【はじめに】
こちらのページでは、「山城と言うより『”岩” 山城』といった方が適切と思われる、武田二十四将の一人・小山田氏のお城であった『岩殿城』の概要と大人散策情報を紹介」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「岩殿城(岩殿山城)」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 中央本線の大月駅付近で、電車内から見える岩山(=岩殿山:標高はスカイツリーと同じで、甲斐にあるけど ”武蔵” で634m)が岩殿城
- 山城と言うより、断崖絶壁の岩の上にある「“岩” 山城」の印象(別記事で勝手に「日本三大”岩” 山城」を選出してます…)
- 現山梨の東側(都留/大月を中心)を抑えていた、国衆・小山田氏のお城の一つ
- 小山田氏最後の当主・小山田信茂(武田二十四将の一人)が、武田勝頼を裏切り、甲斐武田家滅亡の直接の原因を作った(小山田信茂は織田に寝返るも処刑された)
- 小山田信茂は、織田信長の甲州征伐に際し、新府城(韮崎)を諦め拠点を移そうとする武田勝頼に、岩櫃城(群馬東吾野)を勧める真田昌幸を抑え、岩殿城(大月)に移る事を勧めた経緯がある
- 周囲もハイキングコースがあり、断崖絶壁を堪能できる、個人的には2度と行きたくないくらいの「恐怖の鎖場」や「稚児落とし」等がある
- 富士山もよく見え、中々の大人散策スポット
- 近くにお気に入りの温泉宿・真木温泉がある(徒歩では2時間くらいかかりますが…)
まだ中学生の頃と高校生の頃の2度ほど(40年程昔の事…)、こちらの岩殿城には、友人と参った事があります(川越に居住地を移してから「ふれあいの館」までは、桜を見る事を目的に、1度だけ参らせて頂きましたが…)。いずれも大月駅から徒歩で参らせて頂きましたが、若かったせいもあるのか、それともあまり景色も歴史的遺構も気にせず登ってしまった為か、確かに登りは急でしたが、1時間もかからず、本丸まで辿りつけた記憶で「楽勝」と思った事を覚えています。
最初に参った際は、本丸からそのまま大月駅に戻り、帰宅しましたが、2回目の際は、本丸までだけでは物足りないと思ったのか、城跡から西側に続くハイキングコースを更に巡った事もあります。この時「(もはや道ではありませんが…)道幅20~30㎝くらいの断崖絶壁の鎖場」を通って「稚児落とし」と呼ばれるスポットの方まで回ったのですが、鎖場のあまりの道幅の狭さと断崖絶壁の高さで、物凄い恐怖感を味わい「二度とのコースは行かない!」と心に誓った事も記憶しています。このルートは、戦国期、小山田氏の滅亡に際し、岩殿城を取り囲んだ織田氏の軍勢から逃れるべく通ったルートとも言われており、途中の「稚児落とし(場所の名前)」は、その際に岩に反響する稚児(小山田氏の子供とも)の鳴き声が、追ってから逃れる一族の足かせとなった為、その稚児を谷に落とした(母親も一緒に身を投げたとも)と言われる場所です。物理的に見ても恐怖感たっぷりですが、そんな伝説があると精神的にも恐怖感がより一層増してしまい、「二度と行かない(行ってはいけない)コース」だと記憶している次第です。
こちらのページでは、そんな伝説が近辺には残る「山城と言うより『『”岩” 山城』』といった方が適切と思われる、武田二十四将の一人・小山田氏のお城であった『岩殿城』の概要と大人散策情報を紹介」させて頂きます。
【岩殿城の概要】
まずは、岩殿城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
岩殿山城(いわどのやまじょう)は、山梨県大月市賑岡町にあった日本の城。標高634メートルの岩殿山に築かれた山城。
甲斐国都留郡の国衆小山田氏の居城とされ、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られた。山梨県指定史跡(指定名称は「岩殿城跡」)。概要
相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する。頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいる。大月市街地からも近く、大月駅からも間近にその姿を眺めることができる。
山頂までは大月駅から徒歩で約1時間。山頂からは富士山が望め、山梨百名山、秀麗富嶽十二景、関東の富士見百景にも選定されている (略)岩殿山周辺の地形図(地理院の地図より自身で標高を設定し作成) ふれあいの館付近にある丸山とそこからの富士山 沿革
