)
・美術工芸品:①金地螺鈿毛抜形太刀 / ②沃懸地(いかけじ)獅子文毛抜形太刀 中身無銘 / ③沃懸地酢漿平文(いかけじかたばみひょうもん)兵庫鎖太刀 中身無銘 / ④沃懸地酢漿紋兵庫鎖太刀 中身無銘 / ⑤金装花押散兵庫鎖太刀 中身無銘 / ⑥菱作打刀 中身無銘(附 杉箱) / ⑦赤糸威鎧 兜、大袖付(梅鶯金物) / ⑧赤糸威鎧 兜、大袖付(竹虎雀金物) / ⑨黒韋威矢筈札胴丸(くろかわおどしやはずざねどうまる) 兜、大袖付) / ⑩黒韋威胴丸 兜・大袖付 / ⑪籠手 / ⑫本宮御料古神宝類 / ⑬若宮御料古神宝類 / ⑭鼉太鼓(だだいこ)一対  (追記:上記14点で、番号も追記)

重要文化財(国指定)
・建造物
本社 23棟 :
中門(附:稲垣) / 東御廊 / 西及び北御廊 / 捻廊 / 幣殿 / 直会殿 / 移殿 / 宝庫 / 廻廊 5棟(南門東、南門慶賀門間、慶賀門清浄門間、清浄門内侍門間、内侍門北) / 南門 / 慶賀門 / 清浄門 / 内侍門 / 車舎 / 着到殿 / 竈殿 / 酒殿 / 板蔵 / 一の鳥居
摂社若宮神社 4棟
摂社若宮神社本殿(附:鳥居、瑞垣) / 摂社若宮神社拝舎 / 摂社若宮神社細殿及び神楽殿 / 摂社若宮神社手水屋
– 旧春日大社板倉(円窓)(奈良県所有、奈良公園内所在)

美術工芸品 (追記:以下27点で、下記の番号も追記)
①木造舞楽面 5面(皇仁、新鳥蘇、地久、納曾利、崑崙八仙(ころばせ)) / ②木造舞楽面 7面(納曾利、新鳥蘇3、散手、貴徳鯉口、採桑老) / ③亀甲蒔絵手箱 / ④秋草蒔絵手箱 / ⑤禽獣葡萄鏡 春日金竜社伝来 / ⑥古神宝銅鏡(附 黒漆八稜形鏡箱)16面(素文鏡2面(寛弘八年銘)、藤花松喰鶴鏡3面(内1面一部欠損)、瑞花双鳳八稜鏡1面(一部欠損)、唐花鴛鴦八稜鏡1面、牡丹唐草尾長鳥八稜鏡8面(内3面一部欠損)、宝相華唐草八稜鏡残片1面) / ⑦竹虎双雀方鏡 / ⑧藤花松喰鶴鏡 / ⑨菊造短刀 / ⑩梅花皮(かいらぎ)腰刀 / ⑪柏木兎(かしわみみずく)短刀 / ⑫太刀 銘備州長船住家助 永享八年二月日 / ⑬錦包太刀 中身銘助行 / ⑭金銅柏文兵庫鎖太刀 中身銘□次 / ⑮三鈷柄籐巻剣 / ⑯赤銅造太刀 友成作 / ⑰鉄三十六間四方白(しほうじろ)星兜鉢及鎧金具(歌絵金物) / ⑱鉄十八間二方白星兜鉢及鎧金具 / ⑲鉄二十八間四方白星兜鉢及鎧金具(牡丹金物)/ ⑳石燈籠(御間型燈籠)元亨三年銘 / ㉑石燈籠(柚木燈籠) / ㉒楽所補任 2巻 / ㉓楽書 5巻(高麗曲、輪台詠唱歌外楽記、舞楽古記、舞楽手記、楽記) / ㉔春日神社文書 40巻 / ㉕大東家文書(324通)27巻、240通 / ㉖皇年代記 / ㉗春日大社神事日記(512通)6巻、506冊 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/春日大社

