鉢形城

【はじめに】

こちらのページでは、「北条のお城として有名で、秀吉の小田原征伐時に、10倍以上の兵の攻撃を1か月耐えたと言われる寄居の鉢形城に付き、大人散策情報を記載」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きますが、皆様は、「鉢形城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

私達夫婦の居住地である川越から、東武東上線で一本で行くことが出来、別記事で紹介しましたが、リーゾナブルに客室で温泉を満喫できるお宿・亀の井ホテルもある事から、それなりの回数お邪魔している寄居。その寄居において、もっとも頻繁にお邪魔している大人散策スポットが、鉢形城です。

こちらのページでは、そんな「北条のお城として有名で、秀吉の小田原征伐時に、10倍以上の兵の攻撃を1か月耐えたと言われる寄居の鉢形城に付き、大人散策情報を記載」させて頂きます

【鉢形城の概要】

まずは、鉢形城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます=引用読まなくても大丈夫です…)。

鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡である。構造は連郭式平山城。標高は最高点(三の曲輪)で122m。

概要
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する

初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となったほか、甲斐・信濃からの侵攻による最前線として重要な役割を担っていた。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。 また跡地の周辺には殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺える。

関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつといわれる。1932年(昭和7年4月19日)に「鉢形城跡」(はちがたじょうあと)として国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備され、園内にはガイダンス施設である鉢形城歴史館が設置されている。

稀に見る頑強な要害だったとされ、武田信玄、上杉謙信、前田利家、上杉景勝らの数度の攻撃に耐え、小田原征伐では3万とも5万とも言われる北国軍に包囲されて1ヶ月に渡って籠城したのちに「開城」という形になった (略)

歴史・沿革
1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。これが鉢形城の始まりである。
1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。
1488年(長享2年) 扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めるため兵をおこし、城の近くで両軍が遭遇して高見原の戦いが起こった。このとき、定正は戦闘には勝利したものの鉢形城は落とすことができず撤退した。
1494年(明応3年) 上杉定正は再度鉢形城の顕定を攻めようと伊勢盛時(北条早雲)とともに高見原に打って出たが、定正はこのとき荒川渡河中に落馬して死去した。以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした
1512年(永正9年) 上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城、顕実は命を助けられたものの山内上杉家当主の座を失った。
1515年(永正12年) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の武田信虎などとの長年にわたる抗争のなか、1525年(大永5年)3月に病没した。後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いだ。
1546年(天文15年) 北条氏3代北条氏康が川越城を包囲した上杉朝定・上杉憲政を打ち破る河越夜戦が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。
1564年(永禄7年)この地方の豪族であった藤田康邦に入婿した、北条氏康の四男北条氏邦が鉢形城へ入城した。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年(永禄12年)には武田信玄による攻撃を受け、1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長政、本多忠勝、島田利正、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城した。その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部定好が代官となって周辺の統治を行った。

1932年(昭和7年)4月19日 遺構の残存状況がきわめて良好な考古資料であり、関東地方の戦国時代の状況を示す文献資料も豊富に残されていることから、「鉢形城跡」として国の史跡に指定された。
2006年(平成18年)4月6日 日本100名城(18番)に選定された。

氏邦桜
城跡内には町天然記念物に指定されているバラ科サクラ属の植物の一種「エドヒガン」が生存している。このエドヒガンは、一旦伐採され2本幹の株元から12本の芽が成長した珍しいものである。

2009年(平成21年)現在で樹齢は約150年。高さは18m、枝張りは、東西23.5m/南北21.8mで、根回りは6.5mほどもある。

ソメイヨシノの片親である「エドヒガン」であるが、名前のとおり関東ではソメイヨシノよりやや早めの彼岸のころ満開となり、満開の時期には多くの写真家や画家が訪れる。

2018年、寄居町は鉢形城主の北条氏邦にちなんでこの樹の愛称を「氏邦桜」とした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/甲府城

少々引用が長くなってしまいましたし、この時代の関東における権力争いは非常に複雑なので、以下にポイントをサマリ的にまとめます

  • 鉢形城は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の日本の城跡で、深沢川と荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地する連郭式平山城で、周辺(西南側)には、小規模ながら初期的な城下町が形成されたと言われている
  • 元々は、山内上杉氏家臣・長尾氏による家督争いを発端にした築城と言われている様だが、その後も、扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利氏や、家臣筋の太田氏(太田道灌)・長尾氏等の非常に入り組んだ、内向きの権力争い・家督争いの場となる(1470年位~1540年位の間)
  • しかし、1546年の北条氏康による河越夜戦によって、北条氏の関東進出が決定的になると、氏康四男の氏邦が入場(1564年)し、秀吉の小田原征伐(1590年)までの約25年、北条氏の支城として機能した
  • 天然の要害に位置する鉢形城であるが、氏邦によってさらに拡張・整備され、武田信玄上杉謙信の攻撃にも落城する事はなかったが(信玄謙信がどこまで本気で攻めたかは、議論の余地がある様子)、秀吉の小田原征伐に関連する攻撃で開城した
  • しかし、この小田原征伐における鉢形城への攻撃は、前田利家・上杉景勝・真田昌幸、徳川家康配下の浅野長政、本多忠勝、島田利正、鳥居元忠 らの連合軍 (35,000)によるものと言われる一方、守備の兵は3,000しかいなかったと言われており、この戦力差で1か月持ちこたえた事は、お城の堅固さを物語る上で十分な史実として有名
  • そんな歴史と関東地方に所在する戦国時代の城郭としては、比較的きれいに残されており、日本100名城に選出された
  • 現在、城址内には、樹齢150年のエドヒガン桜があり「氏邦桜」の名称の元、季節には多くに人が訪れ、テレビ中継もされるスポットになっている

