金剛三昧院多宝塔(国宝)

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【はじめに】

こちらのページでは、「日本では他に例を見ない宗教都市にある『高野山金剛峰寺』に関し、その概要を抑え、周囲も含めた大人散策のプランニング」をさせて頂こうと思います。

突然ですが、皆様は「高野豆腐」ってお好きですか? 実は私「高野豆腐」は結構な好物で、良く煮物に入れて頂戴しています…。そしてこの「高野豆腐」は、「高野山金剛峰寺」に由来を持つとも言われており、Wikipediaには以下に様にあります。

(略) 高野山で木食応其によって製法が完成された凍り豆腐(こおりどうふ)が、精進料理の一つとして日本全国に広まったものとされる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/高野豆腐

学校では、「『天台宗の総本山・比叡山延暦寺を開いた最澄』と並び、『真言宗の総本山・高野山金剛峰寺を開いた空海』として、『平安仏教の2代巨頭』」と言った感じで教えられた認識ですが、私が記憶の中で初めて「高野山金剛峰寺」と言う名を耳にしたのは『「高野豆腐」の由来』だったのです…。故に「高野山金剛峰寺」と言う名称は、耳についている次第ですが、これまで、関東甲信越圏(山梨県北杜市出身、埼玉県川越市在住)を生活基盤にする者として、中々お邪魔する機会がなく「いつかは参らせて頂きたい」と長年思っている寺院でもあります。

こちらのページでは、上記の感じで「行ってみたいけどまだ行けてない『高野豆腐の由来になった高野山金剛峰寺』」に付き記載いたします。すなわち「日本では他に例を見ない宗教都市にある『高野山金剛峰寺』に関し、その概要を抑え、周囲も含めた大人散策のプランニング」をさせて頂こうと思います。

【「高野山金剛峰寺」とは?】

まずは「高野山金剛峰寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(引用長く、以下にポイントをまとめておりますので、読まなくても大丈夫です)。

金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院正式には高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)と号する。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの盆地状の平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部
「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし高野山は「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とされ、金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋。

概要
■空海と高野山
空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい (略)
空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を、高い峰々を蓮の花に見立て八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)として、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。

■開創伝承
弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海は高野山の地を賜った。若い時に修行したことのあるこの山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実とされている  (略)

■入定信仰
空海が天長9年(835年)奥之院に入定後、86年経った延喜21年(921年)に東寺長者の観賢の上奏により醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った観賢は、その報告のため高野山へ登り奥之院の廟窟に入ると、入定した空海(即身仏)は、髪を伸ばし、その姿は普段と変わりなく、まるで生きているかのように禅定している空海の姿があったと伝えている。このことから「弘法大師は今も奥之院に生き続け、世の中の平和と人々の幸福を願っている」という入定信仰が生まれた

■結界
空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山を中心に東西、南北にそれぞれ七里の結界を張り、俗世と聖地高野山との境界としたことであった。高野山は元々祖霊の集まる神聖な場所で、それを人々へ承知させ、結界内に不浄なものを入れないために、高野山を囲む山々の峰をつなぐ線として、密法の法により結界を張ったとされている (略)
結界内に開創以来、次の4つの禁が明治まで続いた。

  • 肉や魚を持ち込まない。食べない。
  • 女人禁制。
  • 遊芸に関わる鳴り物をしない。
  • 鶏と猫を飼わない。 (略)

鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためである (略)

