河越夜戦

【はじめに:河越夜戦とは?】

本日は、日本三大奇襲の1つに数えられる、「河越夜戦」に付き、勝手な考察(妄想?)を加えさせて頂こうと思います

言葉遊びとは、若干違いますが、どうもこの「河越夜戦」と言う言葉、腑に落ちないのです。河越夜戦は、北条氏が11,000の兵で、80,000との言われる、山内/扇谷上杉氏、足利晴氏連合軍を破った事で、非常に有名ですが、別の日本三大奇襲である、桶狭間の戦い厳島の戦い(別記事で紹介中)と比べ、戦いの経過が不明瞭な側面が否めない認識です。

恐らくこれは、「夜戦であった事、戦いが広範囲に及んだ事、戦いに所以のある場所が動いた事等、複数の理由があり『誰がどこに布陣して、どんな動き方で、どの様に戦いが進んだか?』が、断片的にしか解っていない」と言う事だと思います。

今回は、その誰も経過を解っていない、でも有名で、北条氏の関東への進出を決定的なものにした「河越夜戦」に、誠に勝手ながら、言葉遊びの様に考察を加えさせて頂こうと思った次第です。(北条氏の居城、小田原城に関しては、別記事で紹介しています)

【河越夜戦に対する違和感】

歴史好きの私は、地元と言う事もあり、河越夜戦に関係のある場所を結構昔から回っています。そんな中で、感じた違和感をまずは共有します。

① 砂久保陣屋の案内板

10年以上昔だったと思いますが、この砂久保陣屋跡を訪れた時、設置された看板には「山内上杉憲政の陣跡」と記載があった記憶です。「上野(現群馬)を拠点とした憲政が、わざわざ川越城を南に回り込んで、しかも窪地のこの場所に陣を敷いた?」と思った次第です。地理院の地図で、自身で数値設定し、高低差を示す事が出来るサービスがあるのですが、その地図が以下の図です。見ての通り、またその名前の通り「窪地」で、孫子の力を借りずとも、陣を敷くには適していないと思った次第です。

そして数年前、改めてこちらを訪れた際、今度は、「北条氏康が陣を敷いた」と言った説明に変わっていた訳です知将であり、猛将でもある北条氏康が、この不利な地に着陣?」と更に腑に落ちなくなり、策略の香りすら感じてしまった事をよく覚えております。

② 城山砦に着陣した人物は?

狭山市のホームページ(城山砦跡 狭山市公式ウェブサイト (city.sayama.saitama.jp))には、この城山砦は山内上杉氏の憲政の陣跡として紹介されています。砦そのものは、写真の通り、河岸段丘の上に築かれ、土塁もしっかり張り巡らせている中々の陣屋跡です。しかし、上記の砂久保陣屋の昔の説明文には、「憲政は砂久保に着陣」とあった記憶ので「どっち?」と思った記憶があります。

この2つの陣屋は、入間川を挟んだ場所にありますので、この2つの陣地を行き来していたとも考えにくいですし…。また、前の時代に築かれた、「河越氏館」も山内上杉氏が抑えていた事を考えると、「本当は何処に陣取っていたのだろう?」と思った次第です。(城山砦も含め、周辺情報を別記事で紹介しています)

 東明寺の「河越(川越)夜戦跡の碑」がある場所は?

こちらも別記事で紹介しましたが、川越の顔、一番街の蔵通りをもう少し北に進んだ場所に、東明寺と「河越夜戦跡の碑」があります。そんな碑があるので、普通に考えると、ここで戦闘があったと思ってしまいますが、ここは新河岸川(赤間川)の内側(当時赤間川があったか否かは調べてませんが、台地に登るまさにヘリの場所なので、境界線と考えて良いと思います)で、川越城のほぼ城内と言って良い場所です(すぐ近くには、川越城の築城主・太田道灌の屋敷があったと伝わる場所もあります)。現在の川越城の本丸からの距離は、直線距離で1㎞もない、目と鼻の先です。こんな場所で戦になったと言う事は、「連合軍が城に攻めてきて、その迎撃戦を行ったと言う事?」と思ってしまった訳です。

河越夜戦は、「北条氏康が、夜に奇襲をかけたことにより、混乱に陥り、恐怖心の塊となって逃げる連合軍に、籠城していた城の軍も追い打ちをかけ、北条氏の関東での地位が決した戦」と理解していたので、このほぼ城内と言って良い場所で戦闘があった事、あまり理解できなかったのです。

上記に3点記載しましたが、その他Webでサーチしてみても、情報に統一感がなく、全く違う内容の記載があったりと、どんどん混乱してしまいました。この様な背景の為、誠に勝手ながら、この有名だけど、戦の経緯が分からない、河越夜戦に自身が納得できるような、考察を加えてみたいと思った次第です

【河越夜戦に考察を加える上での概要理解】

勝手な考察を加えるにあたり、基本情報を整理してみます。

■戦にかかわったのは?

