【はじめに:「明智光秀 ≠ 天海」は状況証拠のみ?】
こちらのページでは、「学術的には、かなり疑わしいかもしれない『明智光秀=天海説』につき、『どういったケースであれば “明智光秀=天海” と言えるのだろうか?』にといった内容で考察(前半戦)」を加えさせて頂こうと思います(後半戦の記事はこちらから…)。
皆様は「明智光秀」と言う人をご存じでしょうか? 大河ドラマ(麒麟が●る)でも取り上げられましたし、本ブログ「天王山とは?」でも記載させて頂きましたが、有名な戦国期の武将である事、よくご存じの方が大多数ではないかと思います。では「天海」と言う僧をの事はご存じでしょうか? こちらも明智光秀程ではありませんが、川越喜多院の中興の祖とも言われ、江戸幕府草創期に家康・秀忠・家光と仕え、江戸の街づくりに貢献し、よく言われる説では、108歳まで生きたと言われる「怪僧」と言われる人です(90歳との説もあれば、135歳との説もある様で、もはや人ではないかもしれませんが…)。
では、「『明智光秀=天海』と言う説」がある事、ご存じの方はいらっしゃいますでしょうか? これは「天海」をご存じ方であれば、かなり多くの方が、以下の様に認識されていると思います。つまり大多数の方が「聞いた事があるがる説だけど、作り話でしょ…」と言った印象をお持ちなのではないかと思うと言う事で、私もその部類の人間です。
しかし先日、友人のお子さん(小学校高学年)にその話をすると「なんで『明智光秀 ≠ 天海』でないと言い切れるの?」と質問を受けてしまいました…。それに対し「年齢に無理がある…」とか、「二人の行動を考えると物理的に(距離的に)動き方に無理がある…」とか、「そもそも明智光秀は、本の寺の変の直後、山崎の戦いで敗れ、百姓(野武士?)に討たれた…」といった話をし、何とか説明しようと試みましたが、しっかりと答えられませんでした…。言い換えますと、言葉はそのものは子供っぽさがありましたが、メッセージとしては「それって『光秀が山崎の戦いの後に死んだと言われる状況証拠』でしょ…、確証じゃないよね…」と言われてしまったと言う事です(この子、中々の切れ者の様です…)。よく考えもせず、世間の考え方に半分乗っかり「明智光秀 ≠ 天海」と半分思い込みで語っていた事、歳を取ると考える事そのものを無意識に拒否していた事、少々恥ずかしくなってしまった次第です…。
その為こちらのページでは、そういった経緯もあり、思い切って『明智光秀 = 天海だった』と言う仮説を前提にしてしまい、「学術的には、かなり疑わしいかもしれない『明智光秀=天海説』につき、『どういったケースであれば “明智光秀=天海” と言えるのだろうか?』にといった内容で考察」を加えさせて頂こうと思った次第です(こちらの記事は、前半戦になりますが… ⇒ 後半戦の記事はこちらから…)。
【「明智光秀」とは? 「天海」とは?】
先ずは「明智光秀」と「天海」の概要から、Wikipedia の力を借りつつ、抑えさせて頂きます。
■明智光秀とは?