江戸時代後期の文化年間成立の『甲斐国志』に拠れば、岩殿山には大同元年(806年)開創と伝わる天台宗寺院の円通寺が存在し、円通寺は岩殿山の南東麓に観音堂や三重塔、新宮などの伽藍が配され、「岩殿権現」「七社権現(明神)」と呼ばれた。13世紀に入ると天台系聖護院末の修験道の場として栄えている。
16世紀になって大名の領国支配制が成立すると、郡内地方は甲斐守護・武田や郡内領の国衆・小山田氏の支配を受けるようになった。
岩殿山城の築城時期は不明であるが、『甲斐国志』では小山田氏の本拠である谷村館(都留市谷村)の詰城説を取っている。『甲斐国志』に先立つ天明3年(1783年)の萩原元克『甲斐名勝志』でも同様の見解が取られており、江戸後期には小山田氏による要害説が認識されていたと考えられている。一方で、近年は岩殿山城を谷村館の詰城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏による相模との境目の城として築かれたとする説もある。
甲州街道の通過する大月は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた (略)
岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのまま城にしている。全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜である。東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形のせいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。新府城に続く参道と本丸にある藤武稲荷神社 『信長公記』『甲陽軍鑑』『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍の武田領侵攻に際して、武田家臣・小山田信茂は新府城(韮崎市中田町中條)から武田勝頼を岩殿山城へ迎えるが、勝頼一行が郡内領へ向かう途中で信茂は勝頼から離反し、勝頼一行は天目山(甲州市大和町)で自害した(天目山の戦い)。『 理慶尼記』では信茂が勝頼に籠城を薦めた岩殿山城を「みつからか在所」と記している。小山田信茂は勝頼滅亡後に織田氏に出仕しているが、甲斐善光寺において信長の嫡子・信忠に処刑され、郡内小山田氏は滅亡する (略)
甲斐善光寺 天正壬午の乱において甲府盆地において三河国の徳川家康と北条氏直が対峙するが、徳川・北条同盟の成立により後北条氏は甲斐・郡内領から撤兵し、甲斐国は徳川家康が領した。江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定していたといわれ、江戸時代にも岩殿山城は要塞としての機能を保った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩殿山城
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 岩殿城は、小山田氏のお城の一つと言われ、山梨県大月市にある標高634メートルの岩殿山に築かれた山城で、岩殿山城とも言い、山梨県指定史跡でもある(個人的には「“岩” 山城」だと思ってますが…)
- 中央本線・大月駅からも近く(目視も出来)、「断崖絶壁の岩山・岩殿山をそのまま城郭としたお城」と言ってよい感じ
- 岩殿山には、平安期の初めの開創と伝わる天台宗寺院の円通寺があって、鎌倉時代には修験道の場として栄えたらしい
- 戦国期のこの地域は、甲斐武田氏や国衆の小山田氏が支配
- 岩殿城の築城時期は不明で、小山田氏の本拠である谷村館(都留市)の詰城説の他、近年は岩殿山城を谷村館の詰城とするには距離が離れすぎていることから、武田氏による相模との境目の城として築かれたとする説もあるらしい
- 1582年の織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐の際、武田家家臣で、武田二十四将にも名を連ねる小山田信茂は新府城(韮崎市)から武田勝頼(武田信玄の子)を岩殿山城へ迎えようとするが、途中信茂は勝頼から離反し、勝頼一行は天目山(甲州市)で自害に至った(天目山の戦)
- 小山田信茂は勝頼滅亡後に織田氏に出仕しているが、甲斐善光寺において織田信長の嫡子・信忠に処刑され、郡内小山田氏は滅亡
- 天正壬午の乱を経て甲斐国は徳川家康が領し、江戸に幕府を開くが、「緊急時には江戸城から甲府への退去を想定していた」といわれ、江戸時代にも甲州街道を見渡せる岩殿山城は要塞としての機能を保った