  • 連合軍:山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・足利晴氏の総勢:80,000の兵
  • 北条軍河越城にいる氏康の義弟・北条綱成軍3,000を、北条氏康が本国から8,000の兵で、救援する形(=総勢:11,000の兵)

それぞれ拠点は?

山内上杉憲政の拠点は、現在の群馬県藤岡市にあった平井城で、扇谷上杉朝定は北条氏康の先代・氏綱が、朝定より河越城を奪取(=三ツ木原の戦い)したため、すぐ北にある(武蔵国)松山城(吉見百穴のすぐ隣)に身を寄せている状態、足利晴氏は古河公方なので、古河城が居城の認識で、茨木・栃木・埼玉の県境付近が本拠地

■連合軍が、河越城を包囲したと伝わるが?

河越城の外縁部は、入間川と荒川に囲まれた場所にあり、連合軍がその川を越えて布陣すると正に「背水の陣となる為、「河越城から見た時、入間川・荒川の対岸に陣を敷いたと考えるのが普通」で、「包囲」と言えど、若干の距離を置いていたと推察(背水の陣は、不利な状況の軍隊が自軍を奮い立たせるために取る戦法)。

■事実関係の整理とその配置(陣地)を考察

上記の考え方とそれぞれの居城を踏まえると、以下の様に想定するのが定石だと思われます。(図もご参照ください)

山内上杉憲政は…

群馬方面から、鎌倉街道上道で進軍もしやすい(別記事で周辺の鎌倉街道の情報を紹介しています)川越の西・入間川の対岸にある城山砦(一部兵を河越館跡にも置いたかもしれないが、いづれにしても河越城から見た際、入間川の西側の対岸)に着陣

扇谷上杉朝定は…

河越城から、目と鼻の先の武蔵国・松山城にいたので(距離にして10㎞程度)、川越の北側にあたる入間川の対岸・川島町付近に着陣(別記事で川島町遠山記念館等も紹介しています…)、もしくは、坂戸にある大堀山陣屋(別記事で紹介中) or 本陣はそもそも動かかさず松山城を本陣?

足利晴氏は…

川越の東、かつての流路を踏まえると現在の荒川の右岸(=かつては河越城の対岸荒川の左岸)であるグリーンパーク付近に着陣 

(現在の入間川・荒川は河川改修により直線的な流れになっているが、当時は大きく蛇行しており、現在でもグリーンパーク付近等にかつての流路が、三日月湖として残っている。仮に現在のグリーンパーク付近なら、周りを川に囲まれ、且つ河越城の対岸で視界も開けるので、この辺りに布陣したと勝手ながら推測できる)

北条氏康軍は…

居城の小田原から、鎌倉街道、もしくはその前の時代からあったと考えられる東山道武蔵路(≒堀兼道)府中・所沢辺りを経由して進軍したのであれば、着陣場所は、先代が朝定から河越城を奪った際に戦った地の「三ツ木原付近の台地」付近に陣取るのが定石で、ここであれば、アクセスが良く=退却もしやすく、高台を確保できる場所で、孫子的発想であれば、間違えなく窪地よりはこちらを選ぶと推察(北条軍は、戦意が乏しいと相手に思わせる為「あえて陣を府中まで引いた」とも言われていますので…)

上記の様な感じで、何の証拠もありませんが、この河越夜戦における勢力図を地図(地形・高低差込み)に落としてみると、以下のストーリーが頭の中に浮かんできました

【河越夜戦の「戦の経過」に対する勝手な考察】

頭の中に浮かんできたストリーは、以下の通りで、下記図の番号に沿って、記載いたします。途中の「図」と共に、ご参照頂けますと幸いです。

⓪. 北条軍による情報の流布

偽りの降伏状を出してみたり、一旦府中まで軍を引いて、戦意が低いと思わしたりしている北条氏康が、砂久保に氏康着陣」の偽情報を出してもおかしくないと思い、つまりこれは、氏康の罠で、「かつて河越城主であった、朝定は砂久保の地形と自身がいる場所からの行軍ルート(河越城の東側から攻めるルート)、そして憲政の陣の場所を考えれば、挟み撃ちに出来ると思うに違いない」と見切って、情報を流布

①. 両上杉氏の作戦会議

入間川の左岸で比較的情報連携のしやすい両上杉氏は、氏康の術中にはまり、挟み撃ちを計画(上戸陣屋(河越館跡)辺りで会談?)

