鎌倉宮 一の鳥居

【はじめに】

こちらのページでは、鎌倉草創期 / 末期と明治初期といった『”日本と言う国” の転換期』の痕跡を拝見出来、その歴史に思いを馳せる事が出来る『永福寺跡』・『鎌倉宮』の概要と大人散策情報に付き記載させて頂こうと思います。

私達夫婦が「永福寺跡」・「鎌倉宮」にお邪魔したのは、別記事で紹介中の2024年11月に実施した鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)」の際。翌日「鶴岡八幡宮」・「建長寺」・「高徳院・鎌倉大仏」・「長谷寺」等を「鎌倉七口・鎌倉の切通(巨福呂坂切通・亀ケ谷坂切通・仮粧坂切通・大仏切通・極楽寺切通)」も含め巡る予定でしたので、初日のこの日は、居住地の川越から「金沢八景駅」まで電車で行き、その後西に徒歩で進んで鎌倉七口・鎌倉の切通の1つ “朝夷奈切通”を抜け、いくつかの神社仏閣を巡った後、「永福寺跡」・「鎌倉宮」にお邪魔した次第です。

「永福寺跡」は、「鎌倉初期に源頼朝が、それまでの ”戦” でなくなった人達の冥福を祈る為に発願した浄土式庭園を備えた寺院の跡地の認識で、「鎌倉宮」は、「明治初め頃に、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的に(本ブログ別記事でも紹介した別格官幣社の創設と同じポリシーで)、明治天皇によって創設された ”建武中興十五社” の一社とそれぞれ理解して折ります。言い換えると鎌倉草創期 / 末期と明治初期といった『”日本と言う国” の転換期』の痕跡を拝見出来、その歴史に思いを馳せる事が出来る神社仏閣が『永福寺跡』・『鎌倉宮』と言う理解になる訳です。こちらのページでは、そんな永福寺跡」・「鎌倉宮」に付き、その概要と大人散策情報を共有させて頂きます。

【「永福寺跡」とは?・「鎌倉宮」とは?】

まずは「永福寺跡・鎌倉宮」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて、まずは「永福寺跡」から情報収集させて頂きますと、以下の様にあります(以下にサマリ的にまとめて折りますので、読まなくても大丈夫です)。

永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂(旧:鎌倉郡二階堂村)にある寺院跡。鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。2階建ての仏堂であった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。

歴史
源頼朝は1189年(文治5年)9月の奥州合戦を契機に、数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願 (略) 1192年(建久3年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
1405年(応永12年)に火災に遭い、のちに廃絶した。

調査
1983年(昭和58年)から開始された発掘調査で、北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40 – 70メートルの苑池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中心に南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊を従えた中心伽藍が確認された。このことから、伽藍全体の空間構成は無量光院をモデルにしたと考えられる
現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/永福寺跡

また「鎌倉宮」に関しても同様に情報収集させて頂きますと、Wikipedia には以下の様にあります(以下にサマリ的にまとめて折りますので、読まなくても大丈夫です)

鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。後醍醐天皇皇子の護良親王を祭神とする。

概要
建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。護良親王の通称である大塔宮(おおとうのみや)に因み、地元では大塔宮(だいとうのみや)と呼ばれることもある。
なお、「護良親王」は歴史的には「もりよししんのう」と訓まれたと考えられるが、2020年時点では、鎌倉宮の主祭神としては「もりながしんのう」と呼称する。また、「大塔宮」の訓み方は正式には「おおとうのみや」と考えられ、鎌倉宮でもこれを採用する (略)

祭神護良親王
祭神である護良親王は、後醍醐天皇の皇子で父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博(ふちのべよしひろ)によって殺害された (略)

歴史
1869年(明治2年)2月、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
1873年(明治6年)4月16日に明治天皇は鎌倉宮に行幸し、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した (略)

土牢
本殿の後方にある土手の穴が、護良親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承がある。土窟で2段になっている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉宮

一旦情報をまとめると、以下の様になります。

  • 永福寺跡
    • 永福寺跡(ようふくじあと)」は、神奈川県鎌倉市二階堂(旧:鎌倉郡二階堂村)にある「国の史跡」に指定されている「寺院跡」
    • 鎌倉時代初期に源頼朝が、中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮・勝長寿院とならんで当時の「鎌倉の三大寺社」の一つだった
    • 源頼朝は、奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡(奥州藤原氏4代(最後))をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願し、1192年に本堂(二階大堂?)が完成したが、1405年に火災に遭い、のちに廃絶した寺院
    • 昭和の発掘調査で、浄土庭園の西岸に「二階大堂」を中心に南北に「阿弥陀堂」・「薬師堂」の翼廊を従えた中心伽藍が確認された事から、伽藍全体の空間構成は「無量光院」をモデルにしたと考えられるらしい(現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来らしい)