実際に鉢形城を訪れてみると、本丸の部分の標高が一番高い訳ではなく、かつて城下町だったと言われる南西方面の部分の方が高い事を実感できます別記事で紹介した小諸にある小諸城に似た感じの穴城(城郭エリアが城下町よりも低い地にあるお城)的な縄張りですので、一見不安な要素も多分にありますが、工夫された縄張りは、防御性の高いお城である事を実感できるものだと思います(小諸城も一見「防御性大丈夫?」と思えるものですが、しっかりと考えられている事は、別記事記載の通りです)。北条氏(氏邦)入城まで、かなり紆余曲折あったお城の様で、氏邦入場後も、城郭の整備拡張を行った物の何度も戦場になった様です。しかしあの武田信玄上杉謙信の攻撃にも耐え、秀吉の小田原征伐に連動した攻撃においては、10倍以上の兵力の攻撃(「秀吉連合軍:35,000」 VS 「北条軍:3,000」)を1か月耐えたと言われる鉢形城は「名城」の部類に入るお城だと改めて思った次第です。

【鉢形城を大人散策】

上記、概要を抑えさせて頂きました鉢形城ですが、こちらのパートでは、その大人散策情報を記載させて頂きます。

①鉢形城へのアクセス

上記にも記載しましたが、鉢形城は、東武東上線の鉢形駅・玉淀駅・寄居駅のどの駅からも10~15分程度(1㎞前後)で、鉢形城の北東の端にアクセスできる環境にあります。また、八高線の折原駅からも、1㎞ちょっとの認識なので、15分前後で鉢形城歴史館にアクセスできる環境でもあります。故に、皆様のお住いのエリアに応じて、東武東上線を利用するか、八高線を利用するか、ご判断いただければと思いますが、私達夫婦の場合は、八高線ですと高麗川での乗り換えの必要が出てくるので、居住地の川越で東武東上線に乗り、鉢形駅まで行って鉢形城を大人散策してから荒川を超え、寄居駅に戻り、再び東武東上線で川越に戻るコースで楽しませて頂きました。その為、今回のコースの紹介は、鉢形城の搦手側、北東に位置する搦手橋から大人散策の開始とさせて頂きます

②搦手橋~本曲輪(本丸)

搦手橋は、その名の通り鉢形城の搦手側(裏側)からアクセスできる場所で、荒川に合流する直前の深沢川に掛けられた橋です。勿論戦国の世に現在の橋が架かっていた訳ではないので、当時と同じな訳はないですが、その深い沢を橋のから拝見する事が出来、「鉢形城が天然の要害」と言われる由縁を感じる事が出来ます

この搦手橋を超えるとすぐに信号があり、その左手から本格的な鉢形城址・笹曲輪になります。笹曲輪には、鉢形城の地形をかたどったジオラマ?・模型?がありますので、まずはそこで全体図をある程度理解し大人散策を開始されては如何かと存じます。

笹曲輪から、さほど急ではありませんが斜面を登って、北を流れる荒川の流れと河岸段丘や、曲輪の周囲を巡らす石垣等を見つつ南西方向に歩を進めると、すぐに本丸(本曲輪)に出る事が出来ます。現在では、橋(荒川を渡る橋:正喜橋、深沢川を超える橋:搦手橋)を渡ってあっという間に本丸にたどり着けますが、地形や痕跡を見つつ歩を進めると、深沢川と荒川に囲まれた天然の要害であるこの場所を本丸とした理由をご理解いただけるのでないかと思います

本曲輪(本丸)~三の曲輪

本丸(本曲輪)の南西の端から結構急な斜面を降りる事が出来、御殿曲輪に出る事が出来ます本丸(本曲輪)と御殿曲輪の高低差を感じる事が出来るスポットですが、同時に御殿曲輪と二の曲輪の間には、現在では舗装された公道が走っており、それなりに多くの車が通っています。恐らくこの御殿曲輪(本丸)と二の曲輪の間の公道は、鉢形城の在城時の痕跡に作られた道と思われ、防御の為に作った堀切が、現在は一般道になった認識をしております。