歴史
■平安・鎌倉時代

弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から実恵、円明などの東寺にいた弟子達に命じ草堂を建てさせ、819年に空海が高野山に結界を張り伽藍の建立に取りかかったが、(略) 工事ははかどらなかった空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。 (略) 空海の入定(835年)の後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に根本大塔などの伽藍を整備した  (略)
平安時代末期からの源平の騒乱期には、高野山は都から離れた場所にあり、また中立を保っていたことで戦禍に見舞われることが無かったため、現世浄土として様々な僧が集まり、また敗者の平家の納骨も活発に行われた (略)
高野山表参道の町石道に高野山開創の頃からあった道標で町数をしめす木製卒塔婆は、鎌倉時代には老朽化が激しく、皇族・貴族、僧侶、庶民にいたるあらゆる階層の人々の寄進により建て替えられていくが、その最大の支援を行ったのは鎌倉幕府で、幕府の有力御家人の安達泰盛や他の幕府要人の支援があり、文永2年(1265年)から20年の歳月をかけ、石製卒塔婆に置き換えられ、現在にも残る町石道として整備された。また時の権力者、源頼朝の正室北条政子は、亡夫の源頼朝菩提のため禅定院(金剛三昧院の前身)を建立し、その後金剛三昧院を建立した (略)
久安4年(1148年)には学侶方300人、行人方・聖方2000人を有する規模になったと伝わり、最盛期には2,000もの堂舎が立ち並んだという (略)

■室町・江戸時代
鎌倉末期から南北朝が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の後醍醐天皇が1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の足利尊氏は高野山の段銭や諸役の免除、寺領への守護不入の権利を与え手厚く庇護した。その後、足利尊氏、義満が高野参詣し、室町幕府とも良好な関係が続く
高野山の教学を二分する学侶方勢力の宝性院院主の宥快は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派を組織し、応永19年(1412年)頃に「応永の大成」とよばれる教学の組織改編を推し進め、その結果、真言密教教学の確立にともなって、高野山の主導権が学侶方にあるべきとの風潮が高まった。この学侶の二大勢力は、その後も塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き、明治時代に両院は合併し、宝寿院となった  (略)
永正18年(1521年)には大火により大塔、金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し、全山が壊滅状態となり高野山は著しく衰退する。
戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力であったため、織田信長の標的の一つであったが、(略) 信長が本能寺の変で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れたしかし豊臣秀吉は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、高野山は存続することができたのちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、最終的に2万1000石の寺領が安堵され、秀吉は永正18年(1521年)に消失した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、興山寺や母・大政所の菩提のために青巌寺(豊臣秀次が自刃した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を建て高野山を庇護することとなった応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる (略)

■明治時代以降
明治の新時代の1868年(慶応4年/明治元年)に神仏判然令(神仏分離令)が発布されたことで、仏教界にとって未曾有の危機的状況となったが、高野山にとっても例外ではなかった (略) 1869年(明治2年)に秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。このことで、金剛峯寺という寺号は本来高野山全体を指す寺号であったが、この時より「金剛峯寺」は高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を意味するようになった。
1871年(明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また高野山が行っていた自治制を失い、 (略) 近代化政策を進める新政府によって女人禁制が解かれた。1873年(明治6年)には高野山所有の山林3000ヘクタールも返上し、完全に経済的基盤を失うこととなった。このため還俗し山を去る僧侶も増え廃寺となる寺院が増えていったが、追い打ちをかけるように1879年(明治12年)の火災で70の堂舎が焼失、次いで1884年(明治17年)50ヶ寺焼失130戸に類焼、さらに1888年(明治21年)3月23日、24日にも大火災があり多くの寺院、町家を焼失することとなった。高野山の危機的状況に1891年(明治24年)高野山の維持と自立存続を図るために一山が協議し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し、現在に近い状態へとなった。
明治中期に国内情勢が安定してくると、高野山に残る膨大な宝物の保護活動が始まった (略) 1906年(明治39年)開創1100年記念大法会に向け、金剛峯寺が高野山全域に残る結界を解除したことで、全ての禁制が解かれ実質的に女人禁制も完全解除され、金剛峯寺が公式に女性の入居住を認めたこととなった。1899年金剛三昧院多宝塔、金剛峯寺不動堂などが、また1908年(明治41年)には66点もの多くの美術工芸品が旧国宝に指定されたことで、宝物館建設の声が高まった (略)
第二次世界大戦後の混乱期には日本各地の文化財が海外へ流出したことで、高野山でも文化財保護の機運が高まり、1957年(昭和32年)財団法人(現・公益財団法人)高野山文化財保存会が設立され、高野山の文化財を一括管理するようになり、また文化財防災専用水管が山内の1万メートルに張り巡らされた。2004年(平成16年)ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として高野山が登録された (略)