中央本線で、故郷の北杜市に戻る際、大月駅の手前で、進行方向右側に見える岩山が、岩殿城になり、この城跡(岩山?)が見えると「もう少しで笹子トンネルだな…」と思う場所にあるのが、岩殿城です。上記引用にもありますが、山梨県は(個人的心象ですが)笹子峠の東(大月/都留等)と西(甲府/韮崎/北杜等)の間に「県内境」の様な見えない境がある印象で、北杜市出身の私にとっては、「岩殿城が見えた際に『山梨に帰ってきた!』と言うより『もう少しで帰れるな…』といった印象を持ってしまう場所」です。
武田二十四将の一人にも数えられる小山田信茂(小山田氏)が統治したお城(“岩” 山城)の一つが岩殿城になり、信茂が勝頼を裏切った事によって、小山田氏のお城とのしての歴史、そして武田方のお城としての歴史は終わる訳ですが、家康が江戸に幕府を開き、東海道や中山道と言った五街道を整備した際、最後に整備したと言われる甲州街道を「緊急時の江戸城からの脱出ルート」として想定していた事はよく言われており、その甲州街道を山梨(甲斐)側で監視する砦としては、岩殿城は最適な拠点であると思た次第です。
【岩殿城の周囲を含めた見所】
上記、概要を抑えさせて頂きました岩殿城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。上記、引用いたしましたWikipediaの内容や、私自身の経験から推察するに、岩殿城における大人散策のポイントは、以下だと認識しております。
- 断崖絶壁の岩山を体感する
- 景色と地形、季節の自然を堪能する
- 城郭に残る遺構を楽しむ
- その歴史に思いを馳せる
- (個人的には行かないつもりですが…)周囲のハイキングを楽しむ
個人的には、「電車であれば中央本線・大月駅」から or 「車であれば岩殿山南側にある強瀬登山口付近の駐車場」に車を停めスタートし、「岩殿山ふれあいの館」を経由して、岩殿城の本丸まで行って戻ってくる(=往復する)ルートを想定しておりますが、岩殿城本丸を目指す(or 含む)ルートは、他3つの口があります(=東:岩殿山登山口、北:畑倉登山口、西:(私がかつて恐怖を感じ「二度と行かない(行ってはいけない)スポット」と思ってしまった鎖場のある)稚児落としを含む浅利口ルート)ので、最下部の地図には、ポイントアウトのみいたします。また、2024年1月現在、岩の崩落等により、通行止めになっている区間もある様ですので、大月市観光協会のHP(https://otsuki-kanko.info/category/content-page/view/188 or https://otsuki-kanko.info/)をご参照の上、情報収集の後いらっしゃる事をお勧めします。
■スタートは「大月駅」 or 「岩殿山南側にある強瀬登山口付近の駐車場」
岩殿城は、大月駅からも近く(目視も出来)、麓に駐車場もあるので、アクセスしやすい環境にあると思います。大月駅から強瀬登山口までは、20分もかからないと思いますし、駐車場からなら目と鼻の先。都心から中央線 or 中央道ですぐですから、アクセスしやすい山城(岩山城?)だと思う次第です。
■最初に目指すのは「岩殿山ふれあいの館」
強瀬登山口からまず目指すのは、「岩殿山ふれあいの館」。登坂ではありますが、整備された道は歩きやすく、散策気分で歩を進める事が出来、ものの10分程で、「ふれあいの館」に到着できる認識です。この「ふれあいの館」の建物は、模擬天守の様な建物で、城跡にある事を意識したような作りですが、どこまで史実に基づいているのかは不明です…。あまり細かなことは気にせず、周囲の公園(丸山公園)の散策と併せて大人散策を楽しんで良いと思います。ちなみにこの公園は、桜が綺麗な公園と認識しており、運が良ければ富士山の眺望も期待できるので、桜の季節には、富士山の眺望と併せて、最適な大人散策スポットだと思って折ります。
■次に目指すのは「揚城戸跡」
ふれあいの館を後にして、本丸を目指しますが、道々では、この岩殿城の迫力ある岩肌を下から見上げる事が出来ます。本当にすごい迫力で、その威圧感たるもの、凄まじいものがあり、急な山道と併せて「山城(岩山城)のエリアに入ってきたな…」と言った感覚を得ることが出来るエリアだと思います。稚児落とし方面に向かう浅利ルートとの分岐を過ぎると、「巨岩が城の入口を守護するような『揚城戸跡』」が出てきます。戦の最中には、絶対に通りたくない道である事を実感できるのでないかと思います。
■「岩殿山 三ノ丸跡展望台 」を経由して「本丸跡」へ
「揚城戸跡」を、巨岩の間をすり抜ける様に進み、番所跡を過ぎると、少し寄り道的にコースを外れる道があり、そこを進むとこの地域の地形を実感できるスポット(礫岩の大露頭?)があります。尾道の突端と言ってよい場所だと思いますが、言い方を変え、戦国期の視点で考えれば「天然の物見台」と言った感じですので、ちょっとだけより道してみてはいかがでしょうか?