その堀切跡(現一般道)を車に注意しつつ渡った先が二の曲輪になります。二の曲輪から南西方向に三の曲輪と続くのですが、二の曲輪の方が低くなっているので、少し戸惑ってしまいますが、二の曲輪のと三の曲輪の間には、堀と土塁を確認でき、その北側と南側(以下辺見曲輪参照)には馬出も設置されていた様なので、防衛ラインを設けている作りである事理解できます

そしてこの堀と土塁を超えた一段高い場所が、三の曲輪・秩父曲輪になります。この一帯は、城郭の中で一番高い場所にあると思われ、四脚門や掘立柱建物、その前の庭園、周囲を囲う土塁(石塁?)が復元されており、城郭全体を見渡せるスポットでもあります。

④逸見曲輪~氏邦桜(エドヒガン)

三の曲輪の北西部分が、大手(お城の表)の虎口となっていた様で、櫓跡がありますが、その虎口を出ると諏訪神社があります。鉢形城在城当時からあったと言われる神社で、城郭内の一部だと思われ、周囲は堀跡を今でも見る事が出来ます。

諏訪神社に三の曲輪(東)側からお邪魔させて頂きましたが、現在では鳥居のある参道は南側に設けられており、鳥居の先の階段を下ると休憩所もあります。ここで一息入れても良いと思いますが、この付近で南を向いて立ってみると、現代では右手に八高線・左手に逸見曲輪が見えます。言い換えると、この付近は、鉢形城在城時の大手(表)口と言われているエリアの様です。八高線を超え、その先の大光寺曲輪まで足を延ばしても良いと思いますし、そのまま逸見曲輪に行かれても良いと思います。ただ言える事は、このポイントでは、鉢形城の縄張りの地形が、ある意味むき出しになっているので、その痕跡をマジマジとみる事が出来ます。個人的な感想としては「よくぞここまできれいに残ってくれた!」と言った印象です。

逸見曲輪からは、そのまま南東の方向に歩を進めると、上記で少々触れた馬出があり、更に先に渡った「御殿曲輪と二の曲輪の間の公道」に再び戻ってきます。別の言い方をすると「どの場所から攻め込んできても、基本この御殿曲輪の前を通らないと本丸にはいきつけない構造になっている」事、ご理解いただけるのでないかと思います。こういった構造を感じつつ深沢川の方を見ると立派な大木;氏邦桜があります。

⑤氏邦桜(エドヒガン)~笹曲輪

氏邦桜は、上記引用にもある通り、150年ともいわれるエドヒガン桜の大木。深沢川の谷に通じる道(鉢形城歴史館に通じる道)から見る事が出来、ちょうど曲輪(御殿下曲輪?)の斜面に植わったその木は、高さがカサ増しされたような感じで、迫力の姿です。同時にこの付近は、高い土塁、狭い通路、区切られた区画で、深沢川から攻め上るのは、かなり難しい構造に整備されている事ご理解いただけると思います。

しかし現在では、道は整備され橋(歩行者専用)もかかっていますので、深沢川の谷の深さを実感しつつも、容易に鉢形城歴史館にアクセスできます。歴史館の内部には、精巧に復元された鉢形城の地形のジオラマ?模型?がありますので、八高線の折原駅から鉢形城を目指す際は、こちらの歴史館で、鉢形城の構造をインプットし、大人散策を開始されても良いと思います

また、歴史館の周囲には、土塁もしっかり残っているので、これら見学しつつ、改めて深沢川を渡って(この付近には、深沢川を超える橋(歩行者のみ)が2つ架けられています)再度、氏邦桜・御殿曲輪・笹曲輪と回っても良いと思いますし、深沢川の流れに沿う形で右岸を搦手橋の方に進んでも良いと思います。いずれにしましても、大人散策を開始した笹曲輪まで戻った後は、荒川の正喜橋を渡り(橋の途中から鉢形城をを眺めると、いかに高い河岸段丘の上に鉢形城があるか実感頂けると思います)道なりに進むと正面に寄居駅がありますので、こちらで大人散策コンプリートとなります。

【最後に】

以上が、北条のお城として有名で、秀吉の小田原征伐時に、10倍以上の兵の攻撃を1か月耐えたと言われる寄居の鉢形城に付き、大人散策情報を記載」させて頂いた内容になります

実際に鉢形城を訪れてみると、全てではないにしても、比較的城郭の遺構が残っている方だと思われ、曲輪や堀の痕跡は勿論、縄張り全体の構造をかなり理解できる城跡だと思われ、歴史ファンであれば、かなり魅力的なスポットだと思っている次第です。同時に、よく整備されているので、公園としても良いスポットだと思い、荒川の眺望は勿論、上記に記載した氏邦桜(エドヒガン桜)に加え、コブシの大木も御殿曲輪にあるので、春のお花の季節には、城跡関係なしに散策を楽しむ事が出来るエリアだと思います。故に、歴史ファンは勿論ですが、寄居にお出かけの際は、別記事で記載いたしました、五百羅漢を楽しめる少林寺~円良田湖の大人散策と併せてお出かけしてみては如何かと思っている次第です。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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