先ずは「明智光秀」につき、Wikipedia の力を借り、調べてみますと本能寺の変も含め以下の様に記載があります(少々引用長いので、続いてポイントをまとめております;引用読まずとも大丈夫です…)。
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い) (略)Wikipediaより:本能寺焼討之図 生年
生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である。ただし、後世の史料によるものとして、『明智軍記』などによる享禄元年(1528年)説、および『当代記』による永正13年(1516年)説の2説がある。また、近年その存在が広く紹介されるようになった津山藩森家の記録である『武家伝聞録』 所収の「古今之武将他界之覚」(巻一)では享年七十と記されており、逆算すると永正10年(1513年)となる。また、江戸時代には大永6年(1526年)生まれとする説もあったという。一方、橋場日月は『兼見卿記』にある光秀の妹・妻木についての記述から、光秀の生年は大幅に遅い天文9年(1540年)以降と推定している(この場合、天文3年(1534年)生の織田信長より年下となる) (略)生誕地、幼少期の土地
『明智軍記』によると、生地は美濃国の明智荘の明智城(現・岐阜県可児市)と言われる。少なくとも美濃国(岐阜県南部)周辺で生まれたのは事実とみられている (略) このほかに、近江国出生説もある (略)青年期
青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、『明智軍記』によると、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えるも、弘治2年(1556年)、道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる (略)
光秀は越前国の朝倉義景を頼り、10年間仕え、長崎称念寺門前に居住していたとも言われる (略) 越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状がある光秀の躍進
(略) 『明智軍記』には、永禄9年10月9日に光秀は越前から美濃の岐阜に来たと書かれているが、光秀は『針薬方』が書かれた永禄9年10月20日以前に、幕府方として、高嶋田中城に籠城したことになる (略)
この古文書を一般公開した熊本県立美術館は、光秀が信長に仕える前は医者として生計を立てていた可能性があることを推測させる貴重な資料だとしている
確定はできないものの、光秀の「高嶋田中籠城之時」は、永禄8年5月9日(1565年6月7日)に室町幕府第13代将軍・足利義輝が暗殺された(永禄の政変)直後であると考えられるが、前述の朝倉義景仕官時代と重なる恐れがある (略)
義昭は各地に檄文を発していたので、身を持て余していた人々が馳せ参じたかもしれず、光秀もその一人だったと考えられる。そして、琵琶湖の西部に位置する高嶋の地に軍事的緊張が高まった永禄9年8月から10月20日の間に、足利義昭方として、対三好軍戦の防御網の一角である高嶋田中城詰に参加し、その後家臣団の整備の際に足軽衆として正式に編入されたのだろう (略)足利義昭との関係
永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆や松永久秀らによって、兄の将軍足利義輝、母の慶寿院、弟の鹿苑寺の院主周暠を殺害され(永禄の変)、院内に幽閉されていた南都興福寺一条院門跡であった覚慶(足利義昭)は同年7月28日、大和国から脱出し、翌日近江国甲賀郡和田(現・滋賀県甲賀市)に到着して、和田惟政の屋形に入った。この脱出には、朝倉義景の働きかけもあった (略) 8月14日付で朝倉義景の重臣前波吉継が義昭を越前に迎える意思を表明した返書を和田惟政宛てに送っており、光秀が義景から派遣された可能性も考えられる (略)Wikipediaより:足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)。江戸時代に等持院像を粗描したもの 足利義昭の家臣から織田信長の家臣へ
永禄11年9月26日(1568年10月16日)、義昭の上洛に加わる (略)
永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる (略)
同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う。秀吉・光秀の連署した賀茂荘中宛文書、秀吉・丹羽長秀・中川重政・光秀の連署した公家の立入左京亮宛文書、宇津右近大夫宛文書が発行されており、幕府奉公衆として署名したとみられる (略)
比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる (略) 宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる (略)本能寺の変
天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる (略) 光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった (略)山崎の戦いと最期