それなり長い引用になってしまったので、以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。

  • 春日大社は、藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、神仏習合が進むにつれて春日社と興福寺は一体のものとなっていき、藤原氏の隆盛とともに隆盛し、11世紀末から興福寺衆徒らによって、春日社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する強訴が度々行われた事もあり、春日社と興福寺と合わせて「春日興福寺」と称せられる時代もあって、興福寺や東大寺が平清盛と対立すると1181年に平重衡によって南都焼討が行われた事もあったが、鎌倉時代以降も、鎌倉幕府も室町幕府も大和国には守護を設置せず、興福寺(≒春日社?)がその代わりを行うほどの力を誇った
  • しかし、戦国時代になると全国の荘園は各地の武将に横領されて収入は激減し、興福寺衆徒であった筒井順慶などが織田信長の家臣となるなどし、興福寺と春日社の威勢はすこぶる衰えていった(1580年:興福寺=2万1,000石・春日社=1,400石、豊臣秀吉の天下統一後の1595年:3,206石、江戸時代の1617年:興福寺と春日社は両方足して2万1,119石)
  • また、1868年に出された神仏分離令は、春日社と一体の信仰(=神仏習合)が行われていた興福寺に大きな打撃を与え、春日社における仏教色は排除されていき、結果、春日社は完全に興福寺と分離され、1871年、春日社は社名を「春日神社」に改称すると共に「官幣大社・春日神社」となり、1946年には、近代社格制度の廃止に伴い「春日大社」に改称し、そして1948年に神社本庁の別表神社に加列され、近年では、1998年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都奈良の文化財」の1つとして登録された

  • 春日信仰は貴族だけではなく武家や町人からも厚い信仰を受け、信者が良く燈籠を寄進したために春日大社は日本で一番燈籠が多くある神社となっていると同時に、春日大社は平安時代に奉納された貴重な刀剣・甲冑・美術工芸品などの国宝、重要文化財を含んだ多数の文化財を所蔵することから「平安の正倉院」と呼称されており、これらの文化財の一部は「春日大社国宝殿」で鑑賞することができるらしい
    • 国宝
      • 建造物本社 本殿 4棟(附:透塀、内鳥居、瑞垣)
      • 美術工芸品:金地螺鈿毛抜形太刀 等の14点
    • 重要文化財(国指定):
      • 建造物本社 23棟摂社若宮神社 4棟旧春日大社板倉
      • 美術工芸品:木造舞楽面 5面等の27点

上記の通り、かつて日本の中心であった奈良にある春日大社その歴史は奈良時代に遡る程古く、しかも日本と言う国を動かしていたと言って良い藤原氏との関連が深い神社である事を改めて認識させられた次第です。同時に、そんな春日大社の勧請元の神社は、『日本神話の「国譲り」で活躍した武甕槌命・経津主命を祭る「鹿島神宮香取神宮の両神宮」』現在の知名度で言うと、(個人的印象で恐縮ですが)春日大社に軍配が上がるはずですが、その起源が、関東の「鹿島香取の両神宮」にある事は、忘れては行けない事実だと再認識した次第でもありますし、「主祭神の武甕槌命(鹿島神宮祭神)白鹿に乗ってきたとされることから鹿を神使とする神社」である為、現在春日大社には、多くの鹿さん達がいる事も腑に落ちた次第です。

また、藤原氏との繋がりで、神仏習合思想の元、興福寺と共に奈良・平安・鎌倉時代に非常に栄えた神社との事ですが、「日吉大社比叡山延暦寺」同様、戦国期以降は、少し難しい時代になり、明治期の神仏分離により「寺院側が被害を被り、神社側が格式を備えていった歴史」も、日本の神社仏閣における典型的な歴史の1つにも見えた次第で、実際にお参りさせて頂く際には、その歴史を踏まえつつ、この神社が歩んできた道のりに思いを馳せつつ、参拝させて頂くべきと思った次第です。

【春日大社の大人散策をプランニング!】

上記、春日大社の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、その「春日大社における大人散策情報」を記載させて頂きます。しかし、あまりにも広大な敷地で、多くの国宝・重要文化財がある神社ですので、どういった回り方が良いか中々の難問。故に「テーマ毎の大人散策スポットを割り出し、これを一色単に地図に落とし、回れる所を回る作戦」で参らせて頂こうと思った次第です…。尚そのテーマは、①「本殿でのお参りをしつつ、国宝・重要文化財を堪能する」、②「神社全体を、神使の鹿と戯れつつ大人散策する」、③「○○巡りを楽しむ」と言った3つのテーマとさせて頂きました。それぞれ以下に簡単ですが記載しますので、最下部の Map と共に、ご参照頂けますと幸いです(実際の大人散策においては、自身の位置を確認しつつ移動にご活用いただければ幸いと存じます(但し、歩きスマホはNGで…))。

■①本殿でのお参りをしつつ、国宝・重要文化財を堪能する

上記記載の通り、春日大社には、国宝を含め、多くの重要文化財がある様です。建造物系の国宝・重要文化財は「本社・本殿付近」に、美術工芸品系の国宝・重要文化財は「春日大社国宝殿」で拝見できる認識です。逆の言い方を致しますと、「回廊」に囲いまれた「本社・本殿」に参れば、「国宝の本殿」をはじめ、「回廊」と共に「南門・慶賀門・清浄門・内侍門」等の門は勿論、「直会殿・幣殿/舞殿・宝庫」等の建造物も拝見でき、春日大社国宝殿」に参れば、何処まで展示されているかは不明ですが、多くの美術工芸品系の国宝・重要文化財を拝見できると思た次第です。故に、下記の「②神社全体を、神使の鹿と戯れつつ大人散策する」のスポットを地図上で併せて回れば、ほぼカバーできると認識しております。尚最下部の地図中、国宝の「本殿」と「春日大社国宝殿(美術工芸品系の国宝と重要文化財を展示?)」は「金色の印で、重要文化財は「黄色の印でそれぞれポイントアウトしております。

