【「五稜郭」から連想ゲーム】
今回は、「『特異な形をした城郭』が有名で、幕末のほんの短い期間に歴史にその名を刻んだ、『戊辰戦争終結の地』である北海道函館にある『五稜郭』」に付き記載します。
(尚別記事で、函館観光に関して紹介していますので、併せてご参照ください…)
お城をテーマにする際、いつも通りに実施して折ります「連想ゲーム」から始めさせて頂きたいと思います。皆様は、「五稜郭と言うと、何を連想されます」でしょうか? 私は、以下の感じですが…。
- 「特徴的な形をした城郭」が有名
- 五稜郭築城の発端は、日米和親条約締結による「函館港の開港」
- 「戊辰戦争」が終結した場所でもある(戊辰戦争関連で、「会津若松城」も別記事で記載しています)
- その戊辰戦争で、この五稜郭に入った有名な人と言えば、「榎本武揚」、「土方歳三」あたりでしょうか… (戊辰戦争の戦いの1つと認識する、「甲府城を新政府軍と甲陽鎮撫隊(新選組後継?)が奪い合った勝沼戦争」に関しても別記事で考察しております)
- 五稜郭と同じような形の城郭を持つお城(正確には陣屋らしい)が、長野県にもある(龍岡城=田野口陣屋:別記事で記載中)
こんな感じでしょうか?


少々、連想ゲームが進まなかった感じがする「五稜郭」ですが、以下に今少しその概要・歴史も含め、記載させて頂きます。すなわち、今回は、「『特異な形をした城郭』が有名で、幕末のほんの短い期間に歴史にその名を刻んだ、『戊辰戦争終結の地』である北海道函館にある『五稜郭』」に付き記載します。
【五稜郭の基本情報とその歴史】
上記連想ゲームにて、書き始めて思った事は、「特徴的な形をした(写真参照)、戊辰線戦争の終結地として『あれだけ有名な五稜郭』だが、以外と連想ゲームが進まない…」と言う事でした。なぜか良くわからないまま、Wikipedia で、「五稜郭」と「戊辰戦争」、並びに「函館戦争」を調べてみると、以下の様に記載がありました(引用長く、引用後に簡単なサマリをまとめていますので、読まなくても大丈夫です)。
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭。
予算書時点から五稜郭の名称は用いられていたが、築造中は亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)または亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)とも呼ばれた。元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であることから、柳野城(やなぎのじょう)の別名を持つ。Wikipediaより:五稜郭設計図 Wikipediaより:五稜郭本陣 (明治元年冬撮影) 新政府軍が箱館に迫ると、この本陣の鐘楼が艦砲射撃の標的となり、旧幕府軍では慌てて鐘楼を取り壊した。 概要
五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。
現在残る星形の遺構から外側100~350メートルには、北と北西を除いて外郭の土塁がかつて存在したが、現在では国有保安林となっている箇所以外、面影は失われている。
国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている (略)Wikipediaより:五稜郭タワーから望む五稜郭 Wikipediaより:五稜郭の桜と五稜郭タワー
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年 / 明治元年〈1868年〉- 明治2年〈1869年〉)は、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中核とする新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本近代史上最大の内戦。名称の由来は、慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることからきている。
新政府軍が勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、欧米列強は条約による内戦への局外中立を解除した。これ以降、明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められた (略)Wikipediaより:箱館戦争関連地図 Wikipediaより:蝦夷へ向かう旧幕府軍 概要
戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。
・日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争(原口清)
・将来の絶対主義政権を目指す天皇政権と徳川政権との戦争(石井孝)
石井はさらにこれを次の三段階に分けた。
1.「将来の絶対主義的全国政権」を争う天皇政府と徳川政府との戦争(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)
2.中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争(東北戦争)
3.封禄から離れた旧幕臣の救済を目的とする、士族反乱の先駆的形態(箱館戦争) (略)
箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 – 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる (略)
背景
慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する (略)Wikipediaより:「箱館大戦争之図」。錦絵(三枚組) 土方歳三、松平太郎、榎本武揚らが奮戦する様子が描かれています。作者は永島孟斎という人物で、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。歌川国芳の門下に学び、はじめ歌川芳虎を名乗っていました。後に永島姓で孟斎の号を用いたと伝えられます。 戊辰戦争終結
(略) 新政府軍参謀・黒田清隆の命を受けた軍監・村橋久成、監軍・池田次郎兵衛が諏訪常吉の見舞いと称して箱館病院を往訪。諏訪に降伏交渉の仲介を頼もうとするが瀕死のため、高松凌雲らと協議し、高松と病院事務長・小野権之丞の連名で榎本に降伏を勧告する。榎本は士官以上を集めた会議の結果 (略) これを拒絶したが、灰燼に帰するには惜しいとして榎本がオランダ留学時に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物『海律全書』を黒田に届けさせた (略)
黒田は「海律全書」の返礼として、礼状と共に酒樽五樽・鮪五尾を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、同日の夕刻、榎本側から軍使を遣わし、返礼と翌朝7時までの休戦を願い出る。政府側はそれを了承し、五稜郭に対する総攻撃開始の日時を通告した。休戦の間、幕府軍首脳側は合議の上、降伏・五稜郭開城を決定する。同夜、榎本は敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆願の為に自刃しようとしたが、たまたま近くを通りかかった(介錯を頼む為、榎本が呼び止めたとも言われる)大塚霍之丞に制止されている (略)Wikipediaより:箱館、五稜閣之降伏 総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の会見場に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、これを認めなかった。これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条件降伏に同意。新政府軍が降伏の手順を明らかにする実行箇条の提出を要求してこの会談は終了した。その後、榎本は降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して一旦五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた (略)
実行箇条に従い、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した (略)戦後処理
降伏した旧幕府軍の将兵は、一旦箱館の寺院等に収容された後、弘前藩ほかに預けられ、ほとんどが翌年に釈放。幹部については、榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、相馬主計の7名が、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄された(明治5年釈放) (略)
つまり、
『「五稜郭」は、築城中は「亀田役所土塁、または亀田御役所土塁」と呼ばれ、「箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された城郭」であったが、「完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊」してしまい、「戊辰戦争の最後の戦い」である「箱館戦争」で「榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった城郭」でもあり、現在では「国の特別史跡に指定され、”五稜郭と箱館戦争の遺構” として北海道遺産に選定されている城郭」』
と言った理解をさせて頂いた次第です。
また、その時代の大きな流れは、以下の様になる認識をさせて頂きました。
- 1854年:日米和親条約が3月に締結され、「函館港の開港」が決定。これを受けて、6月に「函館奉行所が配置」された
- 1855年:幕府の拠点となる「五稜郭」を「急いで築城」する事を決定
- 1857年:「五稜郭」の築城開始
- 1866年:「五稜郭」完成
- 1867年:大政奉還 (二条城は、別記事で記載中)
- 1868年:「戊辰戦争」勃発:鳥羽伏見の戦い(1月)、江戸城・無血開城(4月)、会津降伏(9月)(会津若松城・白虎隊関連は別記事で記載中)、旧幕府軍「五稜郭」奪取(10月)
- 1869年:函館戦争終結(5月) 戦いで建物の大半を失う