(略) 光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日(1582年6月23日)までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした
(略) 同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。
だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した (略)
また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した (略)
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国路の備中高松城から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年6月13日(1582年7月2日)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった (略)
当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して戦術的に大勢を定めると勝敗が決したとの見方がある。だが、これは『太閤記』や『川角太閤記』『竹森家記』などによるものであり、良質な史料(『浅野家文書』『秀吉事記』)にはこの天王山占拠が記されていないため、現在では創作とされている (略)
同日深夜、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠したともされる (略)Wikipediaより:山崎合戦の地 石碑、天王山から見下ろす山崎合戦之地。現在の大山崎JCT(写真中央左)あたりを挟んで両軍が対陣したと言われている。 光秀のものとされる首は、発見した百姓により翌日、村井清三を通じて信孝の元に届き、まず本能寺でさらされた。その後同月17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともに京都の粟田口(現・京都府京都市東山区・左京区)に首と胴をつないでさらされた後、同年6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれたとされる (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/明智光秀
少々引用が長くなってしまいましたので、私の持っている情報と併せ、ポイントと考察を以下にまとめます。
- 明智光秀の「出自・生年・青年期=若い時」に関しては、史実があいまい
- 明智光秀の歴史上確定できそうな経歴は、室町幕府の幕臣になった1565年前後の様だが、それ以前は、斎藤道三や朝倉義景等に仕え、医者としての経歴もあると言われている様子
- 当初は、足利義昭と織田信長の連絡役として室町幕府(足利義昭)に仕え、幕臣として信長軍と行動を共にしていたようだが、比叡山の焼き討ちにも中心人物として織田軍に参加しており、その後、志賀(滋賀)郡を与えられ、坂本城の築城を開始した辺りから織田信長の家臣になったと言われている
- 1582年の甲州征伐(武田攻め ⇒ 甲斐武田家滅亡)の後、(甲州征伐の労をねぎらう名目で?)家康を安土城に招く際、光秀は饗応役を任されるが、問題発生でその任を解かれ、秀吉の援軍を命じられる
- しかしその直後(同じ年の1582年)、本能寺で信長を討つが(本能寺の変)、すぐに駆け付けた秀吉に敗れ(山崎の戦)、居城の坂本城に落ちる際、落ち武者狩りで殺害された(深手により自害した?)
- 光秀の “ものとされる首” は、発見した百姓により翌日、信孝の元に届けられた
本当に簡単なサマリでまとめますと、「若い時の史実は見えませんが、室町幕府(足利義昭) ⇒ 織田信長と仕え(斎藤道三・朝倉義景にも?)、最終的には本能寺の変を起こした後、秀吉に敗れた武将が明智光秀」と理解した次第です。同時に「そんなに簡単に幕臣になれるの?」、「義昭と信長の両方に仕えていたとも見える(二重スパイ?)…」、「『”光秀のものとされる首” は百姓によって届られた…』って、本当に光秀のもの?」と言った感想(疑念?)を持てしまった次第です…。
■天海とは?
次に、「天海」Wikipedia の力を借り、調べてみますと以下の様に記載があります(少々引用長いので、続いてポイントをまとめております;引用読まずとも大丈夫です…)。
天海(てんかい、天文5年(1536年)? – 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号は南光坊(なんこうぼう)、院号は智楽院(ちらくいん)、諡号は慈眼大師(じげんだいし)。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した (略)生年
天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったと言われる (略)
小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか『 上杉将士書上』による永正7年(1510年)のほか、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある (略)前半生
