八王子城

【はじめに】

こちらのページでは、不思議で、且つ壮絶な歴史を持つ、八王子城の(お城の概要・歴史、写真、ルート、所要時間等を含めた)大人散策情報を記載」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「八王子城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

  • 日本100名城の1つ
  • 後北条氏の小田原城の支城
  • 北条氏康の三男・氏照が、大規模で、比較的平地にあった「滝山城」から、時代に逆行する様に移ってきた山城が「八王子城」
  • 秀吉小田原征伐時、上杉氏、前田氏真田氏と言った、錚々たるたるメンバーによって攻められ落城した(八王子城合戦)
  • 御主殿が有名で、本丸の方に行く人は少ない
  • 圏央道のトンネルがお城の下を通っている
  • 心霊スポットとしても有名…

上記にも記載しましたが、八王子城と言えば、八王子城合戦秀吉小田原征伐の際、上杉氏、前田氏真田氏に攻められ落城。多くの方が、御主殿前を流れる城山川で自刃に追い込まれた殲滅戦だった様で、この歴史的な背景に伴い、現在、心霊スポットとしても有名になってしまったお城と言った理解をしています。

また、この時城主であった、北条氏康の三男・氏照は、近くの防御性がより高いと思われるお城・滝山城からこの八王子城に移動した事も有名だと認識しております。つまり、この時の時代の流れは、「山城平城 or 平山城」と「山から平地に降りてくる流れ」だった認識ですが、この八王子城は、「平地 ⇒ 山に戻ったお城」と理解をしているという事です。平山城と言って良い、防御性の高い滝山城から、あえて山城の八王子城に移った事は、時代の流れに反した判断で「なぜ?」と思ってしまうのは、私だけではないと思います。滝山城で、晩年の武田信玄に落城寸前まで追い込まれた(@1569年)事が、「滝山城 ⇒ 八王子城へ移動(1571年ごろから築城開始と言われているらしい)を決断させた」とも言われている様ですが、大規模で、縄張りもしっかりした滝山城から、城郭として大きい物の、各曲輪の数も、それぞれの大きさも比較的小規模な八王子城になぜ移ったのか、実際に訪問し、八王子城の曲輪の大きさを肌で感じてみると、謎が深まるばかりです…。

こちらのページでは、そんな「不思議で、且つ壮絶な歴史を持つ、八王子城の大人散策情報を記載」させて頂きます

【八王子城の概要】

まずは、八王子城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます(引用読まなくても大丈夫です…))。

八王子城(はちおうじじょう)は、16世紀の武蔵国(現代の東京都八王子市元八王子町)に存在していた日本の城である。

概要

八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。標高445 m(比高約240 m)の深沢山(現在の城山)に築城された中世山城である (略)

縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 – 3 kmの範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。要害地区にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城全体があまりに広大であったため、落城時には未完成であったという説もあるが、戦国時代のお城は、増築を繰り返していたので一概に言えない (略)

歴史・沿革

北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。ただし、近年の研究では古文書などの分析により、元亀段階には小規模な城砦みたいなものが存在した可能性はあるものの、本格的な築城は1578年(天正6年)頃とみる説が有力である。なお、かつては古文書を根拠とした1560年(永禄3年)説・1562年(永禄5年)説もあったが、1569年(永禄12年)に武田氏との間で滝山城の籠城戦が行われているため、今日では否定的である。また、近年滝山城の築城を1563年(永禄6年)以降とする有力説があり、この説を採用した場合には永禄年間初頭説では、滝山城より八王子城の方が先に築城されてしまうことになる矛盾が生じるため、その意味でも成立しないとみられる。

氏照は当初、大石氏の由井城、後に滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際、(廿里古戦場、三増峠の戦い)に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。また、北条氏と武田氏はその後一旦和睦したものの、1578年(天正6年)に始まった御館の乱の対応を巡って甲相同盟が破綻しており、甲斐方面からの軍事的圧力に対抗するために築城した可能性も指摘されている。

このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。しかし、氏照が入った時は、御主殿など含む主郭部と一部の主要な要所部分のみ完成しており、氏照が小田原へ援軍へ向かったとしても八王子城は、増築を何度も八王子城合戦の日まで繰り返された。

八王子城合戦

小田原征伐の一環として1590年7月24日(天正18年6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。

豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の搦め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、搦め手側別働隊の奇襲が成功し、総崩れの状態となり、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。こう言われるほど、小田原攻めで他に例を見ない殲滅戦となった。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも受け継がれている風習として、先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。寳生寺が受難者の法要を続けている。

この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった (略)

城山の麓

御主殿跡
落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため、落城当時のままの状態で保存されていた。発掘調査の結果、礎石を沢山つかった建物の跡や水路の跡、多数の遺物が出土した。なお礎石は土砂で被われ表面は芝生となっているが、今でも当時のまま残っている。2012年から地中の遺物のレプリカを地上に設置する整備が行われ、2013年に完成した。庭園部にある石の1つのみは戦国時代当時のものである。

御主殿の滝
御主殿の滝の林道側には、高さ3m、幅10m程の小山が残っているが、元々は御主殿方向に繋がった土塁であった。現在は林道整備により半分以上が削られている。この土塁をダムにして、上流に御主殿の先まで続く大きな溜め池があったとする説が有力である (略)

城山の山頂付近

本丸跡(城山山頂)
城の中心で最も重要な曲輪。横地監物吉信が守備していた。頂上の平地部は10メートル四方程度の広さが残っている。

松木曲輪跡(展望スペース)
八王子神社の奧に位置し、中の丸とも二の丸とも呼ばれていた。中山勘解由家範が守備し、前田利家軍を相手に奮闘したが、多勢に無勢で防ぎ切れなかった。

小宮曲輪跡
三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。狩野一庵が守備していたが、搦手の隠し通路である棚沢道を突き止めた上杉軍に背後から奇襲され、落とされた。

八王子神社 (略)
大手側からも搦手側からも最終的にはここに誘導されるようになっているが、三方を本丸、松木曲輪、小宮曲輪に囲まれた窪地であり、十字砲火に晒されるキルゾーンとなっていた。

井戸
山頂付近にはいくつか井戸が確認されている。南側斜面にある坎井(かんせい)という井戸は、水質検査にも合格するレベルであるが、飲用としての厳密な管理はされていない。

伝大天守跡
本丸が陥落した際に最後の拠点にするべく構築された詰城で、部分的に石垣が残っている。天守閣跡と伝わっているが、それらしき建物が建っていた痕跡は無い。背後(西側)には深さ10m以上の大堀切があり、背後からの敵の侵入を阻止している。さらに北側と東側の尾根筋には両翼600mに渡って石塁が築かれていた。ほとんど崩れてしまってはいるものの、石自体は残っている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/八王子城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城で、中世の山城
  • 縄張りは、本丸・松木曲輪・小宮曲輪等を含む「要害地区」、御主殿を中心とした「居館地区」、麓の城下町「根小屋地区」の3つのエリアに分かれる
  • 要害地区
    • 本丸跡(城山山頂) / 松木曲輪跡(展望スペース) / 小宮曲輪跡 / 八王子神社 / 井戸 / 伝大天守跡、等がある
  • 居館地区
    • 御主殿跡 / 御主殿の滝、等がある
  • 北条氏康の三男・氏照が1571年頃より築城し、1587年頃に本拠とした
  • 八王子城合戦小田原征伐の一環として1590年7月24日、上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められ、1日で陥落してしまった小田原征伐で他に例を見ない殲滅戦で、御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている

北条氏照が、滝山城にて、武田信玄の攻撃を受けたのが、1569年と理解していますので、その後すぐに、築城に取り掛かり、滝山城から八王子城に移ったことが伺えます。純粋な比較はできないこと、重々承知の上ですが、この時の武田信玄により、「本体:2万」+「別動隊:1000」の合計2.1万で、想定外の奇襲(別動隊1000の小山田軍が南側から奇襲している様で、本体の信玄は、北の拝島側に布陣したらしいです)を受け攻められるも、2000の兵でしのぎ切ったとも言われているようですので、数の上からも、滝山城の方が八王子城よりも防御性は高かったのでないか思ってしますが…。あの信玄の攻撃を2000で耐えしのいだわけですから…。いずれにしても結果は、「小田原征伐で他に例を見ない殲滅戦」と言う位ですので、城内にいた人達は、ほぼ全滅と言って良い惨劇だったと思われ、現代心霊スポットとして有名になってしまった事も頷けます。

そんな八王子城、大きく分けて3つのエリアになる様ですが、城下町の色が強い「根小屋地区」は別にして、「戦時にたてこもる『要害地区』」と「平時の拠点『居館地区』」に分けられますが、有名なのは「居館地区」で、テレビや書籍で「八王子城」と紹介される絵は「居館地区」。しかし上記の通り、前の居城・滝山城との比較の観点からも、八王子城を理解し、満喫するには「要害地区」+「居館地区」の両方を大人散策すべきと思っています

【八王子城を大人散策】

上記、概要を抑えさせて頂きました八王子城ですが、こちらのパートでは、その見所を見て行きたいと思います。

八王子城のの最寄り駅は、JR中央線の高尾駅。駅から八王子城の麓のガイダンスセンターまでは、3㎞強程度ですので、徒歩でもアクセス可能です。また、ガイダンスセンターの周囲には、駐車場もありますので、車でのアクセスも可能で、私達夫婦の場合は、居住地の川越から圏央道で、八王子西ICでおりお邪魔させて頂きました。八王子西ICからも4㎞ちょっとだと思い、ICを降りてから、10-15分程度で、麓のガイダンスセンターまで行けた記憶です。麓のガイダンスセンターでは、八王子城に関する各種情報もありますので、初めてお伺いする方は、駐車場の隣でもあるので、お立ち寄り頂いても良いのでないかと思います。

ガイダンスセンターの前の道を山を登る方に進むとすぐに、管理棟が出てきますので、ここから大人散策開始ですが、管理棟の道を挟んだ反対側の一段高い場所に、八王子城の地形の模型図があるので、ここで全体概要を抑えた上で大人散策されると、散策中イメージもし易くなると思います。繰り返しで恐縮ですが、八王子城を満喫するには、『「要害地区」+「居館地区」の両方』を見ていくべきと認識していますので、「要害地区」⇒「居館地区」の順番で、以下それぞれ記載いたします。

■要害地区 (往復で2時間強程度)

・八王子城跡公園入口~高丸

基本山道の登りになります。途中石垣の跡と思われる場所や、金子丸(曲輪)柵門跡等の看板はあり、まったく痕跡が無い訳ではありませんが、中々城跡を感じる事はあまりできない区間です。登りでもあり、一番きつい区間で、30分程登り続ける必要がありますので、気長にゆっくりとハイキングするつもりで、大人散策を楽しむべきかと思います。

・高丸~八王子神社

高丸までくると9合目くらいまで来ていると思います(近くに目印の石柱もあります)。そしてさらに歩を少し進めると、素晴らしい見晴らしを楽しめるポイントに出てきます。写真では少々見にくいですが、筑波山・スカイツリー・東京タワーは勿論、都心の高層ビル群も見え、「平野側から攻めてくる敵の様子はよく見えるだろーな」と思ってしまう場所ですので、一息つきつつ、眺望をお楽しみください。