高野山真言宗総本山金剛峯寺
高野山は「一山境内地」といわれ、かつて結界が張られていた内部全域が境内地とされ、境内の中に開かれた宗教都市である。山内を大きく分別すると、壇上伽藍(伽藍地区)総本山金剛峯寺(本坊)奥之院(墓域)高野十谷(子院・塔頭地区)で構成されている。これらの地区全体の西端には高野山の正門にあたる大門(重要文化財)がある。信仰の中心となるのは山内の西寄りに位置し、かつて空海により二重の結界(既述)が張られた壇上伽藍と呼ばれる聖域である。ここには総本山金剛峯寺の総本堂にあたる金堂や真言密教の根本道場となる根本大塔を中心とする主要な堂塔が立ち並び、伽藍地区となっているその東北方に本坊である主殿が建つ総本山金剛峯寺がある広義における金剛峯寺は高野山全体と同義だが、狭義における金剛峯寺はこの本坊のある総本山金剛峯寺を指す)。壇上伽藍の周辺地区には高野十谷があり、「子院(塔頭)」と呼ばれる多くの寺院が立ち並び、また高野山大学、霊宝館(各寺院の文化財を収蔵展示する)などもある。地区東端には墓域である奥之院への入口である一の橋があり、ここから2キロほどの墓域が続き、最奥に弘法大師信仰の中心地である奥之院がある (略)

大門(重要文化財) – 宝永2年(1705年)再建。五間三戸の二階二層門で高さ25.1m。西方極楽浄土の方角に建てられ、表参道の入り口である。左右の金剛力士像は江戸時代中期の仏師・康意(阿形)と法橋運長(吽形)の作であり、東大寺南大門の金剛力士像につぐ日本で二番目に大きい像とされる (略)

■壇上伽藍(壇場伽藍)
空海が高野山を開創したさいに、二重の結界を張り密教思想に基づく堂宇の建立をめざした場所である。曼荼羅の道場の意 の壇場と、梵語のサンガ・アーラーマの音訳で僧侶が集い修行をする閑静清浄な所の意の伽藍の壇場伽藍であるが、一段高い土地にあるため、今日では「壇上伽藍」と表記されることが多い (略)
壇上伽藍は、高野山内の西寄りに位置し、金堂・根本大塔・西塔・御影堂などの立ち並び、境内地の核にあたる場所で、奥之院とともに信仰の中心となる高野山の2大聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、現在も真言密教の道場として高野山の中核となっている (略)

中門(ちゅうもん) – 弘仁10年(819年)創建。天保14年(1843年)に焼失後172年ぶりの再建で、高野山開創1200年記念事業として、2015年(平成27年)4月2日落慶 (略)

金堂(こんどう)高野山の総本堂 (略) 現在の7代目の堂は1932年(昭和7年)に落慶され、耐震、耐火の鉄筋コンクリート造で外部に檜材を貼り付けた木造建築の外観で、屋根は入母屋造、梁間23.8m、桁行30m、高さ23.73m (略)

御社(みやしろ)(重要文化財)明神社で1522年の再建、重要文化財指定名称は「山王院本殿」である (略)
・山王院(さんのういん) – 承安4年(1174年)以前の創建で1845年再建、御社(明神社)の拝殿として建てられた (略)

・西塔(さいとう) – 空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い創建され、空海が構想した大日如来の密教世界を具体的に表現する「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として根本大塔と西塔を二基一対として建立 (略)

・御影堂(みえどう) – 大師の持仏堂として創建され、天保14年(1843年)の大火で消失し、弘化4年(1847年)再建、梁間15.1mの向背付宝形造檜皮葺 (略)

・根本大塔(こんぽんだいとう)真言密教の根本道場(修行の中心地)として高野山開創当初から着工され、887年に日本最初の多宝塔として完成した高野山のシンボルである (略) 何度かの焼失の後、現在の塔は1937年(昭和12年)に空海入定1100年を記念して再建したもの (略)

・愛染堂(あいぜんどう) – 建武元年(1334年)に初代建立、現在の堂は1848年(嘉永元年)再建 (略)

