甲斐武田家とは?・武田信玄とは?:甲斐武田家のルーツ・歴史、信玄と言う人物を城郭・戦・インフラ等の視点から考察! (甲斐武田家・武田信玄シリーズ/まとめ記事)

甲斐武田家・武田信玄シリーズ

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【はじめに】

今回は、「『甲斐武田家とは?・武田信玄とは?』と言った題材をベースに、『甲斐武田家のルーツ・歴史』、『武田信玄と言う人物を城郭・戦・インフラ等の様々な視点』から考察」をさせて頂こうと思います。

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いきなりですが、皆様は、「甲斐武田家」をどの程度説明できますでしょうか?、「武田信玄」と言う武将をどの程度語ることが出来ますでしょうか? 自身に対し、この問いを当てはめると、甲斐武田家は、甲斐源氏の代表と言われ、戦国期に現山梨の甲斐を治めたの武家」、そして「その代表と言われる武田信玄は、戦国最強とも言われた同じく戦国期を代表する武将」と言った感じです。つまり言い換えると、『「甲斐武田家」に関しても、「武田信玄」に関しても、もうちょっと知識はあるはずだが、それを包括的に整理整頓して、理解してこなかった…』という事に昨今気が付いてしまった次第です…。

故に、こちらのページでは、今少し「甲斐武田家」・「武田信玄」を包括的に理解すべく、いくつかの切口でまとめさせて頂こうと思った次第です。すなわち、「『甲斐武田家とは?・武田信玄とは?』と言った題材をベースに、『甲斐武田家のルーツ・歴史』、『武田信玄と言う人物を城郭・戦・インフラ等の様々な視点』から考察」をさせて頂こうと思います。

【「甲斐武田家」とは?】

まずは、甲斐武田家から…本ブログ別記事で紹介しておりますので、詳細はそちらをご参照頂きたいのですが、一目で「甲斐武田家」の位置づけを図に示すと以下の様な認識なる次第です。

今少しこの図に付き、甲斐源氏の歴史も含め記載させて頂くと、次の様になります(詳細は別記事をご参照ください)。
源氏」とは、「臣籍へと降下し「源(みなもと)」の本姓を受けた皇子や皇孫の氏族」で、嵯峨源氏や清和源氏と、同じ源氏でも、分かれた天皇の違いにより「区別」があり、公家源氏と武家源氏のカテゴリ分け方もある理解。その中で「武家源氏」の代表格は「清和源氏」で、そこから「摂津源氏」、「大和源氏」、「河内源氏」等に分かれ、その「清和源氏の1つ河内源氏」からは、源義家が出てきて、「武家の棟梁」として認識され、その一門から、石川源氏(石川氏)、甲斐源氏(武田氏)、常陸源氏(佐竹氏)、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)等が出てきた。

甲斐源氏」の発端は、河内源氏の初代・頼信が甲斐守に任命された事に始まらしく(1030年)、甲斐国に土着が始まったのは 1130年位新羅三郎義光の子・義清とその子供・源清光辺りと言われる様。甲斐国では、まず巨摩郡市河荘(甲府盆地の底部=富士川と笛吹川が合流する地域一帯?)を勢力基盤とし、義清・清光期には古代官牧であった八ヶ岳山麓の逸見荘(北杜市七里岩の台地の上?)へ進出した(北杜市の谷戸城は、清光の居城であったと言われる)。
甲斐源氏4代目・信義は、韮崎の武田八幡宮で「武田」を復し、「甲斐武田家の初代」となった(1140年位)と言われる理解で、信義は、鎌倉時代には御家人となって駿河守護に任命されたが、頼朝に警戒され失脚。
その後、甲斐武田家3代目からは紆余曲折があるが、15代信虎の頃に、甲斐をほぼ統一し、信虎の後の信玄の時代になると、金山開発や信玄堤等の領土整備等も行い、信濃を中心に領土を拡大した。しかし、勝頼の代になると更に領土を拡大するも、長篠の戦いを境に衰退を始め、1582年に滅亡した。

