【はじめに】
こちらのページでは、「その後のお城のあり方に大きな影響を与えた、エポックメイキング的なお城として有名な、織田信長最後の居城・安土城の大人散策情報(プランニング版)の紹介」をさせて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「安土城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 織田信長の最後の居城 (信長は、那古野城で生まれ(or 古渡城 or 勝幡城の説もある様ですが…)、清須城・小牧山城・岐阜城・安土城と居城を変えたと言われている認識)
- 「日本五大山城 & 日本五大山岳城で、総石垣づくりの見せる城として有名な観音寺城」のお隣にあるお城で、対抗する様に「天守による見せる城」だった認識でもあり、防御性には疑問の残るお城の認識
- お城のあり方を変えた、エポックメイキング的なお城としても有名だが、天守があったのは、僅か数年程度の短い期間と言われている
- 比叡山の焼き討ちを行うなど、神をも恐れない信長のイメージだが、天守閣は宗教色の強い装飾だったらしく、場内には摠見寺(寺院)もあった (信長は宗教を芸術・軍事拠点として捉えていた?)
- 新幹線で京都方面から来ると、E席から「安土城」の看板が見え、その隣の全貌が望める巨大な山城・観音寺城と、それぞれの大きさ(お城が築かれた山の地形)の比較が出来ると思いきや、「安土城跡」の看板のある山は、安土城ではない… (長い間騙されてました…)
- 日本100名城に選出されている
桶狭間の戦い・信長包囲網の打破・木津川口の戦いにおけるリベンジ(1次は大敗も、2次は勝利)と、奇跡に近い戦歴を持つ信長。長篠合戦では甲斐武田家を破り、数年の後には甲斐武田家を滅亡に追い込んで、越後上杉氏にも、中国地方の毛利氏にも攻撃を加え、天下統一を(個人的感覚では)8割方進めるも、家臣の明智光秀に本能寺の変で討たれてしまった信長。そんな信長が、那古野城(or 古渡城 or 勝幡城生誕の説もある様ですが…)、清須城・小牧山城・岐阜城と居城を変え、最後の居城となったお城が「安土城」と認識しております。
こちらのページでは、そんな信長の最後の居城・安土城を取り上げさせて頂きます。すなわち、「その後のお城のあり方に大きな影響を与えた、エポックメイキング的なお城として有名な、信長最後の居城・安土城の大人散策情報(プランニング版)の紹介」させて頂きます。
【安土城の概要】
まずは、春日山城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。
安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の、近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。
安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた(大中湖)。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている (略)
この城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。
1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因(後述)によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。
日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である (略)
安土城図江州安土古城図 Wikipediaより 特徴
・中央に礎石がない
高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している) (略)
・居住性の充実
通常の天守は日常的な居住空間としては使用されなかったが、概要の通り信長はこの天守で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。
・城郭中枢部の寺院
天主台南西の百々橋口付近に摠見寺がある。持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけである (略) 『信長公記』の記述から、この百々橋口道は通常時に城に入ろうとする者が使用するための道だったと推測されている。
・発見されない蛇石
秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集めた (略) なかでも「蛇石」という巨石は五間余(約10メートル)、推定三万貫(約112トン)あったが、しかし引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。
・強い宗教色
一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、天守内部の宝塔(推定)や絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が多く見られる。
・本丸御殿と清涼殿の酷似
安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている (略)
・防御策の乏しさ
城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城は大手門からの道が幅6mと広く、約180mも直線が続く。また、籠城用の井戸や武者走り・石落としといった設備も著しく少ない。こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。Wikipediaより:安土山遠望と天守台 歴史・沿革