先述のように陸奥国会津出身と伝えられているが前半生についてはよくわかっていない。
龍興寺にて随風と称して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山焼き討ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。のちの喜多院)に移り、天海を名乗ったとされる。喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに徳川家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった (略)
また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。川越喜多院 後半生
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年4月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として自らの宗教である山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/天海 上野公園に隣接する現在の寛永寺
こちらも、若干引用が長くなってしまいましたので、私の持っている情報と併せ、ポイントと考察を以下にまとめます。
- 天海も「出自・生年・青年期=若い時」の史実があいまい
- 天海の歴史上確定できそうな経歴は、無量寺北院(後の川越喜多院)に来た、1588年以降と言われている様だが、龍興寺にて随風と称して出家した後、下野国宇都宮の粉河寺・比叡山延暦寺・園城寺・大和国の興福寺・足利学校等で学び(修行し?)、川中島合戦(2次? or 4次?)を遠望したとも、1571年の比叡山焼き討ちの後、信玄に誘われ(光秀の紹介とも?)甲府に住まい、その後、会津(蘆名氏)にいったとも言われているらしい
- 秀吉の小田原攻め(1590年)の際には、家康の陣中にいたともされ、大坂の陣(1614 & 1615年)の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったと言われる
- 家康の神号を「東照大権現」と定め、日光に埋葬したのも天海と言われる様子
- 江戸幕府草創期の3代将軍(家康・秀忠・家光)に仕え、延暦寺再興や無量寿寺北院(現川越喜多院)の再建も行ったと言われ、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想を唱え、寛永寺を創建したと言われる
※ 権現:日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す (Wikipediaより抜粋(https://ja.wikipedia.org/wiki/権現))
明智光秀同様、天海も若い時の史実があいまいな部分も多い(自身も前半生については語ろうとしなかったと言われているらしい…)ようだが、かなりの長寿で、多くの戦国武将とかかわりを持ち、特に家康との関わりは深かったと推察出来る様です。家康の後も、秀忠・家光に仕え、江戸の都市計画にも大きくかかわり、寛永寺を創建し、川越喜多院の中興の祖とも言われた大僧正が「天海」と言う人と理解しました。一方「家康は、なんでそんなに天海を頼ったの?」、「天海の足取りが追えるのは、1588年と言うと、1582年に死んだとされる光秀とは、確かに被っていない…」、「1571年の比叡山焼き討ちの後、武田信玄に招かれ、甲府に行ったって(しかも、もしかしたら光秀の紹介?)、義昭が信長討伐の命令を出したタイミングにピッタリあってる…」といった事も思ってしまった次第です…。
【明智光秀は室町幕府の諜報員(スパイ? 別班?)で、天海は江戸幕府草創期のフィクサー?】
上記、明智光秀と天海の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では『明智光秀 = 天海だった』と言う仮説を前提にした際に考えられる「①明智光秀は、室町幕府の諜報員(スパイ? 別班?)だったのか?」、「②天海は、江戸幕府に置いてフィクサーだったのか?」につき、考えて(妄想して)みたいと思います。
①明智光秀は、室町幕府の諜報員(スパイ? 別班?)だった可能性
まずは「明智光秀=室町幕府の諜報員」の可能性から探るべく、Wikipedia の情報(一部上記引用と重複しますが「明智光秀」・「本能寺の変」の項目より)を引用し、共有いたします(少々引用長いので、続いてポイントをまとめております;引用読まずとも大丈夫です…)。
本能寺の変
天正10年(1582年)5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月2日(1582年6月21日)早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。
『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった (略)本能寺の変の原因
怨恨説 (略)