②. 北条軍による夜襲

そんな矢先の夜中、「氏康は、憲政軍の城山砦に夜襲を決行」すると、攻めるつもりで、しかも楽勝と思い込んでいた憲政軍はなすすべなく翻弄され、恐らく鎌倉街道上道を群馬(平井城)に向けて、ただただ逃げるだけの状態となり、その敗走する憲政軍に対し、氏康軍は勢いそのままに追尾を始めた(=「善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責めず」)

③. 扇谷上杉氏(朝定軍)の進軍

その頃、状況を知らない朝定は、川越の北側で、入間川を渡河し、河越城の東側(低地で足場はさほど良くないエリア)を砂久保に向かってノロノロ進軍

④. 北条軍間(河越城籠城軍と救援軍)の地の利を活かした情報連携

河越城からは、移動する松明が見え(朝定なので、また足場が悪い事もあり、松明を消して移動する発想はなかった)、朝定の進軍を確認した為、足場の良い台地を、河越城から馬で疾走して、三ツ木原付近の台地に陣取る氏康軍に情報連携

⑤.北条軍の攻撃が山内上杉氏(憲政軍) ⇒ 扇谷上杉氏(朝定軍)へ移行

柏原砦の夜襲を三ツ木原付近の台地で戦況を見守っていた多目元忠は、河越城からの情報を受け、危険が迫っている事を、ほら貝で、勢いそのままに敵を追尾する氏康に知らせる

⑥. 扇谷上杉氏(朝定軍)の攻撃

そんなことは知らない朝定は、「依然、氏康は砂久保に陣取っている」と思い込んでおり、氏康軍に攻めかかる(氏康は「おとりの兵」を布陣させていた可能性あり)

⑦. 北条軍が扇谷上杉氏(朝定軍)を迎撃

多目元忠の知らせで、三ツ木原付近の台地に戻った、氏康は、背後の心配のなくなった台地(高台)の陣から、窪地(砂久保)に攻め(登っ)て来る朝定を地の利を活かしつつ迎撃 

(砂久保の地は、氏康側から見ると、大軍を迎え撃つには最適で、朝定軍は「低い位置から、川(新河岸川・不老川)を渡り、攻めなければならならず、且つ川を渡り切れば「背水の陣」となる状況である為、孫子的に考えれば「朝定軍の半分が川を渡たった段階で北条軍が攻めかかった」と想像出来る故、朝定自身は、前方で自軍の兵が討たれる様子を見て、渡る前に危険を察知し、逃げ出した可能性もある)

⑧. 扇谷上杉氏(朝定軍)撤退

たまらず朝定は、進軍してきたルートで、逆に撤退を始め、晴氏の軍、もしくは自身が身を寄せる(武蔵國)松山城に逃げ込むべく、退却するが、低湿地で足を取られ中々スピーディに退却できない

⑨. 河越籠城軍の側面攻撃

その状況を、夜が明け始め、撤退する朝定軍を目視した「河越城に籠城していた綱成軍」も、側面攻撃を仕掛け、朝定を河越城の東で打ち取る

(この付近に現在非常に小さいが ”東明寺” の地名が残っており、この付近に昔東明寺(摂社や末社等含め)があったと推察してもおかしくないと考えられる一方、寺院内ではなく、「東明寺の領地内=寺社領=田んぼ?」で打ち取られたので、後世には ”東明寺で戦があった” と伝わり、現在の東明寺に碑が建てられたと考えても筋は通る。また、恐らくこの状況は、現在三日月湖が残るグリーンパーク辺りに晴氏が陣取っていたのであれば、河越城籠城軍同様、その状況を目視できたはず)

⑩⑪. 河越城籠城軍の足利軍への攻撃

そして、この河越城籠城軍は、朝定を打ち取った勢いに乗って、荒川を越え、晴氏軍に攻めかかるが、一部始終を見ていた晴氏軍は、もう既に撤退を開始しており、北条軍(=河越城籠城軍)が、川を渡って晴氏軍に攻め入った時には、ほとんどの兵が撤退している所であった為、「勝った、勝った」と陣地に乱入してきた

以上が、私が勝手に考えた(妄想した?)「河越夜戦の戦の経過」になります (表題の「新仮説」とは、おこがましいですが…)。

【最後に】

上記の感じで、河越夜戦の戦いの経過につき、勝手な考察(妄想?)を加えさせて頂きましたが、皆様はどう思われましたでしょうか? 正直私もわかりませんし、何の証拠もありません…。ただ、状況証拠を積み上げて、無理なく考えたら、上記の勝手な考察に至った次第です。正しいか、正しくないかと言う事より、この様に勝手に歴史に考察を加える(妄想する)事は、本当に楽しいものだと、改めて思った次第です。皆様も、皆様がお住いの地域・その周囲の歴史に目を向け、勝手な考察(私の場合は妄想?)を加え、大人の楽しみ方で、地域と歴史を感じ、その地域を大人散策・City Walkてみては、いかがでしょうか? また、尚、本ブログ別記事にて、北条氏の関東における拠点となった「鉢形城城」・「滝山城 / 八王子城」等も紹介しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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2 thoughts on “河越夜戦とは?:日本三大奇襲の1つ、河越夜戦の ”戦いの経過” を地形図も踏まえ、新仮説を考察! (地図や歴史の視点で言葉遊びをしてみる) ”

  1. 河越夜戦の実際の戦の経過につき、新しい視点が加えられた印象を持ちました
    また新しい発見を期待します

    1. ありがとうございます
      勝手な妄想に近い仮説と思っていたので、素直に嬉しいです
      また新しい情報が出た際は、本ブログで更新するようにいたします

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