地形と戦術で読み解く日本史上の “戦” 妄想シリーズ:三増峠の戦い・信玄の小田原侵攻・河越夜戦・関ヶ原の戦い/壬申の乱等を考察 (まとめ/サマリ)

日本史上の戦妄想シリーズ 

こちらのページでは、「これまで、本ブログ別記事でいくつか紹介させて頂きました『日本史上の “戦”』に付き、その概要を抑え、勝手に考察(妄想?)させて頂きた記事に付き、まとめ記事として紹介』させて頂きます。

📚本記事で得られる情報📚
「日本史上の “戦”」:三増峠の戦い・信玄の小田原侵攻・河越夜戦・甲陽鎮撫隊(新選組の後継?)の勝沼戦争・関ヶ原の戦い/壬申の乱等の概要・詳細リンク
「孫子と日本史の関連」:三方ヶ原の戦い・秀吉の小田原征伐・桶狭間の戦い・厳島の戦い等・詳細リンク

いきなりですが、皆様が思い浮かべる「日本史上の戦」って何ございますでしょうか? 本ブログでは、様々な「日本史上の戦」を取り上げさせて頂きました。三増峠の戦い信玄の小田原(関東)侵攻」・「河越夜戦」・「甲陽鎮撫隊が汚名を被った勝沼戦争」・「関ヶ原の戦い/壬申の乱、更には孫子と日本史シリーズにおいても、様々な「日本史上の戦」を取り上げ、「孫子の教え」との関連性に付き考察も加えさせて頂いた次第です。言い換えると、本ブログで様々な角度で「日本史上の戦」を取り上げさせて頂いたが、まだ「まとめ/サマリページ」を作成していたなかった為、中々本ブログの読者の皆様に「日本史上の戦」を Key にしたメッセージを届けられていなかったと思ってしまった次第です。

そんな状況であると思ってしまった為、今回こちらのページでは、本ブログ別記事の様々な「日本史上の戦」を取り上げ、「まとめ/サマリページ」として、皆様にご案内させて頂こうと思った次第です。すなわち「これまで、本ブログ別記事でいくつか紹介させて頂きました『日本史上の “戦”』に付き、その概要を抑え、勝手に考察(妄想?)させて頂きた記事に付き、まとめ記事として紹介』させて頂きます。

■ 三増峠の戦い

皆様は、三増峠の戦いってご存じでしょうか? 以下に紹介する「関ヶ原の戦い」辺りの大戦と比べると、認知度は低いかもしれませんが、小田原・北条氏甲斐・武田氏が戦ったとされれる日本を代表する山岳戦」なんていわれ方もする様です。同じく以下に紹介する「信玄の小田原(関東)侵攻」の最終盤、甲斐・武田氏が、北条氏の小田原城を攻めた後、甲斐への帰路で発生した戦ですが、しかし、中々その詳細は見えていない所もい多いらしく、個人的には、現代に伝わる布陣図も、戦の経過から考えると「なぜ?」が付いてしまう戦である認識です。逆の言い方をすると「どんな妄想をしても間違いとは言い切れないのでは?」と思ってしまった次第で、『勝手に「地形図」や「信玄の心持」を想像しつつ「戦の経過」をしてみた記事』が、今回紹介する内容になります。詳細を以下のリンク先の記事で紹介しておりますので、皆様も、「皆様なりの考察」をしてみてはいかがでしょうか?

■ 武田信玄の小田原侵攻

上記、三増峠の戦いの段落で、少しだけ触れました信玄の小田原(関東)侵攻甲斐・武田氏(武田信玄)は、本拠地の甲府から、そのまま南東に行けば、北条氏の小田原城を攻める事が出来たはずなのに、甲府から、わざわざ北に進路を取り、碓氷峠(軽井沢近く)を超えて、関東平野に入り、その後南下。埼玉・寄居の鉢形城東京・八王子の滝山城と言った北条氏の支城」を攻め、その後本拠地の小田原に攻め込むと言う、何とも遠回りの行軍を行ったとされているようです。しかし信玄は、何故こんな遠回りをして、小田原城を攻めたのでしょうか? しかも小田原城の包囲は数日だったようです…。ただこの「信玄の軍事行動」、「小田原(関東)侵攻」だけを、単体で見てしまうと、少々理解に苦しみますが、その前後の歴史を併せて見ていくと「信玄の心持」を理解できる気がしてくるのでないかと思う次第です。つまり、信玄は本当に海が欲しかったんだ…」と…。
詳細を以下のリンク先の記事で紹介しておりますので、皆様も、「皆様なりの視点で、”信玄の心持、そして戦略”」を想像してみてはいかがでしょうか?