この眺望エリアを超えると、いったん道は下り、平らな場所に出ます。八王子神社のエリアです。恐らくこの場所は、八王子城における、最大の陣地的なエリアになる認識ですが、感じた事は「狭い」です。とは言いつつ、本殿の下の段には、休憩所もありますし、少し周囲を回ると、小宮曲輪・松木曲輪のあるエリアで、八王子城の城郭の痕跡を感じられるエリアです。比較的小規模な曲輪ですが、貴重な痕跡だと思います。ここでは、小宮曲輪を拝見し、八王子神社の本殿がある一段上がったエリアに行きご挨拶させて頂きました(松木曲輪は後で行く為)。

・八王子神社~詰の城 (往復で~2時間強程度)

八王子神社でお参りの後、本殿右側の小さく急な階段から、本丸を目指す事が出来ます。本丸跡の石柱や祠があります。同時に、実際に行って頂くとよくご理解いただけると思いますが、この本丸、本当に小さく、30人も入れば狭いと感じる程度の広さ。「ここを守る意味はどの程度あるの?」、「落城時の城主切腹の場所確保と言う意味?」と思ってしまった記憶があります。故に見学時間は、ほんの数分。本丸から来た道をそのまま戻り、八王子神社エリアまで戻ります。

八王子神社エリアまで戻った後、上記の小宮曲輪とは反対側に歩を進めると、松木曲輪がありますこちらからの眺望も格別で中々の景色ですが、やはり「曲輪」と考えてしまうと、「狭く、どれほどの兵力を置けるのだろうか…」と思てしまった次第です。

松木曲輪から、さらに歩を進めると、井戸があり、「こんな高い場所でも井戸があるんだ…、籠城になったら水は必要だし…、でも八王子城合戦では1日で落城してしまったんだよな…」と思いつつ、更に15分程進むと、詰の城が出てきます。同じく限られたスペースで、大規模な兵を展開するのは不可能な場所に思えますが、かつては防御のために築かれていたと思われる石垣の痕跡(=崩れた石)を見る事が出来、八王子城の痕跡を感じる事が出来るポイントです。

麓から詰城までの道のりは、1時間強だった記憶です。ここから先は、基本来た道を、今度は下りで戻りますので、30分強でスタートした管理棟まで戻った記憶です。

まだ未完成だったとも言われているようですし、築城から時代もかなりたち、当時の遺構も埋もれ、木々も生い茂ったこともあるのでしょうが、感じたことは「(山城全体としては大規模ですが)それぞれの軍事エリアが小規模」と言う事。実際に拝見すると八王子神社周辺が、この八王子城の軍事的中核のエリアだと思われますが、規模は小さく、北条氏のお城と言われても「あまりピンとこなかった」のが、正直な感想で、やはり思った事は「なぜ滝山城から移った?」でした。まだ、私達夫婦の知識が及んでいない事も多分にあると思うので、改めて勉強し再訪したいと思ったのが、要害地区でした。

■居館地区 (往復で30分~1時間程度)

要害地区の大人散策を終えた後、同じく管理棟付近から、段差を要害地区とは反対側にくだると居館地区の方にアクセスできます。まずは段差を下ると、川(城山川)の美しい流れが目に飛び込んでききますので、その流れに沿って上流を目指すと、左手に橋が見えてきます。

説明看板もありますが、この付近は大手門跡になる様で、橋を越えて続く古道を進むと、間もなく、曳橋と呼ばれる、御主殿に続く橋が出てきます。ここからの景色は、確かに城跡を感じさせる光景で、復元された石垣は、お城の石垣としては、少し素朴さを感じる物の「北条氏の土の城」のイメージを払拭する見事なものです(日本三大山城の一つ・岩村城の六段壁にも似ています)。写真の通りですが、「土塁と合わせた腰巻石垣的な石垣を何段も重ね、間に犬走りの様なスペースがある防御壁」といった感じで、角度もあり、中々の見ごたえあるものです。