・不動堂(ふどうどう)(国宝建久8年(1197年)上皇の皇女八條女院内親王の発願により行勝上人が創建。現在の堂は14世紀初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、2番目に古い建築物。高野山内の一心院谷から、1908年(明治41年)に現在地に移築された (略)

・大会堂(だいえどう) – 安元元年(1175年)鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子内親王が父の追福のため創建 (略) 現在の堂は嘉永元年(1848年)再建。本尊は阿弥陀如来。

・三昧堂(さんまいどう) – 延長7年(929年)初代創建、もとは総持院境内にあったが、治承元年(1177年)西行法師が現在地に移した。現在の堂は文化13年(1816年)再建 (略)

■主殿(総本山金剛峯寺 本坊)
壇上伽藍の東北にあり、本坊である主殿が建つ。1869年(明治2年)、いずれも豊臣秀吉ゆかりの寺院である学侶方の巌寺と興行人方の山寺 (廃寺)を合併し、高野山真言宗総本山金剛峯寺と改称した。 (略) 「金剛峯寺」の寺号は空海が経典「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜経」から名付けたもので、元来は高野山全体を指す名称であったが、明治期以降は、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している (略)

■奥之院
表記は「奥の院」「奥院」などとされる場合もある。寺院群の東端にある奥之院入り口の一の橋から中の橋を経て御廟橋まで、約2キロにわたる参道と墓域が続く (略) 中世以降、高野聖による勧進や納骨の勧めにより参道沿いには約20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並ぶ御廟橋を渡ると空海入定の地とされる聖地となる。一番奥に空海が今も瞑想しているとされる御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂がある。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥之院で生きていると信じられている入定信仰があり「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためである

■子院・塔頭
高野山内の寺院数は総本山金剛峯寺と大本山宝寿院を除いて117か寺とされている (略) 山内寺院のうち52か寺は「宿坊寺院」となっており、塔頭寺院と参拝者の宿泊施設を兼ねている。これらの寺院はもともとは単なる僧の住居である草庵に過ぎなかったが、宿坊の起源は古くは平安時代にさかのぼり、諸国の大名の帰依、壇縁関係を結ぶことで、経済的な支援も受けた。やがて現在のような一般参詣者も宿泊できる宿坊となり、伝統の精進料理を味わったり、お勤め(朝勤行)、写経、写仏、阿字観(瞑想)などを体験できるようになっている (略)
その中の主なものを下記にあげる。寺院名の後の名は、関わりの深かった権力者・武将の名である。

>金剛三昧院 – 北条政子
建暦元年(1211年)、北条政子が夫・源頼朝の菩提を弔うために禅定院として創建 (略) 貞応2年(1223年)建立の多宝塔が、石山寺多宝塔に次ぎ日本で2番目に古く国宝。経蔵、客殿・台所、四所明神神社本殿が国の重要文化財。他に重要文化財の寺宝を所蔵する (略)

>蓮華院(後の大徳院) – 徳川家康
永享11年(1439年)に徳川家の始祖と伝わる松平親氏が師壇契約を結んで以来の関係であり蓮華院を名乗っていたが、1594年(文禄3年)に徳川家康が高野参詣した際に大徳院に改称 (略)

>成慶院 – 武田信玄
土御門天皇から院号を賜る。甲斐源氏一門と縁深い寺と伝わり、永禄3年(1560年)に武田信玄と宿坊関係を結び武田家の菩提寺の一つとして知られる。重要文化財の長谷川信春(等伯)筆の信玄公像など武田家ゆかりの寺宝を所蔵

>蓮華定院 – 真田幸村
建久元年(1190年)頃、行勝が念仏院として創建、のち改称。真田幸村、父昌幸が関ケ原の合戦で西軍の敗戦で徳川家康の命により最初に蟄居をした地 (略) 障子や提灯などに真田家の家紋の六文銭が使用されている。重要文化財の国広銘の剣、正幸が豊臣秀吉から拝領した秀吉像、昌幸使用の南蛮鉄兜、幸村が焼酎を請う書状などの真田家ゆかりの寺宝を所蔵する。