いかがでしょうか? 本当に簡単に言ってしまえば、「天皇の血を引く一族の1つが “源氏” で、その中の “清和源氏” から、武家の筆頭格と言って良い “河内源氏” が出て来て、そしてその一門から “甲斐源氏” も出て来て、甲斐武田家がその筆頭格になり、その甲斐武田家の代表格が “武田信玄“」と言った感じになるのですが…。少しだけだと思いますが、甲斐源氏とは?」と言った視点で、「その歴史」・「”様々な源氏” との関連」・「武田信玄の位置づけ」と言った部分が見えてきたのでないと思う次第ですが、本ブログ別記事では、家系図も含めた詳細情報を記載しておりますので、併せてご参照頂ければ幸いです。

【「武田信玄」とは?】

上記、「甲斐源氏とは?」と言った視点で、その概要を抑えさせて頂きましたので、こちらでは「その代表」と言ってよい認識の「武田信玄」を中心に記載させて頂きます。ただ武田信玄に付き、一言で言ってしまう」と、先に記載しました「戦国最強とも言われた戦国期を代表する武将」と言った内容になてしまうので、こちらでは「いくつかの切口」に基づいて、「武田信玄と言う武将を理解」すべく、「甲斐武田家にかかわる事象」も含め記載してみたいと思います。

そもそも「武田信玄(1521~1573年:家督相続は1541年位と言われる)」の先代(父)は「武田信虎」で、次の代(子供)は「武田勝頼になります。つまり、別の言い方をすると信玄の前の代に甲斐が統一」され、「信玄の次の代には、甲斐武田家は滅んでしまった」という事になります。今少し違った見方をすると、「1140年に、韮崎の武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名乗った事に始まる甲斐武田家」は、「1582年に甲斐武田家は滅亡」しておりますので、「450年弱くらい続いた甲斐武田家の、40年位の絶頂期」を生きた武将が「武田信玄と言う理解でよいと思っております。以下にそんな武田信玄」を中心に、「城郭関連」・「戦関連」・「インフラ関連」・「エピソード関連」と言った切口で「甲斐武田家」に付き、少しだけ考察させて頂きます(詳細は、別シリーズの記事も多々ありますが、それぞれのリンクよりご参照ください)

■ 城郭関連

躑躅ヶ崎館(現・武田神社) / 要害山城 / 新府城

武田信玄の居城」として有名なのは「躑躅ヶ崎館(現・武田神社)。しかしこの居城(躑躅ヶ崎館(現・武田神社))を拠点としたのは、「先代の信虎」・「次の代の勝頼」で、「信虎・信玄勝頼の3代・60年位」と言われているようです。また、「躑躅ヶ崎館の詰城」であった「要害山城」武田信玄は誕生したと言われております。つまり、『「信虎」が、「躑躅ヶ崎館要害山城」を整備し、「武田信玄」がそれを受け継ぎ、その後「勝頼」も居城としたが、「信長の甲州征伐」に備え、「躑躅ヶ崎館」から「新府城」に拠点を移した』と言った歴史がある認識です。言い換えると、勝頼は、『躑躅ヶ崎館では、信長の攻撃に耐えられない…』と思った物的証拠が『躑躅ヶ崎館』・『新府城である!」と思ってしまったと言う事で、武田信玄と言う武将を考える際、「城郭に関しては、自身の構築したお城を居城としていなかった」という事になり、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言ったと伝わる「信玄らしさ(城郭に対するこだわりはあまりない?)」を感じる事が出来る』のでないかと思います。そして、そんな歴史を認識しつつ、そして妄想をしつつ、躑躅ヶ崎館(現・武田神社) / 要害山城 / 新府城を巡るのも、大人散策ではないかと思います!(ちなみに、甲府駅にほど近い「甲府城(舞鶴城)」は、基本武田信玄とは関係ない旨、追記しておきます…)