■ 河越夜戦

上記、三増峠の戦い信玄の小田原(関東)侵攻と触れさせて頂きましたが、この時の北条氏の顔」は、晩年の「北条氏康。自身が山梨(北杜)出身である為、三増峠の戦い信玄の小田原(関東)侵攻では、「信玄の強さ」が際立ったように記載してしまった感がありますが、北条氏康もかなりの知将」と認識しております。そして、その北条氏康の “かなりの知将ぶり”」が、いかんなく発揮された戦が、「河越夜戦だと思っている次第でもあります。日本三大奇襲」にも数えられ、北条氏の関東進出を決定的にした「河越夜戦ですが、個人的な印象では、「夜戦であった事」・「戦いの範囲が広範囲であった事」から、「中々戦その物の “戦いの経過” が見えてこない戦」と言った印象を持っております。しかし、断片的な「歴史的な情報」を「地形図」と共に組わせ、実際に現地に赴いてみると、様々な想像・妄想が浮かんできて、「河越夜戦の実際の戦いの経過はこうであっただろう!」と仮説を立てて(妄想をして)しまった次第です。日本三大シリーズの “日本三大奇襲“」の1つとして、また孫子と日本史シリーズの “善く戦うものは、これを勢いに求めて、人に責めず“」の実例として取り上げると同時に、河越夜戦の実際の戦いの経過」についても考察(妄想?)をしておりますので、詳細を以下のリンク先の記事よりご参照頂けますと幸いです!

■ 甲陽鎮撫隊(新選組の後継?)の勝沼戦争

そもそもですが、皆様は甲陽鎮撫隊って聞いた事ありますでしょうか? 恐らく、相当数の方が、聞いた事は無いのでないかと思います。では、質問を変えて、「新選組」は聞いた事がありますでしょうか? こちらは、多くの方がご存じだと思います。幕末の動乱期に、農民から武士へと出世した浪士隊で、近藤勇・土方歳三が有名処のツートップだと認識しています。
そんな「新選組」が、戊辰戦争の戦いにおける戦いの1つ・勝沼戦争に際し、幕府から賜った部隊の名前が、「甲陽鎮撫隊」と理解しており、この甲陽鎮撫隊は、勝沼戦争で敗れてしまう訳です。そしてその過程の話として、「甲陽鎮撫隊は、甲府城を抑えるべく、甲州街道を進軍するが、豪遊三昧のノロノロ進軍で戦地に向かった為、すでに甲府城は新政府軍に抑えられていて間に合わず、結局、大善寺の眼前・勝沼の地で戦になるが敗戦した」と言う、「甲陽鎮撫隊の失態」の側面を前面にだした話をしばしば耳にするのです。しかしながら、(新選組のファンでも、近藤勇・土方歳三に思い入れがある訳ではありませんが)個人的には、この大善寺の目の前で起こった勝沼戦争における敗戦は、甲陽鎮撫隊(≒新選組)の責任では無く、幕府の頭の固く実行力に乏しい役人の責任だと思っていおります。その事実関係を抑えた上で、「勝沼戦争の敗戦で被った汚名に関する考察」を、以下リンクにて記載しておりますので、ご参照頂けますと幸いです。(甲陽鎮撫隊と新政府軍が、共に抑えようとした甲府城址(舞鶴城)、進軍した甲州街道についてもリンクを紹介しますので、併せてご参照ください!)。

■ 関ヶ原の戦い・壬申の乱

皆様は、「関ヶ原」と耳にした際、どんな「日本史上の出来事」を思い浮かべますでしょうか? 恐らく、かなりの確率で関ケ原の戦いを思い浮かべるのではないかと思います。しかし同時に、この地は「古代の争乱」として有名な「壬申の乱」の舞台の1つでもある事、忘れてはいけないと思います。
『「関ヶ原の戦い」は、1600年に「徳川家康を総大将とした東軍」と「毛利輝元を総大将とし反徳川の石田三成を中心とする西軍」が、現在の「不破郡関ケ原町」を主戦場とした合戦で、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がった戦』で、
『「壬申の乱」は、672年に「天智天皇の太子・大友皇子(=弘文天皇)」に対し、「天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)」が兵を挙げて勃発し、反乱者である「大海人皇子(後の天武天皇)が勝利」したと言う戦』
と言った理解をしています。言い換えると、この「関ヶ原」の地は、『「日本と言う国の頂点を争う戦」が2度もあったエリア』という事になるのですが、その位置関係・地形を見ると「それも必然」と思えてくるのではないかと思う次第です。以下の記事では、その「関ヶ原」において、「それぞれの戦に思いを馳せる(コース・日程・スポットを踏まえた)大人散策情報を記載しておりますので、以下リンクよりご参照頂けますと幸いです(併せて、「西軍が関ヶ原の戦い前に本拠地とした旧国宝24城の1つである大垣城」・「“孫子の教え” と “関ヶ原の戦い” に付き考察を加えた記事についてもリンクを紹介しますので、併せてご参照ください!)