>清浄心院 – 上杉謙信
空海が創建した寺と伝わり、本尊は「二十日大師像」とよばれる空海作と伝わる弘法大師像である。平安時代に平宗盛により再建され戦国時代に上杉謙信の祈願所となる (略) 境内に豊臣秀吉お手植えと伝わる桜の木がある。

>持明院 – 浅井長政
鳥羽天皇の御代に創建。伊達家、京極家、浅井家などの有力大名を壇主としたことで知られる。浅井長政夫妻の長女・淀殿が両親の供養に納めたとされる浅井長政・お市の方の肖像画が寺宝として伝わる

>安養院 – 毛利元就
(略) 天正年間(1573年 – 1593年)、当院十六世、勢尊法印が、山陽・山陰の二街道巡錫さした際に、毛利元就の帰依を受け師壇の関係を結び、二代毛利輝元に知行五十石を与えられ、境内に毛利家の菩提所として歴代の建牌、石塔が数十基建立されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/金剛峯寺

引用がかなり長くなってしまったので、以下にサマリとして、ポイントを列挙します。

  • 和歌山・高野町の標高約800mの盆地状の平坦地に位置する「高野山」は「一山境内地」と言われ、「かつて京都の東寺と共に、『空海』によって修禅の道場として『結界が張られていた内部全域』を境内地」とし、その境内の中に開かれた「100か寺以上の寺院が密集する日本では他に例を見ない宗教都市」で、その中にある「金剛峯寺」は、「高野山真言宗の総本山の寺院」であり、正式には「高野山金剛峯寺」と言い、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として登録さているその高野山内全体を大きく分別すると以下4つのエリアになる(「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっているが、高野山は「一山境内地」といわれる高野山全域が寺の境内地とされ、元来は真言宗の総本山としての「高野山全体」と同義)
    • 壇上伽藍のある伽藍地区:かつて空海により二重の結界が張られ、壇上伽藍のある聖域で、総本堂にあたる金堂や真言密教の根本道場となる「根本大塔」を中心に主要な堂塔が立ち並ぶ
      • 伽藍地区の建造物:中門金堂(高野山の総本堂)、御社(重要文化財:山王院本殿)、西塔・根本大塔(真言密教の根本道場)、不動堂(国宝:14世紀初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、2番目に古い建築物)、大会堂(1848年再建)、三昧堂(1816年再建)
    • 総本山金剛峯寺:本坊(高野山真言宗の管長が住む総本山寺院)
    • 奥之院:約2キロにわたる参道と墓域が続き、20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並び、最奥に「空海入定の地」とされ、空海が今も瞑想しているとされる御廟がある
      • 入定信仰:空海は、今も高野山奥之院で生きていると信じられている信仰で、「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのため
    • 子院・塔頭地区:壇上伽藍のある伽藍地区周辺の高野十谷を「子院(塔頭)」と呼ぶ
  • 空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧で、816年に嵯峨天皇から高野山の地を賜ったと言われ、高野山開創伝承もあるが、若い時に修行したことのある高野山に真言密教の道場を設立することを天皇に願い出たというのが史実と言われているらしい
  • 空海が高野山に入山し最初にしたことは、高野山に不浄なものを入れないために、周囲の山々の峰をつなぐ線として、密法の法により高結界張り、俗世と聖地高野山との境界を作った事だが、その後中々整備は進まず、空海の入定後、弟子であり実の甥でもあった真然が887年頃に「根本大塔」などの伽藍を整備したらしい
    • 結界内の4つの禁:肉や魚を持ち込まない・食べない / 女人禁制 / 遊芸に関わる鳴り物をしない / 鶏と猫を飼わない(鶏と猫は禁じているが、犬だけは飼うことが許されたのは、高野山開創伝承で犬が空海を高野山へ導いたためらしい)
  • 空海が835年に、奥之院に入定したから(≒死後)、86年年後の921年に醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈った
  • 平安時代末期からの源平の騒乱期には、戦禍に見舞われることが無く、現世浄土として様々な僧が集まり、また敗者の平家の納骨も活発に行われ、鎌倉時代には、「時の権力者・源頼朝の正室北条政子」により、「源頼朝菩提のため禅定院(金剛三昧院の前身)」の建立もあった
  • 鎌倉末期から南北朝の統一に至る日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山は一貫して中立を保ち、南朝の後醍醐天皇による「愛染堂」を寄進、北朝方の足利尊氏の手厚い庇護等、時の政権と良好な関係が続いたらしい
  • 戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力となっており、織田信長の標的の一つであったが、「本能寺の変」により難を免れるも、その後の豊臣秀吉は、「根来攻め」に引き続き、「寺領の返還や武装解除を迫る降伏勧告」をしてきた為、武装解除などの服従を誓う事で、石高は減らされたものの、高野山は存続することができた
  • 明治初めに、神仏判然令(神仏分離令)が発布され、仏教界にとって未曾有の危機的状況となると、高野山にとっても例外ではなく、『「金剛峯寺」は「高野山真言宗の管長が住む総本山寺院」を意味』するようになり、版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、また高野山が行っていた自治制を失い、その後相次ぐ火災もあって、高野山の危機的状況になってしまう
  • この状況下、高野山の維持と自立存続を図るために「一山」が協議し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し、現在に近い状態へとなり、国内情勢の安定に伴い、高野山に残る膨大な宝物の保護活動が始り「金剛三昧院多宝塔」・「金剛峯寺不動堂」に加え、「66点に及ぶ多くの美術工芸品」が旧国宝に指定され、更に、第二次世界大戦後の混乱期には日本各地の文化財が海外へ流出したことで、高野山でも文化財保護の機運が高まった事から、高野山文化財保存会が設立され、高野山の文化財を一括管理するようになった(文化財防災専用水管が山内の1万メートルに張り巡らされたのも)