天正10年(1582年)、信長は武田家を滅ぼした徳川家康の功を労うため、安土城において家康を饗応した (略) 光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられてしまう。この時の解釈にも諸説あり、安土大饗応の時、実は信長は光秀に対して徳川家康を討てと命じたが光秀がそれを拒否した為に接待役を免ぜられたという説、「魚(肴)が腐っている」というのは毒を入れろと言ったのになぜ入れなかったのかという信長の怒りという説 (略)理想相違説
https://ja.wikipedia.org/wiki/明智光秀
信長を伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法(一向宗勢力、伊賀の虐殺等)で天下の統一事業を目指したと歴史解釈した上で、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした、と考えたところから発生した説。
この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きにわたって続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する (略)
将軍指令説 / 室町幕府再興説
光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説 (略) 藤田達生(追記:日本史学者)は紀州の武将・土橋重治に充てた光秀直筆の書状 から、光秀が本能寺の変の後に義昭を京に迎え入れ、室町幕府を再興するという明確な構想があったことを指摘している。 (略)
(略) 『信長公記』に、天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺(甲州市塩山)に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠が、織田元秀・長谷川与次・関長安・赤座永兼に命じて寺を焼き討ちさせた。僧150人が殺され、住職快川紹喜は身じろぎもせずに焼け死んだ。有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」は紹喜の辞世の句の下の句という。
以上が史実であったが、『絵本太閤記』等ではこれに加えて、光秀が強く反対し、制止しようとして信長の逆鱗に触れ、折檻してさらには手打ちにしようとしたと云う、これまで見てきたものと似たような展開とされている。しかし、そもそも焼討を命じたのは信忠であり、同日、信長は甲府にいた。他方で、快川紹喜は土岐氏の出身で、光秀も内心穏やかではなかったのではないかという説もあり、(光秀が制止したという創作は除いて)諸説の補強説明に利用されることがある (略)徳川家康主犯説(伊賀忍者実行犯説)
徳川家康が、妻や子を殺された遺恨、あるいは武田氏滅亡後は不要になったからと信長に暗殺されると考え、先手を打って伊賀忍者に命じて信長を暗殺させたとする説。光秀の関与を否定する無罪説の1つだが、特に証拠となる史料はなく作家流のフィションで、この話では伊賀忍者の活躍に重点が置かれる。これに光秀=天海説が加わると徳川家康黒幕説となる (略)徳川家康黒幕説
https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変#変の要因
動機は徳川家康主犯説と同じだが、家康が光秀を裏で操る黒幕であったという説。「光秀は僧侶だったのではないか?」とする作家小林久三が提唱した南光坊天海=光秀説に触発されて、歴史小説などで用いられたもので、創作。
この説の肝は、『本城惣右衛門覚書』やフロイスの『日本史』、『老人雑話』などに信長が家康を暗殺するという風説(いわゆる、家康暗殺説)があったという記述があることを根拠に信長による家康暗殺の計画が実際にあったとする点と、光秀が山崎の戦いの後も僧侶として生存し南光坊天海として家康に仕えたとする点の2点である。陰謀論の中ではよく知られたもの。信憑性については定かではないが、この説を利用するフィクション・陰謀論がかなりある (略)
「明智光秀と言えば本能寺の変」だと思いますし、彼にとっては一大イベントで、彼の大切なポリシーが最も出る場面だと思うので引用しましたが、若干引用が長くなってしまいましたので、私の持っている情報と併せ、ポイントを以下にまとめます。
- 本能寺の変における要因は、はっきりとはわかっておらず、フィクションも含め、本当に様々な視点がある (怨恨説・理想相違説・将軍指令説 / 室町幕府再興説・徳川家康主犯説・徳川家康黒幕説等)
- その中で、上記取り上げた要因を勝手に、時代背景も踏まえつつ理解するのであれば、以下となる
本能寺の変は本当に日本史における大きなターニングポイントである事は間違いない物の、その要因が見えていない、日本史におけるミステリーの一つである事、改めて認識してしまいますが、上記引用しなかった説も含め、それぞれの(要因の)説を見ているとどれも正しい様にも見えてきてしまいます。言い換えると「どれも大なり小なり影響を与えていると思われ、すべて正しく、複合的な要因だったのでないか…」とも思ってしまい、「明智光秀は、室町幕府の諜報員だった」と言われても、「確かにね…、その節あるね…」と納得してしまうと思った次第です。
杵を持つのが信長、餅をこねるのが光秀、伸しているのが秀吉で、食べている大将が家康を表す寓意
②天海は、江戸幕府に置いてフィクサーだったのか?