■ 孫子視点で、日本史上の戦を妄想(シリーズから少し脱線…)

「地形と戦術で読み解く日本史上の “戦” 妄想シリーズ」より少し脱線します…。
上記、三増峠の戦い信玄の小田原(関東)侵攻河越夜戦甲陽鎮撫隊が汚名を被った勝沼戦争関ヶ原の戦い/壬申の乱と言った、「日本史上の戦」に付き記載させて頂きましたが、(自身だけかもしれませんが…)戦と言って忘れてはいけないのが「孫子。上記、三増峠の戦い信玄の小田原(関東)侵攻河越夜戦関ヶ原の戦いに関しては、孫子との関連を触れておりますが、その他にも「日本史上の戦」を拝見していくと、(日本史に与えた影響は限定的かもしれませんが)源平合戦(源義経)」・「厳島の戦い(毛利元就)」・「三方ヶ原の戦い(家康 vs 信玄)」・「桶狭間の戦い(織田信長)」・「信長の甲州征伐」・「秀吉の小田原征伐」・「大村益次郎の上野戦争と言った様な戦が、(他にもまだありますが)孫子と日本史の関連として、(個人的ではありますが)思い浮かんできます。そもそも孫子をWikipedia で調べてみますと、以下の様にあります。

『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書武経七書の一つ古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)

「2500年も前の兵法書」で、「古典の中の古典」と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解でき、自身の考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、と言った認識を個人的に持っております。故に、「結果論(=たまたま?)」かもしれませんが、孫子と日本史の関連も出て来て当然と思われ、こんな視点で「日本史上の戦」を見てみる事も「大人の楽しみ方の1つ」ではないかと思う次第です。

■ その他(シリーズから少し脱線… again…)

再び、「地形と戦術で読み解く日本史上の “戦” 妄想シリーズ」より少し脱線します…。
上記、日本三大シリーズの “日本三大奇襲“」に付き、少々触れましたが、「地形と戦術で読み解く日本史上の “戦” 妄想シリーズ」とはしていない物の、本ブロブでは『「戦を妄想する… Japanese Historical battle」のカテゴリ』を設けており、「日本史上の戦」に関連する記事を、本シリーズよりとは、少し毛色が違いますが記載している記事もござます。少しだけ、具体例を紹介させて頂きますと、沼田城の紹介に加え、”もし沼田城を攻めるならどう攻めるか?” を妄想した記事」・「甲斐・武田家の家宝として伝わり、戦の前に誓いを立てたと言われる “御旗盾無” を考察した記事」・「謙信と信玄が争った川中島合戦で、最も大きな戦いとなった言われる第4次の合戦で、謙信が陣取ったと言われる妻女山に疑問を感じた記事」・「日光の戦場ヶ原と言う地名が、神話の世界における神々の戦に関連すると考察した記事と言った内容で紹介しております。また違った視点で「日本史上の戦」を妄想できると思うので、併せて以下記事ご参照頂けますと幸いです。

【最後に】

以上、「これまで、本ブログ別記事でいくつか紹介させて頂きました『日本史上の “戦”』に付き、その概要を抑え、勝手に考察(妄想?)させて頂きた記事に付き、まとめ記事として紹介』させて頂いた内容になります。

上記、個人的に Pick Up させて頂いた、それぞれの「日本史上の戦」を紹介させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 戦その物の情報は、限定的かもしれませんでしたので、詳細記事をご参照頂ければと思っておりますが…。日本は長い歴史を持った国で、日本史上多くの戦もあったはずですが、それぞれの詳細を現在の私達が知る事は、かなり難しいと思う次第です。同時に、それぞれの戦いが、今日の日本を作ってきた礎であり、それらを知る事は、現代の私達にとっても重要だと思う次第です。つまり申し上げたい事は、「情報は限定的でも、妄想はいくらでもでき、その先には、私達の祖先が築いて来てくれた日本と言う国の歴史があり、そこから気付く事が多くある」と思っているという事です。是非皆様も、「日本史上の戦を妄想」する事から、ご自身の糧になるメッセージを考えてみてはいかがでしょうか?

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