https://ja.wikipedia.org/wiki/安土城
・安土桃山時代
– 1576年(天正4年) 1月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始。
– 1579年(天正7年)5月、完成した天主に信長が移り住む (略)
– 1582年(天正10年) 5月15日には明智光秀が饗応役となった徳川家康の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により自害した本能寺の変の際は蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の自害後に蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土城から移動させ退去。その後、明智軍が安土城を占拠した。山崎の戦いで光秀が敗れた後、天主とその周辺の建物(主に本丸)が焼失した。焼失の経緯や理由については諸説あるが不明 (略)
・近代
– 1918年(大正7年) 安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立される。
– 1926年(大正15年) 1919年(大正8年)に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法により、安土城址が史蹟に指定される (略)
・現代
– 1950年(昭和25年) 文化財保護法施行に伴い史跡安土城跡となり、2年後の1952年(昭和27年)特別史跡に指定される (略)
– 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(51番)に選定された (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 安土城は、安土山にあった国の特別史跡に指定された山城で、日本100名城にも選出されているお城
- 織田信長により「大型の天守を初めて持つ、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城」として建造され、「建造当時は郭が琵琶湖に接しており、天下布武を象徴し、一目にして人々に知らしめる姿」であった様であり、山頂の天主に信長が起居し、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされるらしい
- この場所に築城した目的は、①京に近く、②琵琶湖の水運も利用でき、北陸街道から京への要衝に位置していたことから、③『「越前・加賀の一向一揆に備えるため」or「上杉謙信への警戒のため」』などと推察されているらしい
- 「日本の城の歴史」という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭と言われ、更に「初めて石垣の上に天守が上がった城」と言われ、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となったと言われる
- 安土城の特徴として、以下の内容があげられるらしい
- 中央に礎石がない:安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている
- 居住性の充実:信長はこの天守で生活していたと推測されている
- 城郭中枢部の寺院:堂塔伽藍を備えた寺院(摠見寺)が建てられているのは、後にも先にも安土城だけ
- 発見されない蛇石:「蛇石」という巨石があったと言われ、事故もありうつつ、最終的に安土山頂まで引き上げられたはずだが、未だ発見されていない
- 強い宗教色:一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、天守内部の宝塔(推定)や絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が多く見られる
- 本丸御殿と清涼殿の酷似:安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている
- 防御策の乏しさ:安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。
- 1582年、明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となった言われる
まだ実際にお邪魔した事は無く、新幹線の中から「安土城跡」の看板を拝見した事はありましたので、「あの山に『安土城の天守があったのかー』と長年騙されていました…。つまり『「安土城跡」の看板がある山は、安土城の建っていた山ではない』と言う事に最近気が付いた次第です…(正確には、その看板には ”安土城祉 ➡” とあるのですが…)。恐らく、看板のある山の麓に「安土町総合支所」があるので、その関係で、観光客誘致の為に看板を設置したのでしょうが、土地勘のない者からすれば「あそこに安土城の天守があったんだ!」、「やっぱり隣の観音寺城のある山と比べると小さいんあだなー」と興奮しつつ感想を持ってしまった事を、後悔し、残念な気持ちになり、そして「いつか必ず行ってやる!」と思った記憶があります(言い換えると「正に術中にはまっている」と言う事ですが…)。