そして、その石垣を拝見しつつ曳橋を越えると、御主殿に続く階段・虎口になります。こちらはよくテレビや書籍でも取り上げられている、八王子城でも有名な場所。「階段の段差や幅が異なり、直線的に侵入できないない様に直角に曲げられ、敵の攻撃に対し工夫された構造」と言った説明をよく耳にしますが、確かにその通り。そんな事を思いつつ、歩を進めると御主殿につきます。

この御主殿は、上記引用にもある通り、「落城後は徳川氏の直轄領、明治以降は国有林であったため、落城当時のままの状態で保存されていた場所」の様です。建物自体はありませんが(舞台の様なものはありましたが…)、その痕跡を十分に理解できるよう説明もしっかりされております。同時に思う事は、要害地区同様「十分な兵を置くには狭ま過ぎる」と言う事です。八王子城合戦時、北条方の婦女子は、この場所にいたと言われている様ですので「小田原征伐で他に例を見ない殲滅戦の象徴の場所」ともいえると思った次第です。

この御主殿からは、上記の虎口とは反対側より、城山川に下る事が出来る道が整備されています(存城時には恐らくなかった道だと思いますが…)。この道を下ると、北条方の婦女子も含め、多くの人が自刃し、三日三晩、川が血で赤く染まったと言われる城山川の滝:御主殿の滝があります。特に神社等がある訳ではありませんが、上記の通り、北条氏の無念が詰まったエリアだと思うので、御主殿跡と滝に向かって、手を合わせ冥福を祈ってしまうのは、私達夫婦だけではないと思います。

御主殿の滝で北条一族の冥福を祈った後は、城山川に沿って下っていきます。するとすぐに、先程超えた曳橋の下をくぐる事が出来ます曳橋から拝見した数段の石垣も立派でしたが、下からこの石垣を拝見するとその立派さが際立ちます。言い換えますと、「非常に急な防御壁である事ご理解いただけると思う」という事です。

下から御主殿跡の石垣を見上げた後は、川に沿って管理棟付近まで戻り、居館地区の大人散策は終了になります。確かに「土塁と合わせた腰巻石垣的な石垣を何段も重ねる防御壁」は立派ではありますし、階段・虎口の工夫も見られますが、やはり言える事は「北条氏のお城としては(山城全体としては大規模ですが)軍事エリアが小規模すぎる」と言うもので、「万の兵に攻められたらひとたまりもないお城」と思ってしまった次第です。

【最後に】

以上が、不思議で、且つ壮絶な歴史を持つ、八王子城の(お城の概要・歴史、写真、ルート、所要時間等を含めた)大人散策情報を記載」させて頂いた内容になります

要害地区と居館地区とそれぞれ魅力ある見所もある認識ですが、どうしても「なぜ滝山城から移った?」の疑問は払拭できない大人散策となってしまいましたが、それはそれで大人散策の醍醐味。わからない事をわかる様に想像/妄想する事も含め、大人散策だと思って折り、そんな考えを巡らせつつ、山の中のハイキングと共に城跡(要害地区+居館地区)を楽しむには、八王子城は魅力的なスポットだと思った次第です。

そして今思っている事は、「城主・氏照は、滝山城を捨てる事は考えておらず『滝山城=政庁、八王子城=詰城』の位置づけで想定し、八王子城の築城を開始した。しかし、秀吉小田原征伐が現実味を帯びるにしたがって、北条の支城とは言え、本城・小田原の防衛が優先される為、多くの兵を確保する事が難しく、滝山城の様な大規模な城郭を守るには、兵が少なすぎ、かえってリスクが高いので、兵数の限られた環境でも戦う事が出来る様 or 身を隠す事が出来る様『詰の城として、(山城全体としては大規模ですが)少数で比較的小規模な曲輪が配置された山城の八王子城』に北条方の婦女子を中心に移す選択肢しかなかった?」と言う妄想です。勝手な妄想をしてしまいましたが、皆様はどう思われましたでしょうか?

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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