左:さきたま古墳群全体図、中:忍城、右:さきたま緑道Map

【はじめに:「のぼうの城」の舞台・行田】

本日は、「埼玉・行田市の “古代を感じる「さきたま古墳群」”“戦国を感じる「忍城址」” を中心にその概要を含め大人散策情報をご紹介」させて頂きます。

先日、「のぼうの城」と言う映画を、改めて拝見しました。皆さんは見た事ございますでしょうか?「豊臣の関東(小田原)征伐における、忍城の奮闘ぶりを描いた映画」で、中々好きな役者も出ていて、非常に面白い映画と個人的には思って折ります。行田は、ポタリングで何度かお伺いしており、その際は「さきたま古墳群」と「忍城」をセットで拝見させて頂いておりますが、「のぼうの城」を拝見し、「改めて行ってみたいな…」と思ってしまった次第です。が、最近、再訪問できていません。理由は、居住地である川越から、自転車だと「まずまずの距離」があるからです(「車で行けばいいじゃん…」と聞こえてきそうですが…)。川越からですと、30Km程あると思いますので「往復で60Km程」。前回も、一日かけてゆっくり行ったのですが、結構きつかった記憶もあり…、年齢と共に体力の低下も見える様で…。でも、「頑張れば自転車で行ける!」、「だから近々行ってみよう!」と思いつつも、中々遂行できていない状況です…(まっ、車ならあっという間ですが…)。

(別記事にて、季節の花々や紅葉、街道・城跡・古墳と言った史跡、名建築や街中のオブジェ等、様々Topicに応じた、様々な地域のポタリング・散策情報を記載しています。”ポタリング” の タグから記事の一覧を参照できますので、是非こちらもご参照ください)

そんな個人的位置づけの「行田」ですが、皆様は「行田」と言うと何を連想されますでしょうか? 私は「のぼうの城」と記載しましたが、ある人は、昔TVドラマであった「陸王」から「足袋」かもしれませんし、またある人は、「翔んで 埼玉 2 」から「行田タワー?」かもしれません。確かに「行田 ⇒ 足袋」・「行田 ⇒ ⇒ 古代蓮の里 ⇒ 行田タワー & 田んぼアート」は、「行田のシンボル?」かもしれません…。私自身、この二つの「陸王」「翔んで 埼玉 2 」はじっくり拝見させて頂き、楽しませて頂きましたので…(別記事で「蓮」に関する大人ポタリングスポット紹介して折ります…)。

Wikipediaより

しかし、やっぱり「行田と言えば『さきたま古墳群』と『忍城』と個人的には、思ってしまう次第です…。こちらのページでは、そんな個人的印象の「行田」に付き、自身の視点で(=自信を信じて?)記載させて頂きます…。すなわち、「埼玉・行田市の “古代を感じる「さきたま古墳群」”“戦国を感じる「忍城址」” を中心にその概要を含め大人散策情報をご紹介」させて頂きます。

【「忍城祉」の歴史上の出来事と現在の様子】

「上記記載の2つ:『さきたま古墳群』と『忍城祉』」を紹介します」と記載しましたが、まずは「忍城祉」。皆さんは「忍城」ってご存じでしたでしょうか? 「忍城」と言われて、真っ先に出てくるのは、上記「のぼうの城」でも描かれたエピソードだと思います。簡単に記載しますと以下の理解です。

豊臣の関東(小田原)征伐において、豊臣方は、小田原城の攻略が、最もポイントになるのは、当然だが、それに際し「小田原・北条方に着く武将の城」も同様に攻略していった。しかし、忍城だけは落ちず、先に小田原城が落ちたので、忍城も開城した。この時の忍城の城主は「成田氏」で、豊臣方からは「石田三成」が軍を率いていた。石田三成は、秀吉の命の元、水攻めで攻撃するも、堤が壊れてしまい「水攻め」を断念。その後「力わざ」で攻めるが、自身の水攻めによって、城の周囲は泥沼とかし、結局は、落とすことが出来なかった