ただ「歴史好きの人」と言う制限なしに、誰もが知っている信長の最後の居城・安土城。上記引用の通り、「大型の天守を初めて持つ、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城」で、後の世に大きな影響を与えたお城である事は間違いなく、エポックメイキング的なお城であった事は、誰もが認める所だと思います。言い換えると、「戦う城」と言うより「政治的な視点の見せる城」で、お隣の総石垣の観音寺城を手本に、天守を加え、近くを通る北国街道(彦根道・北陸街道とも)・東山道(江戸期以降は中山道)を行きかう人々(武将は勿論、旅人に対しても)に「天下布武を象徴し、一目にして人々に知らしめるお城」であった事は、想像に容易いと思った次第です。現在では、日本100名城に選出される特別史跡のお城ですが、一点、Wikipediaに「山城」と記載があったのが気になっており、建造当時は郭が琵琶湖に接していたお城なのであれば「平山城」or「湖城」が適切なのでないかと、個人的には思った次第です…。
【安土城の周囲も含めた見所】
上記、安土城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。今後の安土城における大人散策のプランニングの内容になりますので、以下皆様の参考にもなれば幸いです。尚、本ブログ別記事で紹介させて頂きました観音寺城のページでは、「観音寺城と安土城をセットで巡る事を想定したい旨」記載させて頂きました。つまり、『「ケース①:観音寺城の大人散策をコンプリートして、日暮れまでにあと3時間以上あり & 体力が持ちそうなのであれば安土城を目指す」 or 「ケース②:上記条件をクリアできない際は、潔くあきらめ、翌日、安土城を目指す」と言った感じのプランニング』を想定させて頂いたと言う物ですので、併せてご参照頂けますと幸いです。
・信長の館~安土城跡摠見寺受付
「観音寺城からアクセス」するか、「安土駅からアクセス」するかは別にして、スタート地点は「信長の館」といたします(安土駅からスタートする際は、安土駅北口の「織田信長公像」、南口の「安土城郭資料館」を見学してから参らせて頂くべきと思いますが…)。最下部の地図に沿う形で記載しますと、「信長の館」・「安土城考古博物館」・「城なび館」・「安土城跡周辺案内図」と進み、安土城入場口の外にありそうな「東側石塁北上段郭跡 虎口跡」・「西側上段郭と竈跡」を経て「安土城跡摠見寺受付」より安土城に入っていきたいと思います。
・安土城跡摠見寺受付~二の丸南帯曲輪跡
「安土城跡摠見寺受付」から入り、「羽柴秀吉邸跡」・「前田利家邸跡」等を拝見しつつ「大手道跡」を進み、順番前後するかもしれませんが、「森蘭丸邸跡」・「黒金門跡」・「二の丸南帯曲輪跡」と進んでいこうと思います。地図や写真で拝見する限り、「お城の登城道」と言うよりも、「テーマパークに行くような道」と言った感じの「広く、直線的な道」に見え(これじゃあ、大群が一気に攻めてきたら、一目散に本丸まで行けそうな感じてしまいました…)、上記引用にあった通り、『「戦う城」と言うより「権威を見せつける城」』の印象を味わえそうな感じですので、その辺りも実感しつつ、登っていきたいと思います。
・二の丸南帯曲輪跡~天主台跡
「二の丸南帯曲輪跡」まで来たら、同じく前後するかもしれませんが、「二の丸跡」・「三の丸跡」・「本丸跡」・「信長公本廟」・「天主台跡」と進んでいきたいと思います。「大型の天守を初めて持つ、それまでの城にはない独創的な意匠の絢爛豪華な城」で、「後の世に大きな影響を与えた、エポックメイキング的なお城」と認識していますが、その象徴である天守がどの程度の大きさの物だったのか、天守そのものは無くとも、天守台から想像し、少しでも「『信長の意思』を感じられたらいいな…」と思って折ります。
・天主台跡~百々橋口(~安土駅)
「天主台跡」まで来たら、後は下山する事になりますが、少し遠回りすると、「摠見寺」の「本堂跡」・「三重塔」・「二王門」等を拝見出来る様です。当時は、「摠見寺」から麓に伸びる「百々橋口」への登城道があった様ですが、現在はこちらのルートからは出れないようですので、「安土城跡摠見寺受付」まで戻って、安土城を失礼させて頂こうと思います。途中山道的な散策路もあるようですので、安土城の在りし日の姿を想像しつつ、半分ハイキング的に散策させて頂こうと思って折ります。
尚、安土駅からスタート際は(=ケース②)、安土駅北口・「織田信長公像」を拝見し、南口・「安土城郭資料館」にお邪魔してから、安土城へ向かうべきと思いますが、観音寺城からそのまま安土城を目指す際は(=ケース①)、安土駅まで戻った後、仕上げとして「織田信長公像」を拝見し、「安土城郭資料館」にお邪魔して安土城の大人散策をコンプリートさせて頂こうと考えております。
【最後に】
以上が、「その後のお城のあり方に大きな影響を与えた、エポックメイキング的なお城として有名な、信長最後の居城・安土城の大人散策情報(プランニング版)の紹介」させて頂いた内容になります。
参らせて頂いた事が無いので何とも言えませんが、地図(航空写真や地形図)を拝見するに、安土城自体の大人散策には、恐らく、1.5時間前後あれば十分回れそうな感じがしますので、前後の移動も踏まえて考えると、全体で3時間も見ておけば良いのでないかとプランニングした次第です。一方、お隣の観音寺城は、その規模もかなり大きく、4-5時間はかかりそうな気がした次第ですので、「出来れば観音寺城と安土城をセットで回りたい(=ケース①)」と思う一方、かなりハードな内容になりそうですので、「初日:観音寺城、2日目:安土城(=ケース②)」といった分割作戦も想定しておいた方が良いとも思った次第です。
その際に候補となるお宿は、近江鉄道本線・五箇荘駅 / 琵琶湖線・安土駅のいずれも電車で1本で行ける彦根駅が最寄り駅で、温泉もある「亀の井ホテル 彦根」と思い、もし「ケース①」が遂行できた際には、「改めて彦根城やお隣の楽々玄宮園、彦根城の城下町を大人散策して近江牛を堪能しつつ、温泉を楽しみたい」と思った次第です。実際はどの様な結果になるか分かりませんが、観音寺城の大人散策が実行できた暁には、本ブログで報告させて頂きます!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。