武田の三堅城久能山城岩櫃山岩殿城

上記、「武田信玄の居城」に付き、記載させて頂きましたが、甲斐武田家の領内」は、「信玄の晩年~勝頼の家督相続直後が最盛期」だったと言われ、「本拠地の甲斐(現・山梨)」に加え、「北信濃を除く信濃(現・長野)の大部分」・「遠江(現・静岡西部)を除く駿河一帯」・「上野の西部」にわたっていたと認識しており、それなりの領土を支配していたようです。その領土内には、武田の三堅城」と呼ばれる城郭があった認識で、それらは、久能山城(静岡)」・「岩櫃山(群馬東吾野)」・「岩殿城(山梨大月)になる理解です。どれもかなりのインパクト感じる「山城」(個人的には「“岩” 山城」だと思ってますが…)で、躑躅ヶ崎館に比べると格段に堅牢な城郭」と皆様も思うのでないかと推察している次第です(甲斐武田家滅亡後、駿河を抑えた徳川家康は、「久能山城は駿府城の本丸」と言ったとも言われ、その死後、亡骸が埋葬され久能山東照宮(別格官幣社)になった歴史もある認識)。故に、それぞれちょっと距離がありますが、巡ってみては如何でしょうか?

■ インフラ関連

信玄堤信玄棒道

上記、「甲斐武田家の居城/領内の城郭」に付き、記載させて頂きました。これらの城郭も「インフラ」ですが、「城郭とは異なった、信玄の残したインフラの遺構」も、現・山梨には残されています。その代表は、「甲府の地を水害から守るべく設計された “信玄堤“」 & 「信濃侵攻を支えた “信玄棒道“」だと認識しております。
信玄堤」は、「ある1つの場所に設置された堤防」だけの事を指すのではなく、「水の流れをコントロール」し、「その勢いをそぎ」・「溢れる事/壊れる事が無い様に堤(=堤防)の構築・管理」を行った「総合的な治水事業」と教わった記憶をしております。つまり、現在「信玄堤」と言われる堤防だけを見ても、「信玄の築いた “総合的な治水事業”」を理解する事は難しいと思う次第ですので、「将棋頭/石積出・高岩・信玄堤 (狭義の意味で=堤防)・築堤本陣跡/三社神社・竜王用水」と言った、それぞれを理解する事で「信玄堤に隠された戦略を理解できる」のでないかと思う次第です。
また信玄棒道」は、『「信玄が、”戦は戦闘だけが戦ではない”」と理解していた事を理解できる痕跡』だと思っております。つまり、戦地への兵士・物資の移動、そのスピード等も踏まえ「道路の建設が必要」と考えたと思われる痕跡だと思っております。現在は、「歴史を感じ、自然を感じる大人散策路」と言った感じですが、その歴史・武田信玄の心持を感じつつ散策すると、ただの「気持ちの良い散策」が、「知的好奇心をそそる大人散策」に昇華するのでないかと思っております。

■ 戦関連

川中島の戦い関東(小田原)/駿河侵攻三増峠の戦い三方ヶ原の戦い

「戦国最強」とも言われた「武田信玄」。「それは何故?」でしょうか? 戦国期の戦の勝敗は、見解の違いもあり、一概には言えないと思いますが、信玄の勝率は95%を超える」とも言われ、この数字だけを見ても「確かに戦国最強かも…」と思ってしまうかもしれません。ただ、その数字を知っただけでは、「信玄の強さを実感した!」とは言えないのではないかと、個人的には思っている次第です。つまり、上杉謙信と戦った「川中島の戦い」が有名ですが、それ以外の「関東(小田原)/駿河侵攻」・「三増峠の戦い」・「三方ヶ原の戦い」等を、少しだけ踏み込んで「戦その物の経過」を妄想してみると「信玄=戦国最強と言われた由縁」がみえてくる気がするという事です。各リンク先のページで、それぞれの戦に付き、勝手な妄想をしておりますので、皆様も今一歩、それぞれの戦の経過に付き踏み込んで、信玄=戦国最強と言われた由縁」を感じてみてはいかがでしょうか?