簡単に記載するとこんな感じでしょうか…。そんな歴史を持つ「忍城」の基本情報も抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用少々長く、後でサマリ的にまとめて折りますので、読まなくても大丈夫です)。

忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市(武蔵国埼玉郡忍)にあった日本の城。埼玉県指定旧跡
室町時代中期の文明年間に成田氏によって築城されたと伝えられており、北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と自然堤防を生かした構造となっている。数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。戦国時代には関東七名城の一つ1590年(天正18年)に豊臣秀吉小田原征伐に伴い発生した攻城戦の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から浮き城または亀城と称された

江戸時代に入ると忍藩の藩庁あるいは徳川氏の譜代大名や親藩の居城となり、阿部氏の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた。明治維新後、1871年(明治4年)の廃藩置県と同時に廃城となり、1873年(明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが、城跡は県指定記念物の旧跡に指定されている。また、本丸跡には御三階櫓が再建され、水堀や沼地の一部は水城公園として整備されている (略)

歴史・沿革
・戦国時代・安土桃山時代
1478年(文明10年)ごろ、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。
1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏はこれに恭順した。1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえている
1590年(天正18年)、豊臣秀吉関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった (略)

・戦後
(略) 1988年(昭和63年) (略) 行田市郷土博物館が開館、御三階櫓は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などを元に、鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には土塁の一部が残存している。
2017年(平成29年)、続日本100名城(118番)に選定された (略)

構造
・水城公園
湿地帯を利用した平城であった。元々沼地だったところに島が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した島を曲輪として、橋を渡す形で城を築いた。当初は櫓を立てずに本丸は空き地とし、二の丸に屋敷を作ってそこを住まいとしていた。そのため、攻めにくく守りやすい城であったとされる。当時の沼の名残は、水城公園に見て取れる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/忍城

つまり、、、

「忍城」は、室町時代中期に「成田氏」によって築城されたと伝えられる「北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する『広大な沼地』と『自然堤防』を生かした構造」の「平城で、数度の城攻めを受けて、一度も落城しなかった要害堅固な城として知られ、特に豊臣秀吉小田原征伐」に伴い発生した攻城戦の際、「豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話」から「浮き城」または「亀城」と称されたお城でもある。扇谷上杉氏太田道灌(河越夜戦で有名な)北条氏上杉謙信石田三成・大谷吉継・真田昌幸等も関わった城でもあり、現在は位置や規模は史実とは異なるものの、「御三階櫓」が「行田市郷土博物館」の一部として「外観復興(復興櫓?)されており、周囲には「水城公園」の「沼の名残」や「土塁」の一部が「残存」している「続日本100名城」の1つが「忍城」

といった理解をさせて頂いた次第です。

忍城の観光天守(櫓?):史実には基づかいない天守の認識で、内部は資料館になってます…

現在の「忍城址」に行ってみると、「天守代用と思われるの櫓」がありますが、上記の通り「いわゆる観光天守(櫓?)」で、史実には基づいておらず、事実とは異なる場所に作られている認識です。また、内部は資料館になっており、お城好きには、少々物足りないかもしれません。ただ、これも繰り返しですが「鐘楼」や「堀」は、一部現存しておりますし「水城公園」もあり、全体図は認識できますので、「浮城」と言われた「難攻不落のお城」を感じる事は出来るとは思います。以下に「さきたま古墳群」も含みますが、周辺の地形図も共有しますので、観光天守(櫓?)」は、観光として楽しみ、「忍城の歴史」は地形を中心に感じ、その歴史に思いを馳せる事が「忍所の楽しみ方」ではないかと思った次第です…。

尚別記事にて、この戦における「三成の評判」に付き、「孫子の観点」から考察を加えており、またこの時に落城してしまったと言われる鉢形城八王子城等についても記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

忍城内部の様子

【「さきたま古墳群」で見つかった「金錯銘鉄剣」の意味と石田三成が布陣した古墳】

次に、さきたま古墳群ですが、皆さんは、こちら「さきたま古墳群」はご存じでしたでしょうか? 私の知る限り、2つのエピソードで有名だと認識しています。

1つ目は、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土した所と言う事。これは、国宝らしく、「さいたま史跡博物館」のホームページによると、以下の解説がありました。