改めてこうして「年表形式」で、「五稜郭の歴史」見てみると、「五稜郭の歴史は、たったの10~15年程度」。本当に、江戸から明治に時代が流れる中で「一瞬だけ、しかし “すごい輝き”」をもって、歴史上に登場したお城が「五稜郭」と言う理解で良い認識です。故に、歴史の大きな流れから見るとその期間は短かったかもしれないが、「五稜郭の特徴」は、「”その特異な形状” と “戊辰戦争の終結の地”」といったキーワードで十分と思ってしまった次第です。
たった15年程だけど、日本の多くの人が知っており、様々な思いをはせるお城「五稜郭」。歴史好きに限らず、日本人なら歴史の大転換の「しんがり役」を務めたこのお城に、脚を運んでいただきたいと、強く思ってしまったのでした…。
【「五稜郭の形」を知る】
ところで、この五稜郭の形、何の形に見えますか? 一般的には「星」ですよね? 上記、Wikipedia からの引用にもありますが、『築城中は「亀田役所土塁」または「亀田御役所土塁」と呼ばれていた』そうです…。個人的に思ってしまったのは「これだったら、あまり人気が出なかったかもしれない…」という事…。
「亀田御役所土塁」を命名した方には、申し訳ないですが、「五稜郭」の ”稜” は、「かど」とか「すみ」と言った意味がある様なので、「五つのカドを持つお城」で「五稜郭」という理解になり、この「五稜郭」の方が、音の響き、お城のイメージ、どれをとっても、「圧倒的なネーミングセンス」だと思います(あくまでも、個人的見解ですが…)。上記、「一般的に “星” の形」に見えると記載しましたが、『この素敵で、独創的な形を、「亀田御役所土塁」と言われてしまうと、星のイメージも沸かず、ゲンナリしてしまいそう…』です(しつこいですが、あくまでも、個人的見解です…)。
しかし、そんなことを記載していている私ですが、子供の頃に初めてこのお城を見て、「どんな形に見えるか?」、小学校の先生に質問されたときの「私の答えは ”亀”」でした…。昔「縁日で売っていたミドリガメ」に見えてしまった私が、「亀田御役所土塁」のネーミングセンスを、どうの言うのは、おかしな話だとも思っている次第ですが…。
五稜郭城内の様子
しかし、この「五つのカドを持つ形」、実際に城内を歩くと、ほとんど感じる事は出来ません…。この形を認識し、イメージした上で、”稜” の隅に立つと、若干見えてきますが、地上レベルでは、やはり全体像を完全認識できるところまでは行かないと思う次第です…。故に、皆さまも「五稜郭」に行った際は、地上レベルでは「形が良くわからない」と言うのを肌で感じたうえで、「必ず五稜郭タワー」に登って頂きたと思う次第です。そうしないと、その形状を認識できませんし、「五稜郭に来た!」と言った感激の気持ちも沸いてこないと思うので!


【最後に:もう一つの五稜郭】
以上が、「『特異な形をした城郭』が有名で、幕末のほんの短い期間に歴史にその名を刻んだ、『戊辰戦争終結の地』である北海道函館にある『五稜郭』」に付き記載申し上げた内容になります。
「たった15年程の歴史」でしたが、いまだに歴史的にも輝きをはなち、その形状でも、輝きを放つ「五稜郭」。函館に行った際には「絶対に外してはいけないスポット」だと思いますので、「函館における大人散策」と共に、是非脚を運び、歴史に思いをはせると同時、形状の美しさを実感ください!
そして、最後にもう一つ、「五稜郭」と同様に、「五角形のお城(正確には陣屋)」が、日本にある事、ご存じでしょうか? 函館・五稜郭程、綺麗ではありませんが、「五角形のお城」が、「長野県の佐久市」にもあります。別記事で紹介しております「小海線」のその名も「”龍岡城” と言う駅」から徒歩圏にあります。こちらに関しては、別記事で記載しておりますので、併せてご参照頂き、「五稜郭の魅力」を感じてみてはいかがかと思う次第です…。
(ちなみに、五稜郭同じく、津軽海峡の北海道側にある旧国宝24城の1つ「松前城」も別記事で紹介しております(函館から100㎞ 位なので、車で2時間程度かかると思いますが…))


尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿、(勝手なネーミングですが…)旧国宝24城等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。