■ エピソード関連

風林火山/心頭滅却すれば…明智光秀/天海との関わり?敵に塩を送る御旗盾無も…/武田24将

皆様は、「武田信玄にかかわるエピソード」って何か思い浮かぶものは、ありますか? 本ブログで取り上げておりますのは、風林火山/心頭滅却すれば…」・「明智光秀/天海との関わり?」・「敵に塩を送る」・「御旗盾無も…」・「武田24将です。
まずは、「風林火山ですが、これは皆様ご承知の通り、「武田軍の軍旗に掛かれていた文言(スローガン?)」。勿論風林火山」と書かれていたのではなく、「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」と書かれていたようですが、これをいつの時代からか分かりませんが、「風林火山」と言うようになったと理解しております。そして、『この「”通称” 風林火山」は、現在の武田信玄の墓所がある「恵林寺」の僧「快川紹喜」による』と言われているそうです。「恵林寺の快川紹喜」と言えば、「武田家滅亡」の折に、「織田軍による焼き討ち」が行われた際、「心頭滅却せば、火も自づと涼し…(=しんとうめっきゃく せば ひも おのずから すずし…)」の辞世を残したと言われる「僧侶」です。そして更に、『「快川紹喜」は、「土岐氏の出」』とも言われている様で、『織田信長による比叡山焼き討ち後に、武田信玄により招聘(しょうへい)を受けて甲州に移ったとされる「川越喜多院中興の祖・天海」』には、同じく『「土岐氏の出」と言われる「明智光秀」』と同一人物説があるのです…。風林火山/心頭滅却すれば…」・「明智光秀/天海との関わり?」…、これらに関連する歴史を妄想しつつ、恵林寺に脚を運んでみるのも面白いのでないかと思う次第です。

次に、「敵に塩を送る。現在でもたまに耳にするフレーズですが、これは武田信玄上杉謙信の間であったとされるエピソード」がもとになっている理解です。謙信は、命のやり取りをした相手(信玄)に助け舟(=駿河侵攻により、塩が甲斐に入ってこない状況下塩を送った)」を出し、それに対し「信玄はお礼(通称 “塩留の太刀(現東京国立博物館所蔵)” を送った)」をする。「殺伐とした戦後期」に「清涼感を与える逸話」だと個人的には理解している次第です。
そして最後に、「御旗盾無もご照覧あれ」・「武田24将御旗」は、「日本最古とも言われる日の丸」で、「盾無」は、「源氏に伝わる8種類の鎧の内の1つとも言われる鎧」で、「いずれも『甲斐武田家の家宝』」。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言ったと伝わる「武田信玄」ですが、その中枢をなす忠臣は「武田24将と言われ、武田家では、重要な決め事(決意)を示す際、「御旗・盾無」の前で、「御旗盾無もご照覧あれ」と言って「親方が、家臣団の前で決意」を示し、親方・家臣団一丸となって事に当たったと言われている認識です。つまり、御旗盾無もご照覧あれ」と言うフレーズは、『「武田24将」をはじめとする、親方を含めた家臣団が一丸となって事に当たる為の魔法のフレーズ』だと思っている次第ですので、この御旗盾無もご照覧あれ」と言うフレーズを頭の中で唱えつつ、「武田24将」に思いを馳せつつ、各スポットを巡ると、甲斐武田家武田信玄がより身近に感じられるのでないかと思っております…。

【最後に】

以上、「『甲斐武田家とは?・武田信玄とは?』と言った題材をベースに、『甲斐武田家のルーツ・歴史』、『武田信玄と言う人物を城郭・戦・インフラ等の様々な視点』から考察」をさせて頂いた内容になります。 

いかがでしたでしょうか? 甲斐武田家」の超概要理解、「武田信玄に関するいくつかの角度からの考察」をさせて頂きましたが、皆様は、どの様にお感じになられましたでしょうか? 個人的には、『「武田信玄」を「戦国最強とも言われた戦国期を代表する武将」と言うだけでは不十分』だと、改めて思ってしまった次第です。尚、こちらのページでは、かなりサマリ的な記載に留まっておりますので、もしお時間がある様でしたら、それぞれのリンク先のページもご参照頂き、「甲斐武田家とは?・武田信玄とは?」に付き、今一歩踏み込んでみてはいかがかと思う次第です!

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