上記「明智光秀は、室町幕府の諜報員説」を見てまいりましたので、続けて「天海は、江戸幕府に置いてフィクサーだった説」についても見てまります。Wikipedia の情報(一部上記引用と重複しますが「天海」・「寛永寺」の項目より)を引用し、共有いたします(少々引用長いので、続いてポイントをまとめております;引用読まずとも大丈夫です…)
(略) 天海の江戸設計
この項目はそう唱えている研究者が一人いるというだけであり、多くのコンセンスを得られているわけではないということに留意されたい。
関ケ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選んだとされる。天海は家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされる (略)
江戸城の場所が決定した後、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われたが、天海は、実務的な作業工程とは次元を異にする、思想・宗教的な面で設計に関わっていたとされる。江戸城の工事は寛永17年(1640年)に終わるが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお存命しており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったとされる。川越市立博物館にある天海像 天海は、江戸城の内部を渦郭式という「の」の字型の構造にすることや、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることなどを助言したとされる。「の」の字型の構造は、城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したものとされるが、他に、敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされる。
天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる。天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた (略)上記の他、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる。
また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、日枝神社(日吉大社から分祀)を移すなどして、鎮護を意図したとされる。神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭とされるが、それらの祭りは、天海により、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもされていたとされる。江戸城の位置は、寛永寺・神田神社と増上寺を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線とが交差する地点にあったとされ、天海が鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していたことがうかがわれるとされる。
天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる。将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる。天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/天海 上野東照宮・寛永寺・神田明神・築土神社・日枝神社 (一部写真Wikipediaより)
寛永寺と増上寺
近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/寛永寺 増上寺と寛永寺内にあった清水観音堂 (一部写真Wikipediaより)
上記引用にもある通り、すべてが正しいと言い切れるわけでない物の、江戸幕府と江戸の街そのものに大きな影響を与えた事は間違いない様です。以下に私の持っている情報と併せ、ポイントを以下にまとめます
- 徳川幕府開府の地(=江戸)を選んだのは天海と言われているらしい(元々家康が拠点を構えていたわけなので当然と言えば当然で、「理由付け」をしたと言った感じでしょうか?)
- 江戸城の代名詞、「の」の字型の構造である渦郭式の縄張りは、天海によるものと言われ、更に、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したと言われるらしい
- 家康の神号を「東照大権現」と決定したのは、天海の意見と言われるらしい
- 天海は、鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視していた様で、裏鬼門にあたる位置にある増上寺に2代将軍・秀忠を祀り、鬼門には寛永寺を創建し自ら住職となったとも言われ、江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味があったと言われる「江戸の三大祭(神田神社の神田祭・浅草神社の三社祭・日枝神社の山王祭)」は、天海に起因するらしい
- 元々寛永寺は徳川家の菩提寺という位置づけではなかったが、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせた事により(天海の死後ですが)、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となったと言われ、家光もかなり天海を信頼していたと思われる
上記の通りですが、天海は江戸幕府の草創期に置いて(もしかしたら開府以前から)、家康・秀忠・家光と長期間にわたり、かなり重要な位置にいた事は間違えない様です。同時に、1588年に無量寺北院(現川越喜多院)に来るまでは、中々足取りの追えない無名に近い僧が、いきなり家康のそばに来て(小田原征伐の時に家康の陣にいたとすると1590年くらいから?)、江戸城や江戸の街の構築にかかわった事が事実だとすると「天海っていったい何者?」、「天海って物凄い優秀?」、「優秀なだけで、こんなに江戸幕府の中枢に入れる?」と思ってしまった次第で、「天海は、江戸幕府のフィクサー」と言って良いのではと思った次第です…。(ちなみに、天海が再興したと伝わる「川越喜多院」が、「川越城の出城だった説」につきましても別記事で記載しております)
※ フィクサー:政治・行政や企業の営利活動における意思決定の際に、正規の手続きを経ずに決定に対して影響を与える手段・人脈を持つ人物を指す (Wikipediaより抜粋(https://ja.wikipedia.org/wiki/フィクサー))
【(一旦)最後に:でも後半戦に続きます…】
以上が、「学術的には、かなり疑わしいかもしれない『明智光秀=天海説』につき、『どういったケースであれば “明智光秀=天海” と言えるのだろうか?』にといった内容で考察(前半戦)」になります(つまり後半戦に続きます!)。
ただ上記、明智光秀・天海とそれぞれを「明智光秀 = 天海」と言う視点 “無し” で見ても、それぞれ魅力的な人物である事は、間違いないと思ったと同時に、なぞの多い人達で、ミステリー感を感じざるおえないと思った次第です。後半戦では、いよいよ「明智光秀 = 天海」の前提に立って、その真意の程を考察(妄想)させて頂きますので、是非ともご参照頂けますと幸いです。