埼玉古墳群の稲荷山古墳第1主体(礫槨)の出土品。剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が刻まれている。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最長である。冒頭の「辛亥年(しんがいのとし)」は西暦471年と考えられ、作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜、「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」(雄略天皇か?)の政治の補佐役を務めたことが書かれている (略)

https://sakitama-muse.spec.ed.jp/金錯銘鉄剣

つまり、『古墳時代から「天皇の影響」は、関東にも及んでいた』と言う事らしいです。1500年も前の史実のより所が「金錯銘鉄剣」であると言う事は、言い換えれば、「金錯銘鉄剣=天皇の影響が関東にまであったというエビデンス」と言う事なので、改めて考えるとすごい事だと思ってしまった次第です…。

さきたま古墳群の様子

そして2つ目は、上記の「忍城攻め」で、石田三成が布陣したと言われる「丸墓山古墳」があると言う事。この「さきたま古墳群」には、登れる古墳と登れない古墳がありますが(さきたま史跡博物館の古墳情報:https://sakitama-muse.spec.ed.jp/埼玉古墳群紹/丸墓山古墳)、この「丸墓山古墳」は登れますし、「忍城」も見えます(ちっちゃいですが…)。そして、周囲には「石田堤(忍城攻めで「三成が築いたとされる堤」)」の一部が残されています

実際に丸墓山古墳に登らせて頂き、その際に思ったことは、「この古墳、本当に巨大だ…」と言う事。以下写真では、中々伝わらないかもしれませんが、自身の脚で登ってみると、結構大変でしたし、降りるときは、若干恐怖を感じるくらいの規模感でした…。また同時に、非常に眺めが良いので、「この辺り、高低差はあまり感じない地形なので『水攻めを行うのも、かなり難しい』のでは?」と言う事も感じ取ってしまった次第です。上記共有しました地形図を見て頂くと「相当広い平地に、ポツン・ポツンと古墳がある」事、ご理解頂けると思い、「28Km(14Km説もあるらしい)にも及ぶ、堤を作らないと囲えなかった」という事を実感できると思います。

丸墓山古墳の様子とそこからの眺め(説明看板も…)

つまり、『「忍城の水攻め」は、「そもそも無理があった…」』様な気がしてしまったという事で、更に申し上げれば、「戦を知らない、土木工事も知らない私がそう思う」のだから、三成も同じ様に思ったのでないか…」と推察した次第です。しかし、この「忍城攻め失敗」により、世論は「三成って戦下手」のレッテルを張ってしまったと理解しますので、三成、本当にかわいそう…」と思ってしまったのでした…。『本来この「忍城攻め失敗」の責任は、「(総大将でしたが)三成でなく、これを指示した、秀吉にあるべきなのに!』と思ったという事です…別記事で考察を加えておりますので、併せてご参照ください)。

個人的に申し上げたい「情報2点」を先に記載してしまいましたが、それでは情報が偏ってしまうかもしれませんので、Wikipediaより「さきたま古墳群」の概要も、以下に記載いたします(引用後に、サマリ的にまとめて折りますので、読まなくても大丈夫です)。

埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は、埼玉県行田市埼玉にある、9基の大型古墳からなる古墳群国の特別史跡に指定されている。「埼玉古墳群 – 古代東アジア古墳文化の終着点 -」として世界遺産への登録を推進している (略)

概要
埼玉県名発祥の地とされる「埼玉」(さきたま)の地にあり、前方後円墳8基と円墳1基の大型古墳が残る全国有数の大型古墳群である。2020年現在は国の史跡として整備されている。
なお、かつては大型古墳の周りに陪臣の小型古墳があり、円墳35基、方墳1基からなっていた。しかし、昭和初期に周囲の沼地の干拓で取り壊されてしまっている。