■②神社全体を、神使の鹿と戯れつつ大人散策する

広大な敷地を持ち、いくつかの公園と隣接する上「神使の鹿」が有名な春日大社。上記、国宝・重要文化財の建造物や美術工芸品も魅力ですが、鹿さん達と戯れつつ春日大社の広大な敷地をあてもなく散策する事も楽しみ方の1つだと思って折ります。しかし、ただ歩くだけでは、逆に歩きにくいので、重要文化財の「一の鳥居」や「各公園」・「鹿園」・「藤鳥居」等を巡りつつ、そして「鹿さん達と戯れつつ大人散策」を楽しみたいと思った次第です。また、「神使が鹿」なのであれば「狛鹿」も、「狛犬ではない『狛○』」の視点で探してみるもの面白いかもしれないと思って折ります。尚最下部の地図中、こちらのテーマにおけるスポットは「紫の印」でポイントアウトしております。

■③○○巡りを楽しむ & プラスα

春日大社のHP(https://www.kasugataisha.or.jp/)を拝見すると「若宮十五社めぐり(橙色の印)」、「水谷九社めぐり(緑色の印)」、「春日五大龍神めぐり(水色の印)」と言った散策コースも用意されている様です。つまり「本社・本殿」を中心に、その周囲を大人散策するには、それぞれの距離もあまりない様なので、良い選択に思えたので、こちらも併せて大人散策の切り口として活用できると思った次第です。また、春日大社の近く(お隣?)には、かつて深い関係があった「興福寺」や、日本史の勉強においては必ず出てくる「東大寺」もありますので、併せて大人散策を楽しむべきとも思った次第です。

以上簡単ではありますが、春日大社の大人散策を実行するにあたってのテーマを、①「本殿でのお参りをしつつ、国宝・重要文化財を堪能する」、②「神社全体を、神使の鹿と戯れつつ大人散策する」、③「○○巡りを楽しむ」と3つ紹介させて頂きました。

そして思った事は、『3つのテーマを意識しつつも、「一の鳥居」から入って「南側の紫の印のポイント」に寄り道しつつ、「本社・本殿(黄色の印)」を目指して進み、「本社・本殿」をじっくり楽しんだ後、「若宮十五社めぐり(橙色の印)」と「水谷九社めぐり(緑色の印)」を併せて巡って、その後「春日五大龍神めぐり(水色の印)」も回り、「春日大社国宝殿」にお邪魔し、そして「北側の紫の印のポイント」を寄り道しながら、「東大寺」・「興福寺」と回れば、一日楽しめるな…』と言うものです。皆様はどの様に思われましたでしょうか?

【最後に】

以上が、「奈良時代に、関東の鹿島神宮・香取神宮から、藤原氏によって勧請された『春日大社』の概要と大人散策情報(プランニング版)の共有」をさせて頂いた内容になります。

「春日大社の概要」と「春日大社における大人散策情報(プランニング版)」を上記記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 『春日大社は、日本神話の国譲りで活躍した武甕槌命・経津主命を祭る「鹿島香取の両神宮」に起因する神社で、かつて日本を動かした藤原氏つながりで、興福寺とも深い関わりを持ち、現在でも多くの国宝・重要文化財を所有する神社』になる訳ですが、個人的に思った事は『現在の視点で見てしまうと、春日大社の元々の根源となる「鹿島香取の両神宮」よりも、春日大社の方が格上にしか見えない、これは「かつて日本の中心が奈良であった事」が大きく起因しており、やっぱり「何事も中心にあるもには強い」』と思ってしまったと言うものです。つまり、「私達夫婦の居住地である川越にも、日枝神社があり、この神社は東京赤坂の日枝神社に勧請した元の神社になる様ですが、現在ではどう見ても『東京赤坂の日枝神社の方が格上』にしか見えない」と同じ事だと思ってしまったという事です。正直どちらが格上でも、格下でも信仰心に上も下もないので、どうでもいいのですが、「春日大社が歩んできた歴史は、日本の歴史が反映されている」と思ってしまった次第ですので、春日大社にお邪魔する際は、上記サーチした情報を踏まえつつも、「中心地の力」も感じつつ大人散策を楽しみたいと思った次第です。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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