【基本情報:熊本城と聞いて何を連想されますか?】
(本記事使用の「Wikipedia からの引用以外の写真」は、2016年の熊本地震の前年の2015年に撮影したものです)
こちらのページでは「熊本県・熊本市にある『熊本城』の概要を抑え、且つ『その歴史』や『お城の建つ地形』も抑えつつ、見所につきご紹介」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りの書出しですが、熊本城と言うと、皆さんは何を連想されますか? 私は、以下の感じです。
- 加藤清正の築城による「武者返し」が有名なお城
- 西南戦争でも落ちなかった城
- 現存する「宇土櫓」は「加藤清正築城の初代天守」の説もあるらしい
- 西郷隆盛は、「新政府ではなく、清正公に負けた」とコメントした
- 西南戦争の際における田原坂の戦い
- 一口城主制度
- そんな熊本だが、加藤家の治世は30年程度で、江戸時代の大部分は細川氏の治世
- 熊本・細川氏より連想して、水前寺庭園 (別記事で紹介中)
と、こんな感じでしょうか…。でも改めて思ったのは「上記連想ゲームだけでは、熊本城の概要いまいち見えない…」と思ってしまいましたので、以下「熊本城の概要・基本情報」の記載から始めさせて頂きます。




【熊本城の概要・基本情報】
早速ですが、「熊本城の概要・基本情報」から抑えさせて頂きます。Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります(引用長いですし、以下にまとめますので、読まなくても大丈夫です)。
熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市中央区(肥後国飽田郡熊本)にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。
加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代には西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失したが宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。概要
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城町、古京町、千葉城町に当たる。
中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行った。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わった。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残っている (略) 1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年時点で512,300.52平方メートル)。
天守は1960年に鉄筋コンクリート造で外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿の一部などが木造で復元された。
2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し、修復が進められている (略)
文献によるが、日本三名城の一つにも数えられている (略)熊本城 棒安坂付近から見た古写真 写真左端より、裏五階櫓、大・小天守、平櫓(御肴部屋櫓)、右端に櫨方三階櫓 熊本城 明治初期(1874年)の熊本城、富重利平の撮影による 熊本城 江戸期の城下町の模型 Wikipediaより ・明治時代
(略) 西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。現時点で西南戦争での焼失が確認されている建造物は、大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門である。焼失を免れた建造物は現存のものを除くと西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されているが、西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されている。
政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍の間には田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードが伝わっており、清正公が心血を注いで築城した熊本城は、最初で最後の攻防戦でその防衛力の高さを存分に発揮することとなった (略)・大正から昭和時代
(略) 1933年(昭和8年)、熊本城の現存建築が「熊本城」(種別:城郭 – 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。同年、城跡は「熊本城跡」として国の史跡に指定される。
1945年(昭和20年)7月1日、市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に襲われるも、奇跡的に焼失を免れる (略)
1955年(昭和30年)、「熊本城跡」として国の特別史跡に指定された (略)熊本城 角度によっては、大天守(右)、宇土櫓(中)、小天守(左)が立ち並ぶ 熊本城 外観復元天守(2022年10月) 熊本城 宇土櫓、二階櫓を含む続櫓が連なる。左に、大天守・小天守を望む 熊本城 大・小天守 Wikipediaより
つまり、、、
熊本城は、別名を「銀杏城」とも言い、日本三名城の一つにも数えられている「加藤清正が中世城郭を取り込み改築」した「舌状台地状の京町台地の尖端・茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城」で「加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城」だったお城。「明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存」していたが、西南戦争の戦場となってしまい「大天守・小天守・本丸御殿と言った多くの建造物が焼失」してしまうが、この戦いでは「武者返し」が大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったと言われ、「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードが伝わっているらしい。言い換えると、「清正公が心血を注いで築城した熊本城は、最初で最後の攻防戦でその防衛力の高さを存分に発揮することとなった」という事になる。
西南戦争後、陸軍により順次破却されてしまうが、1933年に、熊本城の現存建築が「熊本城」(種別:城郭 – 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝に指定され、1945年の熊本大空襲など度々空襲に襲われるも、奇跡的に焼失を免れ、現在は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定され、宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定され、天守は1960年に鉄筋コンクリート造で外観復元、2000年以降は門や櫓、御殿の一部などが木造で復元されるも、2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落した他、宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災してしまい、修復が進められている(2023年時点)お城が「熊本城」
と理解した次第です。
Wikipediaより
【熊本城の魅力】
熊本城と言えば、加藤清正。お城の前で、銅像も見かけました。地元でも大いに人気がある様ですし、一口城主制度なるものが編み出され、それがしっかり機能している事、地元に愛されている証だと思います。実際に参らせて頂き、本当に地元のシンボル的な存在である事、肌で感じました。
また、勿論お城その物も大変立派で、とにかく大きい。名古屋城、姫路城、と並び、近世城郭の代表例と言われているようです。子供の頃、「熊本城の武者返し」と聞いて、石垣の事とは思わず、「何か神秘的な力が熊本城には、宿っているので、攻撃をしりぞけるのか?」と思った事がありましたが、実際に訪れ「武者返し」の石垣を拝見し、石垣の勾配のすごさに驚くと同時に、美しさを感じました。そしてそれ以上に「本当に何か神秘的なものがある…」と感じてしまうほどでした。2016年の熊本地震で、隅の石垣が、天守を支えている映像を見てしまうと、その思いは、一層強くなった次第です。