歴史
(略) 何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国造の墓ではないかという説がある。
古墳群は5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられている (略)
稲荷山古墳から発掘された鉄剣から、1978年(昭和53年)9月の保存処理中に金象嵌銘文が検出されたことで、この古墳群が日本国中に知れ渡ることとなった (略)

主な古墳
・稲荷山古墳 – 金錯銘鉄剣が出土。推定全長120mの前方後円墳。後円部径62.6m。
・丸墓山古墳 – 日本最大級の円墳。直径105.0m。
・二子山古墳 – 武蔵国最大の前方後円墳。全長132.2m。後円部径67.0m。
・将軍山古墳 -全長90.0mの前方後円墳。後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
・愛宕山古墳
・瓦塚古墳 – 形象埴輪が多数出土。
・奥の山古墳
・鉄砲山古墳 – 数少ない三重の周濠を持つ前方後円墳。全長107.6mの前方後円墳。
・中の山古墳
鉄砲山古墳のすぐ東には浅間塚古墳があり、埼玉古墳群に含まれる場合がある。

埼玉古墳群の前方後円墳は、方形の多重周濠を持つことが明らかになっている。前方後円墳の周濠の多くは盾形をしており、方形の周濠は他に例が少なく、埼玉古墳群の特徴の一つとなっている。また稲荷山古墳・二子山古墳・鉄砲山古墳・将軍山古墳の中堤に造り出しが付く点、丸墓山古墳を除くと葺石が認められない点、古墳の主軸がほぼ一定の方向を指しているなどの特徴が認められる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/埼玉古墳群

つまり、、、

「埼玉古墳群(さきたま古墳群)」は、「埼玉県名発祥の地」とされる「埼玉(さきたま)」の地にあり、5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられ、「武蔵国造の墓」ではないかという説がある「前方後円墳8基」と「円墳1基」の「大型古墳」が残る、全国有数の「国の特別史跡」に指定されている「大型古墳群」。「忍城攻め」で、石田三成が布陣したと言われる「丸墓山古墳」、この古墳群を日本国中に知らしめた「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土した「稲荷山古墳」等を含む、「世界遺産」への登録を推進している「古墳群」でもある

といった理解をした次第です。

上記引用の通りですが、「歴史的に見ても魅力いっぱい」で、「その痕跡を見る事が出来る」スポットが、「埼玉県名発祥の地」とされる「埼玉(さきたま)」の地にある「埼玉古墳群(さきたま古墳群)」と言った理解でよろしいと思いますので、古代、そして戦国の日本史に思いを馳せつつ大人散策を存分に満喫していただきたいと思う次第です。

【最後に】

以上が、「埼玉・行田市の “古代を感じる「さきたま古墳群」”“戦国を感じる「忍城址」” を中心にその概要を含め大人散策情報をご紹介」させて頂いた内容になります。

ちなみに私は、居住地の川越から自転車で参らせて頂いた際、北鴻巣の方から、緑道を通っていきましたこの道、4-5Km位続いており(「北鴻巣駅」近くから「さきたま古墳公園」まで)、散策には持って来いのコースだと思った次第です。行田に行くのですが、北鴻巣駅から散策しつつ、1500年前からあると言われる「さきたま古墳群」で「古代」を感じ、「浮城」と言われ(現在、「水城公園」で沼地の名残も見れる)、「難攻不落の城の代名詞」とも言われた「忍城祉」と回り、「戦国」の痕跡を感じながら、「古墳時代と戦国時代に思いをはせる大人散策を遂行してみて如何でしょうか? もしかしたら、「埼玉」のイメージも変わるかもしれませんので、是非是非!。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5天守現存12天守現存4御殿、(勝手なネーミングですが)旧国宝24城等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

更にですが…、別記事にて、季節の花々や紅葉、街道・城跡・古墳と言った史跡、名建築や街中のオブジェ等、様々Topicに応じた、様々な地域のポタリング・散策情報を記載しています。”ポタリング” の タグから記事の一覧を参照できますので、是非こちらもご参照ください)

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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