【基本情報:熊本城と聞いて何を連想されますか?】
(本記事にて使用している写真は、2016年の熊本地震の前年、2015年に撮影したものです)
本日は、熊本県・熊本市にある、熊本城をご紹介します。いつも通りの書出しで、熊本城と言うと、皆さんは何を連想されますか?私は、以下の感じです。
- 加藤清正の築城による、武者返し有名なお城
- 西南戦争でも落ちなかった城
- 現存する「宇土櫓」は「加藤清正築城の初代天守」の説もあるらしい
- 西郷隆盛は、「新政府ではなく、清正公に負けた」とコメントした
- 西南戦争の際における田原坂の戦い
- 一口城主制度
- そんな熊本だが、加藤家の治世は30年程度で、江戸時代の大部分は細川氏の治世
- 熊本・細川氏より連想して、水前寺庭園 (別記事で紹介中)
と、こんな感じでしょうか。
【熊本城の魅力】
熊本城と言えば、加藤清正。お城の前で、銅像も見かけました。地元でも、大いに人気がある様ですし、一口城主制度なるものが、編み出され、それがしっかり機能している事、地元に愛されている証だと思います。実際に参らせて頂き、本当に地元のシンボル的な存在である事、肌で感じました。
また、お城も立派で、とにかく大きい。名古屋城、姫路城、と並び、近世城郭の代表例と言われているようです。子供の頃、「熊本城の武者返し」と聞いて、石垣の事とは思わず、「何か神秘的な力が熊本城には、宿っているので、攻撃をしりぞけるのか?」と思った事がありましたが、実際に訪れ、武者返しの石垣を拝見し、石垣の勾配のすごさに驚くと同時に、美しさを感じました。そしてそれ以上に、本当に何か神秘的なものがあると感じてしまうほどでした。2016年の熊本地震で、隅の石垣が、天守をさせている映像を見てしまうと、その思いは、一層強くなった次第です。
【熊本城が建つ地形とその歴史上のエピソード】
また、地形的にも、納得の場所で、北から伸びる台地の端に作られており、ちゃんと台地の続きが北側で切れていて、島の様な地形の上に、お城が築かれています。この北側の切れ目は、人工的なのか否かわかりませんが、なんとなく、防御のために、台地を削った様な意図を感じました。大阪城も上町台地の先端に築城されたお城であり難攻不落。
熊本城も同様のスタイルで、西南戦争における西郷軍の視点に立ってみると、攻める方向は、北側の大地の方から攻める以外、道はなさそうで、そうするには、尾根道で峠の反対から続く、田原坂を通る以外道はなかったと認識できます。結局、この戦争で、天守等主要な建造物を焼失してしまったようですが、最終的には落ちなかった。西郷隆盛が、「清正公に負けた」と言うのは、本当にそうなんだと、訪れてみて、また地形を見てみて、改めて、「本当にそう思ったんだろうな」と私も思いました。
【熊本城の城主期間は加藤家よりも細川家の方が長いが、清正公のお城・熊本城の見所】
そんな熊本城ですが、加藤家が統治していたのは、1600年の関ケ原の後から、30年程度。その後は、江戸時代を通じて、細川家の統治になります。加藤家30年 vs 細川家200年以上ですが、熊本城=加藤清正なんですね。
庭園好きでもある私が、水前寺庭園と合わせて、熊本城にお伺いさせて頂いたのは、2015年。天守の迫力(大天守+小天守:復元)、石垣(ほとんどが現存)の大きさと美しさ、現存する宇土櫓(もはや櫓ではなく、普通のお城なら天守です!)、2008年に復元された本丸御殿と、本当に見所十分でした。ただ大きすぎて、回り切れなかった事も事実です。帰ってきてから、”二様の石垣(加藤時代の石垣と細川時代の石垣が並んでいる)の写真撮るの忘れた” と思ったくらいです。
【最後に】
大人になり、実際に訪問して地元の方々の愛情を感じました。また、お城そのものを調べ、そしてその歴史、地形も調べ、(おそらく本当に)神秘的な力に守られている熊本城なんだと思いました。地震で大きな被害が出てしまった熊本城ですが、その神秘的な力と地元の方々の愛情で、完全復活を果たした勇士を、改めて見に参らせて頂きたいと思っています!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
高低差の地図は、地理院の地図を自身で加工して作成