礫岩の大露頭から、本来の登城ルートに戻り、「三ノ丸跡展望台 」を経由して「本丸跡」に向かいますが、ここからは、大分傾斜も落ち着き、中々の景色を楽しめます。天候にもよりますが、富士山の絶景、大月市内を流れる桂川が作ったと思われる深い谷を満喫できる事間違えないのですが、先に下から見上げた通りの断崖絶壁。かなりの高さがあり恐怖を覚える人も多いと思うので、あまり身を乗り出し過ぎないようにお気を付けください…。ちなみにある知人の話で、「三ノ丸跡展望台に『岩殿山』と看板があり、山頂まで来たと思い戻ってしまったが、帰宅して写真を見ると「岩殿山」の看板内に小さく「この先」と記載されていた」そうです…。本丸跡は、今少し先のテレビの電波塔(中継局)のある場所なので、くれぐれもお間違えの無いように…。
■本丸の後は、来た道と違うコースもあるが…
個人的には、本丸まで来た後は来た道をそのまま戻り、岩殿山への南側の口(=強瀬登山口)を抜け、大月駅 or 駐車場に戻る予定ですが、先にも記載しました通り、岩殿山へのアクセスルートは、他に3つあります。「東:岩殿山登山口」、「北:畑倉登山口」、「西:(私がかつて恐怖を感じ「二度と行かない(行ってはいけない)ルート」と思ってしまった)稚児落としを含む浅利口ルート」です。皆様の趣味嗜好、時間的/体力的制限等もあると思うので、それぞれに応じたコース設定をされても宜しいかと存じます。最下部にそれぞれの口の場所とちょっと気になったポイントを表示していますので、併せてご参照頂ければと思います。
以上が、岩殿城の大人散策におけるルートと見所を紹介しました内容になりますが、先にも記載しました通り、2024年1月現在、岩の崩落等により、通行止めになっている区間もある様ですので、大月市観光協会のHP(https://otsuki-kanko.info/category/content-page/view/188 or https://otsuki-kanko.info/)をご参照の上、情報収集の後いらっしゃる事をお勧めします。
【最後に】
以上が、「山城と言うより『”岩” 山城』といった方が適切と思われる、武田二十四将の一人・小山田氏のお城であった『岩殿城』の概要と大人散策情報を紹介」させて頂いた内容になります。
そして最後に、追加情報としておすすめの大人温泉宿も紹介いたします。同じ大月市内には、私達夫婦のお気に入りの温泉宿・真木温泉があります。すべての客室に温泉露天風呂がついている認識で、川に沿って建つ客室は雰囲気満点。夜は川の音しか聞こえず、非常に癒される温泉宿です。「岩殿城の大人散策で心地よい疲れを感じ、その体を温泉で癒す」って本当の贅沢だと思う次第です。皆様も、岩殿城で大迫力の断崖絶壁を体感し、そこからの景色と地形、季節の自然を堪能して、城郭に残る遺構を楽しみつつ、その歴史に思いを馳せた後は、真木温泉で温泉を満喫するスペシャルな大人散策を堪能してみては、いかがでしょうか?
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。