サマリ的にまとめたつもりではありますが、その長い歴史の為か、サマリでさえ、かなりの情報量になってしまった次第です…。故に、もう一段階、「サマリのサマリ」でまとめると、以下の様になると思います。

「高野山金剛峰寺」は、比叡山延暦寺/天台宗の祖・最澄と並び、平安仏教を開いた僧として有名な「弘法大師・空海」によって、平安初期に「嵯峨天皇から高野山の地を賜り、修禅の道場として結界を築いた事に始まる寺院」で、現在では、「高野山金剛峯寺=高野山真言宗の管長が住む総本山の1つの寺院」であるが、元々は、現在大きく4つに分けられる、①壇上伽藍のある伽藍地区、②総本山金剛峯寺:本坊、③奥之院、④子院・塔頭地区に加え、「一山境内地」といわれ高野山全域が寺の境内地とさていた寺院
戦国期の織田信長豊臣秀吉と、事を構えそうにもなったが、基本、平安期~江戸期にかけ、時の権力者とはうまくやってきたきた様で、北条政子徳川家康武田信玄真田幸村上杉謙信浅井長政毛利元就と言った多くの武家からも帰依を受け、更に経済的な支援も受け、入定信仰(空海は、今も高野山奥之院で生きていると信じられている信仰)の元、長期にわたってその勢力を保っていた
しかし、明治期の神仏分離令により、また火災等もあり危機的状況に陥るが、「一山」が一致団結し、明治初期に680余ヶ寺もあった寺院を、130ヶ寺まで統廃合することを決定し、現在に近い状態になる事でこれを乗り切り「金剛三昧院多宝塔」・「金剛峯寺不動堂」と言った国宝に加え、多くの重要文化財としての美術工芸品を現代に伝え、今尚「日本では他に例を見ない宗教都市」として、現在にもその姿と信仰を伝える「真言宗の総本山」且つ「真言密教の聖地」で、「ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部に登録された寺院」が、「高野山金剛峯寺」

金剛峯寺の空海」と「比叡山延暦寺」は、日本史においてセットで出てくる名称で、多くの方が、認識されていると思いますが、延暦寺は「強訴」を行ったり、「焼き討ち」にあったりして、時の権力者と敵対関係にあった事が多かった様に見えますが、金剛峯寺は、上記の通り基本あまり大きな争いもなく、歴史を刻んできた様に見えます。しかし、明治期の神仏分離令は、延暦寺同様インパクトがあったようで、大変な時期もあったようですが、「一山」が一致団結し、この地域と信仰を守り続け、国宝や重要文化財を現代に伝えてくれている事は「感謝しなければいけない事」と強く思った次第です。