  • 鎌倉宮
    • 鎌倉宮(かまくらぐう)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある「後醍醐天皇皇子」の「護良親王」を祭神とする「単立神社(神社本庁の包括下に入らない独立した神社)で、建武中興十五社」の一社でもあり、旧社格は官幣中社
    • 明治の初め、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とし、「建武中興」に尽力した功を賛え、明治天皇は「護良親王」を祀る神社の造営を命じ自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけたらしい(「護良親王は、後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により東光寺(現鎌倉宮の場所にあった寺院と認識)に幽閉され、中先代の乱の混乱の中で殺害された)

つまり、

永福寺は、「鎌倉時代初期に源頼朝」が、奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡(奥州藤原氏4代(最後))をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るために、”奥州藤原氏3代・秀衡が建立した「無量光院」の空間構成” をモデルに、”奥州藤原氏初代・清衡が実質的な開基の「中尊寺の二階大堂・大長寿院」 を模して” 建立 し、”奥州藤原氏2代・基衡 / 3代・秀衡が再興したと言われる「毛越寺と同じく浄土式庭園」を配した” 「鎌倉の三大寺社の一つ」であったが、1405年に火災に遭い、のちに廃絶した寺院』で、

鎌倉宮は、「後醍醐天皇皇子」の「護良親王」を祭神とする旧社格は官幣中社の「単立神社」で、明治天皇が、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的に、「建武中興」に尽力した功を賛え「護良親王」を祀る神社の造営を命じ、自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけた「建武中興十五社」の一社の神社

と言った理解になった次第です。言い換えますと、永福寺は、鎌倉時代初期の痕跡を残す頼朝ゆかりの寺院跡で、鎌倉宮は、明治期の ”武家から天皇中心の社会へ移る時代” の痕跡を残す、”鎌倉末期の護良親王” を祭神とする、明治天皇ゆかりの神社と言う理解をさせて頂いた次第です(基本同じ考え方で創設された「別格官幣社」についても別記事で紹介しております)。

【「永福寺跡」・「鎌倉宮」を大人散策!】

上記、『「永福寺跡」・「鎌倉宮」』の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、『「永福寺跡」・「鎌倉宮」の大人散策情報』を記載させて頂きます。「鎌倉宮」の「一の大鳥居」から入り、境内を巡り、その後「永福寺跡」に赴き浄土式庭園の痕跡」も拝見した後、再び「鎌倉宮」の「一の大鳥居」に戻って来る形になります。以下、それぞれ記載いたしますので、最下部のGoogle May Mapで作成しt地図(青色の★印)と併せてご参照頂けますと幸いです。

■「鎌倉宮」の大人散策!

「鎌倉宮」の「旧社格」は「官幣中社」。それを示す石柱が「一の鳥居」の右手にあり、左手にはその社格を誇示する様な「大木」があります。「一の鳥居」を潜り進むと、目の前に「亀の像」を備えた「手水鉢」があり、「二の鳥居」・「拝殿」と続いております。また、「拝殿」に向かって左側より、(拝観料が必要ですが…)「本殿」「護良親王が幽閉されていたとの伝承があるらしい『土牢』」があり、「拝殿」に向かって右側に「神苑」・「宝物館」・「社務所」があり、「御朱印は社務所」で頂戴する事が出来ます。しかし、私達夫婦がお参りさせて頂いた際は、小雨が降り、「鎌倉宮」の後、以下の「永福寺跡」等を巡って、今回の「鎌倉の旅」拠点とさせて頂いた ”由比ヶ浜” 近くの「KKR鎌倉わかみや」へ参らせて頂く予定にもかかわらず、16時位になってしまった為、『「本殿」・「土牢」・「神苑」は次回に!』という事にさせて頂いた次第です。「もう少し早く、川越の自宅を出ればよかった…」と若干後悔しつつも、「また来なさい!」と言う「護良親王のメッセージだ!」と勝手に理解しつつ、「社務所で御朱印のみ」を頂戴して、早々に「永福寺跡」に歩を進めた感じです。

鎌倉宮の様子(境内マップは、鎌倉宮のHP(https://www.kamakuraguu.jp/)より)

それでも、『鎌倉末期』から『建武の新政期』と言う歴史の転換期に活躍した『護良親王』を感じ、同じく歴史の転換期である「明治初期」に、(政治的な意味もあったのでしょうが)明治天皇が、その『護良親王』の『功を讃え祭った心持』に思いを馳せる事は出来た次第で、改めて『鎌倉末期から建武の新政期、そして明治期の歴史』と『護良親王 & 明治天皇の心持』に『思いを馳せる事が出来る神社が ”鎌倉宮”』と思った次第です。

ちなみに、川越の自宅を出たのは 11時頃で、金沢八景の駅についたのは 13:30くらい。そこから徒歩で、鎌倉七口・鎌倉の切通の1つ “朝夷奈切通”を超え、いくつかの神社仏閣等を巡って(詳細の行程は別記事「鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)」を参照)、「鎌倉宮」に着いたのが、16時位なので「金沢八景駅から鎌倉宮まで2.5時間くらいかかった」という事になります。予定では「16時位には ”小町通り” 付近」の想定だったので「寄り道すると意外と時間がかかった」と言うのが率直な感想だった次第です。ご参考までに…。

■「永福寺跡」の大人散策!