【熊本城が建つ地形とその歴史上のエピソード】
また地形的にも「納得の場所」で、上記引用の通り、北から伸びる台地の端に作られており、ちゃんと「台地の続きが北側の堀切」で切れていて、島の様な地形の上にお城が築かれている事認識できます(以下地形図参照)。この北側の切れ目は、人工的なのか否かわかりませんが、恐らく、防御のために、台地を削った様な意図を感じました。
大阪城も上町台地の先端に築城されたお城であり難攻不落。熊本城も同様のスタイルで、西南戦争における西郷軍の視点に立ってみると、攻める方向は「北側の大地の方から」攻める以外、道はなさそうで、そうするには、尾根道で峠の反対から続く「田原坂」を通る以外道はなかったと認識できます。結局、この戦争で、天守等主要な建造物を焼失してしまったようですが、最終的には落ちなかった「熊本城」。西郷隆盛が、「清正公に負けた」と言うのは、本当にそうなんだと、訪れてみて、また地形図を見てみて、改めて「本当にそう思ったんだろうな」と納得してしまった次第です。

【熊本城の城主期間は加藤家よりも細川家の方が長いが、清正公のお城・熊本城の見所】
そんな熊本城ですが、加藤家が統治していたのは、1600年の関ケ原の後から、30年程度。その後は、江戸時代を通じて、細川家の統治になります。加藤家30年 vs 細川家200年以上ですが、「熊本城=加藤清正」なんですね…。




庭園好きでもある私が、水前寺庭園と合わせて、熊本城にお伺いさせて頂いたのは、2015年。天守の迫力(大天守+小天守:復元)、石垣(ほとんどが現存)の大きさと美しさ、現存する宇土櫓(もはや櫓ではなく、普通のお城なら天守です!)、2008年に復元された本丸御殿と、本当に見所十分でした。ただ大きすぎて、回り切れなかった事も事実です。帰ってきてから、”二様の石垣(加藤時代の石垣と細川時代の石垣が並んでいる)の写真撮るの忘れた” と思ったくらいです。
天守群と宇土櫓を様々な角度から!
【最後に】
以上が、「熊本県・熊本市にある『熊本城』の概要を抑え、且つ『その歴史』や『お城の建つ地形』も抑えつつ、見所につきご紹介」申し上げた内容になります。
大人になり、実際に訪問して地元の方々の愛情を感じました。また、お城そのものを調べ、そしてその歴史、地形も調べ、「(おそらく本当に)神秘的な力に守られている熊本城」なんだと思ってしまいました。地震で大きな被害が出てしまった熊本城ですが、その神秘的な力と地元の方々の愛情で、完全復活を果たした勇士を、改めて見に参らせて頂きたいと思っています!
熊本城・本丸御殿内部の様子

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
高低差の地図は、地理院の地図を自身で加工して作成