【高野山金剛峰寺の大人散策をプランニング!】

上記、高野山金剛峯寺の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、その「金剛峯寺における大人散策情報」を記載させて頂きます。最下部の地図は、そのスポットをGoogle My Map でポイントアウトしていますので、併せてご参照頂ければと思います(実際の大人散策においては、自身の位置を確認しつつ移動にご活用いただければ幸いと存じます(但し、歩きスマホはNGで…))。

■事前情報 ⇒ 旅の全体図

私の様な山梨・北杜出身、埼玉・川越在住で、関西圏には出張等で、大阪神戸京都に少しだけお邪魔した事があるだけの者にとって、高野山は「土地勘が無い」だけではなく「そもそも何処にあるんだ?」と言った状況であった為、まずは地図を、周囲も含めじっくり拝見させて頂きました。すると、西に別記事で紹介し、まだお邪魔したことが無い「和歌山城」や、東に「日本神話・国作り」における完遂の象徴「大神神社」や、同じく「日本神話・神武東征」完遂の地「橿原神宮」、更には日本三大山城高取城」と言った辺りが目に飛び込んできました

また、高野山の周辺を拝見すると、高野口駅付近の紀ノ川左岸から「高野山参詣道にある道標で町数を示す『卒塔婆』」が、高野山に続いている事を確認させて頂きました。更に、周辺を見渡すと関ヶ原に敗れ、九度山で蟄居生活を送ったとも言われる真田氏の草庵跡・善名称院(別称;真田庵)」も目に飛び込んできました。言い換えると「関東圏から高野山に参らせて頂くのであれば、上記も含めて大人散策をプランすべし!」と思った次第で、簡単に申し上げると、

『「和歌山城」 ⇒「 善名称院(別称;真田庵)と高野山参詣道を大人散策」 ⇒ 「高野山内の宗教都市を満喫」 ⇒ 「橿原神宮・大神神社高取城」を大人散策の5泊6日の旅』

となった次第です。以下、「高野山」の見所を先に抑えた上で、旅の全体図(プランニング版)も記載しますので、皆様の旅のプランニングにおける参考になれば幸いです。

■壇上伽藍のある伽藍地区 / 本山金剛峯寺:本坊

かつて空海により二重の結界が張られた、壇上伽藍のある聖域で、「金堂」や真言密教の根本道場となる「根本大塔」を中心に主要な堂塔が立ち並ぶエリアの認識です。伽藍地区で是非拝見したい建造物としては、「中門」、「金堂(高野山の総本堂)」、「御社(重要文化財:山王院本殿)」、「西塔」、「根本大塔(真言密教の根本道場)」、「不動堂(国宝:14世紀初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、2番目に古い建築物)」、「大会堂(1848年再建)」、「三昧堂(1816年再建)・東塔」等があり、伽藍地区の北東には、「総本山金剛峯寺:本坊(高野山真言宗の管長が住む総本山寺院)」がある認識で、奥院や枯山水の美しい庭園もあるようですので、併せて拝見できればと思っております。これらは、それなりにまとまったエリアにある認識で、高野山に参る際の中心となるはずのエリアです。

■奥之院

「壇上伽藍のある伽藍地区 / 本山金剛峯寺・本坊」の東には、奥之院があります。約2キロにわたる参道と墓域が続き、有名武将をはじめ、20万基を超すともいわれている石塔(供養塔、墓碑、歌碑など)が立ち並び、最奥には「空海入定の地」とされ、空海が今も瞑想しているとされ「入定信仰」の源の御廟がある奥之院ですので、全ては無理ですが、出来るだけ祈りを捧げつつ、参道を進み、弘法大師様にご挨拶申し上げさせて頂きたいと思います。同時に、「事を構えそうになった、織田信長豊臣秀吉」の墓所もある様です。生前の事はとやかく言わず、高野山にも墓所がある事は、さすが「高野山の信仰がなせる業」とも思った次第です…。