上記の通り、「鎌倉宮」で少し駆け足気味にお参りさせて頂き、「社務所で御朱印」を頂戴し、その裏手から「鎌倉宮」を失礼して「永福寺跡」に向かいました。「永福寺跡」へは、「鎌倉宮」の東の側面を出てから 100~200m位で、本当にすぐに「永福寺跡の入口」に参る事が出来ましたが、その道は「山道(獣道?)」の様な感じで「本当にあってる?」と思いつつも、数分で「永福寺跡の展望台への階段」が見えてきました。

永福寺跡は、上記の通り、『鎌倉時代初期に源頼朝が、奥州合戦を契機に、戦死者の冥福を祈るために、”平泉の「無量光院」の空間構成” をモデルに、「中尊寺」の二階大堂・大長寿院を模して建立し、「浄土式庭園」を配した寺院であったが、1405年に火災に遭い、のちに廃絶した寺院跡なので、「現在、建造物を拝見する事は出来ず、浄土式庭園の痕跡と思われる池と建造物跡を拝見できるのみ」になっています。言い換えると「イマジネーションと共に、見学する必要がある」という事です。

故に、『①まずは展望台から「その全体図」を拝見する』『②現在のツールを利用する』の2点をお勧めいたします。『①まずは展望台から「その全体図」を拝見する』は、写真の通り、展望台に登れば良いですが、『②現在のツールを利用する』は、アプリのダウンロード等が必要です。私達夫婦は、現地の説明看板でその情報を初めて得たのですが、もし本記事をご参照頂いている方で、且つ今後「永福寺跡」に大人散策に出掛けようと思っていらっしゃるのであれば、以下画像のQRコードを読み込むと「復元された建造物の画像」を見る事が出来るので、実際の訪問時も「より明確なイメージ」の元、大人散策を遂行できると思います。

そして実際の見学ですが、上記の通り、「永福寺跡」は、「現在、建造物を拝見する事は出来ず、浄土式庭園の痕跡と思われる池と建造物跡を拝見できるのみ」なので、また、小雨が降り・予定もおしていたこともあって、見学時間そのものは、さほど掛かりませんでした(掛けませんでした?)。「展望台」で全体図を認識した後、登ってきた階段をおり「南釣殿跡」・「阿弥陀堂跡」・「本堂跡?・二階大堂跡?」・「薬師堂跡」・「北釣殿跡」を拝見し、Uターンして東面に配置された「池」を見学しながら「永福寺舊蹟碑」までのルートで「15分程度」。ただその場所は『鎌倉時代初期に源頼朝が、奥州合戦を契機に、戦死者の冥福を祈るために、建立した永福寺があった場所』。『猜疑心の強かったとも言われる「頼朝」は、どんな心持で「弟である義経」や「滅ぼしてしまった奥州藤原氏」の英霊を弔ったのか?』、『平泉に戦で赴き、奥州藤原氏を滅ぼした事実はあるが、「無量光院」の空間構成” をモデルとし、中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して永福寺を立てたという事は、「奥州藤原氏に対して畏敬の念」も持っていたんだろうか?』、『恐らく毛越寺の浄土式庭園も見ただろうから、そこと比較して「永福寺の浄土式庭園」は頼朝の目にどう映っていたのか?』と言った事を考えつつ、「鎌倉初期の時代、そして頼朝の心持に思いを馳せる事が出来た大人散策」になった次第でした。

永福寺跡の様子

【最後に】

以上が、鎌倉草創期 / 末期と明治初期といった『”日本と言う国” の転換期』の痕跡を拝見出来、その歴史に思いを馳せる事が出来る『永福寺跡』・『鎌倉宮』の概要と大人散策情報に付き記載させて頂いた内容になります。

上記の通り、少々天候が悪く、予定がおしていた事もあって、実際の見学時間は限られたものでしたが、『「鎌倉初期・末期・明治初期」と言った日本の転換期の歴史』、そして『そこに登場する「源頼朝」・「護良親王」・「明治天皇」と言った偉人たちの心持』に思いを馳せる事が出来た「中々の大人散策」となった次第でした。

古都・鎌倉 2泊3日の旅

尚、別ページにて、①「鎌倉」ってどんな都市?その歴史は?、②鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)、③鶴岡八幡宮の大人散策情報、④鎌倉五山筆頭・建長寺の大人散策情報、⑤鎌倉大仏で有名な高徳院の大人散策情報、⑥長谷観音・あじさいで有名な長谷寺の大人散策情報、⑦鎌倉宮/永福寺跡の大人散策、⑧鎌倉七口・鎌倉の切通しを大人散策、⑨大人の宿:「KKR鎌倉わかみや」の宿泊情報、⑩大人レストラン:松原庵で美味しいお蕎麦のコースを満喫、と言った内容でそれぞれ記載しておりますので、併せてご参照頂き、「皆様の大人散策@鎌倉」に少しでも貢献出来たら幸いと存じて折ります!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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