■子院・塔頭地区

高野山は宗教都市ですので、古くから多くの宿坊寺院がある認識です。有名武家に関連する宿坊も多くある様ですので、全ては無理ですが、出来るだけ多くの宿坊を拝見させて頂きたいと思います。特に上記にも記載した、「金剛三昧院 – 北条政子」、「蓮華院(後の大徳院) – 川家康」、「成慶院 – 武田信玄」、「蓮華定院 – 真田幸村」、「清浄心院 – 上杉謙信」、「持明院 –浅井長政」、「安養院 – 毛利元就」と言った所は是非とも拝見した宿坊であり、福智院は、高野山で唯一の温泉が付いた宿坊らしいので、出来ればこちらに宿泊させて頂きたいと思った次第です。

以上が、高野山にて、是非とも拝見させて頂きたいスポットを紹介しました内容になります。以下に、「高野山も含み、周囲の大人観光スポットも併せた旅の全体図(プランニング版)」も記載しますので併せてご参照ください

【最後に】

以上が、「日本では他に例を見ない宗教都市にある『高野山金剛峰寺』に関し、その概要を抑え、周囲も含めた大人散策のプランニング」をさせて頂いた内容になりますが、「高野山も含み、周囲の大人観光スポットも併せた旅の全体図(プランニング版)」を、大雑把ですが最後に共有します。

・1日目:和歌山城

まず初日は、羽田~関空の飛行機の選択肢もありますが、今回は帰りも考慮し、川越から東京駅~(新幹線)~新大阪駅~和歌山駅と移動し、和歌山城を目指し、和歌山城で大人散策を楽しんで、付近で一泊(和歌山城の大人散策情報は、別記事参照)

・2日目:善名称院(別称;真田庵)と高野山参詣道を大人散策

2日目は、和歌山駅から和歌山線で、高野口駅まで行き、紀ノ川左岸付近から高野山に延びる「高野山参詣道の始点」を見学した後、真田氏の草庵跡とも言われる「善名称院(別称;真田庵)」等の真田氏ゆかりの施設を見学した後、南海高野線・九度山駅から紀伊細川駅へ移動。こここから、高野山を目指して歩き始めれば、途中「矢立茶屋」付近(=「高野山参詣道・60番目の卒塔婆」)で、「高野山参詣道」に合流できるようなので、ここからはこの参道を高野山目指して進み、高野山到着後、この日の大人散策は終了してお宿に直行(高野山で唯一の温泉がある「宿坊寺院:福智院」に泊まりたい…)

・3日目:高野山内の宗教都市を満喫

3日目は、高野山・宗教都市内の「①壇上伽藍のある伽藍地区・②総本山金剛峯寺・③奥之院・④子院/塔頭地区」をじっくり大人散策し、高野山・宗教都市内にもう一泊

・4 / 5日目:「高野山」から奈良盆地の南「橿原」に移動し「橿原神宮・大神神社・高取城」を大人散策

4日目は、高野山駅から、ケーブルカー・南海高野線・和歌山線・近鉄吉野線と乗りついで、奈良盆地の南「橿原」へ移動。ここで2泊し、その間日本神話・国作り」における完遂の象徴「大神神社や、同じく日本神話・神武東征」完遂の地「橿原神宮」、更には日本三大山城高取城」等で、大人散策を遂行(別記事で「日本神話・国作り / 神武東征」・「大神神社」、日本三大山城高取城」等を記載して折ります)

・6日目:「橿原」から川越に帰宅

6日目は、最終日。「橿原」で回れなかったスポットがあれば、最後の大人散策を楽しみ、京都で新幹線に乗り換え、川越に帰宅

以上、非常に大雑把ですが、5泊6日のプランを検討させて頂いた次第ですが、皆様はどの様にお感じになられましたでしょうか? プランニングして置いてなんですが、個人的には『途中からとは言え「高野山参詣道」の大人散策と「日本三大山城高取城」の大人散策を、同じ旅の中に組み込むのは、結構ハードそうで、もしかしたら「修行」に近い旅になるかな…』と言うものです。実際に実行してみないとどのくらい大変か解りませんが、実行の暁には、本ブログで報告させて頂きたいと思います!(再計画の段階で、もっと緩やかなプランになるかもしれませんが…)

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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